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第29話:第1章・エピローグ・テッサ編・副官の務め

ー/ー



 指揮官(しきかん)天幕(てんまく)は、黒い獣皮(じゅうひ)の重い幕で仕切られておった。風が外壁を叩いておる。旗布(はたぬの)が鳴る音。兵の足音。それらが獣皮に吸い込まれ、私室には届かぬ。

 その奥の私室(ししつ)。空気は温かく、一本の(こう)が短く焚き減っておったが、その下の革と鋼の匂いは隠しきれぬ。簡素な寝台(しんだい)と、鎧を掛ける台。それだけの空間。

 指揮官は寝台の端に裸で座っておった。

 我は奴の前に(ひざまず)いておった。慣れた手つきで。無言で。

 二十年。

 奴の体を知り尽くしておる。どこで焦らし、どこで許せば、あの鉄の自制が崩れるか。奴の喉の奥から、かすかな声が漏れた。

(今夜は疲れておる)

 速度を上げた。わずかに。

 奴の手が伸びてきた。我が角を握った。わずかに手前に引いた。止まった。奴の体が緊張し、震えておる。奴の橙色(だいだいいろ)の目と合った。

 再び動いた。奴の腰が跳ねた——抑えようとして、抑えきれぬ動き。

(シャアイラが順当に育っておれば、あと一年か二年で引き継げた。我はようやく副指揮官の座を得て、奴の子を宿す機会を得られたのだが)

 奴の呼吸が壊れた。短く、鋭くなった。角を握る手が強くなった。両方。根元から。痛い。

(——来る)

 目を上げた。止めずに。下から見上げた。角を掴む両手が(きし)むほどに締まった。我の頭が動かせぬ。

 奴の喉の奥で、空気が裂けるようなかすかな音だけが漏れた。

 受け止めた。指が角から離れた。体が弛緩した。

 口元を手の甲で拭った。

 * * *

 天幕の外側の入口から音がした。

「指揮官。偵察報告が戻っておりまする」

(——今か)

 舌を打った。鋭く。顎の筋肉が硬直した。だがもう動いておる。衣を整え、兵士の姿勢に戻る。指揮官も同様に。腰布を巻き、背を伸ばした。

 衛兵が入って深く頭を下げた。黒い【ツェルザーク(監視鷹)】が奴の腕に止まっておる。腕を伸ばした。鷹が飛んできた。前腕の(うろこ)に爪を立てて止まる。脚の革筒を外した。

「今すぐ下がれ」

 衛兵は退出した。重い垂れ布が閉じられた。我は跪き、報告書を差し出した。

 指揮官は巻物を受け取り、読み始めた。我は跪いたまま待った。

 奴の呼吸が変わった。浅くなった。止まった。深く吐いた。巻物を持つ指が、一箇所で止まった。長く。

 奴が顔を上げず、低い声で読み上げた。「——【ゾルカー(魔族)】と【ヘク(人間)】の血痕(けっこん)地熱泉(ちねつせん)へ続く。長期滞在の証拠」

 間。

「——現在の軌道(きどう)は南西。【ヘク】の集落に向かっている」

 巻物を持つ手は動かぬ。

(ヴァラ様の報告を、あの時は退けた。だが【ズル(追跡者)】は出した。完全には捨てておらなかったのだ)

(そして今、証拠が戻ってきた。共に旅をし、共に血を流し、共に野営しておる)

(シャアイラ。お前が戻らねば、我はここから動けぬ)

 指揮官が巻物を下ろした。

「副官」

 奴の顎が引き締まっておった。

「はい、指揮官」

「私自身がこれを見届ける」

 一瞬、胸の奥が跳ねた。即座に押し殺した。稀だった。自ら出ることは。

「指揮官」一拍置いた。「偵察隊の報告が正しければ、対象は南西の【ヘク】領深くに入っておりましょう。現在地からであれば、数週間は——」

「聞いておらぬ」

 静かだった。声を上げてすらおらぬ。

(——そうだろう。この件が他の指揮官の耳に入れば、あの方の判断が問われる。己が手で選び、己が手で育てた甲虫飼いの娘が【ヘク】と共に歩いておると)

(静かに片付けねばならぬ)

