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第28回

ー/ー



 ――翠珂!

 どうにも静めきれない胸騒ぎにいてもたってもいられず、レンは上着を放り出すとシーツを跳ね上げて寝台から出た。

 翠珂が危ない。それはきっと間違いない。彼は夜間の警備長だけれど、なぜかここ半月は時間が早まって今の時刻からもう役目についていた。

「あっ……」

 突然立ちくらみがした。サイドテーブルに手をつき、チカチカと明滅する光がまぶたの裏から消えるのを待つ。そうする間も、膝のほうからじわじわと冷たい震えがのぼってきた。

 いきなり動いたせいか、それともこれもまた、翠珂の身に起きた異変のせいか。

「行か、なくちゃ……」

 胸を押しつぶしてしまいそうなほどのいやな予感に踏み出した足は、腰の辺りが重く、指先にいくにつれて感覚がおぼろで頼りなかった。
 リハビリを何度か行ったおかげで、最初のときほどの違和感や痛みはないけれど……。

 たぶん、大丈夫。

 半分以上思いこみの見当をつけて、棚に入っている、砂漠用の靴を引っ張り出した。外出着にマント、手袋、それに袖を止める紐。
 大急ぎで着替え、マントをブローチで留めながら、レンは部屋を出て階段へ向かう。
 まだ第6時限が終わってないためか、人目は思った以上に少ない。特に、教室のある南館へと続く回廊を避ければ、ほとんどいなくなる。

 いつもどこかしらに教え長や室長たちの行き交う姿が見えるはずなのに……宮らしくないとは思ったが、それがなぜかを深く考えるには、彼女は絶対的な情報不足だった。

 とにかく用心を重ねて、人目を避けて、庭園でも小径に平行した草群へと入る。

 いらいらした。自分の体なのに。もうほとんど治っているはずなのに。歩きづらいし、骨折したふくらはぎを重く感じる。横から飛び出している枝も、頭の認識と腕の動きのちょっとした差異のせいで避けられず、袖が引っかかってしまった。
 考えていた以上に体が鈍く、思うように前へ進めない。

 翠珂の身が危険にさらされているというのに。あの人が危ないのに、役に立たないなんて!

 ひしめきあう不安に胃がきりきりする。
 前へ一歩踏み出すごとに、迷いは確信へと変わっていった。

 魅魎だ。きっとあの魅魔が現れたんだ。

 願望が拍車をかけたのかもしれない。きっとそうに違いないと、ほかの可能性については頭に浮かびもしなかった。

「……っ」

 小石につまずいて転びかける。
 気ばかりあせって、体がついてこないことに奥歯を噛みしめたそのとき、不意に手足が凍った。前に踏み出すこともできず、血が下がってゆくと同時に全身から力が抜けていくのを止められない。

 不自然な恐れ。まるでしてはいけないことをしてしまった子どものように、ただただ恐れに心が震える……堪えきれない罪悪感。とり返しのつかないことへのおびえ。

 一体何に? もしや、あの空白となった記憶に関係が?

 たとえそうだとしても、今はそのことについて考えている暇などない。余計なことに頭を使う時間があるなら、どうやれば翠珂を助けられるか考えろ――そう自分を叱咤することで、止まっていた歩みを無理やり戻した。

 風はどの方角から吹いた? 西か? それとも東? 

 思いだせなかった。どうしても、いくら考えても、あの風が吹いたときの気配をよみがえらせることができない。

 風が魅魎の気配をさせていたのは覚えていた。頬をなぶる風は今もときどき、ほんのかすかだけれども名残りめいたにおいをしている。

 法師が何重にも巡らせた結界という網をも通過してくる負の気!
 それは、やはりあの魅魔に違いない。

 結論にすぐさま反応した胸が、歓喜とも恐怖ともつかない強烈な震えを発したが、今度は足を止めたりはしなかった。
 以削から仲間同士の間でうわさになっていた、壁に開いた穴を見つけてどうにかくぐる。

 「……北、だわ、きっと」

 この判断が致命的なミスになりはしないか……迷ったものの、坂の上から眼前に広がったサキスを一望して唇を噛み結ぶ。意を決し、北門への道に向きを変えた。

 舗装の行き届いた広い煉瓦道を、北門目指してひた走る。普通の者であればそこそこのものだが、レンにしてみれば格段に遅い。この3カ月ですっかりなまってしまった体はすぐ息があがって、胸を圧迫してきた。

