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最終回

ー/ー



 無意識という封印を破壊し、解き放たれた水流のように流れこんだ記憶の奔流に頭をおさえる。同じ視線を、かつてレンは彼から受けたことがあった。

 おびただしい不満と怒りが彼女を圧倒する。なぜ自分がこんな人間の女なんかのために動かなくてはならないのかと、彼は全身で不服を訴えていた……。




樋槻(ひづき)

 と、柊は呼んだ。
 彩煉の体を依り代として己が生み出した、魘魅を。

「わがきみ」

 と彼は返した。深い呼吸をするように胸を上下させ、ゆっくりと時間をかけて両眼を開くと、うっとりした視線を彼に向けた。
 身を起こし、その側へ寄り、(ひざまず)く。

 うやうやしく衣の端に口付ける彼を見下ろして、ふっと満足気な笑みが柊の面に広がった。顎に指をかけ、上を向かせる。

「いろいろな物を依り代として、今までかなりのものを作ってきたが、おまえはその中でも上出来の部類だな。やはり魔断をべースにしただけのことはある。
 だが樋槻よ。どうせなら髪も肌も闇色にしろ。そのほうがおまえはずっときれいだ」
「おおせのままに」

 創造主・柊からの言葉に樋槻はあでやかな微笑を浮かべ、彩煉としての色を脱ぎ捨てる。
 頭頂部からじわじわと闇が現れ、燠火(おきび)のような暖かさだった赤い髪は冷たい漆黒に、白暫の膚もまた、浅黒く闇に染まった。

 レンの目の前で。

 その光景に、地に手をついたレンは、もはや声ひとつ出せなかった。
 許容というものをはるかに越えた恐怖の出来事に、とうに彼女の心は麻痺していた。
 朦朧とした頭で、目の前で繰り広げられる悪夢に、はたして終わりはあるのだろうかと考える。

 彩煉が死んだ、それだけでも彼女の心は裂けたのに、息を吹き返した彩煉は彩煉でなく、闇に穢され、闇の側の者と化してしまったのだ!

「おまえにはさっそくしてもらうことがある」

 柊は肩に手を乗せて、そこにいるレンを見るようにと樋槻に示した。

「あれは私に恨みを持つ者だ。おまえのベースとしたその体の主を私に殺されたから、私をどこまでも追って殺すと意気巻いている」

 そうしてレンに向けられた視線は、やはり何も知らぬ者への冷笑に満ちていた。
 己を知らず、宣言した相手も知らず、自ら愚を犯そうとする者にはあわれみすら必要ない。ふさわしいのは相応の罰と後悔だ。

 樋槻もまた、自分の主にそんな大それたもの言いをした者が、卑小な人間の女ということに表情を曇らせる。それまで、まるで砂か何かを見ているように無だった瞳が、その瞬間嫌悪に染まったのを見て、堪えきれずにレンは顔をそむけた。

「人の身でありながらわがきみに逆らうとは、身のほどを知らぬやつ。
 始末をわたくしめに命じてくださるのであれば、わがきみのお気に召しますよう、じわじわと苦しめぬいてお見せしましょう」

 ――いやだ! 聞きたくない!

 彩煉の声で喜々として語る、自分を殺すとの言葉に耳をふさぐ。

その前で、柊は、さえぎるのが残念だと言いたげな仕草で樋槻の唇に親指を押しあて、先を制した。

「いや、そうじゃない。あれは私のおもちゃだ。存分に楽しんだ後、おまえに払いさげてやってもいいが、それはもう少しあとのこと。
 おまえは、この者を私の元まで導いてやれ」

「わがきみ?」

 拾った言葉の意味をとり違えたかと自分の耳を疑うように、さっと樋槻が表情を変えた。
 地に這いつくばった、ただの人間の女だ。特に見目がいいといったわけでもなく、特別な内力の持ち主にも感じれない、小生意気な女。
 自分たちが目をかける価値もなく、その命は塵にも等しい。それが分もわきまえず口応えをしたというのに殺しもせず赦し、なおかつ案内人を仕立ててわざわざ面倒をみてやるなど、そこまで気をかける相手にはどうしても見えなかった。
 そんなことをすればますます図にのらせるだけではないか。

