3章1話「ブレイクアウト」
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3章1話「ブレイクアウト」
(3-1)
あの日も確か、うんざりするほど暑かった。
陸が初めてリナに出会ったのは、陸が受け持った保証人書類の改ざん後。依頼主であったリナがどうしても礼を伝えたいからと、待ち合わせ場所である某所のコミュニティへと向かった時だ。
左右を鉄道の高架に挟まれた大きな雑居ビルの裏手を通り、先の細い路地の中に目当てのスナックがあった。半分埃とツタで覆われ見えない窓の、営業しているかも分からない店だ。中も狭く埃が舞い、昼間なのに店内は薄暗い。
店内には二人の人間がいた。一人は保証人となるママで大柄の中年女性、そして店の端にあるカウンターに俯いて座っていたのが、リナだった。
すぐ脇を通る高架から鳴り響く、電車の音がうるさい。何度も遮られながら、陸は最初の仕事として作った書類は怪しまれなかったかなどの確認を行った。最初は長い黒髪で視界を覆い、明らかに陸に対しては怯えを見せていたが。無事審査に取ったと確認を終え、ようやく安心が訪れた。
彼女はまだ拙い日本語で礼を述べた後。
「ごめんなさい、造ってくれた人、あなた。すこし、若いの。おっきい、びっくりして、きんちょしました。だいじょうぶ、でしたねすごいです」
手を胸の前で重ね、頭を下げたあとに浮かべた彼女の微笑みは――陸の心を掴むには、充分過ぎるものだった。
◇ ◇ ◇
店に入った時からずっと、耳障りな音楽が鳴り響いている。VIPルームへと通される前には既に、爆音が陸の鼓膜と空っぽの頭を激しく揺さぶっていた。ラウンジの灯りもレーザー照明の煌めきに加え、赤紫色に光っていて目の奥が痛い。
今いるコリアンラウンジのボラセク、という名前は韓国語で「紫色」という意味らしい。そんな話を凪がしてくれた。
店の奥にある中二階のVIPルーム、その部屋を囲う高級なソファーに陸は座っていた。
爆音は隔てられ、今では部屋の会話が聞こえる程にまでは落ち着いている。
「拓さん、何でここを会場にしちゃったのさ」
「僕と岸の二人で決めたんだよ」
離れた席でぽつりと座り、拗ねた風に言い放ったのは心愛だ。彼女への返事は、陸の隣に座った楊が行った。楊は陸達がここに案内された後、間もなく訪れた。
隣に腰掛けてすぐ「やぁ、久し振りだね陸」とにこやかに陸へと笑い掛けてくれたが、陸は何も返せなかった。楊は最初の挨拶以降は何も言わず、今は頼んだ高い酒を店のキャストに注がせている。すぐ傍には陳が静かに控えて立っていた。
楊に続き酒を注いで貰いながら、拓海の方も心愛に向かって「そういう事だ」と告げた。
「だからなんで、って理由を聞いてんの」
「第三者を立ち会わせるのは、取引としては健全でフェアだからね」
「今回の件が無関係かつ、万が一が起きた時にナシつけやすい奴って他にいるか?」
「でも、馬場とかさぁ……」
「会いたかったぞ! 中村ァ!」
心愛がぼやいた直後、勢い良くVIPルームの扉が開いて爆音が部屋の中に鳴り響く。
大声と共に大股で部屋に入ってきたのは、大柄な男だった。器用に酒瓶と皿を片手に持って、掲げている。年齢は多分30半ばだろうか、シャツの上からでも分かる鍛えられた筋肉と刈り上げた髪。巨漢ながら豪快に笑う様子は、前もって拓海から聞かされていた武闘派という感じだ。
「やぁ、馬場」
手を上げて挨拶する楊と拓海を一瞥だけすると、男は陸達から少し離れた場所に座っていた心愛の隣にどかりと腰掛けた。外の音楽に負けない程の声量で彼女に呼びかける。
「まぁ飲め中村! マッコリだ!」
心愛が無言でグラスを差し出すと、白濁の酒が注がれた。
「さぁ食え中村! ホットクだ!」
今度はホットケーキのようなものを差し出され、心愛は無言で皿を引ったくって食べる。彼女の顔は、不機嫌さを露わにしていた。
「美味いか? 美味いだろう? オッパが中村のために、愛情と丹精を込めて作ったんだぞ!」
皿に乗ったホットクなるものを食べる合間に「うっざ……」と言ってのけた心愛の侮蔑は、こちらにまで届くものだった。
「……ひょっとして、馬場は中村の事が好きなのかい?」
「以前ココがアイツを叩きのめして以来、ああだな」
「ココさん、恋愛には一切興味が無いって言ってるのにね」
「でも、韓半島の脳筋三代目にはお似合いじゃないか」
「聞こえてるぞ、クソメガネ」
馬場がこちらを向かず言い放った様に対して、楊は「ごめん、でも本心だよ」と笑って告げる。拓海は眉を顰め黙って酒に口を付けるが、対する馬場は「おい、聞いたか中村。俺らお似合いだってよ。楊公認だぜ」と心愛へと借りかけて、見事に無視をされていた。
「陸は、落ち着いたかい?」
「……はい」
「うん、なら良かった」
微笑む楊の顔をちらりと見た後で、陸は視線を膝下へと降ろした。手には烏龍茶が入ったグラスが握られている。
「オレが焦ったり取り乱している限り、リナには会わせてくれない。そう岸さんから教わりました」
声を紡ぐ度、僅かに震え水面が小刻みに波打つ。陸は歪む自分の顔を眺めながら、なるべく言葉を選んでゆく。
「彼女は“別件”の証人として、アンタ側で客人として保護してるって。だから、オレがその客人に会わせるに相応しい状態か見なきゃいけないって」
「宜しい」
