3章2話「ゼロサムゲーム」
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「陸、ごめんなさい」
今年一番の冷え込みと、ニュースで見た12月の深夜。
シャワーを終えた陸が、互いの体温で温もった布団の中に再度潜り込んだ後だった。
「どうしたの?」
「一緒にいるの、もう無理になっちゃった」
つい先程まで愛し合っていたリナの口から出た言葉に陸は驚く。リナの部屋にあるベッドは小さく、陸から背を向けていても肌が密着した形となる。陸は恋人を抱き締め「どうしたの?」と尋ねてみるも、返ってきたのは啜り泣く声だけだった。
突然の告白で内心は困惑してはいるも、陸は黙って彼女からの言葉を辛抱強く待った。やがてリナが泣きじゃくる合間に、ぽつりぽつりと出てきた言葉をゆっくりと拾い、陸は丁寧にそれらを繋ぎ合わせてゆく。
それは彼女が務めていた介護施設が経営難で、今年限りで終了と告げられた報告だった。
加えて在留期間の更新期限が来月末で、今から就職先を探そうにも就職先はおろか更新の書類が間に合わない。だからオーバーステイになる前に、国に帰らなければならない――という内容だった。
リナはずっと言えなかったと、話を終えた後にまた泣きじゃくる。後ろから抱き締めた陸の腕を伝う彼女の涙は枯れること無く、ベッドシーツへと染み込んでゆく。身体が大きく震える度に、力を緩めて陸は優しくリナの身体を擦った。
彼女が隠し事をしているのは、薄々と気付いてはいた。だが敢えて問わず、リナが自分から告げてくれるまでは待とうと思っていたのだ。
陸は「リナ」とゆっくり名前を呼ぶ。
最初は愛想を尽かしての別れ話かと思っていたが、違った事に対する安堵の方が大きかった。「正直に話してくれて、有難う」そう告た数拍後に、彼女の目から溢れる涙を指で掬う。
「オレの仕事、知ってるよね」
微笑んでみせるも、返事は無い。部屋の灯りは常夜灯だけだし、リナは背を向けている。それでも陸は、彼女を安心させようとゆっくり語り掛ける。
「だからリナが残れるように、ずっと一緒に居られるように造ってあげる」
「でも」
「大丈夫、オレが何とかする」
「私、陸に頼むお金無い。高いでしょう?」
陸は「大丈夫、気にしないで」と言ってのける。
「だってオレがしたいんだよ、オレがリナと一緒にいたい」
後ろから抱き締める腕に力を籠め、鼻先で髪をかき分けた先に見えた彼女のうなじに口付けを落とした。リナは小さく身動き、まだ少し湿っている髪から強い香の匂いがふわりと漂う。
12月の半ばを過ぎたにも関わらず、光熱費を節約して部屋の暖房は付けていない。腕の中にある唯一の熱を感じて、陸はそっと目を閉じた。
「オレさ、自分の仕事って悪い事だから……悪人にしかなれないと思ってた」
「そんなことないよ、陸。最初の仕事で私を助けてくれた」
「うん」
「陸の仕事、みんなは悪い事っていうかもしれないけど。私にとっては違うから」
泣きじゃくりながら「陸は私を助けてくれる、正義の味方だよ」とリナは陸に言ってくれた。その一言は甘く心地良く、ずっと自分が欲してやまなかった言葉である。陸の中ではそのたった一言で、今までの全てが救われる気がした。
「有難う、リナ」
想いを伝える手段が言葉と触れ合いの2つしかないのならば。今のこの瞬間、精一杯届くように。そう願いを込めて陸はリナの小さな身体を強く、強く抱き締めた。
◇ ◇ ◇
以前、心愛に自分の好きは『一緒にいると幸せを感じる』と答えたけれど。じゃあリナが消えてしまった今、俺はもう幸せにはなれないのだろうか?これが幸せを贋で繋ぎ止めた、自分へと与えられた報いなのだろうか。
恋人を殺した男の顔を見ながら、陸はそんな事を考える。
昼食の後、午後一番に病室へと訪れたのは楊と陳だった。見舞いに訪れたと言う楊に部屋を出るよう指示された初老の男は、宵闇のように暗く沈んだ双眸を陸へと向けていた。そこに浮かぶ感情はやはり伺い知れない。