 やはり生まれて間もないせいか、面をとりつくろうことも思い浮かばず狼狽する樋槻に、柊も苦笑を浮かべる。

「おまえの言いたいことは分からんでもないが、私もたまには遊びに変化がほしい。殺してしまえばこの一時でおしまいだ。だがこういう輩を生かしておけば、多少は楽しみが持続するだろう。
 かといって、この女だけでは百年かかっても到底私を捜し出すなど不可能だ」

 それでは退屈で、面白くない。

「おまえが道案内をしてやれば、多少は確率も上がるだろう。
 いざこうしてみると、おまえを手放すのは少々不本意だがな、なに、どうせほんの一時だ。人間などせいぜい数十年しかもたぬ脆弱な生き物。ましてこの者など、数年あっていいほうだ。この私に逆らったのだからな」
「……それが、わがきみのご命令とあらば……」

 開いた間隙に姿を消すまで最敬礼をし続け、畏敬の念をはらう。遠くから駆けつけてくる剣師たちの砂を蹴る足音を聞きながら、ゆっくりとレンに向き直った樋槻は、あの視線を向けた。

 人間への嘲りと、強い不満のこもった視線を。

 そうして柊のあとを追うように彼もまた、宙に消えたのである。直後、レンはぶつりと糸の切れた人形のように全緊張を手放し気を失った……。


 悪夢は、一体いつになれば消え去るのだろう。




「十分元気じゃないか。ならさっさと出てこい。一体いつまで待たせるつもりだったか、ぜひ聞かせてもらいたいもんだな」

 何の反応も表に示さないレンに、じれた声で樋槻がつっかかっていく。

「どうせ俺が動かなきゃえんえん出てこずじまいだったんだろうが。あんな言葉を口にしたものの、偉大なるわがきみの力に恐れをなして怖じけつくのはまあ当然だがな。おかげで俺は、こんなくだらない遊びをまだ続けなきゃいけないかとまで思っちまった」
「遊、び……?」

 その意味するところが分からず、おうむ返しに訊き返す。
 一体何をしたのか、それを訊く言葉を待ちかねていたように樋槻は表情を一段と輝かせ、高く天を指し示した。

「……ああっ」

 雷鳴のような衝撃が全身を裂き走る。追ってあおいだ先にあったものは、レンを骨の髄まで凍りつかせて余りあるほどに凄まじい光景だった。

 全身血に濡れた魔断たちが、宙に浮いていた。死闘の決着はすでにつき、あまりに残酷な結果をもたらしている。
 だが、はたしてそれが闘いと呼べるものであったのか?

 もう一度、樋槻へ目を戻す。さあ自分の力にふさわしい評価をとばかりに悦に入って立つ魅魎の身には、鉤裂きひとつない。それに対して、なぶり殺しと一目で分かる無数の傷を全身に刻みつけ、無造作に四肢を投げ出した彼ら……。
 もがき、拘束から抜けようとする者は、1人もいない。1人も!

「……いやあっ!」

 その中から翠珂の姿を見出した瞬間、レンは悲鳴を上げて口元をおおった。
 その姿に満足したのか、樋槻は涼しげな表情を崩さず指を鳴らす。途端、それまで彼らを宙にしばりつけていた糸が断ち切れたように、次々と砂上に落下した。