楊にとっては好ましい返答だったようで、彼は深く頷くとスマートフォンを取り出す。簡単な中国語ならば陸も分かる。楊は約束通り『彼女をここへ』と告げていた。
「いいかい、陸。きっと今は納得出来ないだろうけど。何事にも理由と体裁は存在している」
「それは……アンタみたいな、すげぇ人達の話でしょ。オレには関係無いです」
「今は余裕が無いかな? じゃあいずれ時間が出来た時にでも、この話は取っておくよ」
グラスを一際強く握り、陸は無言を返事とする。
全てが悪趣味に思えるこの場において、陸は自分の感情を抑えることで精一杯だった。情報屋の3人の前で、気持ちを全て吐露した時から何一つ変わらない。
あれから拓海は楊に連絡を取り、翌日にリナと会う約束を取り付けた。
公平を期すため、場所は第三者の提供する場所。つまり今陸達がいる、ボラセクという韓国系の人間が経営しているコリアンラウンジで、閉店後の深夜と決まった。
陸にとって国はおろか、様々な組織の関係などどうでもいい。ただ『リナに逢いたい』という思いだけで、今は必死になって理性へと縋り付いているようなものだ。
「――陸、君が待ち焦がれていたお姫様だよ」
無限にも思えるほどの長く感じた時間は、終わりを迎えた。楊から注がれた言葉を聞いて、陸は弾かれるように席を立つ。
ガラスを隔てて階下に見えたのは、こちらへと向かってやってくるスーツ姿の男性二人。その間に挟まれる形で、俯き歩く女性の姿だった。
俯いているので顔は見えないが、陸にはそれがリナだと分かる。近付く彼女の姿を目で追っていたが、それは真下で途切れた。
VIPルームに繋がる階段に到着し、こちらへと上がってくるまでの間が永遠にも思える。凝視する防音扉がゆっくりと動き、隔てた世界の音楽が一際大きくなる。同時に、扉の向こうから現れたリナの姿を捉え、陸の胸も激しく高鳴った。
「――!」
彼女の名を叫び、陸は扉へと駆け出していた。
呼んだ恋人の名は音楽に邪魔をされ、自分の耳にすら届かない。だが彼女には届いたようで、ゆっくりとこちらを見る様子が分かった。
ずっと会いたかったリナの顔は、少しやつれた気もする。だが陸には関係無い。自分を見る彼女の茶色い目が憎しみに染まり、名を優しく囁いてくれた唇から「許さない、殺してやる」と酷い侮蔑の文句が出た今も、自分にとっては彼女の全てが愛おしく思えた。
陸は胸に飛び込んできた小柄な恋人を精一杯の力で抱き締めようと、腕を広げたつもりだった。そこでようやく、腹の痛みと共に回る景色に気が付くのであった。
冷たく硬い感触が腹に生えた。続いて訪れたのは、燃えるような熱さと痛み。
背中に回そうと思っていた腕は回らなかったので、代わりに自分の腹を触る。ぬめった感触と光に反射する液体が、広げた掌にべっとりと付いていた。照明が赤紫なので、手に付いた黒いそれは何かが良く判らない。
もう一度陸は意識して、しっかりと恋人の名前を告げてみる。だが名前は喉を出た途端、間抜けな呻きへと成り果てていた。
糸が切れた様に、陸の身体は後ろへと引っ張られる。背中からテーブルを巻き込んで倒れ、床へとぶつかる衝撃が訪れる。最初に鼓膜を突き刺したのは、酒を注いでいたキャストの悲鳴だった。韓国語で何かを喚いているが、陸には解らない。続いて楊が短く自分の名を叫んだのは分かった。他の声は聞こえ無い。
スローモーションのように映る、目前の景色が不思議でたまらなかった。
遠のく意識を必死に繋ぎ止め、陸は必死に視界の中を探す。コマ送りのような世界で、恋人の姿を探し当てた陸の耳に届いたのは男の声だった。
「那样可死不了」
それは楊の隣に静かに佇んでいた陳の、低く小さな声だ。やっと陸の視界がリナを捉えたのは、彼女が手に持っていた大ぶりのナイフを陳が取り上げた瞬間であった。
「要这样才行,小姑娘」
男の手に収まったナイフが躊躇無く、リナの体中へと飲み込まれる。そして彼女の身体が小刻みに震えた。
続いて陸の身体に軽い衝撃が伝わった。自分に折り重なり近付いたリナの目を見て、陸は謝罪と愛の言葉を口にする。ずっと会いたくて抱き締めたかったのに、それが叶わない今は口を動かし続けるだけだ。
やがて涙をこぼす彼女の顔と共に、陸の視界も歪み始める。
手を伸ばしたいのに、目前の恋人には届かない。
もう一度悲鳴と、グラスの割れる音が真横で聞こえた。赤紫の光が目に刺さり、韓国語のうるさいポップな音楽は鼓膜に焼き付けられ、何度も何度も陸の頭の中では――倒れるリナの姿と共に繰り返し流れ続けていた。
◇ ◇ ◇
それはまだ、明弘が工房に住んでいる時の年末。
潘は会合に出向き、陸は彼と二人で年末の深夜に放送されている映画を観ていた。
画面に映し出されたのは燃える街。そして映像は引いてゆき、瓦礫の上で佇む少女の姿へと焦点を合わせる。少女は遥か向こうの燃える街の上空で怪獣同士が戦う姿を睨んでいた。
「オレやっぱ分かんねぇな」
地球を襲う怪獣と、それを阻止する怪獣同士が戦う内容の映画のワンシーンだ。随分と小さな頃に観たこの映画を眺めている明弘は、スナック菓子を食べながら呟く。
コタツの向かいに座っている陸が「何が?」と尋ねると、彼は染めたての髪を掻きながら答えてくれた。
「怪獣同士の争いに巻き込まれて両親が殺されたって、コイツ怪獣恨むじゃん」
「うん」
