表示設定
表示設定
目次 目次




第28話:それで十分だ

ー/ー



 ビュッ——

 風が頬を裂いた。背後で——ブスッ。ゴボゴボ。

 振り返った。

 男が立っておった。ナイフを振り上げたまま——喉から矢羽を生やして。膝が折れる。

(——もう一匹……おったのか)

 視界の端に——(いしゆみ)を下ろしておる奴の姿。

(——【ヘク(人間)】が、撃った——)

 足の力が抜けた。地面が近づいてくる。暗い。


 * * *


 ゴボゴボ。

 男が目の前で死んでいる。喉から矢羽を生やして、口から血の泡を吐いて。まだ動いている。指が石を掻いている。爪が白い筋を残している。

 俺が撃った矢だ。

 ゴボゴボ。

 ——同じだ。同じ音。同じ場所。喉。矢。泡。ボーリンと同じだ。あの洞窟で、青い光の中で、俺が——

 ゴボ、ゴボゴボゴボ……

 弩が手から落ちた。石の床を跳ねて、転がって、止まった。音が遠い。全部遠い。


 膝が折れた。


 石に手をついた。冷たい。濡れている。匂いが来た。血と鉄と糞と脂が一度に——洞窟の匂いと同じだ。

 視界が白く明滅した。石の床が消えた。青い光が来た。

 ——ボーリン。

 目の前に。あの顔。矢が喉に刺さったまま。口が動いている。何か言おうとしている。言えない。泡だけが——

 あの目。俺を見ている。何が起きたか分かっていない目。分かりかけている目。お前が、と。お前が撃った、と。

 違う。違う。あれは——

 ゴボゴボ。

 同じ喉。同じ矢。同じ泡。同じ手が同じ弦を引いた。

 心臓が暴れている。速い。速すぎる。打ち方がおかしい。息が——吸えない。吸おうとした。鉄の匂いが喉を塞いだ。吐いた。吸った。浅い。足りない。もう一度。もっと浅い。

 手が震えている。両方。床の上で。止められない。止めようとすると余計に震える。

 立て。

 立てなかった。脚が応えない。膝から下が消えている。

 視界が狭くなっている。端から暗い。中心だけが明るい——明るすぎる。目の前の男の開いた目。白い。ボーリンの目に重なる。どっちの目だ。どっちの床だ。石の上にいるのか洞窟の中にいるのか——

 ゴボゴボ。

 ——ッぐ。

 胃が持ち上がった。石の上に吐いた。体が折れて、額が冷たい石に触れた。

 動け。

 動けなかった。

 膝の上に拳を押し付けた。震えが止まらない。視界の端がまだ暗い。心臓がまだ速い。呼吸がまだ足りない。匂い。血と鉄と脂。同じだ。どこにいても同じ匂いがする。


 ——キィィィィーーン!


 ガァァァッ——!

 冷たい金属が頭蓋(ずがい)の中を裂いた。歯が(きし)んだ。ボーリンが消えた。洞窟が消えた。

 胸の中で何かが落ちていく。俺のじゃない。止まりかけている。

 分からない。何も分からない。だが今動かなければ、あいつが死ぬ。


 * * *


 朝。

 あいつは火の傍で横になっている。盗賊の寝袋に包んで、毛布を二枚重ねた。顔色が悪い。いつもより、ずっと薄い。脈は弱い。だが呼吸はしている。

 昨夜のことはあまり覚えていない。あいつを引きずった。傷を塞いだ。盗賊の荷に包帯と軟膏(なんこう)があった。深い傷には苔を詰めた。血が止まるまで押さえた。火を起こし直した。何度か脈を確かめた。そのまま朝になった。

 明るくなって、部屋の中が見えた。卓がひっくり返っている。杯が散っている。石の床が血と酒と脂で光っている。火坑(かこう)の縁に一つ、半分焼けている。髪と肉の焦げた匂いがまだ残っている。壁に飛んだものの跡。入り口の近くに、俺が撃ったやつ。喉に矢を生やしたまま。