「翠珂! 翠珂!」

 砂に足をとられ、よろめきながらレンは翠珂にかけ寄ろうとする。けれど、樋槻の脇を抜けた直後、腕をつかまれ、それを阻止する衝撃ががくんと右手から走った。

「邪魔をするな!」

 牙を剥き、つかんだ手を振り払おうとする。
 もはや翠珂の安否を確かめることしか頭にないその醜態に、樋槻は心底呆れ返った顔でふうと息をつくと、彼女を突き飛ばした。

「あのなあ! あんた、どれだけ俺に世話焼かせりゃすむの? もううんざりなんだよ! 分かる? う・ん・ざ・り! この遊びも、あんたの世話も!
 あんた宣言したんだろ? わがきみの元へ行くって。ならさっさと来いっ」
「ふざけるなっ!」

 憎悪に顔を歪ませて叫ぶと再び翠珂へ向けて走り出す。自分の存在を過小扱いするその姿に、やれやれと樋槻は肩を煉めた。

 やれやれ。あいつは、どうやら本当に自分の立場が分かってないらしい。なぜ今もそうして生きていられるか……わがきみの温情あってこそのくせに。

 いくら愚者とはいえ、これは厚顔無恥にすぎるものがあると、不快気なしわを眉間に刻む。彼女の背に向けて、届くはずのない手が伸ばされた瞬間。
 ざわりと彼の身を包む闇が(うごめ)いた。

 ほとばしったのは、あるいは光。空を斬って背後に肉薄した風刃を、彼女はそう知覚した。
 風刃の先にあるものが翠珂であると悟った瞬間、魅魎の狙いに気付いてその軌道上に身を投げ出す。四肢を張り、あとわずかで自分を寸断する力をにらみつけた。

『何馬鹿をしてる! 死ぬぞ!』

 あわてふためくあの声がどこかで起きるが、レンは胸の中で大きくかぶりを振った。

 もう、いやなのだ。
 たとえあの魅魔を倒し、彩煉の仇をとるという願いを叶えることができなくなろうとも、もう、いやだ。大切な人が自分のために死ぬのは。

 どんなことをしてもあの魅魔を殺してやると決めたけれど、それは今も変わらないけれど、翠珂のためなら命も何もかも投げ捨てることができると思ったのも真実。
 その決意はまぎれもなく本物だった。

 微動だにしない彼女に触れる直前で力は不自然な角度で右に曲がり、風刃は肩をかすめただけにとどまる。マントや上着の一部がちぎれてひらひらと舞った。かすめた衝撃が痛みとなって肩を伝い、骨を痺れさせる。

 それでも自分をにらみ続ける彼女に、樋槻はまったく面白くないと言いたげにしかめっ面で腕を組んだ。

「この人たちをこれ以上傷つけたら、あたしはどこにも行かないから……!」

 ひらめきをそのまま口にのせた、ばかげたおどしだった。そんな言葉をおとなしくきいて、攻撃をやめる魅魎などいるはずがない。無能な人に指図されることほど彼らが(うと)ましく思うことはないと、レンもよく知っている。
 ただし、もう1つ、それ以上に強く彼を縛るものがあることも、彼女は理解していた。

 主君からの命令。

 彼は創造主・柊より命じられた。レンを彼の元へ連れて行くように。
 それは何よりも優先しなくてはならないことなのだ。

 問題は自制心。彼に、この瞬間自身の快楽や自尊心よりも主の言葉を尊重することができるかどうか。
 それができねば優秀な従者であるとは呼べない。主君の顔に泥を塗る三下だ。いずこかで事の顛末を観賞している主の不興を買い、彼は瞬時に消滅させられるだろう。