「それで地球を壊そうとする悪の怪獣に力貸すのって、意味分かんねぇんだよな」
「復讐だろ?」
「フツーのドラマなら分かるんだけどよ。これ怪獣だぜ? しかもいいヤツ倒しちまったら、地球が壊れちまうんだぞ?」
「確かにそうだよな……」
「なんか『台風に親を殺されたから、台風を絶対に許さない』って言ってる感じだよな。しかもコイツ、悪い怪獣に力貸して自滅するしこの後」
そう言って、明弘は欠伸をする。続いて答えあぐねている陸に向かって「陸、空中バトルが始まったら起こしてくれ」と言うと、そのまま床にごろりと寝転がった。直ぐ様寝息を立てる明弘をしばらく眺めていた後、陸は再び画面へと目を向ける。
テレビの中では怪獣同士の対決シーンが終わり、怪獣への復讐を誓った少女が弱い心の隙をつかれて悪の怪獣に取り込まれる場面が流れていた。
◇ ◇ ◇
「何でオレ、生きてるんですか?」
「運が良かったからだろう」
陸の問いに答えた拓海は、そう言って普段よりも薄い霞を宙へと撒く。
「何でリナは、殺されたんですか……」
「恨む相手を間違えたからだろうな」
拓海はもう一度、今度は先程よりも勢い良く吸って吐く。やはり彼の口から出た電子タバコの霞は薄い。病室内に僅かに漂う甘ったるい林檎の香りに、陸は思わず顔を顰めていた。
陸が目覚めたのは、病院の白いベッドの上だった。
目が覚めた一度目はわけが分からず錯乱状態に陥っていたのだが、様子を見に来た馬場に殴られて再び意識を失ったらしい。今陸のベッド脇にいるのは、拓海と凪の二人であった。
傷の程度は拓海に聞いた通り、本当に運良く一命を取り留めたらしい。陸の意識が回復したのは、リナからの凶刃を受けて3日後だった。
二度目の目覚めを経た今は、腹部の痛みと意識を失う直前に起きた出来事を思い返す。今は何の感情も湧き上がらず、ただ失望感のみが募るばかりだ。
「なんでアイツらは、直接オレを襲わなかったんですか?」
「俺達が中立だからだよ」
ベッド脇に座る拓海が静かに答えた。続いて「前に尋ねた質問の答えを教えてやるよ」と彼は足を組み替え、陸の目を静かに見据える。
「俺ら3人は『殺し・人身売買・クスリは絶対に扱わない』『最初に情報を売った客以外には決して売らない』これを徹底しているから、中立を保てている。誰にとっても便利で、どこかに傾いたら即潰す。そんな位置にいる情報屋が俺達だ」
彼が座るパイプ椅子が、ギチと小さく軋んだ。
「お前が俺の預かりになってるから、楊は無理矢理には攫わないし襲わない。だが中立の庇護の下にいるお前が勝手にフラフラと、彼女にそそのかされて出ていくとすれば話は別だ。だから丁度いいとばかりに本国の連中達は、お前をたらしこむ材料として彼女を生かして入国させたんだろうな」
「陸さんが大人しくリナさんと一緒いたい、家族を殺してしまった罪を償いたい。そう言って楊さんの元に行ったら、楊さんは君を一生タダで従順に働かせられるからね。安い買い物だと思うよ」
隣にいる凪が、拓海の言葉を補填するように話す。
「リナは、ナイフを持ってました。オレを殺す気でした」
自分を憎しみに満ちた目で見上げ「許さない、殺してやる」と彼女が告げたのは、聞き間違いなどでは無い。それは今でも、ハッキリと陸の耳にこびりついていた。
「彼女がお前に憎しみを抱いていたのは、楊も勿論分かってただろうよ。だから彼女が幾ら素直で従順だったとしても、お前と会わせる前に目を離すわけが無い。第一、最初からお前を襲わせる気なら馬場なんて噛ませねぇよ」
「リナさんはナイフを渡されたんだよ」
答えは凪の方から、静かに告げられた。今の時間は分からない。病室に掛けられたカーテンの隙間から見えるのは、反射して映るベッドの一部だけだった。
「VIPルームにいた俺ら側から見えない位置――階段を登る直前だね。これは店舗の防犯カメラの死角だったんだけど、念の為控えていたマネージャーの服に仕掛けさせてもらったカメラから、辛うじて彼女にナイフを手渡す様子が確認できた」
「楊のところは、本家が大陸の組織だ。表には出ないだろうが、楊を蹴落としたい奴だっている。特に今回は別の国絡みだから、隙を突かれたんだろうな」
「……どういう、ことですか」
「今回の仕掛けは簡単で、勝率が良かったんだよ。お前に会う直前、誰かが彼女にそっと耳打ちと刃物を渡してやるだけの、コスパのいいお仕事だ」
こともなげに拓海は告げる。陸との話の合間に持っていた電子タバコを凪へと渡し、新しい一本を受け取っていた。ビニールテープでびっしりと封をされているパッケージを空けながら、拓海は陸へと説明を続けた。
「すると自分達の手を煩わせるまでも無く、中立の情報屋が預かっていた対象は恨みが募った彼女に刺されて死んでしまう。情報屋は楊の裏切りと判断して取引関係から手を引き、場所を提供した馬場の面も汚す事となる。さらには第三者のアイツから、楊が裏切ったとの証言までも得られるオマケ付きだ。結果、見事に楊の信用失墜。という嫌がらせが完了するってわけだ」
「要はあの場にいた全員が、楊さんを蹴落としたいどこかの野心家に嵌められたって事」
「そんな……」
「だが楊は冷静だった。将来金を運ぶかもしれないお前の方を守り、そそのかしたバカも始末した。ビジネスとしては正しい判断だな」
「馬場さんとこの息が掛かった病院をすぐ手配するように指示したのも、楊さんだったしね」