陳は何も言わず、微笑む楊を残して病室から姿を消した。
「見た限りは、大丈夫そうだね」
上から落とされた優しい言葉には、無言を以て陸は返事とする。
楊は陳が退室したのを確認した後で、ゆっくりとベッドの上へと腰掛けた。背上げで僅かに上体を起こしてはいたが、楊が腰掛けた小さな衝撃で腹に痛みが走る。決して楊にはそれがバレないよう、陸は拳をきつく握り込み奥歯を噛んで耐えた。
「横田君か岸あたりから、もう聞いているんだろう?」
「……はい」
「彼女を助けてあげられなくて、ごめんね」
意識が回復した昨夜、凪に言われた言葉を思い出して俯く。続いて降ってきた楊の謝罪は意外なものだった。敢えて合わせなかった視線を上げると、悲しそうな表情でこちらを覗き込む楊の顔があった。
「オレ、貴方を責める気は無いです」
陸の方からの返事は、楊にとっては意外だったようだ。瞬きを繰り返す彼に、陸は言葉を重ねる。
「だってもう、リナは生き返らないんです」
「陳に復讐したいとか、自分を刺した彼女が許せない。とか、そんな風には思わないのかな?」
「思いません」
その後「でも、」と正直な心の内を述べる。
「彼女に会って償いたい、って言ってしまった自分の愚かさは……リナを殺してしまった、馬鹿で無知で自分勝手だった俺は、ブッ殺してやりたい程憎いです」
さらに掌に爪が食い込むほど、陸はきつく拳を握り続ける。今度は痛みを耐えるものでは無い。自分の腹を殴り付けたい衝動を必死に堪えていたが、そんな陸の耳に楊の笑い声が降り注いだ。
「……オレ、そんなに面白いこと言いました?」
突然笑い出した楊を陸は睨み付ける。彼は笑いが収まった頃に「いやぁ、ごめんね。そうじゃないんだ」と上がった口で軽い謝罪を吐いていた。僅かに弾んだ息を整え終えた後で、彼は「困ったなぁ」と、掛けていた眼鏡を外して胸のポケットへと入れる。
「今の君の一言。凄く素敵だった」
爆笑した後で照れたようにはにかむ様子は不自然なのだが、それ以上のちぐはぐさに陸は戸惑う。嘘を付いている素振りも無ければ、初対面で感じた恐ろしさも今は見られない。
「参ったなぁ……僕は君が、すっかり好きになっちゃったよ」
「は?」
全てが見当違いかつ、場にも話題にも相手にも。
目の前で微笑む男は、全てにおいて不釣り合いな言葉をこともなげに吐く。陸の思考が、とうとう真意を計れず困惑した。
「だって普通は僕や彼女を恨むよ。大体君、彼女に頼まれて家族の分を造ったんでしょう? |体《てい》良く利用されて、挙げ句逆恨みで殺されかけたんだよ? なのに救いたいとか、自分をブッ殺してやりたい……って、頭が完全に狂ってる」
「オレから見たら狂っているのは、それを笑うアンタの方です」
「僕らの世界で狂っていない、まともなヤツがいたら。それこそ正気じゃあない」
笑いすぎたのか、楊の細い目は潤んでいる。
「でも君は正義を貫くんだろう? 正義、人として行なうべき正しい道義。横田君から聞いたよ、君は正義が大好きなんだって? 偽造しか能の無い、生まれながらにして警官にすらなれない無戸籍のガキが……正義とかいうマトモな道理をこの僕に、説教を垂れる」
楊は明るい口調ながら、陸がこれまでに抱いてきた思いを全て足蹴にする。言葉を用いた暴力が刺さり、陸は唇を噛み締めた。
「陸、凄くいいよ。君の存在は“こちら側”なのに、真っ直ぐ心が狂って壊れて純粋そのものだ。僕だってそれなりに、色んな人間を見てきたけれども。君みたいな子は初めてだ」
「でもオレのせいで、リナも早坂さんも死にました」
堪らず溢れてしまった陸の呟きに楊は「早坂?」と、返す。彼はしばらく考える素振りを見せていたが、やがて思い出したかのように「ああ、彼か。あれは君のせい――」と陸へと告げる。
その時、楊のスーツの中から振動音が聞こえてきた。
楊はスマートフォンを取り出すと、画面を見て眉を顰める。初めてみた彼の苦々しい表情には驚いたが、直ぐ様「ごめん」と小さく謝った後で、手に持ったそれを耳へと当てた。