 樋槻は、そう評価されることを好まなかったようである。舌打ちをしただけでふいと横を向いてしまった。

 これでたぶん、あの魅魎は手を出さない。
 ほっと胸を撫でおろして詰めていた息を吐くと、レンは翠珂の元に駆け寄り膝をついた。

「翠珂……翠珂、ご無事ですか?」

 砂地に伏せった頭をそろそろと膝に乗せ、顔についた血と砂を払う。傷に触れたのか、翠珂はのどの奥から苦しげな坤き声を押し出した。

「翠珂、よかった」

 重傷であることは変わらない。今すぐ失われてもおかしくない、ギリギリのところに彼がさらされているのは分かっても、それでもレンの胸に安堵が広がった。

 よかった。この人は生きていてくれた。よかった……。

 今度は間にあったと涙をぬぐう。翠珂を汚すまいと、次々と伝うそれをぬぐっていたら、いらついた樋槻の声が降ってきた。

「おい、生きてるって分かったんだろ! さっさと行くぞ! いつまでこんなしみったれた場にいるつもりだ!」
「うるさい! 分かってる!」

 肩越しに彼ををにらんで叫び返す。
 翠珂やみんなをこんな目にあわせたのがあいつだと思うと、猛然と腹が立った。
 だが今は、従わないわけにはいかない。

 旅に出るのであれば、得物が必要だろう。そう思って、側に落ちていた長剣へと手を伸ばす。その手に触れ、止めたのは、翠珂だった。

「レン、だめだ……行っちゃいけない……」
「翠珂?」
「だめだ……きみには、無理だ」

 宙に浮かんでいる間に2人の会話を聞いて、察したのだろう。
 懸命に起き上がろうとする、その肩を押しとどめて、レンは首を振った。

「翠珂。あなたには言葉につくせないほど感謝しています。私をこの世に引き戻してくれたのも、この3カ月近くの間私を支えてくれたのも、あなたでした。あなたがいたから私は生きてこられたんです。
 今の世で、唯一、あなたが何より大切な存在です。敬愛し、尊じています。たとえ何をなくしても、あなただけは失いたくないほどに……。

 もしかすると、あなたや補佐長の言うとおり、あなたが私の魔断であったのかもしれません。
 でも、私はもう、決めてしまっていたんです。私の魔断は、あの人だけだと……。

 翠珂。大切な人を失うことがどういうことかを知った今はもう、あなたの手を取れない。
 あなただけは私のために命を賭けたりしないで、どうか生きてください。私のことを思ってくださるのなら、どうか、どうか、私のことで苦しんだりしないで……」

 あなたが生きて同じこの世にいることが、私の生きる力となり、強さとなるんです。

 そうささやく彼女の胸に、もう、あの声は響いてこなかった。
 目を閉じると今も鮮明に浮かぶ。だれより愛している、彩煉の最期の姿。
 ほんの一瞬たりとも迷ったりひるんだりせず、自分を護るため、死の接点へその身を投げ出した。

 彼の毅然とした後ろ姿はこの視床より永遠に消え去ることはない。あの人は生涯自分の誇りとなり、彼に恥じない生き方をという意志となるだろう。


 大切なものを守るとは、そういうことなのだ。


「ほらっ、いつまでもちんたらしてんじゃねえよ。わがきみがお待ちだ。さっさと行くぞ!」

 その彼を汚し続けている張本人が、こっちだと横柄な態度で手を振っている。グズとまで罵る、返す返すも忌々しいその姿に、いつか絶対あいつも断ってやると憤激しながら立ち上がった。

「レン……」
「翠珂、あなたの剣を、いただいていきます」

 何も心配はいらないとほほ笑んで、破魔の剣を鞘に戻すと腰に佩いて歩き出す。

 きっと彼の不安は晴らせていない。相手は魅魔だ。触れることすらできなかった相手。最終実技をクリアしたとはいえ、何の下積みもなく、魔断すらいない自分が、一体どうやって断つというのか……レン自身ですらまだ分からないことを、彼に分かれというのも無理な話だ。だから、振り向いたりなどしない。
 どう見せたところで晴れるものではないのなら、精いっぱい虚勢を張って、強がって見せるのが一番ましだ。

 自分は、歩き出してしまったのだ。一条の光どころか、その存在すら期待できない暗闇の中を。
 この悪夢から抜け出すには、それしかない。
 たとえ幾千の夜を越えることとなったとしても。