「あの時の馬場のツラ、傑作だったな」
「だね、嬉しそうに楊さんを煽ってたよね」
凪と言い合いながらもやっと封を剥がし終え、拓海は新品の電子タバコを口に咥える。
「2日前――お前がブッ刺されてうなされている間な。どこかのゴミ捨て場で、中国系の男が刺殺体として発見されたとさ。ちなみにそいつは、彼女の隣に立っていた二人のうち一人だ」
彼が息を吸うと、先端が青い色で小さく光った。
「あの時どさくさに紛れて、逃げたみたい。楊さんが咄嗟に判断を下さなかったら、多分逃げ切られた。そしたら俺達も楊さんから嫌疑をかけられただろうね」
「楊はああ見えて約束事には厳しい、身内にも同様で徹底している。だからお前は生き延びて、ゴミ捨て場でどっかのバカが無様に死んだ。それで話はおしまいだ」
「……じゃあリナは」
陸が告げようとした声は、拓海の大きな息によって遮られた。
新品の電子タバコから吐き出された霞は今までで一番大きく、そして濃かった。だが所詮は蒸気とばかりに、天井へと上る前に霧散してゆく。
「バカにそそのかされなきゃ……少なくとも、あの場所で殺されることはなかったろうなぁ」
残った言葉の余韻と、更に甘ったるいチョコレートの香りが病室内に静かに漂う。それが目に染みるわけでもないのに、陸の目からは痛みと共に滲み出た涙が次々と溢れ続けた。
「泣くだけ泣いて、少しは落ち着いた?」
溢れ落ちた涙が引くまで、随分な時間が必要だった。凪に声を掛けられた後で、拓海の姿が消えている事に気付く。
陸が尋ねる前に、我慢出来ないから煙草を吸うと出て行った。と凪は答え「幾ら言ってもあの人、禁煙してくれないんだよ」と、苦笑を浮かべる。
二人だけの病室には、甘ったるい匂いが未だ漂っていた。
「――さっきの続き、話してもいいかな?」
大体の事は二度目の意識が回復した少し前に、二人からは聞いていた。先に陸の感情が溢れた出来事以外にも、何か進展があったのか。泣き腫らした顔を静かに上げて凪の方を見る。椅子に座ってタブレットを眺めていたらしい彼は、それを鞄に直した後で陸へと向き直った。
「今回の出来事で、君は心を痛めてるけど。君は生き残った。いい勉強になって、さらに生き伸びて、良かったんじゃない?」
気付いた時には陸の手の中には、引っ掴んだシャツの感触があった。倒れるパイプ椅子の音の後で、鼻先が触れそうな位置にまで近付いた凪の顔がある。遅れて訪れた激痛で、陸の声からでたのは呻きだけだ。
余りの激痛にシーツを掻き毟り、何度も腕をベッドへと叩きつける。その度腕に繋がれた点滴のチューブが揺れる。抗議するかのように、ベッドが軋みを上げた。「無理しちゃ駄目だよ」降ってくる静かな声は、陸の手から逃れた凪のものだ。
「お前は、人の心が理解出来ないクソ野郎だ……」
「そうだね、陸さんの言う通りだ。こんなこと表立って言えることじゃない。でも酷かろうが罵られようが知らないよ。俺は君から何と言われても、どうでもいいから」
「リナは死にました」
「死んだね、陳さんが刺した」
罵倒ですら冷たく受け流す青年は、倒れた椅子を起こした。陸が動いて傾いた点滴の様子を確認して、異常が無いと確認したのか再び腰掛ける。
「もしかしたら――君が彼女に会うと言わなければ、彼女は生き延びたかもしれない」
静かに淡々と事実を述べる青年の口から出た仮定の話に、陸は強く両目をつむる。
「でも彼女は死んだ。これが"結果"と"事実"。『生きてたかも』は所詮、経過論だ」
「凪さん」
「何?」
「オレ、あの時。気を失うまでずっと、リナを見てました。リナの身体ね……沢山傷があったんです」
「そう」
短い返事の後で、溜息のような細い息が聞こえた。
「見せしめの生き残りってそういうものだよ。恐怖を伝播させる役割で生かされる」
「酷いっすよね、何もしてないんですよ。彼女……」
「何もしてない、ねぇ」
ゆっくりと瞼を空けて、陸は痛みで滲む視界に凪を捉える。すると視界が一瞬白く染まった。電子タバコの蒸気を吹き掛けられたのだと気付いたのは、再び強くなった甘いチョコレートの香りと凪の指に挟まった黒いスティックを捉えたからだ。
「ねぇ、陸さん」
「なんですか」
「君は偽を造る人間だ。だからこそ真贋には勿論、長けているよね」
凪は背を曲げ、陸が横たわるベッドに頬杖を付いた。下から陸の顔を見上げる、切れ長の目は揺らぐこと無く真っ直ぐと向けられている。
頬杖とは反対の指先で摘んでいた電子タバコを陸の口元と当てた彼は「吸ってみて」と言った。従ってみると甘い味がして、吐くと湯気が小さく口から出る。
「これは蒸気、ニコチンもタールも入っていない。グリセリンが蒸気を発生させて、煙みたいに出る」
口元から離れてゆき、凪の指先に収まっている黒いスティックを陸は眺めた。
「禁煙したい人はこれを本物だと思い込んで、体内の中毒性を薄めていく。当然ニコチンは入っていない。だって偽物だもの。そしてニコチン中毒は重い煙を求めて、これを吐く。でも口から出るのはただの蒸気だ」
「……さっきから、アンタ。何が言いたいんですか?」
「あろうことか真贋に長けている君が、必死に恋人を高潔な存在と信じ込もうとする姿が余りにもコイツと似てると思ったから言っただけだよ」
凪は口端を上げて、静かに笑みを浮かべる。そして軽やかに黒いスティックをくるくると回した後で、自分の唇へと挟み込んだ。