 陽の半ば以上が沈み、建物の黒影が長く伸びる大通りにいるのは、収入に満足がいかず遅い店閉まいをする行商人か、夜の顔が現れるのを待ちかねて時間をつぶすごろつきくらいのものだ。
 そこを、わき目もふらず走り抜ける。防砂着でかためた彼女が傍らを通りすぎるのを不思議そうに見送る者もいたが、呼びとめて説明を求めたり忠告をしようとする物好きは現れなかった。

 防砂壁にそれぞれの方角にほどこされた門は、地平線に陽が触れると同時に閉ざされる。
 そこにいる門守と門番をどうやって偽ろうかと、建物の角で呼吸を整えながら様子をうかがったものの、結局それは要らぬ考えで終わった。
 ずっと部屋にこもっていたレンは知らないことだが、宮からの、防砂壁外へ出ることを極力禁じるという通達により、門は昼の決まった時刻にしか開かれなくなっていたのだ。

 増やされた警備といい、宮が動くとあっては近辺に魅魎が出没しているとのうわさも真剣さを帯びずにはいられない。
 巻きこまれることを恐れて人が寄りつかないこともあって、門には(かんぬき)がおりているだけだった。

 とはいえ、10人の大人が横に並んで通れるほどの門にかける閂なだけに、レン1人ではどうしようもない。
 だめ押しとばかりにぐるぐる巻きにされた頑丈な鎖を見て、ため息が漏れる。だが。
 たしか警備長たちが出入りに使う通用門があると、彩煉と出たときのことを振り返って、影になって目立たない脇へと回った。

 そちらには鍵がかかっていたので門番の小屋にとって返し、棚を引っ掻き回して鍵を見つけると、それを使って外に出る。
 くぐった途端顔を叩く砂粒の強さに、思わず目をつぶった。
 砂嵐の訪れを予感させる、強くて冷たい風が吹き荒れている。紺色の強まった空は濁って黒ずみ、もはや地平線との境もつかずにあやふやだ。
 レンにはまるでその光景が自分のことのように思われて、危機感に胸がしめつけられた。

 胸やふくらはぎ、腕に残った傷跡がじくじくして、おちつかない。

「翠珂……翠珂!」

 歩きながら声に出して呼んでみたけれど、応える声はなかった。それどころか人の気配もしない。北方警備長たちがいるはずなのに……この風で、かき消されたか。
 口に入った砂を吐き出して、フードでカバーする。

 北じゃなかったのかもしれない……。

 とにかくもう一度、呼んでみよう。そう思って顔を上げたとき。何の前触れもなく、突然胸を針で突かれたような痛みが起きた。
 こみ上げる喪失感――覚えのある感覚。先の痛みは直感によるものであると悟った瞬間、彼女の頭中で翠珂の姿がよぎって闇へと消えた。

「すいか……っ!」

 見えざる手に背を押されたように、よろよろと走り出す。翠珂の元へ。ただ、翠珂を求めて。

 他の一切を捨て去り、ひたすら彼の無事な姿を見ることを望んだ。純粋に。それゆえにたどりつけたのだろう。
 暴風吹きすさぶ中を彼女は方向すら定かではないまま、目に見えない糸にたぐり寄せられるようにその場へと導かれ……そして死すらも色槌せる苛酷な運命と、直面したのである。



◆樋  槻

 この世には、信じられるものと信じがたいものがある。

 彼女のそれは、こうして眼前にしながらも到底信じられるものではなかった。
 朱でまだらに染まった砂上に、人間の死体と、負った傷の痛みにうめく魔断が入り乱れて転がっている。立っている者はなく、人のほうは動かない。完全に死んでいるようだ。
 呆然と立ち尽くす彼女の前、力尽きた魔断がぱっと散って消えていく。

 こんな光景が、はたして存在していいのか。

 吹きすさぶ風砂に早くもおおわれかけた死体のほとんどに手足がなく、切断されていた。皮一枚でもつながってあればいいほうだ。
 むき出しの骨、転がった手足に嘔吐感が熱くのどを焼く。もどすまいと口に手をあてたが、何の効果もなかった。

 嘔吐の衝動にかがみこむ。直近で食べたのは果物だけだ。胃液ぐらいしか出るものはなかったというのに、体力を吐き出したように手足が萎えた。唯一の救いは、風に消されて血の臭いがしないことだ。砂埃を吸いこまないようにと口と鼻をおおっていたことも幸運だった。

 胸がどきどきする。息ができない。

 もしこの中に翠珂がいたら、どうしよう。あの人まで失ってしまったら、自分は、一体どうすればいい?

