第28話:それで十分だ
ー/ー ビュッ——
風が頬を裂いた。背後で——ブスッ。ゴボゴボ。
振り返った。
男が立っておった。ナイフを振り上げたまま——喉から矢羽を生やして。膝が折れる。
(——もう一匹……おったのか)
視界の端に——弩を下ろしておる奴の姿。
(——【ヘク】が、撃った——)
足の力が抜けた。地面が近づいてくる。暗い。
* * *
ゴボゴボ。
男が目の前で死んでいる。喉から矢羽を生やして、口から血の泡を吐いて。まだ動いている。指が石を掻いている。爪が白い筋を残している。
俺が撃った矢だ。
ゴボゴボ。
——同じだ。同じ音。同じ場所。喉。矢。泡。ボーリンと同じだ。あの洞窟で、青い光の中で、俺が——
ゴボ、ゴボゴボゴボ……
弩が手から落ちた。石の床を跳ねて、転がって、止まった。音が遠い。全部遠い。
膝が折れた。
石に手をついた。冷たい。濡れている。匂いが来た。血と鉄と糞と脂が一度に——洞窟の匂いと同じだ。
視界が白く明滅した。石の床が消えた。青い光が来た。
——ボーリン。
目の前に。あの顔。矢が喉に刺さったまま。口が動いている。何か言おうとしている。言えない。泡だけが——
あの目。俺を見ている。何が起きたか分かっていない目。分かりかけている目。お前が、と。お前が撃った、と。
違う。違う。あれは——
ゴボゴボ。
同じ喉。同じ矢。同じ泡。同じ手が同じ弦を引いた。
心臓が暴れている。速い。速すぎる。打ち方がおかしい。息が——吸えない。吸おうとした。鉄の匂いが喉を塞いだ。吐いた。吸った。浅い。足りない。もう一度。もっと浅い。
手が震えている。両方。床の上で。止められない。止めようとすると余計に震える。
立て。
立てなかった。脚が応えない。膝から下が消えている。
視界が狭くなっている。端から暗い。中心だけが明るい——明るすぎる。目の前の男の開いた目。白い。ボーリンの目に重なる。どっちの目だ。どっちの床だ。石の上にいるのか洞窟の中にいるのか——
ゴボゴボ。
——ッぐ。
胃が持ち上がった。石の上に吐いた。体が折れて、額が冷たい石に触れた。
動け。
動けなかった。
膝の上に拳を押し付けた。震えが止まらない。視界の端がまだ暗い。心臓がまだ速い。呼吸がまだ足りない。匂い。血と鉄と脂。同じだ。どこにいても同じ匂いがする。
——キィィィィーーン!
ガァァァッ——!
冷たい金属が頭蓋の中を裂いた。歯が軋んだ。ボーリンが消えた。洞窟が消えた。
胸の中で何かが落ちていく。俺のじゃない。止まりかけている。
分からない。何も分からない。だが今動かなければ、あいつが死ぬ。
* * *
朝。
あいつは火の傍で横になっている。盗賊の寝袋に包んで、毛布を二枚重ねた。顔色が悪い。いつもより、ずっと薄い。脈は弱い。だが呼吸はしている。
昨夜のことはあまり覚えていない。あいつを引きずった。傷を塞いだ。盗賊の荷に包帯と軟膏があった。深い傷には苔を詰めた。血が止まるまで押さえた。火を起こし直した。何度か脈を確かめた。そのまま朝になった。
明るくなって、部屋の中が見えた。卓がひっくり返っている。杯が散っている。石の床が血と酒と脂で光っている。火坑の縁に一つ、半分焼けている。髪と肉の焦げた匂いがまだ残っている。壁に飛んだものの跡。入り口の近くに、俺が撃ったやつ。喉に矢を生やしたまま。
出した。
一体ずつ。足首を掴んで引いた。石の上を引きずると音がする。乾いた、重い音。血の筋が床に残る。
使えるものは剥いだ。外套。靴。ベルト。ナイフ。水袋。
火坑の縁のやつは半分焼けている。掴める場所を探した。焦げた布が手の中で崩れた。足首を掴んだ。引いた。
俺が撃ったやつは最後にした。喉の矢には触れなかった。足首を掴んだ。引いた。
外にもう一つ。壁の横。喉を裂かれたやつ。パイプがそばに落ちている。