「残念だけど、誰も君に見たいものを見せる言葉は持ち合わせていない」
凪が切れ長の目を細めたのに気付いた陸は、その瞳をじっと覗き込んだ。彼がこれから自分へと向ける言葉の毒を甘んじて受けなければならないのは、心の何処かで既に悟っていた。
「いい加減、目を覚ませ潘 陸。ここは君が憧れる、ドラマの世界じゃない」
そして思い切り息を吸うと、彼はありったけの蒸気を吐いて陸の顔へと浴びせかけた。
「君は現実から目を逸らし続けて、勝手に大好きな正義を彼女に押し付けたいと望んだ。その結果が今だ」
きっと多分。今の自分は、凪から言葉の刃で傷付けられるのを望んでいたのだろう。
「お前の大好きな正義が彼女を殺した。幸せな思い出で埋め尽くして、現実逃避をしたっていいさ。でもせめてお前が犯した、たった一つの真実だけは胸に深く刻んでおけよ。でなきゃ彼女が報われない。お前の心一つ傷付けずに死んだら、あの子は本当にただの無駄死に成り果てるんだよ」
愚かな陸に真実を告げた青年は、そのまま手に持った黒いスティックでトン、と胸を突いた。崖から突き落とされるような衝撃が訪れる。
それは例えるならば、宵闇の海だった。
波音だけが聞こえる宵闇の海に全てが飲まれ、泡となるような安堵を陸は覚えて。深く深く意識の底へと沈んでいった。
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「でも、馬場とかさぁ……」
「会いたかったぞ! 中村ァ!」
心愛がぼやいた直後、勢い良くVIPルームの扉が開いて爆音が部屋の中に鳴り響く。
大声と共に大股で部屋に入ってきたのは、大柄な男だった。器用に酒瓶と皿を片手に持って、掲げている。年齢は多分30半ばだろうか、シャツの上からでも分かる鍛えられた筋肉と刈り上げた髪。巨漢ながら豪快に笑う様子は、前もって拓海から聞かされていた武闘派という感じだ。
「やぁ、馬場」
手を上げて挨拶する楊と拓海を一瞥だけすると、男は陸達から少し離れた場所に座っていた心愛の隣にどかりと腰掛けた。外の音楽に負けない程の声量で彼女に呼びかける。
「まぁ飲め中村! マッコリだ!」
心愛が無言でグラスを差し出すと、白濁の酒が注がれた。
「さぁ食え中村! ホットクだ!」
今度はホットケーキのようなものを差し出され、心愛は無言で皿を引ったくって食べる。彼女の顔は、不機嫌さを露わにしていた。
「美味いか? 美味いだろう? |オッパ《お兄ちゃん》が中村のために、愛情と丹精を込めて作ったんだぞ!」
皿に乗ったホットクなるものを食べる合間に「うっざ……」と言ってのけた心愛の侮蔑は、こちらにまで届くものだった。
「……ひょっとして、馬場は中村の事が好きなのかい?」
「以前ココがアイツを叩きのめして以来、ああだな」
「ココさん、恋愛には一切興味が無いって言ってるのにね」
「でも、韓半島の脳筋三代目にはお似合いじゃないか」
「聞こえてるぞ、クソメガネ」
馬場がこちらを向かず言い放った様に対して、楊は「ごめん、でも本心だよ」と笑って告げる。拓海は眉を顰め黙って酒に口を付けるが、対する馬場は「おい、聞いたか中村。俺らお似合いだってよ。楊公認だぜ」と心愛へと借りかけて、見事に無視をされていた。
「陸は、落ち着いたかい?」
「……はい」
「うん、なら良かった」
微笑む楊の顔をちらりと見た後で、陸は視線を膝下へと降ろした。手には烏龍茶が入ったグラスが握られている。
「オレが焦ったり取り乱している限り、リナには会わせてくれない。そう岸さんから教わりました」
声を紡ぐ度、僅かに震え水面が小刻みに波打つ。陸は歪む自分の顔を眺めながら、なるべく言葉を選んでゆく。
「彼女は“別件”の証人として、アンタ側で客人として保護してるって。だから、オレがその客人に会わせるに相応しい状態か見なきゃいけないって」
「宜しい」
楊にとっては好ましい返答だったようで、彼は深く頷くとスマートフォンを取り出す。簡単な中国語ならば陸も分かる。楊は約束通り『彼女をここへ』と告げていた。
「いいかい、陸。きっと今は納得出来ないだろうけど。何事にも理由と体裁は存在している」
「それは……アンタみたいな、すげぇ人達の話でしょ。オレには関係無いです」
「今は余裕が無いかな? じゃあいずれ時間が出来た時にでも、この話は取っておくよ」
グラスを一際強く握り、陸は無言を返事とする。
全てが悪趣味に思えるこの場において、陸は自分の感情を抑えることで精一杯だった。情報屋の3人の前で、気持ちを全て吐露した時から何一つ変わらない。
あれから拓海は楊に連絡を取り、翌日にリナと会う約束を取り付けた。
公平を期すため、場所は第三者の提供する場所。つまり今陸達がいる、ボラセクという韓国系の人間が経営しているコリアンラウンジで、閉店後の深夜と決まった。
陸にとって国はおろか、様々な組織の関係などどうでもいい。ただ『リナに逢いたい』という思いだけで、今は必死になって理性へと縋り付いているようなものだ。
「――陸、君が待ち焦がれていたお姫様だよ」
無限にも思えるほどの長く感じた時間は、終わりを迎えた。楊から注がれた言葉を聞いて、陸は弾かれるように席を立つ。
ガラスを隔てて階下に見えたのは、こちらへと向かってやってくるスーツ姿の男性二人。その間に挟まれる形で、俯き歩く女性の姿だった。