 いつか来るかもしれない夜明けを、ただ待っていればいいというものではないのだ――そのことに、彼女は気付いていたのである。






『魔断の剣7 幾千の夜を越えて 了』


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 無意識という封印を破壊し、解き放たれた水流のように流れこんだ記憶の奔流に頭をおさえる。同じ視線を、かつてレンは彼から受けたことがあった。
 おびただしい不満と怒りが彼女を圧倒する。なぜ自分がこんな人間の女なんかのために動かなくてはならないのかと、彼は全身で不服を訴えていた……。
「|樋槻《ひづき》」
 と、柊は呼んだ。
 彩煉の体を依り代として己が生み出した、魘魅を。
「わがきみ」
 と彼は返した。深い呼吸をするように胸を上下させ、ゆっくりと時間をかけて両眼を開くと、うっとりした視線を彼に向けた。
 身を起こし、その側へ寄り、|跪《ひざまず》く。
 うやうやしく衣の端に口付ける彼を見下ろして、ふっと満足気な笑みが柊の面に広がった。顎に指をかけ、上を向かせる。
「いろいろな物を依り代として、今までかなりのものを作ってきたが、おまえはその中でも上出来の部類だな。やはり魔断をべースにしただけのことはある。
 だが樋槻よ。どうせなら髪も肌も闇色にしろ。そのほうがおまえはずっときれいだ」
「おおせのままに」
 創造主・柊からの言葉に樋槻はあでやかな微笑を浮かべ、彩煉としての色を脱ぎ捨てる。
 頭頂部からじわじわと闇が現れ、|燠火《おきび》のような暖かさだった赤い髪は冷たい漆黒に、白暫の膚もまた、浅黒く闇に染まった。
 レンの目の前で。
 その光景に、地に手をついたレンは、もはや声ひとつ出せなかった。
 許容というものをはるかに越えた恐怖の出来事に、とうに彼女の心は麻痺していた。
 朦朧とした頭で、目の前で繰り広げられる悪夢に、はたして終わりはあるのだろうかと考える。
 彩煉が死んだ、それだけでも彼女の心は裂けたのに、息を吹き返した彩煉は彩煉でなく、闇に穢され、闇の側の者と化してしまったのだ!
「おまえにはさっそくしてもらうことがある」
 柊は肩に手を乗せて、そこにいるレンを見るようにと樋槻に示した。
「あれは私に恨みを持つ者だ。おまえのベースとしたその体の主を私に殺されたから、私をどこまでも追って殺すと意気巻いている」
 そうしてレンに向けられた視線は、やはり何も知らぬ者への冷笑に満ちていた。
 己を知らず、宣言した相手も知らず、自ら愚を犯そうとする者にはあわれみすら必要ない。ふさわしいのは相応の罰と後悔だ。
 樋槻もまた、自分の主にそんな大それたもの言いをした者が、卑小な人間の女ということに表情を曇らせる。それまで、まるで砂か何かを見ているように無だった瞳が、その瞬間嫌悪に染まったのを見て、堪えきれずにレンは顔をそむけた。
「人の身でありながらわがきみに逆らうとは、身のほどを知らぬやつ。
 始末をわたくしめに命じてくださるのであれば、わがきみのお気に召しますよう、じわじわと苦しめぬいてお見せしましょう」
 ――いやだ! 聞きたくない!
 彩煉の声で喜々として語る、自分を殺すとの言葉に耳をふさぐ。
その前で、柊は、さえぎるのが残念だと言いたげな仕草で樋槻の唇に親指を押しあて、先を制した。
「いや、そうじゃない。あれは私のおもちゃだ。存分に楽しんだ後、おまえに払いさげてやってもいいが、それはもう少しあとのこと。
 おまえは、この者を私の元まで導いてやれ」
「わがきみ?」
 拾った言葉の意味をとり違えたかと自分の耳を疑うように、さっと樋槻が表情を変えた。