埋めなきゃいけない。このままにしたら獣が来る。
鉈じゃ穴は掘れない。鋤が要る。見回した。盗賊の荷にはなかった。外を探した。壁の裏に回った。
糞の匂い。
浅い穴。男が仰向けに嵌まっている。下穿きが膝まで落ちたまま。首に——鋤が刺さっている。刃が骨を通って土まで届いている。蠅がたかっている。
(……糞溜めで死ぬか。聖蝕で死ぬより酷い死に方は、そうないと思っていたが)
鋤の柄を掴んだ。引いた。抜けない。足を死体の肩に当てた。もう一度引いた。骨から刃が外れた。肉が裂ける音がした。
柄が短い。血と糞がこびりついている。穴の縁に立った。男がまだ嵌まっている。下穿きが膝まで落ちたまま。蠅がたかっている。
——出して、向こうに埋めてやるか。
しばらく見下ろした。
(……いや)
足で押した。奥にずらした。鋤で脇の土を掻き落とした。もう一度。土を被せた。踏んだ。
まあ、穴は穴だ。
流れで鋤を洗った。刃はまだ使える。谷の奥。風下。窪地を選んだ。
鋤を振り下ろした。刃が土に食い込んだ。石に当たった。衝撃が手首から肘まで走った。石を鉈で砕いた。手で掻き出した。また鋤を振った。土が硬い。石が多い。一振りで掬える量が少ない。
掘った。
掘り続けた。
太陽が頭の上に来た。穴は膝の深さ。まだ足りない。鋤を突き立てて、水袋の栓を抜いた。温い。額を袖で拭って、空を見上げた。
(……山で凍え死にかけてた時はどこにいやがった)
手のひらに水膨れができている。鋤の柄が擦れて、左の掌が赤い。
鋤を振った。掻き出した。石を砕いた。掻き出した。日が傾いた。穴は腰の深さ。幅がまだ狭い。
あいつの呼吸を確かめに戻った。脈。ある。毛布を直した。水を唇に垂らした。零れた。もう一度。少しだけ喉が動いた。
穴に戻った。
掘った。
手のひらの水膨れが潰れた。柄が滑る。握り直した。血が柄を濡らした。暗くなるまで掘った。
朝。穴の縁に立った。全部入る。ぎりぎり。
一体ずつ引きずった。足首を掴んで。穴の縁まで来たら転がした。落ちる音。鈍い。
最後の一人。喉に矢が刺さったまま。抜いた。まだ使える。足首を掴んで引いた。穴の縁で転がした。
土を戻した。掘るより早い。鋤で掻き入れて、足で踏んだ。石を載せた。大きいのを選んで、両手で運んだ。獣が掘り返さないように。
手を洗った。流れの水が冷たい。爪の奥に血が残っている。
(爪の奥は無理だ)
やめた。
中を片付けた。
石の床に血がこびりついている。黒い。乾いている。水を撒いた。布で擦った。水が赤くなった。絞って、また擦った。膝をついて、両手で押して擦った。石の目に入り込んだ血は取れない。ある程度で止めた。
ひっくり返った卓を起こした。割れた杯の破片を掃いた。焼けた荷を外に出した。盗賊の寝袋を並べた。あいつの横に自分の分を敷いた。中の藁はまだ使える。
荷を壁際にまとめた。毛布。干し肉。塩。水袋が四つ。紐。火口箱の予備。ナイフが三本。外套が二着。火酒の瓶に少し残っている。斧。鉈。鍋。針と糸。
馬が二頭、外の杭に繋がれたまま。水をやって、草地まで引いた。一頭が鼻面を手に押しつけてきた。叩いてやった。
水場を探した。丘を二つ越えた先に流れがあった。膝をついて手を浸した。冷たい。澄んでいる。一日中、血と糞と死体を触っていた手だ。流れが指の間を通っていく。しばらくそのままにしていた。掬って飲んだ。革袋に詰めて担いだ。
翌朝から罠を仕掛けた。谷の入り口の獣道に。二日目に兎が一羽かかった。小さい。皮を剥いで、鍋で煮た。
あいつに食わせたい。だが口が開かない。汁を唇に垂らした。ほとんど零れた。顎を伝って、首筋に落ちた。布で拭いた。もう一度垂らした。零れた。三度目に、ほんの少しだけ喉が動いた。
日が経つにつれて、手が覚えていった。盗賊の斧は重心が先端に寄りすぎている。三日目には気にならなくなった。壁の隙間を石と泥で塞いだ。入り口に枝を組んで布を張った。煙は天井の割れ目から抜ける。罠の兎は肉を裂いて乾した。塩を振った。