ベッドから立ち上がった楊が、カーテンの掛かった窓際へと向かって歩きながら話す内容は中国語だ。陸に話し掛けていた時の柔らかさは消えている。苛立ち混じりで発する言葉のイントネーションは、陸が知らない単語か地方の言葉なので内容は解らなかった。カーテンは締めているも窓から入る午後の日差しは強く、楊の顔は逆光で今は伺えない。
病室から出た陳が戻って来る気配は無い。楊が早口で話す傍ら、陸はたった今彼が告げかけた「早坂の死は君のせい――」という言葉を思い返す。
一体楊は何を自分へと告げようとしたのか。窓際で電話を続ける楊を横目に、陸は答えを模索する。同時に早坂の顔と、ファストフード店の二階でネットカフェのカードを彼から受け取った後の会話を思い出していた。
『俺さ、あの時はどうかしてたんだよ。だから、それが無しになるってのなら……』
『うん』
早坂の言葉に陸は頷き、同意する。彼が言っているのは数年前に彼が起こしたネットでの炎上事件のことだ。彼とゲームで仲良くなって素材集めの周回を二人でしていた時。一度だけ、遠回しに話してくれた事があった。
『罪はもう何年も前に償ってるはずなのに。未だ責められるって、おかしいよな』
『そうなんだよ……!』
目を輝かせてこちらを見る早坂の視線は、陸にとっては気持ちが良いものだった。彼は今、理解者がやっと現れたと陸を見てくれている。それは別人になり代わって、新しい人生を歩めるかもという。救いと希望を見出したものだった。
『落ち着いたらちゃんと師匠には言ってみる、大丈夫』
あの時の陸は、彼を安心させるように笑って見せたのだ。それは心の底から救いたいという、本心からだ。
『きっと大丈夫、許されない罪は無いよ』
思い返したところで、陸はようやく己が犯した失敗に気付く。
何故あの時自分は早坂に、あんな馬鹿な事を言ってしまったのか。遅れて今湧き上がる怒りに身を震わせていると、誰かに肩を叩かれた。
我に返った陸が見上げると、そこには電話を終えた楊がいた。彼は先程と同じ様に陸の隣に腰を掛けて、自分を静かに見下ろしている。
「陸、大丈夫かい?」
「……凪さんが言ってたんです」
楊へと返した陸の声は震えていた。楊が怪訝そうにこちらの顔を覗き込む。外した筈の銀縁の眼鏡は、いつの間にか彼の顔へと戻っていた。
「横田君が?」
「早坂さんはネカフェの名義を貸したから殺されたって。オレが偽造の事を話さなかったら、多分死ぬことは無かったって! だからオレのせいなんですよ!」
感情が徐々に高ぶり、叫ぶように声を荒げてしまった陸に対し「あの子、やっぱり賢いなぁ」と笑った後で、楊は陸の肩を軽く叩く。「落ち着いて、陸。君のせいじゃないよ」と宥められる。その手を振り解こうとしたところで、腹部の痛みに襲われた。
「部下から受けた報告だけを話すよ、いいかい?」
優しい声色の後で、彼はこちらをもう一度伺った。陸の無言を肯定と捉えた楊は、言葉を続ける。
「僕達は何の理由も無く、決して一般人を手に掛けたりはしない。裁かれるのは“こちら側の法”を犯した人間だ」
説明の中で『こちら側の法』と、敢えて彼は強調するのが分かった。
「君の身辺を調べる際にね、こちらから早坂君にコンタクトを取ったんだ。そしたら彼、君のことを話してほしければ『もっと金を払え』と言ってきたらしい。それだけなら見逃したけど――陸、彼に偽造の話をしたんだね?」
確か先日、早坂の父親と会話をした後に凪にも同じ事を尋ねられる。陸は今回も頷くしか無かった。
「君がした唯一の失敗はそこだけだ。こちらが裏側の人間と気付いた彼が、調子に乗って『払わないのならお前らの事を警察に言うし、SNSに晒す』って脅迫までしてきたんだってさ」
楊はやれやれと、溜息を付いた後。小馬鹿にするかの様に、小さく鼻で笑う。
「前にも言った通り、何事にも理由と体裁は必要なんだよ陸。我々はナメられたら終わりだ。一介の小僧が我々を脅迫したという理由があれば、見合った処罰を下す体裁も必要だった。それだけだよ」