 出した。

 一体ずつ。足首を掴んで引いた。石の上を引きずると音がする。乾いた、重い音。血の筋が床に残る。

 使えるものは()いだ。外套。靴。ベルト。ナイフ。水袋。

 火坑の縁のやつは半分焼けている。掴める場所を探した。焦げた布が手の中で崩れた。足首を掴んだ。引いた。

 俺が撃ったやつは最後にした。喉の矢には触れなかった。足首を掴んだ。引いた。

 外にもう一つ。壁の横。喉を裂かれたやつ。パイプがそばに落ちている。

 埋めなきゃいけない。このままにしたら獣が来る。

 (なた)じゃ穴は掘れない。(すき)が要る。見回した。盗賊の荷にはなかった。外を探した。壁の裏に回った。

 糞の匂い。

 浅い穴。男が仰向けに()まっている。下穿きが膝まで落ちたまま。首に——鋤が刺さっている。刃が骨を通って土まで届いている。(はえ)がたかっている。

(……糞溜め(くそだめ)で死ぬか。聖蝕(せいしょく)で死ぬより酷い死に方は、そうないと思っていたが)

 鋤の柄を掴んだ。引いた。抜けない。足を死体の肩に当てた。もう一度引いた。骨から刃が外れた。肉が裂ける音がした。

 柄が短い。血と糞がこびりついている。穴の縁に立った。男がまだ嵌まっている。下穿きが膝まで落ちたまま。蠅がたかっている。

 ——出して、向こうに埋めてやるか。

 しばらく見下ろした。

(……いや)

 足で押した。奥にずらした。鋤で脇の土を掻き落とした。もう一度。土を被せた。踏んだ。

 まあ、穴は穴だ。

 流れで鋤を洗った。刃はまだ使える。谷の奥。風下。窪地を選んだ。

 鋤を振り下ろした。刃が土に食い込んだ。石に当たった。衝撃が手首から肘まで走った。石を鉈で砕いた。手で掻き出した。また鋤を振った。土が硬い。石が多い。一振りで(すく)える量が少ない。

 掘った。

 掘り続けた。

 太陽が頭の上に来た。穴は膝の深さ。まだ足りない。鋤を突き立てて、水袋の栓を抜いた。温い。額を袖で拭って、空を見上げた。

(……山で凍え死にかけてた時はどこにいやがった)

 手のひらに水膨れができている。鋤の柄が擦れて、左の(てのひら)が赤い。

 鋤を振った。掻き出した。石を砕いた。掻き出した。日が傾いた。穴は腰の深さ。幅がまだ狭い。

 あいつの呼吸を確かめに戻った。脈。ある。毛布を直した。水を唇に垂らした。零れた。もう一度。少しだけ喉が動いた。

 穴に戻った。

 掘った。

 手のひらの水膨れが潰れた。柄が滑る。握り直した。血が柄を濡らした。暗くなるまで掘った。


 朝。穴の縁に立った。全部入る。ぎりぎり。

 一体ずつ引きずった。足首を掴んで。穴の縁まで来たら転がした。落ちる音。鈍い。

 最後の一人。喉に矢が刺さったまま。抜いた。まだ使える。足首を掴んで引いた。穴の縁で転がした。

 土を戻した。掘るより早い。鋤で掻き入れて、足で踏んだ。石を載せた。大きいのを選んで、両手で運んだ。獣が掘り返さないように。

 手を洗った。流れの水が冷たい。爪の奥に血が残っている。

(爪の奥は無理だ)

 やめた。


 中を片付けた。

 石の床に血がこびりついている。黒い。乾いている。水を撒いた。布で擦った。水が赤くなった。絞って、また擦った。膝をついて、両手で押して擦った。石の目に入り込んだ血は取れない。ある程度で止めた。

 ひっくり返った卓を起こした。割れた杯の破片を掃いた。焼けた荷を外に出した。盗賊の寝袋を並べた。あいつの横に自分の分を敷いた。中の藁はまだ使える。

 荷を壁際にまとめた。毛布。干し肉。塩。水袋が四つ。紐。火口箱(ほくちばこ)の予備。ナイフが三本。外套が二着。火酒(ひざけ)の瓶に少し残っている。斧。鉈。鍋。針と糸。


 馬が二頭、外の杭に繋がれたまま。水をやって、草地まで引いた。一頭が鼻面を手に押しつけてきた。叩いてやった。

 水場を探した。丘を二つ越えた先に流れがあった。膝をついて手を浸した。冷たい。澄んでいる。一日中、血と糞と死体を触っていた手だ。流れが指の間を通っていく。しばらくそのままにしていた。(すく)って飲んだ。革袋に詰めて担いだ。