 混乱した頭を振ってその嫌な考えを追い出すと、覚悟を決めて頭を上げる。

 そこに、『彼』はいた。

 フードの下で目をこする。
 つい先までは何もなかった空間だった。ただ砂を巻き上げる風が吹いているだけの。
 なのに今は彼が身をおいている。悠然と、生命力にあふれたほほ笑みを満面にたたえて。

「さい、れん……?」

 あり得ない存在を見出したことに、つかの間呆然となった。

「ふん。やっとおでましか」

 吊り上がった口端からもれたのは、自惚れめいた強い声だった。目前の相手を腕ずくで屈服させようとする、攻撃的な響きのこもった美声。

 黒い髪、黒い瞳、浅黒い肌。
 どれも彩煉の持ち物ではない。けれど自分を見つめるその切れ長の目許や甘やかな顔立ち、細い輪郭線などは、見間違えようもなく、彩煉だった。夢でも、幻でもなく。

 こんなことって……。

 一歩よろめく。
 生きている彼との再会の嬉しさは、しかしほんのわずかも胸にあふれてはくれなかった。

 通常、死に別れた者同士が再び視線をあわせ、言葉をかわすことはない。これは奇跡と呼ぶべき出来事。
 彼を生き返らせることができるなら何でもする、この命と引き換えにしてもいいとまで願ったではないか。
 喜ぶべきことが起きたのだから喜ばなくてはいけないのだ――恩ぎせがましくあの憫笑(びんしょう)の声が告げてくるが、心の奥からわきあがる歓喜の波というものは一切起きない。