説明を終えて疲れたらしい。
楊はベッドの脇にある床頭台へと手を伸ばすと、上に置かれていたペットボトルの水を取った。陸が飲みかけで置いていたそれを勝手に飲み干し「陳には内緒にしてね」と、こちらに向けて小声で告げてきたが、陸は答えない。
疼く腹と頭の痛みを抑え、楊から告げられた事実を咀嚼しても。陸が導き出せる結論は、変わらなかった。
「……それでも、やっぱり。オレのせいだと思います」
「会ってほんの少しお話ししただけ。ネット友達の自爆ですら、陸は自分のせいにしちゃうのかい? それは余り良くない趣向だ」
陸は唇を噛み締め、シーツを力強く握る。結局のところ結果は変わらない。ならば自分の行動が彼の死を招いた限り、やはり自分に責任があるとしか思えなかった。
「新しい人間としてやり直せる可能性があるって、オレが早坂さんに見せなかったら。オレが仕事の事黙ってたら、あの人は死ななかったんでしょう? ならやっぱり、オレのせいですよ」
吐き捨てるように言った直後、横に座る楊の身体が傾いたかと思ったら陸の視界が急に覆われた。香水の匂いが鼻腔を|擽《くすぐ》り顔に押し当てられた布の感触と、腹の痛みで自分が楊に抱き締められたのだと気付く。抵抗よりも先に戸惑いと痛みが襲い掛かり、何も出来ない。楊はそんな陸の髪を撫でながら言葉を続けた。
「陸は凄くいい子だなぁ、本当にいい子だ。ますます大切にしたくなる、狂った価値観だ。僕は君みたいな子が欲しいんだよね」
「なら、今からでも……オレを攫えばいいのに。それをせず、自分勝手な気持ちだけを押し付けてくるアンタは、もっと狂ってます。変態だ」
肌を伝って体温を感じる中、頬に当たっていたスーツの滑らかな布地が僅かに揺れた。彼が声無く笑ったのだと、揺れた身体から漂う気配で分かった。
「『しない』じゃない。『出来ない』んだよ。君はまだ、岸の預かりだからね」
「オレ、もう岸さんに見捨てられてます」
リナに会いたいと拓海に告げた時、彼は確かに「お前の行動次第では今後一切、俺達がお前を守る事は無い。つまりは見捨てる」と自分へと告げた。きっと今はもう見捨てているに違いない。だが楊の返事は違った。
「君は見捨てられていないよ、だから僕は手を出せない」
楊の身体を通じて、耳へと届く彼の声はくぐもっている。抱き締められた腕から逃れようと身体を捻るが、訪れた激痛に思わず呻きが漏れたところで「ごめんね」という声と共に解放された。
取り出したハンカチで、額に浮かんでいる汗を拭われる。さらりとした感触と、スーツの袖から再び漂ってくる爽やかな香水の匂いは少し甘く感じた。不快ではないのだが、ずっと嗅いでいると頭痛が訪れるような香りだ。陸は黙って楊を睨みつける。本当は跳ね除けたいが、既にそんな気力すら陸には無かった。
「僕は個人的に君が気に入ったけど、組織としてはオマエを岸達から攫う程の価値は無い。一介の技術屋と完全中立の便利な情報屋を天秤に掛ける、すると彼らと築いたビジネス関係の方に傾くってこと」
汗を拭ったハンカチをポケットにしまった後、楊は残念そうに肩を竦めてみせた。
「意味は分かるよね?」
陸が頷いたのを確認すると「宜しい」と楊も頷く。
「そして君はまだ、あの三人に守られている。守るというか、彼らも君を囲いたいんだろう。僕達みたいな組織が偽造に手を出す機会は、既にデジタルが主だ」
「……はい、それも分かります」
「でも彼らにとって君は別。アナログから完全にデジタルへと移行するまでの空白期間は、まだまだ存在する。この小さい島国には、付け入る余裕が沢山あるからね」
楊が告げる言葉の意味は直ぐに分かった。陸がリナの在留カード延長に伴う手続きを偽造できたのも、そのおかげだった。デジタルで管理を行う前には必ず幾つかの人手を介する。その回数が多ければ多いほど、まだ偽造が付け入る隙は存在している。
「というわけで、陸。話を戻すよ」
陸の傍に腰掛ける楊は、相変わらず物腰が柔らかい。