三日目。遺跡の奥を探った。壁の向こうにもう一つ部屋があった。天井が半分落ちている。だが壁は厚い。二十年前に来た時には、ここまで入らなかった。苔に覆われた石の床に、文字らしきものが刻まれていた。読めない。古すぎる。隅に壊れた棚があった。木が腐りかけている。だが形は残っている。誰かがここで暮らしていた。盗賊よりずっと前に。
あいつの傷を見た。鱗の隙間に切り傷がいくつか。浅い。血は止まっている。濡らした布で固まった血を落とした。鱗が硬い。布が引っかかる。力を入れすぎると剥がれそうで、手が止まった。
二日目の夜。あいつの指が動いた。石の床を掻くように。一度だけ。
三日目。唇の色が少しだけ戻った。まだ薄い。だが死人の色じゃなくなった。
四日目。呼吸が深くなった。浅く速いのが、少しだけ遅くなった。
(——戻ってきている。遅いが、戻ってきている)
夜は壁に背をつけて座る。あいつの横。弩を膝に置いて、入り口に向けて。
* * *
五日目の昼。
兎の汁を温め直した。椀に移した。あいつは壁にもたれたまま動かない。顔色は——少し戻っている。最初の夜の死人のような色はない。だがまだ、遠い。
水を飲ませなきゃいけない。ここ二日、ほとんど入っていない。唇に垂らしても、飲み込む力がない。
(——角度が要る)
何度か試した。横から。後ろから。頭を手で支えて。どれも零れる。喉が落ちているから、水が奥に届かない。
あいつの横に座った。後頭部を持ち上げた。角の根元が掌に当たった。硬くて、重い。膝の上に乗せた。太腿に角の重さが沈む。乾いた血で固まった髪が指に絡んだ。
(——角度の問題だ。それだけだ)
水袋の口を唇に当てた。傾けた。ゆっくりと。水が流れ込む。顎を伝って零れかけた。角度を直した。もう一度。
——喉が、動いた。
もう少し傾けた。また動いた。三口。四口。
五口目——
目が開いた。
紫。近い。大きい。下から俺を見上げている。
手が止まった。水袋が傾いたまま。水が一滴、あいつの唇の端を伝って落ちた。
間。
(——いつから起きてた)
紫の目が動いた。水袋を見た。俺の手を見た。自分の頭がある場所を——見なかった。
口が微かに動いた。声は出なかった。唇だけが形を作りかけて、また閉じた。何を言おうとしたのか分からない。分からなくていい。
水袋を傾けた。何もなかったみたいに。続きを。
あいつは飲んだ。目を閉じたまま。頭を膝から離さなかった。離す力がないのか。離さないのか。分からない。六口。七口。喉が動くたびに、振動が太腿に伝わった。
五日間聞いていた呼吸が、今、手の中にある。
水袋を下ろした。栓をした。あいつの目はもう閉じている。だが眉の間の力が違う。さっきまでの——ただ沈んでいるだけの顔じゃない。
干し肉を裂いた。硬すぎる。あいつの顎じゃ噛み切れない。自分の口に入れて、噛んだ。柔らかくなるまで。手のひらに出した。あいつの唇に指を当てた。
間。
口が開いた。指で奥に押し込んだ。顎が動いた。遅い。力がない。もう一切れ。同じように噛んで、柔らかくして、口に入れた。
あいつが咳き込んだ。小さく。喉の奥で引っかかったか。水袋を唇に当てた。少しだけ流し込んだ。飲んだ。落ち着いた。
もう一切れ。噛んだ。柔らかくした。口に入れた。また一切れ。
繰り返しているうちに、手が覚えた。裂いて、口に入れて、噛んで、出して、唇を開いて、押し込む。あいつが噛み終わるのを待って、次を入れる。
紫の目がこちらを見ている。噛んでいる間、ずっと。俺の顎が動くのを見ている。口から手のひらに出すのを見ている。その手が自分の唇に近づくのを見ている。何も言わない。ただ見ている。
火が爆ぜた。
——自分が何をしているのか、急に分かった。