 翌朝から罠を仕掛けた。谷の入り口の獣道に。二日目に兎が一羽かかった。小さい。皮を剥いで、鍋で煮た。

 あいつに食わせたい。だが口が開かない。汁を唇に垂らした。ほとんど零れた。顎を伝って、首筋に落ちた。布で拭いた。もう一度垂らした。零れた。三度目に、ほんの少しだけ喉が動いた。


 日が経つにつれて、手が覚えていった。盗賊の斧は重心が先端に寄りすぎている。三日目には気にならなくなった。壁の隙間を石と泥で塞いだ。入り口に枝を組んで布を張った。煙は天井の割れ目から抜ける。罠の兎は肉を裂いて乾した。塩を振った。


 三日目。遺跡の奥を探った。壁の向こうにもう一つ部屋があった。天井が半分落ちている。だが壁は厚い。二十年前に来た時には、ここまで入らなかった。苔に覆われた石の床に、文字らしきものが刻まれていた。読めない。古すぎる。隅に壊れた棚があった。木が腐りかけている。だが形は残っている。誰かがここで暮らしていた。盗賊よりずっと前に。


 あいつの傷を見た。(うろこ)の隙間に切り傷がいくつか。浅い。血は止まっている。濡らした布で固まった血を落とした。鱗が硬い。布が引っかかる。力を入れすぎると剥がれそうで、手が止まった。


 二日目の夜。あいつの指が動いた。石の床を掻くように。一度だけ。

 三日目。唇の色が少しだけ戻った。まだ薄い。だが死人の色じゃなくなった。

 四日目。呼吸が深くなった。浅く速いのが、少しだけ遅くなった。

(——戻ってきている。遅いが、戻ってきている)


 夜は壁に背をつけて座る。あいつの横。弩を膝に置いて、入り口に向けて。


 * * *


 五日目の昼。

 兎の汁を温め直した。椀に移した。あいつは壁にもたれたまま動かない。顔色は——少し戻っている。最初の夜の死人のような色はない。だがまだ、遠い。

 水を飲ませなきゃいけない。ここ二日、ほとんど入っていない。唇に垂らしても、飲み込む力がない。

(——角度が要る)

 何度か試した。横から。後ろから。頭を手で支えて。どれも零れる。喉が落ちているから、水が奥に届かない。

 あいつの横に座った。後頭部を持ち上げた。角の根元が掌に当たった。硬くて、重い。膝の上に乗せた。太腿(ふともも)に角の重さが沈む。乾いた血で固まった髪が指に絡んだ。

(——角度の問題だ。それだけだ)

 水袋の口を唇に当てた。傾けた。ゆっくりと。水が流れ込む。顎を伝って零れかけた。角度を直した。もう一度。

 ——喉が、動いた。

 もう少し傾けた。また動いた。三口。四口。

 五口目——


 目が開いた。


 紫。近い。大きい。下から俺を見上げている。

 手が止まった。水袋が傾いたまま。水が一滴、あいつの唇の端を伝って落ちた。

 間。

(——いつから起きてた)

 紫の目が動いた。水袋を見た。俺の手を見た。自分の頭がある場所を——見なかった。

 口が微かに動いた。声は出なかった。唇だけが形を作りかけて、また閉じた。何を言おうとしたのか分からない。分からなくていい。

 水袋を傾けた。何もなかったみたいに。続きを。

 あいつは飲んだ。目を閉じたまま。頭を膝から離さなかった。離す力がないのか。離さないのか。分からない。六口。七口。喉が動くたびに、振動が太腿に伝わった。

 五日間聞いていた呼吸が、今、手の中にある。

 水袋を下ろした。栓をした。あいつの目はもう閉じている。だが眉の間の力が違う。さっきまでの——ただ沈んでいるだけの顔じゃない。

 干し肉を裂いた。硬すぎる。あいつの顎じゃ噛み切れない。自分の口に入れて、噛んだ。柔らかくなるまで。手のひらに出した。あいつの唇に指を当てた。

 間。

 口が開いた。指で奥に押し込んだ。顎が動いた。遅い。力がない。もう一切れ。同じように噛んで、柔らかくして、口に入れた。

 あいつが咳き込んだ。小さく。喉の奥で引っかかったか。水袋を唇に当てた。少しだけ流し込んだ。飲んだ。落ち着いた。

 もう一切れ。噛んだ。柔らかくした。口に入れた。また一切れ。

 繰り返しているうちに、手が覚えた。裂いて、口に入れて、噛んで、出して、唇を開いて、押し込む。あいつが噛み終わるのを待って、次を入れる。

 紫の目がこちらを見ている。噛んでいる間、ずっと。俺の顎が動くのを見ている。口から手のひらに出すのを見ている。その手が自分の唇に近づくのを見ている。何も言わない。ただ見ている。