「僕はさっさと、今回の件を終わらせたい。これが本音であり本題だ」
陸は黙って一度頷く。彼は自分には優しく接してくれる。だが今日この場にやって来たのは、決して慰めるためでも心配してでの来訪では無い事位は分かっていた。
「ここは僕らの国じゃないからさ、今回は落とし前だけでいいって。で、その方法は僕に丸投げしてくれたんだよね……」
「落とし前、ですか」
「うん、さっきも言ったけど。何事にも理由と体裁は必要だからね」
先日自分には関係が無いと陸が突っぱねた『理由と体裁』という2つの単語。早坂が始末された件の後で、再び楊の口から零れ落ちた言葉に陸は身構える。
「遅かれ早かれ、君は僕の組織で一生繋がれてこき使われる未来しかないんだよ。だから手早くあの3人を説得して、僕のところへおいで。これが、僕の立場からする提案」
身構えてはいたも、実際に言い渡されると胃に鉛が詰まったかのようだ。唐突にずしりと重くなるのが分かった。
「ああ、念の為に言っておくけど。自分で命を絶っちゃ駄目だよ」
なおも楊の言葉は続く。それは陸の考えを先読みし、釘を刺すかのようなものだった。
「命ってのはね、とても尊いんだ。だから一瞬で選択肢を失う方法は、僕が絶対に許さない。生き方を目一杯考えるんだ。それから、自分の意思で選択して欲しい」
表面だけを受け止めれば美しく聞こえるかもしれないが、それは紛れもない脅迫である。彼の脅迫はなおも続いた。
「それにね、君が僕の目の届かない場所でこの世から消えちゃうと、とても悲しい。消えた君があの世で寂しい思いをしないように、何人かお友達を送ってあげなきゃいけなくなる」
軽やかに告げられる脅迫を全て伝え終えたことで、ようやく楊は満足したらしい。彼の手が伸び陸の髪をゆっくりと数度撫でた後。ポンポン、と優しく肩を叩かれた。
「じゃあね、陸。待ってるよ」
ベッドから立ち上がる直前、陸の耳元に彼の口が寄った。そっと楊から囁かれた中国語は――子供の頃から聞き慣れたフレーズながらも、陸にとっては凄まじい嫌悪感を植え付ける結果となった。
◇ ◇ ◇
「楊はなんて?」
「オレが自分で死んだら、他にも何人かを殺すって……」
「拓さん、どういうこと?」
「あー、いや。要はコイツが楊にすげぇ気に入られたって事だ」
「あと『我的小傻瓜陸』って」
陸がボソリと呟いた中国語を聞いて、病室にいる四人の中で「マジかよ!」と驚いたのは、明弘だけだった。
「完全にイカれたド変態だな、その楊ってヤツ」
「『僕の可愛い、おバカな陸』ねぇ……」
明弘の言葉に続いてボソリと呟いた心愛へと、全員の視線が向けられた。「姐さん、中国語分かるんすか?」という驚いた明弘に対して彼女は「普通話なら、少しね」と答える。
彼女は四人の視線を一手に引き受けながら「でも、何その言葉。まんまパパじゃん。マジイミフ」と、手に持っていたリンゴ飴をガリガリと齧っていた。
楊が病室に訪れた日の夜。陸の病室には拓海、凪、心愛の三人に加えて明弘が集っていた。
病院近くで夏祭りをしているらしく、先程遅れて到着した心愛が買い込んできた食べ物の数々――たこ焼き、焼きそば、焼き鳥、リンゴ飴、チョコバナナ等。陸のベッドと床頭台の上にそれらは乗っていた。陸は初めての入院なので病院のルールは知らない。それでも先程夜の検温に来た看護師の顔と「後で換気してください」と告げてきた様子を見た限り、ベッドに並べられた食べ物の多くは黙認されるも歓迎されたものでは無いのだろう。今まで何度も彼女の明るさには陸も救われたが、今回もやはり脳天気な様子を見せていた。
何故か彼らといる明弘は、拓海が拾ってきたらしい。「事務所の周りをうろついてたから、拾ってきた」と、言われていた。
彼らはそれぞれが好きに――とはいっても、心愛と明弘の二人がひたすら食べる中。陸は昼間に訪れた楊との会話を凪と拓海の二人に話していた。
「なぁ、オレ良く分かんねぇんだけど。陸が中華野郎をブチ切れさせたってことか?」