魔族の女の頭を膝に乗せて、肉を噛み砕いて、口に押し込んでいる。親鳥が雛にやるように。
手が止まった。
紫の目がまだこちらを見ている。噛みかけの肉が口の中にある。出すのも変だ。飲み込んだ。新しいのを裂いた。口に入れた。噛んだ。唇を開いて、押し込んだ。
あいつは噛んだ。何も言わない。俺も何も言わない。火の音だけ。
もう一切れ。噛んだ。口に入れた。今度は指ごと噛まれかけた。唇が指に触れた。一瞬。
何も言わなかった。次の一切れを噛み始めた。噛んでいる。あいつも噛んでいる。目が合った。逸らした。
もう一切れ。口に入れた。また目が合った。
(……気まずいな)
紫が揺れている。火の光だ。近い。
口が勝手に動いた。自分の胸を指した。
「アーレン」
紫の目が——大きくなった。噛むのが止まっている。
火が爆ぜた。薪が崩れて、火の粉が上がった。紫の目がこちらを見ている。動かない。何かを測っている。
もう一切れ噛みながら、待った。
「——シャアイラ」
低い。掠れている。だが——声だ。
頷いた。手のひらに出した。口に入れた。あいつは噛んだ。水袋を傾けてあいつの唇に当てた。飲んだ。
火の音。噛む音。呼吸。
「……アぁ……れン」
噛む手が止まった。こちらを見ていない。顔が横を向いている。耳の先と頬が暗くなっている。
「ズマン……ナァ」
火が爆ぜた。
「——構うな」
もう一切れ噛んで、口に入れた。あいつは噛んだ。まだこちらを見ていない。
避難場所がある。食料がある。水がある。
——名前もある。
今は——それで十分だ。
風が頬を裂いた。背後で——ブスッ。ゴボゴボ。
振り返った。
男が立っておった。ナイフを振り上げたまま——喉から矢羽を生やして。膝が折れる。
(——もう一匹……おったのか)
視界の端に——弩を下ろしておる奴の姿。
(——【ヘク】が、撃った——)
足の力が抜けた。地面が近づいてくる。暗い。
* * *
ゴボゴボ。
男が目の前で死んでいる。喉から矢羽を生やして、口から血の泡を吐いて。まだ動いている。指が石を掻いている。爪が白い筋を残している。
俺が撃った矢だ。
ゴボゴボ。
——同じだ。同じ音。同じ場所。喉。矢。泡。ボーリンと同じだ。あの洞窟で、青い光の中で、俺が——
ゴボ、ゴボゴボゴボ……
弩が手から落ちた。石の床を跳ねて、転がって、止まった。音が遠い。全部遠い。
膝が折れた。
石に手をついた。冷たい。濡れている。匂いが来た。血と鉄と糞と脂が一度に——洞窟の匂いと同じだ。
視界が白く明滅した。石の床が消えた。青い光が来た。
——ボーリン。
目の前に。あの顔。矢が喉に刺さったまま。口が動いている。何か言おうとしている。言えない。泡だけが——
あの目。俺を見ている。何が起きたか分かっていない目。分かりかけている目。お前が、と。お前が撃った、と。
違う。違う。あれは——
ゴボゴボ。
同じ喉。同じ矢。同じ泡。同じ手が同じ弦を引いた。
心臓が暴れている。速い。速すぎる。打ち方がおかしい。息が——吸えない。吸おうとした。鉄の匂いが喉を塞いだ。吐いた。吸った。浅い。足りない。もう一度。もっと浅い。
手が震えている。両方。床の上で。止められない。止めようとすると余計に震える。
立て。
立てなかった。脚が応えない。膝から下が消えている。
視界が狭くなっている。端から暗い。中心だけが明るい——明るすぎる。目の前の男の開いた目。白い。ボーリンの目に重なる。どっちの目だ。どっちの床だ。石の上にいるのか洞窟の中にいるのか——
ゴボゴボ。
——ッぐ。
胃が持ち上がった。石の上に吐いた。体が折れて、額が冷たい石に触れた。
動け。
動けなかった。
膝の上に拳を押し付けた。震えが止まらない。視界の端がまだ暗い。心臓がまだ速い。呼吸がまだ足りない。匂い。血と鉄と脂。同じだ。どこにいても同じ匂いがする。
——キィィィィーーン!