 それが、彼の浮かべた表情や身を包んで流動する闇への警戒によるものだと気付くのは、そう難しいことではなかった。

「おい、何を()けてる。この俺にここまで手間暇かけさせておいて、一言の礼もなしか? 謝罪くらいしたらどうだ」

 高飛車に、彼はそう告げた。
 棘々しい声、隠そうともしない不満の視線。それを浴びたとき。
 レンの中で白閃が弾けた。


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 ――翠珂!
 どうにも静めきれない胸騒ぎにいてもたってもいられず、レンは上着を放り出すとシーツを跳ね上げて寝台から出た。
 翠珂が危ない。それはきっと間違いない。彼は夜間の警備長だけれど、なぜかここ半月は時間が早まって今の時刻からもう役目についていた。
「あっ……」
 突然立ちくらみがした。サイドテーブルに手をつき、チカチカと明滅する光がまぶたの裏から消えるのを待つ。そうする間も、膝のほうからじわじわと冷たい震えがのぼってきた。
 いきなり動いたせいか、それともこれもまた、翠珂の身に起きた異変のせいか。
「行か、なくちゃ……」
 胸を押しつぶしてしまいそうなほどのいやな予感に踏み出した足は、腰の辺りが重く、指先にいくにつれて感覚がおぼろで頼りなかった。
 リハビリを何度か行ったおかげで、最初のときほどの違和感や痛みはないけれど……。
 たぶん、大丈夫。
 半分以上思いこみの見当をつけて、棚に入っている、砂漠用の靴を引っ張り出した。外出着にマント、手袋、それに袖を止める紐。
 大急ぎで着替え、マントをブローチで留めながら、レンは部屋を出て階段へ向かう。
 まだ第6時限が終わってないためか、人目は思った以上に少ない。特に、教室のある南館へと続く回廊を避ければ、ほとんどいなくなる。
 いつもどこかしらに教え長や室長たちの行き交う姿が見えるはずなのに……宮らしくないとは思ったが、それがなぜかを深く考えるには、彼女は絶対的な情報不足だった。
 とにかく用心を重ねて、人目を避けて、庭園でも小径に平行した草群へと入る。
 いらいらした。自分の体なのに。もうほとんど治っているはずなのに。歩きづらいし、骨折したふくらはぎを重く感じる。横から飛び出している枝も、頭の認識と腕の動きのちょっとした差異のせいで避けられず、袖が引っかかってしまった。
 考えていた以上に体が鈍く、思うように前へ進めない。
 翠珂の身が危険にさらされているというのに。あの人が危ないのに、役に立たないなんて!
 ひしめきあう不安に胃がきりきりする。
 前へ一歩踏み出すごとに、迷いは確信へと変わっていった。
 魅魎だ。きっとあの魅魔が現れたんだ。
 願望が拍車をかけたのかもしれない。きっとそうに違いないと、ほかの可能性については頭に浮かびもしなかった。
「……っ」
 小石につまずいて転びかける。
 気ばかりあせって、体がついてこないことに奥歯を噛みしめたそのとき、不意に手足が凍った。前に踏み出すこともできず、血が下がってゆくと同時に全身から力が抜けていくのを止められない。
 不自然な恐れ。まるでしてはいけないことをしてしまった子どものように、ただただ恐れに心が震える……堪えきれない罪悪感。とり返しのつかないことへのおびえ。
 一体何に? もしや、あの空白となった記憶に関係が?
 たとえそうだとしても、今はそのことについて考えている暇などない。余計なことに頭を使う時間があるなら、どうやれば翠珂を助けられるか考えろ――そう自分を叱咤することで、止まっていた歩みを無理やり戻した。
 風はどの方角から吹いた? 西か? それとも東? 
 思いだせなかった。どうしても、いくら考えても、あの風が吹いたときの気配をよみがえらせることができない。
 風が魅魎の気配をさせていたのは覚えていた。頬をなぶる風は今もときどき、ほんのかすかだけれども名残りめいたにおいをしている。
 法師が何重にも巡らせた結界という網をも通過してくる負の気!
 それは、やはりあの魅魔に違いない。
 結論にすぐさま反応した胸が、歓喜とも恐怖ともつかない強烈な震えを発したが、今度は足を止めたりはしなかった。
 以削から仲間同士の間でうわさになっていた、壁に開いた穴を見つけてどうにかくぐる。
 「……北、だわ、きっと」
 この判断が致命的なミスになりはしないか……迷ったものの、坂の上から眼前に広がったサキスを一望して唇を噛み結ぶ。意を決し、北門への道に向きを変えた。
 舗装の行き届いた広い煉瓦道を、北門目指してひた走る。普通の者であればそこそこのものだが、レンにしてみれば格段に遅い。この3カ月ですっかりなまってしまった体はすぐ息があがって、胸を圧迫してきた。
 陽の半ば以上が沈み、建物の黒影が長く伸びる大通りにいるのは、収入に満足がいかず遅い店閉まいをする行商人か、夜の顔が現れるのを待ちかねて時間をつぶすごろつきくらいのものだ。
 そこを、わき目もふらず走り抜ける。防砂着でかためた彼女が傍らを通りすぎるのを不思議そうに見送る者もいたが、呼びとめて説明を求めたり忠告をしようとする物好きは現れなかった。
 防砂壁にそれぞれの方角にほどこされた門は、地平線に陽が触れると同時に閉ざされる。
 そこにいる門守と門番をどうやって偽ろうかと、建物の角で呼吸を整えながら様子をうかがったものの、結局それは要らぬ考えで終わった。