「で、その落とし前をどうつけるかって相談だな」
明弘の質問には拓海が頷く「ふぅん」と、明弘は気の抜けた返事だけだ。
「なら中華野郎と戦争か?」
「アッキーは、おバカで面白いね」
あっさりと言ってのける明弘を見て、たこ焼きを手に取った心愛がからかう。
「あいつらのシマを荒らしたなら、まぁ陸が悪いよな。スジを通すのは大切だ」
うんうん、と勝手に納得しているのは明弘だけであった。第三者としては正しい見解のそれは、あくまでも楊側の動機に同意したものだ。陸にとっては、責められているだけに過ぎない。続いて明弘は「でもよ」と続ける。
「陸の女が殺されたんだろ? なら、もう落とし前はついてねぇ?」
「あのなぁ……」
陸よりも先に耐えかねたらしい、拓海が明弘を咎めようとする。だが意外にも拓海の言葉を遮ったのは凪だった。
「でも明弘さん、馬鹿だけど間違ったことは言っていないよ」
考える時の癖なのか。凪は顎の下に指をあてて、トントンとリズムを刻むように叩いている。
「そう、楊さんはリナさんを死なせたことで、失点を犯した。これで立場はイーブン近くまでは持っていけた。でもまだ落とし前じゃない。例えるなら『悪いことをしてごめんなさい』って謝っただけだ。着地点としては、陸さんが詫びの品まで渡さなきゃいけないんだよ」
「今のままだと、コイツずっと中華野郎に付け狙われるんだろ?」
「そうだね、拓海さんの預かりが終わった途端に狙われるね」
「じゃあ陸さぁ、オマエ仕事やめたら?」
「明弘、お前何いってんだよ」
「で、中華野郎に『すんません俺、もう俺偽造の仕事は絶対にやりませんから。これでマジ勘弁して下さい』って謝っちまえば?」
「……悪くはない、提案として技術の放棄。いい線は突いてる」
凪の言葉におっ、と明弘の顔が輝く。気を良くしたのか、置いてあったチョコバナナを手に取り凪に突きつけるもそれは断られていた。
「きっと今回はその方法が効く。話を聞いた限り、楊さんは今回の件を早く終わらせたいみたいだし。でも代わりに、向こうは確実に再発防止と確約を求めてくるだろうね」
「サイハツボウシ、カクヤク?」
「つまり単に楊さんとこは、難癖を付けて何が何でもりっくんが欲しいだけ」
「ああいう組織は、口上が大切だからね」
明弘が心愛と凪の言葉を理解しているのかは定かでは無い。だが彼は手に持っていたチョコバナナを半分ほど食べて。「なんだ、やっぱ変態だな」と、口を動かしながら呟いていた。
先程から幼馴染が、何を言いたいのか陸には分からない。
押し寄せる選択の重さと変わらない状況に陸は焦っていた。そんな中、無神経に放たれる明弘の言葉は陸の苛立ちを増幅させるには充分過ぎた。
「なぁ、ナギ。お前頭いいんだろ、何とかならないのか?」
「もういいって、オレがやった事なんだから。オレが行けばいいだけなんだよ。それに明弘、お前には関係無いだろ。何でここにいるんだよ」
明弘を窘めるつもりの言葉は、自分が犠牲になる外無いという現状を陸に自覚させるだけのものとなる。打開策も何も無い。遅かれ早かれ、自分はあの男が率いる組織の元で働かされるだけなのだろう。それはまさに、楊が告げた言葉の通りだ。
下手に結論を先送りにする位ならば、今この場で拓海達には頭を下げたほうが楽だろう。きっと彼らに守ってもらったとしても、迷惑は掛かる。そして潘の元にも、自分は戻れない。居場所は全て失ってしまった。
陸の内心で、半ば自棄ともいう諦めが付きかけたその時だった。
「何かムカつくな……どうせなら派手に戦争したほうがよくね?」
その一言を吐いたのは、明弘だった。心愛だけが爆笑する中、拓海の淡々とした声が続いて耳に届く。
「やるなら、お前だけでやれよ。勝手に巻き込むな」
「なんだよオッサン、薄情だな!」
横柄な物言いで好き勝手喚く、半グレの幼馴染の声が鬱陶しい。もう少しで、陸の中に眠る感情の糸がプツリと切れそうだった。