 火が()ぜた。

 ——自分が何をしているのか、急に分かった。

 魔族の女の頭を膝に乗せて、肉を噛み砕いて、口に押し込んでいる。親鳥が(ひな)にやるように。

 手が止まった。

 紫の目がまだこちらを見ている。噛みかけの肉が口の中にある。出すのも変だ。飲み込んだ。新しいのを裂いた。口に入れた。噛んだ。唇を開いて、押し込んだ。

 あいつは噛んだ。何も言わない。俺も何も言わない。火の音だけ。

 もう一切れ。噛んだ。口に入れた。今度は指ごと噛まれかけた。唇が指に触れた。一瞬。

 何も言わなかった。次の一切れを噛み始めた。噛んでいる。あいつも噛んでいる。目が合った。逸らした。

 もう一切れ。口に入れた。また目が合った。

(……気まずいな)

 紫が揺れている。火の光だ。近い。

 口が勝手に動いた。自分の胸を指した。

「アーレン」

 紫の目が——大きくなった。噛むのが止まっている。


 火が()ぜた。薪が崩れて、火の粉が上がった。紫の目がこちらを見ている。動かない。何かを測っている。

 もう一切れ噛みながら、待った。


「——シャアイラ」

 低い。(かす)れている。だが——声だ。

 頷いた。手のひらに出した。口に入れた。あいつは噛んだ。水袋を傾けてあいつの唇に当てた。飲んだ。

 火の音。噛む音。呼吸。


「……アぁ……れン」


 噛む手が止まった。こちらを見ていない。顔が横を向いている。耳の先と頬が暗くなっている。


「ズマン……ナァ」

 火が()ぜた。


「——構うな」


 もう一切れ噛んで、口に入れた。あいつは噛んだ。まだこちらを見ていない。


 避難場所がある。食料がある。水がある。

 ——名前もある。

 今は——それで十分だ。


スタンプを贈って作者を応援しよう!



みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



 ビュッ——
 風が頬を裂いた。背後で——ブスッ。ゴボゴボ。
 振り返った。
 男が立っておった。ナイフを振り上げたまま——喉から矢羽を生やして。膝が折れる。
(——もう一匹……おったのか)
 視界の端に——|弩《いしゆみ》を下ろしておる奴の姿。
(——【|ヘク《人間》】が、撃った——)
 足の力が抜けた。地面が近づいてくる。暗い。
 * * *
 ゴボゴボ。
 男が目の前で死んでいる。喉から矢羽を生やして、口から血の泡を吐いて。まだ動いている。指が石を掻いている。爪が白い筋を残している。
 俺が撃った矢だ。
 ゴボゴボ。
 ——同じだ。同じ音。同じ場所。喉。矢。泡。ボーリンと同じだ。あの洞窟で、青い光の中で、俺が——
 ゴボ、ゴボゴボゴボ……
 弩が手から落ちた。石の床を跳ねて、転がって、止まった。音が遠い。全部遠い。
 膝が折れた。
 石に手をついた。冷たい。濡れている。匂いが来た。血と鉄と糞と脂が一度に——洞窟の匂いと同じだ。
 視界が白く明滅した。石の床が消えた。青い光が来た。
 ——ボーリン。
 目の前に。あの顔。矢が喉に刺さったまま。口が動いている。何か言おうとしている。言えない。泡だけが——
 あの目。俺を見ている。何が起きたか分かっていない目。分かりかけている目。お前が、と。お前が撃った、と。
 違う。違う。あれは——
 ゴボゴボ。
 同じ喉。同じ矢。同じ泡。同じ手が同じ弦を引いた。
 心臓が暴れている。速い。速すぎる。打ち方がおかしい。息が——吸えない。吸おうとした。鉄の匂いが喉を塞いだ。吐いた。吸った。浅い。足りない。もう一度。もっと浅い。
 手が震えている。両方。床の上で。止められない。止めようとすると余計に震える。
 立て。
 立てなかった。脚が応えない。膝から下が消えている。
 視界が狭くなっている。端から暗い。中心だけが明るい——明るすぎる。目の前の男の開いた目。白い。ボーリンの目に重なる。どっちの目だ。どっちの床だ。石の上にいるのか洞窟の中にいるのか——
 ゴボゴボ。
 ——ッぐ。
 胃が持ち上がった。石の上に吐いた。体が折れて、額が冷たい石に触れた。
 動け。
 動けなかった。
 膝の上に拳を押し付けた。震えが止まらない。視界の端がまだ暗い。心臓がまだ速い。呼吸がまだ足りない。匂い。血と鉄と脂。同じだ。どこにいても同じ匂いがする。
 ——キィィィィーーン!
 ガァァァッ——!
 冷たい金属が|頭蓋《ずがい》の中を裂いた。歯が|軋《きし》んだ。ボーリンが消えた。洞窟が消えた。
 胸の中で何かが落ちていく。俺のじゃない。止まりかけている。
 分からない。何も分からない。だが今動かなければ、あいつが死ぬ。
 * * *
 朝。
 あいつは火の傍で横になっている。盗賊の寝袋に包んで、毛布を二枚重ねた。顔色が悪い。いつもより、ずっと薄い。脈は弱い。だが呼吸はしている。
 昨夜のことはあまり覚えていない。あいつを引きずった。傷を塞いだ。盗賊の荷に包帯と|軟膏《なんこう》があった。深い傷には苔を詰めた。血が止まるまで押さえた。火を起こし直した。何度か脈を確かめた。そのまま朝になった。
 明るくなって、部屋の中が見えた。卓がひっくり返っている。杯が散っている。石の床が血と酒と脂で光っている。|火坑《かこう》の縁に一つ、半分焼けている。髪と肉の焦げた匂いがまだ残っている。壁に飛んだものの跡。入り口の近くに、俺が撃ったやつ。喉に矢を生やしたまま。
 出した。
 一体ずつ。足首を掴んで引いた。石の上を引きずると音がする。乾いた、重い音。血の筋が床に残る。
 使えるものは|剥《は》いだ。外套。靴。ベルト。ナイフ。水袋。
 火坑の縁のやつは半分焼けている。掴める場所を探した。焦げた布が手の中で崩れた。足首を掴んだ。引いた。
 俺が撃ったやつは最後にした。喉の矢には触れなかった。足首を掴んだ。引いた。
 外にもう一つ。壁の横。喉を裂かれたやつ。パイプがそばに落ちている。
 埋めなきゃいけない。このままにしたら獣が来る。
 |鉈《なた》じゃ穴は掘れない。|鋤《すき》が要る。見回した。盗賊の荷にはなかった。外を探した。壁の裏に回った。
 糞の匂い。
 浅い穴。男が仰向けに|嵌《は》まっている。下穿きが膝まで落ちたまま。首に——鋤が刺さっている。刃が骨を通って土まで届いている。|蠅《はえ》がたかっている。
(……|糞溜め《くそだめ》で死ぬか。|聖蝕《せいしょく》で死ぬより酷い死に方は、そうないと思っていたが)