ガァァァッ——!
冷たい金属が頭蓋の中を裂いた。歯が軋んだ。ボーリンが消えた。洞窟が消えた。
胸の中で何かが落ちていく。俺のじゃない。止まりかけている。
分からない。何も分からない。だが今動かなければ、あいつが死ぬ。
* * *
朝。
あいつは火の傍で横になっている。盗賊の寝袋に包んで、毛布を二枚重ねた。顔色が悪い。いつもより、ずっと薄い。脈は弱い。だが呼吸はしている。
昨夜のことはあまり覚えていない。あいつを引きずった。傷を塞いだ。盗賊の荷に包帯と軟膏があった。深い傷には苔を詰めた。血が止まるまで押さえた。火を起こし直した。何度か脈を確かめた。そのまま朝になった。
明るくなって、部屋の中が見えた。卓がひっくり返っている。杯が散っている。石の床が血と酒と脂で光っている。火坑の縁に一つ、半分焼けている。髪と肉の焦げた匂いがまだ残っている。壁に飛んだものの跡。入り口の近くに、俺が撃ったやつ。喉に矢を生やしたまま。
出した。
一体ずつ。足首を掴んで引いた。石の上を引きずると音がする。乾いた、重い音。血の筋が床に残る。
使えるものは剥いだ。外套。靴。ベルト。ナイフ。水袋。
火坑の縁のやつは半分焼けている。掴める場所を探した。焦げた布が手の中で崩れた。足首を掴んだ。引いた。
俺が撃ったやつは最後にした。喉の矢には触れなかった。足首を掴んだ。引いた。
外にもう一つ。壁の横。喉を裂かれたやつ。パイプがそばに落ちている。
埋めなきゃいけない。このままにしたら獣が来る。
鉈じゃ穴は掘れない。鋤が要る。見回した。盗賊の荷にはなかった。外を探した。壁の裏に回った。
糞の匂い。
浅い穴。男が仰向けに嵌まっている。下穿きが膝まで落ちたまま。首に——鋤が刺さっている。刃が骨を通って土まで届いている。蠅がたかっている。
(……糞溜めで死ぬか。聖蝕で死ぬより酷い死に方は、そうないと思っていたが)
鋤の柄を掴んだ。引いた。抜けない。足を死体の肩に当てた。もう一度引いた。骨から刃が外れた。肉が裂ける音がした。
柄が短い。血と糞がこびりついている。穴の縁に立った。男がまだ嵌まっている。下穿きが膝まで落ちたまま。蠅がたかっている。
——出して、向こうに埋めてやるか。
しばらく見下ろした。
(……いや)
足で押した。奥にずらした。鋤で脇の土を掻き落とした。もう一度。土を被せた。踏んだ。
まあ、穴は穴だ。
流れで鋤を洗った。刃はまだ使える。谷の奥。風下。窪地を選んだ。
鋤を振り下ろした。刃が土に食い込んだ。石に当たった。衝撃が手首から肘まで走った。石を鉈で砕いた。手で掻き出した。また鋤を振った。土が硬い。石が多い。一振りで掬える量が少ない。
掘った。
掘り続けた。
太陽が頭の上に来た。穴は膝の深さ。まだ足りない。鋤を突き立てて、水袋の栓を抜いた。温い。額を袖で拭って、空を見上げた。
(……山で凍え死にかけてた時はどこにいやがった)
手のひらに水膨れができている。鋤の柄が擦れて、左の掌が赤い。
鋤を振った。掻き出した。石を砕いた。掻き出した。日が傾いた。穴は腰の深さ。幅がまだ狭い。
あいつの呼吸を確かめに戻った。脈。ある。毛布を直した。水を唇に垂らした。零れた。もう一度。少しだけ喉が動いた。
穴に戻った。
掘った。
手のひらの水膨れが潰れた。柄が滑る。握り直した。血が柄を濡らした。暗くなるまで掘った。
朝。穴の縁に立った。全部入る。ぎりぎり。
一体ずつ引きずった。足首を掴んで。穴の縁まで来たら転がした。落ちる音。鈍い。
最後の一人。喉に矢が刺さったまま。抜いた。まだ使える。足首を掴んで引いた。穴の縁で転がした。