潘から逃げて潜伏してしたネットカフェから飛び出し、今陸の前で笑う元傭兵の女性に拾われて以来。毎日陸へと襲い掛かり容赦なく踏みにじられ続けた、既存の価値観が迎えた限界でもあった。
「なぁ陸。俺は別にやりあうなら、死んでも構わないぞ」
拳を握り、痛みに気を逸らし、唇を噛み締めて耐えていた。だが今の無神経な一言で、とうとう陸の感情の糸は限界を迎えた。
「ふざけんなよ! 冗談でもそういう事を言うな!」
気付いたときには身体を起こし、陸は大声で叫んでいた。驚く明弘に向かって陸は手元にあったものを掴み、思い切り投げつけた。点滴のチューブが引っ張られ、ベッドが軋む。腕に刺さった針から痛みが伝ってくるも、構わず思い切りベッドの縁を殴りつけた。嵌め込まれた鉄柵が軋み、痛みが襲いかかる。だがそれすらも忌々しく、何度も殴りつける形で発散する。
「オレはお前にも死んで欲しくないんだよッ!」
「……まぁ、そりゃあそうなるよねぇ。今のはアッキーが100パー悪いわ」
幸いにも陸が明弘に投げつけたそれは、ポテトチップスの袋だった。明弘に当たる寸前で素早く反応して、受け止めてくれたのは心愛だった。
「だからと言って、食べ物を投げちゃいけないよ。食べ物を粗末にしたら折檻するよ」
堪らず痛みで|蹲《うずくま》ってしまった陸に向けて、心愛はそう言って冗談交じりで笑う。静まり返った病室内では陸の呻き声に重なり、最後に彼女が「ステイ、陸」と告げ、手に持った袋を勢い良く開ける乾いた音が鳴るだけだった。
「……誰も死ななくて、陸さんも比較的自由になる交渉なら。一つあるよ」
心愛がポテトチップスを食べる音以外は静まり返っていた病室内に、最初の言葉を落としたのは凪だった。彼は今しがた陸が叫んだ時も全く動かなかったが、その間もずっと考え事をしていたらしい。
最初に素早く反応したのは明弘だ。窓際に持たれ掛かっていた彼は「おっ」と顔を上げて、凪の言葉を待っている。先程怒鳴られた事に対しては、全く堪えていない様子だ。一呼吸あけて陸も顔を上げ、凪の方へと目を向けた。
「ただし、俺が交渉を受けるには。条件が二つある」
「なんです?」
「まず陸さんには、偽造の技術は破棄しないと約束して欲しい」
「もう一つは?」
「今後偽造の仕事をする時は、必ず俺達を通じてから受けるように。それ以外が発覚すれば、俺達は陸さんを楊さんに売りつける」
心愛がそこで「なるほどね」と、口を挟んで笑う。
「つまりスマイル専属偽造屋としてりっくんを囲う。いいねぇ、凪君」
「でもオレ、まだ見習いです。それに……」
「だからどうした? そこは、お前が潘を説得しろ」
陸が行おうとした反論は、拓海によって封じられた。
じわり、じわりと取り込まれるような。嫌な感覚が陸の背筋に走る。昼間に楊から聞いていた「彼らも君を囲いたい」という言葉を心愛の口から直接出た今、まさに形となって陸の前へと押し寄せていた。
結局のところ彼らも楊も皆同じで、自分を『金を生む道具』として見ているのだ。その現状が言葉となって伸し掛かり、吐き気を伴って陸へと襲い掛かる。
「つまり……オレはこの先、アンタ達の言いなりになるか。楊さんのところで、こき使われるかって事でしょう? 結局はみんな自分の利益のことしか考えてない。ならオレはどっちを選んだって変わらないじゃないですか!」
「うん、誰かの下に付くっていう|体《てい》は変わらないね」
声を震わせ精一杯行った陸の抵抗は、凪の一言で簡単に振りほどかれた。
「でも少なくとも、俺達は楊さん達のところより。ずっとずっと、君を上手に使ってみせる。拘束もしないし君の意見を尊重するし、報酬もきちんと渡す。やりがいのある仕事を沢山させてあげる」
陸の言葉は抵抗どころか、与えられた餌だとばかりに。こちらへと語りかける凪の声は楽しそうに弾んでいた。
「そうだね、その中には人を助ける内容もきっとある」と、肩を軽く叩かれる。
「勘違いしないでね、陸さん。君はこちらの世界で、それだけの大罪を犯したんだ。場合によっちゃ、誇張抜きで組織同士の戦争すら起こり得たクラスの大罪だ」