 地に這いつくばった、ただの人間の女だ。特に見目がいいといったわけでもなく、特別な内力の持ち主にも感じれない、小生意気な女。
 自分たちが目をかける価値もなく、その命は塵にも等しい。それが分もわきまえず口応えをしたというのに殺しもせず赦し、なおかつ案内人を仕立ててわざわざ面倒をみてやるなど、そこまで気をかける相手にはどうしても見えなかった。
 そんなことをすればますます図にのらせるだけではないか。
 やはり生まれて間もないせいか、面をとりつくろうことも思い浮かばず狼狽する樋槻に、柊も苦笑を浮かべる。
「おまえの言いたいことは分からんでもないが、私もたまには遊びに変化がほしい。殺してしまえばこの一時でおしまいだ。だがこういう輩を生かしておけば、多少は楽しみが持続するだろう。
 かといって、この女だけでは百年かかっても到底私を捜し出すなど不可能だ」
 それでは退屈で、面白くない。
「おまえが道案内をしてやれば、多少は確率も上がるだろう。
 いざこうしてみると、おまえを手放すのは少々不本意だがな、なに、どうせほんの一時だ。人間などせいぜい数十年しかもたぬ脆弱な生き物。ましてこの者など、数年あっていいほうだ。この私に逆らったのだからな」
「……それが、わがきみのご命令とあらば……」
 開いた間隙に姿を消すまで最敬礼をし続け、畏敬の念をはらう。遠くから駆けつけてくる剣師たちの砂を蹴る足音を聞きながら、ゆっくりとレンに向き直った樋槻は、あの視線を向けた。
 人間への嘲りと、強い不満のこもった視線を。
 そうして柊のあとを追うように彼もまた、宙に消えたのである。直後、レンはぶつりと糸の切れた人形のように全緊張を手放し気を失った……。
 悪夢は、一体いつになれば消え去るのだろう。
「十分元気じゃないか。ならさっさと出てこい。一体いつまで待たせるつもりだったか、ぜひ聞かせてもらいたいもんだな」
 何の反応も表に示さないレンに、じれた声で樋槻がつっかかっていく。
「どうせ俺が動かなきゃえんえん出てこずじまいだったんだろうが。あんな言葉を口にしたものの、偉大なるわがきみの力に恐れをなして怖じけつくのはまあ当然だがな。おかげで俺は、こんなくだらない遊びをまだ続けなきゃいけないかとまで思っちまった」
「遊、び……?」
 その意味するところが分からず、おうむ返しに訊き返す。
 一体何をしたのか、それを訊く言葉を待ちかねていたように樋槻は表情を一段と輝かせ、高く天を指し示した。
「……ああっ」
 雷鳴のような衝撃が全身を裂き走る。追ってあおいだ先にあったものは、レンを骨の髄まで凍りつかせて余りあるほどに凄まじい光景だった。
 全身血に濡れた魔断たちが、宙に浮いていた。死闘の決着はすでにつき、あまりに残酷な結果をもたらしている。
 だが、はたしてそれが闘いと呼べるものであったのか?
 もう一度、樋槻へ目を戻す。さあ自分の力にふさわしい評価をとばかりに悦に入って立つ魅魎の身には、鉤裂きひとつない。それに対して、なぶり殺しと一目で分かる無数の傷を全身に刻みつけ、無造作に四肢を投げ出した彼ら……。
 もがき、拘束から抜けようとする者は、1人もいない。1人も!
「……いやあっ!」
 その中から翠珂の姿を見出した瞬間、レンは悲鳴を上げて口元をおおった。
 その姿に満足したのか、樋槻は涼しげな表情を崩さず指を鳴らす。途端、それまで彼らを宙にしばりつけていた糸が断ち切れたように、次々と砂上に落下した。
「翠珂! 翠珂!」
 砂に足をとられ、よろめきながらレンは翠珂にかけ寄ろうとする。けれど、樋槻の脇を抜けた直後、腕をつかまれ、それを阻止する衝撃ががくんと右手から走った。
「邪魔をするな!」
 牙を剥き、つかんだ手を振り払おうとする。