 頭を下げた。「はっ」

「お前と、戦士を二名。お前が選べ。即座に発て」

「副指揮官に引き継げ。それ以外の者には一切漏らすな」

「はい、指揮官」

 奴の視線が天幕の隅に向けられた。

「そして——私の鎧を持て」


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 |指揮官《しきかん》|天幕《てんまく》は、黒い|獣皮《じゅうひ》の重い幕で仕切られておった。風が外壁を叩いておる。|旗布《はたぬの》が鳴る音。兵の足音。それらが獣皮に吸い込まれ、私室には届かぬ。
 その奥の|私室《ししつ》。空気は温かく、一本の|香《こう》が短く焚き減っておったが、その下の革と鋼の匂いは隠しきれぬ。簡素な|寝台《しんだい》と、鎧を掛ける台。それだけの空間。
 指揮官は寝台の端に裸で座っておった。
 我は奴の前に|跪《ひざまず》いておった。慣れた手つきで。無言で。
 二十年。
 奴の体を知り尽くしておる。どこで焦らし、どこで許せば、あの鉄の自制が崩れるか。奴の喉の奥から、かすかな声が漏れた。
(今夜は疲れておる)
 速度を上げた。わずかに。
 奴の手が伸びてきた。我が角を握った。わずかに手前に引いた。止まった。奴の体が緊張し、震えておる。奴の|橙色《だいだいいろ》の目と合った。
 再び動いた。奴の腰が跳ねた——抑えようとして、抑えきれぬ動き。
(シャアイラが順当に育っておれば、あと一年か二年で引き継げた。我はようやく副指揮官の座を得て、奴の子を宿す機会を得られたのだが)
 奴の呼吸が壊れた。短く、鋭くなった。角を握る手が強くなった。両方。根元から。痛い。
(——来る)
 目を上げた。止めずに。下から見上げた。角を掴む両手が|軋《きし》むほどに締まった。我の頭が動かせぬ。
 奴の喉の奥で、空気が裂けるようなかすかな音だけが漏れた。
 受け止めた。指が角から離れた。体が弛緩した。
 口元を手の甲で拭った。
 * * *
 天幕の外側の入口から音がした。
「指揮官。偵察報告が戻っておりまする」
(——今か)
 舌を打った。鋭く。顎の筋肉が硬直した。だがもう動いておる。衣を整え、兵士の姿勢に戻る。指揮官も同様に。腰布を巻き、背を伸ばした。
 衛兵が入って深く頭を下げた。黒い【|ツェルザーク《監視鷹》】が奴の腕に止まっておる。腕を伸ばした。鷹が飛んできた。前腕の|鱗《うろこ》に爪を立てて止まる。脚の革筒を外した。
「今すぐ下がれ」
 衛兵は退出した。重い垂れ布が閉じられた。我は跪き、報告書を差し出した。
 指揮官は巻物を受け取り、読み始めた。我は跪いたまま待った。
 奴の呼吸が変わった。浅くなった。止まった。深く吐いた。巻物を持つ指が、一箇所で止まった。長く。
 奴が顔を上げず、低い声で読み上げた。「——【|ゾルカー《魔族》】と【|ヘク《人間》】の|血痕《けっこん》が|地熱泉《ちねつせん》へ続く。長期滞在の証拠」
 間。
「——現在の|軌道《きどう》は南西。【ヘク】の集落に向かっている」
 巻物を持つ手は動かぬ。
(ヴァラ様の報告を、あの時は退けた。だが【|ズル《追跡者》】は出した。完全には捨てておらなかったのだ)
(そして今、証拠が戻ってきた。共に旅をし、共に血を流し、共に野営しておる)
(シャアイラ。お前が戻らねば、我はここから動けぬ)
 指揮官が巻物を下ろした。
「副官」
 奴の顎が引き締まっておった。
「はい、指揮官」
「私自身がこれを見届ける」
 一瞬、胸の奥が跳ねた。即座に押し殺した。稀だった。自ら出ることは。
「指揮官」一拍置いた。「偵察隊の報告が正しければ、対象は南西の【ヘク】領深くに入っておりましょう。現在地からであれば、数週間は——」
「聞いておらぬ」
 静かだった。声を上げてすらおらぬ。
(——そうだろう。この件が他の指揮官の耳に入れば、あの方の判断が問われる。己が手で選び、己が手で育てた甲虫飼いの娘が【ヘク】と共に歩いておると)
(静かに片付けねばならぬ)
 頭を下げた。「はっ」
「お前と、戦士を二名。お前が選べ。即座に発て」
「副指揮官に引き継げ。それ以外の者には一切漏らすな」
「はい、指揮官」
 奴の視線が天幕の隅に向けられた。
「そして——私の鎧を持て」