 ずっと部屋にこもっていたレンは知らないことだが、宮からの、防砂壁外へ出ることを極力禁じるという通達により、門は昼の決まった時刻にしか開かれなくなっていたのだ。
 増やされた警備といい、宮が動くとあっては近辺に魅魎が出没しているとのうわさも真剣さを帯びずにはいられない。
 巻きこまれることを恐れて人が寄りつかないこともあって、門には|閂《かんぬき》がおりているだけだった。
 とはいえ、10人の大人が横に並んで通れるほどの門にかける閂なだけに、レン1人ではどうしようもない。
 だめ押しとばかりにぐるぐる巻きにされた頑丈な鎖を見て、ため息が漏れる。だが。
 たしか警備長たちが出入りに使う通用門があると、彩煉と出たときのことを振り返って、影になって目立たない脇へと回った。
 そちらには鍵がかかっていたので門番の小屋にとって返し、棚を引っ掻き回して鍵を見つけると、それを使って外に出る。
 くぐった途端顔を叩く砂粒の強さに、思わず目をつぶった。
 砂嵐の訪れを予感させる、強くて冷たい風が吹き荒れている。紺色の強まった空は濁って黒ずみ、もはや地平線との境もつかずにあやふやだ。
 レンにはまるでその光景が自分のことのように思われて、危機感に胸がしめつけられた。
 胸やふくらはぎ、腕に残った傷跡がじくじくして、おちつかない。
「翠珂……翠珂!」
 歩きながら声に出して呼んでみたけれど、応える声はなかった。それどころか人の気配もしない。北方警備長たちがいるはずなのに……この風で、かき消されたか。
 口に入った砂を吐き出して、フードでカバーする。
 北じゃなかったのかもしれない……。
 とにかくもう一度、呼んでみよう。そう思って顔を上げたとき。何の前触れもなく、突然胸を針で突かれたような痛みが起きた。
 こみ上げる喪失感――覚えのある感覚。先の痛みは直感によるものであると悟った瞬間、彼女の頭中で翠珂の姿がよぎって闇へと消えた。
「すいか……っ!」
 見えざる手に背を押されたように、よろよろと走り出す。翠珂の元へ。ただ、翠珂を求めて。
 他の一切を捨て去り、ひたすら彼の無事な姿を見ることを望んだ。純粋に。それゆえにたどりつけたのだろう。
 暴風吹きすさぶ中を彼女は方向すら定かではないまま、目に見えない糸にたぐり寄せられるようにその場へと導かれ……そして死すらも色槌せる苛酷な運命と、直面したのである。
◆樋  槻
 この世には、信じられるものと信じがたいものがある。
 彼女のそれは、こうして眼前にしながらも到底信じられるものではなかった。
 朱でまだらに染まった砂上に、人間の死体と、負った傷の痛みにうめく魔断が入り乱れて転がっている。立っている者はなく、人のほうは動かない。完全に死んでいるようだ。
 呆然と立ち尽くす彼女の前、力尽きた魔断がぱっと散って消えていく。
 こんな光景が、はたして存在していいのか。
 吹きすさぶ風砂に早くもおおわれかけた死体のほとんどに手足がなく、切断されていた。皮一枚でもつながってあればいいほうだ。
 むき出しの骨、転がった手足に嘔吐感が熱くのどを焼く。もどすまいと口に手をあてたが、何の効果もなかった。
 嘔吐の衝動にかがみこむ。直近で食べたのは果物だけだ。胃液ぐらいしか出るものはなかったというのに、体力を吐き出したように手足が萎えた。唯一の救いは、風に消されて血の臭いがしないことだ。砂埃を吸いこまないようにと口と鼻をおおっていたことも幸運だった。
 胸がどきどきする。息ができない。
 もしこの中に翠珂がいたら、どうしよう。あの人まで失ってしまったら、自分は、一体どうすればいい?
 混乱した頭を振ってその嫌な考えを追い出すと、覚悟を決めて頭を上げる。
 そこに、『彼』はいた。
 フードの下で目をこする。
 つい先までは何もなかった空間だった。ただ砂を巻き上げる風が吹いているだけの。
 なのに今は彼が身をおいている。悠然と、生命力にあふれたほほ笑みを満面にたたえて。
「さい、れん……?」
 あり得ない存在を見出したことに、つかの間呆然となった。
「ふん。やっとおでましか」
 吊り上がった口端からもれたのは、自惚れめいた強い声だった。目前の相手を腕ずくで屈服させようとする、攻撃的な響きのこもった美声。
 黒い髪、黒い瞳、浅黒い肌。
 どれも彩煉の持ち物ではない。けれど自分を見つめるその切れ長の目許や甘やかな顔立ち、細い輪郭線などは、見間違えようもなく、彩煉だった。夢でも、幻でもなく。
 こんなことって……。
 一歩よろめく。
 生きている彼との再会の嬉しさは、しかしほんのわずかも胸にあふれてはくれなかった。
 通常、死に別れた者同士が再び視線をあわせ、言葉をかわすことはない。これは奇跡と呼ぶべき出来事。
 彼を生き返らせることができるなら何でもする、この命と引き換えにしてもいいとまで願ったではないか。
 喜ぶべきことが起きたのだから喜ばなくてはいけないのだ――恩ぎせがましくあの|憫笑《びんしょう》の声が告げてくるが、心の奥からわきあがる歓喜の波というものは一切起きない。
 それが、彼の浮かべた表情や身を包んで流動する闇への警戒によるものだと気付くのは、そう難しいことではなかった。
「おい、何を|呆《ぼ》けてる。この俺にここまで手間暇かけさせておいて、一言の礼もなしか? 謝罪くらいしたらどうだ」
 高飛車に、彼はそう告げた。
 棘々しい声、隠そうともしない不満の視線。それを浴びたとき。
 レンの中で白閃が弾けた。