 もはや翠珂の安否を確かめることしか頭にないその醜態に、樋槻は心底呆れ返った顔でふうと息をつくと、彼女を突き飛ばした。
「あのなあ! あんた、どれだけ俺に世話焼かせりゃすむの? もううんざりなんだよ! 分かる? う・ん・ざ・り! この遊びも、あんたの世話も!
 あんた宣言したんだろ? わがきみの元へ行くって。ならさっさと来いっ」
「ふざけるなっ!」
 憎悪に顔を歪ませて叫ぶと再び翠珂へ向けて走り出す。自分の存在を過小扱いするその姿に、やれやれと樋槻は肩を煉めた。
 やれやれ。あいつは、どうやら本当に自分の立場が分かってないらしい。なぜ今もそうして生きていられるか……わがきみの温情あってこそのくせに。
 いくら愚者とはいえ、これは厚顔無恥にすぎるものがあると、不快気なしわを眉間に刻む。彼女の背に向けて、届くはずのない手が伸ばされた瞬間。
 ざわりと彼の身を包む闇が|蠢《うごめ》いた。
 ほとばしったのは、あるいは光。空を斬って背後に肉薄した風刃を、彼女はそう知覚した。
 風刃の先にあるものが翠珂であると悟った瞬間、魅魎の狙いに気付いてその軌道上に身を投げ出す。四肢を張り、あとわずかで自分を寸断する力をにらみつけた。
『何馬鹿をしてる! 死ぬぞ!』
 あわてふためくあの声がどこかで起きるが、レンは胸の中で大きくかぶりを振った。
 もう、いやなのだ。
 たとえあの魅魔を倒し、彩煉の仇をとるという願いを叶えることができなくなろうとも、もう、いやだ。大切な人が自分のために死ぬのは。
 どんなことをしてもあの魅魔を殺してやると決めたけれど、それは今も変わらないけれど、翠珂のためなら命も何もかも投げ捨てることができると思ったのも真実。
 その決意はまぎれもなく本物だった。
 微動だにしない彼女に触れる直前で力は不自然な角度で右に曲がり、風刃は肩をかすめただけにとどまる。マントや上着の一部がちぎれてひらひらと舞った。かすめた衝撃が痛みとなって肩を伝い、骨を痺れさせる。
 それでも自分をにらみ続ける彼女に、樋槻はまったく面白くないと言いたげにしかめっ面で腕を組んだ。
「この人たちをこれ以上傷つけたら、あたしはどこにも行かないから……!」
 ひらめきをそのまま口にのせた、ばかげたおどしだった。そんな言葉をおとなしくきいて、攻撃をやめる魅魎などいるはずがない。無能な人に指図されることほど彼らが|疎《うと》ましく思うことはないと、レンもよく知っている。
 ただし、もう1つ、それ以上に強く彼を縛るものがあることも、彼女は理解していた。
 主君からの命令。
 彼は創造主・柊より命じられた。レンを彼の元へ連れて行くように。
 それは何よりも優先しなくてはならないことなのだ。
 問題は自制心。彼に、この瞬間自身の快楽や自尊心よりも主の言葉を尊重することができるかどうか。
 それができねば優秀な従者であるとは呼べない。主君の顔に泥を塗る三下だ。いずこかで事の顛末を観賞している主の不興を買い、彼は瞬時に消滅させられるだろう。
 樋槻は、そう評価されることを好まなかったようである。舌打ちをしただけでふいと横を向いてしまった。
 これでたぶん、あの魅魎は手を出さない。
 ほっと胸を撫でおろして詰めていた息を吐くと、レンは翠珂の元に駆け寄り膝をついた。
「翠珂……翠珂、ご無事ですか?」
 砂地に伏せった頭をそろそろと膝に乗せ、顔についた血と砂を払う。傷に触れたのか、翠珂はのどの奥から苦しげな坤き声を押し出した。
「翠珂、よかった」
 重傷であることは変わらない。今すぐ失われてもおかしくない、ギリギリのところに彼がさらされているのは分かっても、それでもレンの胸に安堵が広がった。