俯いているので顔は見えないが、陸にはそれがリナだと分かる。近付く彼女の姿を目で追っていたが、それは真下で途切れた。
VIPルームに繋がる階段に到着し、こちらへと上がってくるまでの間が永遠にも思える。凝視する防音扉がゆっくりと動き、隔てた世界の音楽が一際大きくなる。同時に、扉の向こうから現れたリナの姿を捉え、陸の胸も激しく高鳴った。
「――!」
彼女の名を叫び、陸は扉へと駆け出していた。
呼んだ恋人の名は音楽に邪魔をされ、自分の耳にすら届かない。だが彼女には届いたようで、ゆっくりとこちらを見る様子が分かった。
ずっと会いたかったリナの顔は、少しやつれた気もする。だが陸には関係無い。自分を見る彼女の茶色い目が憎しみに染まり、名を優しく囁いてくれた唇から「許さない、殺してやる」と酷い侮蔑の文句が出た今も、自分にとっては彼女の全てが愛おしく思えた。
陸は胸に飛び込んできた小柄な恋人を精一杯の力で抱き締めようと、腕を広げたつもりだった。そこでようやく、腹の痛みと共に回る景色に気が付くのであった。
冷たく硬い感触が腹に生えた。続いて訪れたのは、燃えるような熱さと痛み。
背中に回そうと思っていた腕は回らなかったので、代わりに自分の腹を触る。ぬめった感触と光に反射する液体が、広げた掌にべっとりと付いていた。照明が赤紫なので、手に付いた黒いそれは何かが良く判らない。
もう一度陸は意識して、しっかりと恋人の名前を告げてみる。だが名前は喉を出た途端、間抜けな呻きへと成り果てていた。
糸が切れた様に、陸の身体は後ろへと引っ張られる。背中からテーブルを巻き込んで倒れ、床へとぶつかる衝撃が訪れる。最初に鼓膜を突き刺したのは、酒を注いでいたキャストの悲鳴だった。韓国語で何かを喚いているが、陸には解らない。続いて楊が短く自分の名を叫んだのは分かった。他の声は聞こえ無い。
スローモーションのように映る、目前の景色が不思議でたまらなかった。
遠のく意識を必死に繋ぎ止め、陸は必死に視界の中を探す。コマ送りのような世界で、恋人の姿を探し当てた陸の耳に届いたのは男の声だった。
「|那样可死不了《それじゃあ死なない》」
それは楊の隣に静かに佇んでいた陳の、低く小さな声だ。やっと陸の視界がリナを捉えたのは、彼女が手に持っていた大ぶりのナイフを陳が取り上げた瞬間であった。
「|要这样才行,小姑娘《こうするんだよ、お嬢さん》」
男の手に収まったナイフが躊躇無く、リナの体中へと飲み込まれる。そして彼女の身体が小刻みに震えた。
続いて陸の身体に軽い衝撃が伝わった。自分に折り重なり近付いたリナの目を見て、陸は謝罪と愛の言葉を口にする。ずっと会いたくて抱き締めたかったのに、それが叶わない今は口を動かし続けるだけだ。
やがて涙をこぼす彼女の顔と共に、陸の視界も歪み始める。
手を伸ばしたいのに、目前の恋人には届かない。
もう一度悲鳴と、グラスの割れる音が真横で聞こえた。赤紫の光が目に刺さり、韓国語のうるさいポップな音楽は鼓膜に焼き付けられ、何度も何度も陸の頭の中では――倒れるリナの姿と共に繰り返し流れ続けていた。
◇ ◇ ◇
それはまだ、明弘が工房に住んでいる時の年末。
潘は会合に出向き、陸は彼と二人で年末の深夜に放送されている映画を観ていた。
画面に映し出されたのは燃える街。そして映像は引いてゆき、瓦礫の上で佇む少女の姿へと焦点を合わせる。少女は遥か向こうの燃える街の上空で怪獣同士が戦う姿を睨んでいた。
「オレやっぱ分かんねぇな」
地球を襲う怪獣と、それを阻止する怪獣同士が戦う内容の映画のワンシーンだ。随分と小さな頃に観たこの映画を眺めている明弘は、スナック菓子を食べながら呟く。
コタツの向かいに座っている陸が「何が?」と尋ねると、彼は染めたての髪を掻きながら答えてくれた。
「怪獣同士の争いに巻き込まれて両親が殺されたって、コイツ怪獣恨むじゃん」
「うん」
「それで地球を壊そうとする悪の怪獣に力貸すのって、意味分かんねぇんだよな」
「復讐だろ?」
「フツーのドラマなら分かるんだけどよ。これ怪獣だぜ? しかもいいヤツ倒しちまったら、地球が壊れちまうんだぞ?」
「確かにそうだよな……」
「なんか『台風に親を殺されたから、台風を絶対に許さない』って言ってる感じだよな。しかもコイツ、悪い怪獣に力貸して自滅するしこの後」
そう言って、明弘は欠伸をする。続いて答えあぐねている陸に向かって「陸、空中バトルが始まったら起こしてくれ」と言うと、そのまま床にごろりと寝転がった。直ぐ様寝息を立てる明弘をしばらく眺めていた後、陸は再び画面へと目を向ける。
テレビの中では怪獣同士の対決シーンが終わり、怪獣への復讐を誓った少女が弱い心の隙をつかれて悪の怪獣に取り込まれる場面が流れていた。
◇ ◇ ◇
「何でオレ、生きてるんですか?」
「運が良かったからだろう」
陸の問いに答えた拓海は、そう言って普段よりも薄い霞を宙へと撒く。
「何でリナは、殺されたんですか……」
「恨む相手を間違えたからだろうな」
拓海はもう一度、今度は先程よりも勢い良く吸って吐く。やはり彼の口から出た電子タバコの霞は薄い。病室内に僅かに漂う甘ったるい林檎の香りに、陸は思わず顔を顰めていた。
陸が目覚めたのは、病院の白いベッドの上だった。