土を戻した。掘るより早い。鋤で掻き入れて、足で踏んだ。石を載せた。大きいのを選んで、両手で運んだ。獣が掘り返さないように。
手を洗った。流れの水が冷たい。爪の奥に血が残っている。
(爪の奥は無理だ)
やめた。
中を片付けた。
石の床に血がこびりついている。黒い。乾いている。水を撒いた。布で擦った。水が赤くなった。絞って、また擦った。膝をついて、両手で押して擦った。石の目に入り込んだ血は取れない。ある程度で止めた。
ひっくり返った卓を起こした。割れた杯の破片を掃いた。焼けた荷を外に出した。盗賊の寝袋を並べた。あいつの横に自分の分を敷いた。中の藁はまだ使える。
荷を壁際にまとめた。毛布。干し肉。塩。水袋が四つ。紐。火口箱の予備。ナイフが三本。外套が二着。火酒の瓶に少し残っている。斧。鉈。鍋。針と糸。
馬が二頭、外の杭に繋がれたまま。水をやって、草地まで引いた。一頭が鼻面を手に押しつけてきた。叩いてやった。
水場を探した。丘を二つ越えた先に流れがあった。膝をついて手を浸した。冷たい。澄んでいる。一日中、血と糞と死体を触っていた手だ。流れが指の間を通っていく。しばらくそのままにしていた。掬って飲んだ。革袋に詰めて担いだ。
翌朝から罠を仕掛けた。谷の入り口の獣道に。二日目に兎が一羽かかった。小さい。皮を剥いで、鍋で煮た。
あいつに食わせたい。だが口が開かない。汁を唇に垂らした。ほとんど零れた。顎を伝って、首筋に落ちた。布で拭いた。もう一度垂らした。零れた。三度目に、ほんの少しだけ喉が動いた。
日が経つにつれて、手が覚えていった。盗賊の斧は重心が先端に寄りすぎている。三日目には気にならなくなった。壁の隙間を石と泥で塞いだ。入り口に枝を組んで布を張った。煙は天井の割れ目から抜ける。罠の兎は肉を裂いて乾した。塩を振った。
三日目。遺跡の奥を探った。壁の向こうにもう一つ部屋があった。天井が半分落ちている。だが壁は厚い。二十年前に来た時には、ここまで入らなかった。苔に覆われた石の床に、文字らしきものが刻まれていた。読めない。古すぎる。隅に壊れた棚があった。木が腐りかけている。だが形は残っている。誰かがここで暮らしていた。盗賊よりずっと前に。
あいつの傷を見た。鱗の隙間に切り傷がいくつか。浅い。血は止まっている。濡らした布で固まった血を落とした。鱗が硬い。布が引っかかる。力を入れすぎると剥がれそうで、手が止まった。
二日目の夜。あいつの指が動いた。石の床を掻くように。一度だけ。
三日目。唇の色が少しだけ戻った。まだ薄い。だが死人の色じゃなくなった。
四日目。呼吸が深くなった。浅く速いのが、少しだけ遅くなった。
(——戻ってきている。遅いが、戻ってきている)
夜は壁に背をつけて座る。あいつの横。弩を膝に置いて、入り口に向けて。
* * *
五日目の昼。
兎の汁を温め直した。椀に移した。あいつは壁にもたれたまま動かない。顔色は——少し戻っている。最初の夜の死人のような色はない。だがまだ、遠い。
水を飲ませなきゃいけない。ここ二日、ほとんど入っていない。唇に垂らしても、飲み込む力がない。
(——角度が要る)
何度か試した。横から。後ろから。頭を手で支えて。どれも零れる。喉が落ちているから、水が奥に届かない。
あいつの横に座った。後頭部を持ち上げた。角の根元が掌に当たった。硬くて、重い。膝の上に乗せた。太腿に角の重さが沈む。乾いた血で固まった髪が指に絡んだ。
(——角度の問題だ。それだけだ)
水袋の口を唇に当てた。傾けた。ゆっくりと。水が流れ込む。顎を伝って零れかけた。角度を直した。もう一度。