凪の弾む声とは対象的に、陸の心は重くなるのが分かった。
言葉の毒が自分を突き刺す度に、早く楽になりたいという思いが心の傷口からポロポロと溢れては落ちてゆく。陸の言葉が早坂やリナに見せてしまったものを、自分が今まさに凪へと求めている事に気付いた瞬間でもあった。
「大罪を犯したにも関わらず、今だって仕える主を能動的に選べるんだ。君は本当、幸せな犬なんだよ」
凪が馬鹿にしたように告げる「犬」という言葉は、まさに今の自分にはぴったりだなと思って陸は項垂れる。陸の瞳が映すものは、強く握り込んだ両の拳と皺だらけの白い掛け布団だけだ。陸の頭の中ではぐるぐると、ネットミームで蔓延っている大型犬のミューを模したAI音声の「ボクはわるくない!」という耳障りな音が響き渡っていた。
「今までもこれからも、陸さんの人生を決めるのは陸さんだ。楊さんでも俺達でも、明弘さんでもない」
凪も楊も、同じ言葉を陸へと告げる。
陸が自らの意思で選択をしたという、ハッキリとした自覚を促す言葉だ。それは決して自分が選択した行動を後々、他責思考に陥れないための優しさと厳しさを兼ね備えるものだった。
「陸さん、前に俺が尋ねた『マイナスサムゲーム』ってあったでしょ? あれとは違って、今回は『ゼロサムゲーム』だ。陸さんは盤面に乗る前から負けていた。だけど上手に最小限の負け方を選ぶ事も大切なんだよ」
「負け方、ですか……」
「うん」
勝敗、善悪、表裏。
これら二極の世界に果たして「上手い負け方」というものは、存在しているのだろうか?まだ何も分からない陸に対して、小難しい理論をつらつらと話し掛ける凪の言葉に陸は戸惑う。
「麻雀と一緒だろ、陸」
俯き黙り込んでしまった陸に、話し掛けたのは明弘だった。
「つまり1位ラス親がリーして牽制が分かってたら、最下位のオマエはテンパってても崩して流しか他家の振り込み狙いってやつだろ? そしたらその本場は誰かのツモ上がり以外、最大マイナス3000で済む。無理に安手で上がっても点差があるなら、跳ね以上は勝てねぇし」
「……え、アッキーそれ何語?」
「お前馬鹿なのに、麻雀は打つんだな」
「おう。オッサン、今度打とうぜ」
心愛と同じく麻雀をしない陸にとっては、明弘が一体何を言っているのかは一片たりとも想像が出来なかった。それでも『上手く最小限の負け方を選ぶ』という意味は、幼馴染が語りかけてくれた言葉から何となくは分かった気がする。
「凪さん」
「なに?」
盛り上がる3人をよそ目に、陸は隣に腰掛けている凪の名を読んだ。静かに返す彼の声の後で、シーツをきつく握り込む。
「その交渉って。誰にも嘘ついたり、騙したりしませんよね?」
「しないよ」
「オレの知らない人が、死んだりもナシですよ?」
「へぇ、本当に優しいね」
「はぐらかさないで下さい」
今度はハッキリと凪の顔を見て、陸は力強く告げる。
己の意思で身の振り、つまりは負けを決める。自分の行動で犠牲が出たのならば、自分が落とし前を付けなければならない。だけども流されるままでは無く、自分の意思で決定する重みを受け止める覚悟がいる。
「凪さん」
「なに?」
「オレ、アンタの事……嫌いです」
陸が絞り出した言葉と睨み付けた視線は、「そう」と軽く流されてゆく。それどころか凪は、陸がぶつけた言葉に対して目を細めて柔らかい笑みを浮かべた。
「死なないよ、誰も。約束する」
陸の覚悟に応じてなのか、凪はそう言って口端を上げる。見定める様に、彼の顔から目を逸らすこと無く見つめ続けていると、凪は一度大きく頷いた。
ゆっくりと瞼を閉じ陸はもう一度、強くシーツを握り込んだ後で深呼吸を行った。病室の濁った空気を傷まない程度で深く吸い込み、ゆっくりと吐いてゆく。
そして「よろしくお願いします」と。目の前に座る青年に向かって、深く深く頭を下げた。
「ナギもケチだよな。いい方法があるなら最初っから、そう言っておけよな」
心愛と並んで、菓子を仲良く食べながらぼやく明弘の言葉は誰も返すことは無かった。