目が覚めた一度目はわけが分からず錯乱状態に陥っていたのだが、様子を見に来た馬場に殴られて再び意識を失ったらしい。今陸のベッド脇にいるのは、拓海と凪の二人であった。
傷の程度は拓海に聞いた通り、本当に運良く一命を取り留めたらしい。陸の意識が回復したのは、リナからの凶刃を受けて3日後だった。
二度目の目覚めを経た今は、腹部の痛みと意識を失う直前に起きた出来事を思い返す。今は何の感情も湧き上がらず、ただ失望感のみが募るばかりだ。
「なんでアイツらは、直接オレを襲わなかったんですか?」
「俺達が中立だからだよ」
ベッド脇に座る拓海が静かに答えた。続いて「前に尋ねた質問の答えを教えてやるよ」と彼は足を組み替え、陸の目を静かに見据える。
「俺ら3人は『殺し・人身売買・クスリは絶対に扱わない』『最初に情報を売った客以外には決して売らない』これを徹底しているから、中立を保てている。誰にとっても便利で、どこかに傾いたら即潰す。そんな位置にいる情報屋が俺達だ」
彼が座るパイプ椅子が、ギチと小さく軋んだ。
「お前が俺の預かりになってるから、楊は無理矢理には攫わないし襲わない。だが中立の庇護の下にいるお前が勝手にフラフラと、彼女にそそのかされて出ていくとすれば話は別だ。だから丁度いいとばかりに本国の連中達は、お前をたらしこむ材料として彼女を生かして入国させたんだろうな」
「陸さんが大人しくリナさんと一緒いたい、家族を殺してしまった罪を償いたい。そう言って楊さんの元に行ったら、楊さんは君を一生タダで従順に働かせられるからね。安い買い物だと思うよ」
隣にいる凪が、拓海の言葉を補填するように話す。
「リナは、ナイフを持ってました。オレを殺す気でした」
自分を憎しみに満ちた目で見上げ「許さない、殺してやる」と彼女が告げたのは、聞き間違いなどでは無い。それは今でも、ハッキリと陸の耳にこびりついていた。
「彼女がお前に憎しみを抱いていたのは、楊も勿論分かってただろうよ。だから彼女が幾ら素直で従順だったとしても、お前と会わせる前に目を離すわけが無い。第一、最初からお前を襲わせる気なら馬場なんて噛ませねぇよ」
「リナさんはナイフを渡されたんだよ」
答えは凪の方から、静かに告げられた。今の時間は分からない。病室に掛けられたカーテンの隙間から見えるのは、反射して映るベッドの一部だけだった。
「VIPルームにいた俺ら側から見えない位置――階段を登る直前だね。これは店舗の防犯カメラの死角だったんだけど、念の為控えていたマネージャーの服に仕掛けさせてもらったカメラから、辛うじて彼女にナイフを手渡す様子が確認できた」
「楊のところは、本家が大陸の組織だ。表には出ないだろうが、楊を蹴落としたい奴だっている。特に今回は別の国絡みだから、隙を突かれたんだろうな」
「……どういう、ことですか」
「今回の仕掛けは簡単で、勝率が良かったんだよ。お前に会う直前、誰かが彼女にそっと耳打ちと刃物を渡してやるだけの、コスパのいいお仕事だ」
こともなげに拓海は告げる。陸との話の合間に持っていた電子タバコを凪へと渡し、新しい一本を受け取っていた。ビニールテープでびっしりと封をされているパッケージを空けながら、拓海は陸へと説明を続けた。
「すると自分達の手を煩わせるまでも無く、中立の情報屋が預かっていた対象は恨みが募った彼女に刺されて死んでしまう。情報屋は楊の裏切りと判断して取引関係から手を引き、場所を提供した馬場の面も汚す事となる。さらには第三者のアイツから、楊が裏切ったとの証言までも得られるオマケ付きだ。結果、見事に楊の信用失墜。という嫌がらせが完了するってわけだ」
「要はあの場にいた全員が、楊さんを蹴落としたいどこかの野心家に嵌められたって事」
「そんな……」
「だが楊は冷静だった。将来金を運ぶかもしれないお前の方を守り、そそのかしたバカも始末した。ビジネスとしては正しい判断だな」
「馬場さんとこの息が掛かった病院をすぐ手配するように指示したのも、楊さんだったしね」
「あの時の馬場のツラ、傑作だったな」
「だね、嬉しそうに楊さんを煽ってたよね」
凪と言い合いながらもやっと封を剥がし終え、拓海は新品の電子タバコを口に咥える。
「2日前――お前がブッ刺されてうなされている間な。どこかのゴミ捨て場で、中国系の男が刺殺体として発見されたとさ。ちなみにそいつは、彼女の隣に立っていた二人のうち一人だ」
彼が息を吸うと、先端が青い色で小さく光った。
「あの時どさくさに紛れて、逃げたみたい。楊さんが咄嗟に判断を下さなかったら、多分逃げ切られた。そしたら俺達も楊さんから嫌疑をかけられただろうね」
「楊はああ見えて約束事には厳しい、身内にも同様で徹底している。だからお前は生き延びて、ゴミ捨て場でどっかのバカが無様に死んだ。それで話はおしまいだ」
「……じゃあリナは」
陸が告げようとした声は、拓海の大きな息によって遮られた。
新品の電子タバコから吐き出された霞は今までで一番大きく、そして濃かった。だが所詮は蒸気とばかりに、天井へと上る前に霧散してゆく。
「バカにそそのかされなきゃ……少なくとも、あの場所で殺されることはなかったろうなぁ」
残った言葉の余韻と、更に甘ったるいチョコレートの香りが病室内に静かに漂う。それが目に染みるわけでもないのに、陸の目からは痛みと共に滲み出た涙が次々と溢れ続けた。