——喉が、動いた。
もう少し傾けた。また動いた。三口。四口。
五口目——
目が開いた。
紫。近い。大きい。下から俺を見上げている。
手が止まった。水袋が傾いたまま。水が一滴、あいつの唇の端を伝って落ちた。
間。
(——いつから起きてた)
紫の目が動いた。水袋を見た。俺の手を見た。自分の頭がある場所を——見なかった。
口が微かに動いた。声は出なかった。唇だけが形を作りかけて、また閉じた。何を言おうとしたのか分からない。分からなくていい。
水袋を傾けた。何もなかったみたいに。続きを。
あいつは飲んだ。目を閉じたまま。頭を膝から離さなかった。離す力がないのか。離さないのか。分からない。六口。七口。喉が動くたびに、振動が太腿に伝わった。
五日間聞いていた呼吸が、今、手の中にある。
水袋を下ろした。栓をした。あいつの目はもう閉じている。だが眉の間の力が違う。さっきまでの——ただ沈んでいるだけの顔じゃない。
干し肉を裂いた。硬すぎる。あいつの顎じゃ噛み切れない。自分の口に入れて、噛んだ。柔らかくなるまで。手のひらに出した。あいつの唇に指を当てた。
間。
口が開いた。指で奥に押し込んだ。顎が動いた。遅い。力がない。もう一切れ。同じように噛んで、柔らかくして、口に入れた。
あいつが咳き込んだ。小さく。喉の奥で引っかかったか。水袋を唇に当てた。少しだけ流し込んだ。飲んだ。落ち着いた。
もう一切れ。噛んだ。柔らかくした。口に入れた。また一切れ。
繰り返しているうちに、手が覚えた。裂いて、口に入れて、噛んで、出して、唇を開いて、押し込む。あいつが噛み終わるのを待って、次を入れる。
紫の目がこちらを見ている。噛んでいる間、ずっと。俺の顎が動くのを見ている。口から手のひらに出すのを見ている。その手が自分の唇に近づくのを見ている。何も言わない。ただ見ている。
火が爆ぜた。
——自分が何をしているのか、急に分かった。
魔族の女の頭を膝に乗せて、肉を噛み砕いて、口に押し込んでいる。親鳥が雛にやるように。
手が止まった。
紫の目がまだこちらを見ている。噛みかけの肉が口の中にある。出すのも変だ。飲み込んだ。新しいのを裂いた。口に入れた。噛んだ。唇を開いて、押し込んだ。
あいつは噛んだ。何も言わない。俺も何も言わない。火の音だけ。
もう一切れ。噛んだ。口に入れた。今度は指ごと噛まれかけた。唇が指に触れた。一瞬。
何も言わなかった。次の一切れを噛み始めた。噛んでいる。あいつも噛んでいる。目が合った。逸らした。
もう一切れ。口に入れた。また目が合った。
(……気まずいな)
紫が揺れている。火の光だ。近い。
口が勝手に動いた。自分の胸を指した。
「アーレン」
紫の目が——大きくなった。噛むのが止まっている。
火が爆ぜた。薪が崩れて、火の粉が上がった。紫の目がこちらを見ている。動かない。何かを測っている。
もう一切れ噛みながら、待った。
「——シャアイラ」
低い。掠れている。だが——声だ。
頷いた。手のひらに出した。口に入れた。あいつは噛んだ。水袋を傾けてあいつの唇に当てた。飲んだ。
火の音。噛む音。呼吸。
「……アぁ……れン」
噛む手が止まった。こちらを見ていない。顔が横を向いている。耳の先と頬が暗くなっている。
「ズマン……ナァ」
火が爆ぜた。
「——構うな」
もう一切れ噛んで、口に入れた。あいつは噛んだ。まだこちらを見ていない。
避難場所がある。食料がある。水がある。
——名前もある。
今は——それで十分だ。
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