 よかった。この人は生きていてくれた。よかった……。
 今度は間にあったと涙をぬぐう。翠珂を汚すまいと、次々と伝うそれをぬぐっていたら、いらついた樋槻の声が降ってきた。
「おい、生きてるって分かったんだろ! さっさと行くぞ! いつまでこんなしみったれた場にいるつもりだ!」
「うるさい! 分かってる!」
 肩越しに彼ををにらんで叫び返す。
 翠珂やみんなをこんな目にあわせたのがあいつだと思うと、猛然と腹が立った。
 だが今は、従わないわけにはいかない。
 旅に出るのであれば、得物が必要だろう。そう思って、側に落ちていた長剣へと手を伸ばす。その手に触れ、止めたのは、翠珂だった。
「レン、だめだ……行っちゃいけない……」
「翠珂?」
「だめだ……きみには、無理だ」
 宙に浮かんでいる間に2人の会話を聞いて、察したのだろう。
 懸命に起き上がろうとする、その肩を押しとどめて、レンは首を振った。
「翠珂。あなたには言葉につくせないほど感謝しています。私をこの世に引き戻してくれたのも、この3カ月近くの間私を支えてくれたのも、あなたでした。あなたがいたから私は生きてこられたんです。
 今の世で、唯一、あなたが何より大切な存在です。敬愛し、尊じています。たとえ何をなくしても、あなただけは失いたくないほどに……。
 もしかすると、あなたや補佐長の言うとおり、あなたが私の魔断であったのかもしれません。
 でも、私はもう、決めてしまっていたんです。私の魔断は、あの人だけだと……。
 翠珂。大切な人を失うことがどういうことかを知った今はもう、あなたの手を取れない。
 あなただけは私のために命を賭けたりしないで、どうか生きてください。私のことを思ってくださるのなら、どうか、どうか、私のことで苦しんだりしないで……」
 あなたが生きて同じこの世にいることが、私の生きる力となり、強さとなるんです。
 そうささやく彼女の胸に、もう、あの声は響いてこなかった。
 目を閉じると今も鮮明に浮かぶ。だれより愛している、彩煉の最期の姿。
 ほんの一瞬たりとも迷ったりひるんだりせず、自分を護るため、死の接点へその身を投げ出した。
 彼の毅然とした後ろ姿はこの視床より永遠に消え去ることはない。あの人は生涯自分の誇りとなり、彼に恥じない生き方をという意志となるだろう。
 大切なものを守るとは、そういうことなのだ。
「ほらっ、いつまでもちんたらしてんじゃねえよ。わがきみがお待ちだ。さっさと行くぞ!」
 その彼を汚し続けている張本人が、こっちだと横柄な態度で手を振っている。グズとまで罵る、返す返すも忌々しいその姿に、いつか絶対あいつも断ってやると憤激しながら立ち上がった。
「レン……」
「翠珂、あなたの剣を、いただいていきます」
 何も心配はいらないとほほ笑んで、破魔の剣を鞘に戻すと腰に佩いて歩き出す。
 きっと彼の不安は晴らせていない。相手は魅魔だ。触れることすらできなかった相手。最終実技をクリアしたとはいえ、何の下積みもなく、魔断すらいない自分が、一体どうやって断つというのか……レン自身ですらまだ分からないことを、彼に分かれというのも無理な話だ。だから、振り向いたりなどしない。
 どう見せたところで晴れるものではないのなら、精いっぱい虚勢を張って、強がって見せるのが一番ましだ。
 自分は、歩き出してしまったのだ。一条の光どころか、その存在すら期待できない暗闇の中を。
 この悪夢から抜け出すには、それしかない。
 たとえ幾千の夜を越えることとなったとしても。
 いつか来るかもしれない夜明けを、ただ待っていればいいというものではないのだ――そのことに、彼女は気付いていたのである。
『魔断の剣7 幾千の夜を越えて 了』