「泣くだけ泣いて、少しは落ち着いた?」
溢れ落ちた涙が引くまで、随分な時間が必要だった。凪に声を掛けられた後で、拓海の姿が消えている事に気付く。
陸が尋ねる前に、我慢出来ないから煙草を吸うと出て行った。と凪は答え「幾ら言ってもあの人、禁煙してくれないんだよ」と、苦笑を浮かべる。
二人だけの病室には、甘ったるい匂いが未だ漂っていた。
「――さっきの続き、話してもいいかな?」
大体の事は二度目の意識が回復した少し前に、二人からは聞いていた。先に陸の感情が溢れた出来事以外にも、何か進展があったのか。泣き腫らした顔を静かに上げて凪の方を見る。椅子に座ってタブレットを眺めていたらしい彼は、それを鞄に直した後で陸へと向き直った。
「今回の出来事で、君は心を痛めてるけど。君は生き残った。いい勉強になって、さらに生き伸びて、良かったんじゃない?」
気付いた時には陸の手の中には、引っ掴んだシャツの感触があった。倒れるパイプ椅子の音の後で、鼻先が触れそうな位置にまで近付いた凪の顔がある。遅れて訪れた激痛で、陸の声からでたのは呻きだけだ。
余りの激痛にシーツを掻き毟り、何度も腕をベッドへと叩きつける。その度腕に繋がれた点滴のチューブが揺れる。抗議するかのように、ベッドが軋みを上げた。「無理しちゃ駄目だよ」降ってくる静かな声は、陸の手から逃れた凪のものだ。
「お前は、人の心が理解出来ないクソ野郎だ……」
「そうだね、陸さんの言う通りだ。こんなこと表立って言えることじゃない。でも酷かろうが罵られようが知らないよ。俺は君から何と言われても、どうでもいいから」
「リナは死にました」
「死んだね、陳さんが刺した」
罵倒ですら冷たく受け流す青年は、倒れた椅子を起こした。陸が動いて傾いた点滴の様子を確認して、異常が無いと確認したのか再び腰掛ける。
「もしかしたら――君が彼女に会うと言わなければ、彼女は生き延びたかもしれない」
静かに淡々と事実を述べる青年の口から出た仮定の話に、陸は強く両目をつむる。
「でも彼女は死んだ。これが"結果"と"事実"。『生きてたかも』は所詮、経過論だ」
「凪さん」
「何?」
「オレ、あの時。気を失うまでずっと、リナを見てました。リナの身体ね……沢山傷があったんです」
「そう」
短い返事の後で、溜息のような細い息が聞こえた。
「見せしめの生き残りってそういうものだよ。恐怖を伝播させる役割で生かされる」
「酷いっすよね、何もしてないんですよ。彼女……」
「何もしてない、ねぇ」
ゆっくりと瞼を空けて、陸は痛みで滲む視界に凪を捉える。すると視界が一瞬白く染まった。電子タバコの蒸気を吹き掛けられたのだと気付いたのは、再び強くなった甘いチョコレートの香りと凪の指に挟まった黒いスティックを捉えたからだ。
「ねぇ、陸さん」
「なんですか」
「君は偽を造る人間だ。だからこそ真贋には勿論、長けているよね」
凪は背を曲げ、陸が横たわるベッドに頬杖を付いた。下から陸の顔を見上げる、切れ長の目は揺らぐこと無く真っ直ぐと向けられている。
頬杖とは反対の指先で摘んでいた電子タバコを陸の口元と当てた彼は「吸ってみて」と言った。従ってみると甘い味がして、吐くと湯気が小さく口から出る。
「これは蒸気、ニコチンもタールも入っていない。グリセリンが蒸気を発生させて、煙みたいに出る」
口元から離れてゆき、凪の指先に収まっている黒いスティックを陸は眺めた。
「禁煙したい人はこれを本物だと思い込んで、体内の中毒性を薄めていく。当然ニコチンは入っていない。だって偽物だもの。そしてニコチン中毒は重い煙を求めて、これを吐く。でも口から出るのはただの蒸気だ」
「……さっきから、アンタ。何が言いたいんですか?」
「あろうことか真贋に長けている君が、必死に恋人を高潔な存在と信じ込もうとする姿が余りにもコイツと似てると思ったから言っただけだよ」
凪は口端を上げて、静かに笑みを浮かべる。そして軽やかに黒いスティックをくるくると回した後で、自分の唇へと挟み込んだ。
「残念だけど、誰も君に見たいものを見せる言葉は持ち合わせていない」
凪が切れ長の目を細めたのに気付いた陸は、その瞳をじっと覗き込んだ。彼がこれから自分へと向ける言葉の毒を甘んじて受けなければならないのは、心の何処かで既に悟っていた。
「いい加減、目を覚ませ|潘 陸《ハン・ルゥ》。ここは君が憧れる、ドラマの世界じゃない」
そして思い切り息を吸うと、彼はありったけの蒸気を吐いて陸の顔へと浴びせかけた。
「君は現実から目を逸らし続けて、勝手に大好きな正義を彼女に押し付けたいと望んだ。その結果が今だ」
きっと多分。今の自分は、凪から言葉の刃で傷付けられるのを望んでいたのだろう。
「お前の大好きな正義が彼女を殺した。幸せな思い出で埋め尽くして、現実逃避をしたっていいさ。でもせめてお前が犯した、たった一つの真実だけは胸に深く刻んでおけよ。でなきゃ彼女が報われない。お前の心一つ傷付けずに死んだら、あの子は本当にただの無駄死に成り果てるんだよ」
愚かな陸に真実を告げた青年は、そのまま手に持った黒いスティックでトン、と胸を突いた。崖から突き落とされるような衝撃が訪れる。
それは例えるならば、宵闇の海だった。
波音だけが聞こえる宵闇の海に全てが飲まれ、泡となるような安堵を陸は覚えて。深く深く意識の底へと沈んでいった。