 鋤の柄を掴んだ。引いた。抜けない。足を死体の肩に当てた。もう一度引いた。骨から刃が外れた。肉が裂ける音がした。
 柄が短い。血と糞がこびりついている。穴の縁に立った。男がまだ嵌まっている。下穿きが膝まで落ちたまま。蠅がたかっている。
 ——出して、向こうに埋めてやるか。
 しばらく見下ろした。
(……いや)
 足で押した。奥にずらした。鋤で脇の土を掻き落とした。もう一度。土を被せた。踏んだ。
 まあ、穴は穴だ。
 流れで鋤を洗った。刃はまだ使える。谷の奥。風下。窪地を選んだ。
 鋤を振り下ろした。刃が土に食い込んだ。石に当たった。衝撃が手首から肘まで走った。石を鉈で砕いた。手で掻き出した。また鋤を振った。土が硬い。石が多い。一振りで|掬《すく》える量が少ない。
 掘った。
 掘り続けた。
 太陽が頭の上に来た。穴は膝の深さ。まだ足りない。鋤を突き立てて、水袋の栓を抜いた。温い。額を袖で拭って、空を見上げた。
(……山で凍え死にかけてた時はどこにいやがった)
 手のひらに水膨れができている。鋤の柄が擦れて、左の|掌《てのひら》が赤い。
 鋤を振った。掻き出した。石を砕いた。掻き出した。日が傾いた。穴は腰の深さ。幅がまだ狭い。
 あいつの呼吸を確かめに戻った。脈。ある。毛布を直した。水を唇に垂らした。零れた。もう一度。少しだけ喉が動いた。
 穴に戻った。
 掘った。
 手のひらの水膨れが潰れた。柄が滑る。握り直した。血が柄を濡らした。暗くなるまで掘った。
 朝。穴の縁に立った。全部入る。ぎりぎり。
 一体ずつ引きずった。足首を掴んで。穴の縁まで来たら転がした。落ちる音。鈍い。
 最後の一人。喉に矢が刺さったまま。抜いた。まだ使える。足首を掴んで引いた。穴の縁で転がした。
 土を戻した。掘るより早い。鋤で掻き入れて、足で踏んだ。石を載せた。大きいのを選んで、両手で運んだ。獣が掘り返さないように。
 手を洗った。流れの水が冷たい。爪の奥に血が残っている。
(爪の奥は無理だ)
 やめた。
 中を片付けた。
 石の床に血がこびりついている。黒い。乾いている。水を撒いた。布で擦った。水が赤くなった。絞って、また擦った。膝をついて、両手で押して擦った。石の目に入り込んだ血は取れない。ある程度で止めた。
 ひっくり返った卓を起こした。割れた杯の破片を掃いた。焼けた荷を外に出した。盗賊の寝袋を並べた。あいつの横に自分の分を敷いた。中の藁はまだ使える。
 荷を壁際にまとめた。毛布。干し肉。塩。水袋が四つ。紐。|火口箱《ほくちばこ》の予備。ナイフが三本。外套が二着。|火酒《ひざけ》の瓶に少し残っている。斧。鉈。鍋。針と糸。
 馬が二頭、外の杭に繋がれたまま。水をやって、草地まで引いた。一頭が鼻面を手に押しつけてきた。叩いてやった。
 水場を探した。丘を二つ越えた先に流れがあった。膝をついて手を浸した。冷たい。澄んでいる。一日中、血と糞と死体を触っていた手だ。流れが指の間を通っていく。しばらくそのままにしていた。|掬《すく》って飲んだ。革袋に詰めて担いだ。
 翌朝から罠を仕掛けた。谷の入り口の獣道に。二日目に兎が一羽かかった。小さい。皮を剥いで、鍋で煮た。
 あいつに食わせたい。だが口が開かない。汁を唇に垂らした。ほとんど零れた。顎を伝って、首筋に落ちた。布で拭いた。もう一度垂らした。零れた。三度目に、ほんの少しだけ喉が動いた。
 日が経つにつれて、手が覚えていった。盗賊の斧は重心が先端に寄りすぎている。三日目には気にならなくなった。壁の隙間を石と泥で塞いだ。入り口に枝を組んで布を張った。煙は天井の割れ目から抜ける。罠の兎は肉を裂いて乾した。塩を振った。
 三日目。遺跡の奥を探った。壁の向こうにもう一つ部屋があった。天井が半分落ちている。だが壁は厚い。二十年前に来た時には、ここまで入らなかった。苔に覆われた石の床に、文字らしきものが刻まれていた。読めない。古すぎる。隅に壊れた棚があった。木が腐りかけている。だが形は残っている。誰かがここで暮らしていた。盗賊よりずっと前に。
 あいつの傷を見た。|鱗《うろこ》の隙間に切り傷がいくつか。浅い。血は止まっている。濡らした布で固まった血を落とした。鱗が硬い。布が引っかかる。力を入れすぎると剥がれそうで、手が止まった。
 二日目の夜。あいつの指が動いた。石の床を掻くように。一度だけ。
 三日目。唇の色が少しだけ戻った。まだ薄い。だが死人の色じゃなくなった。
 四日目。呼吸が深くなった。浅く速いのが、少しだけ遅くなった。
(——戻ってきている。遅いが、戻ってきている)
 夜は壁に背をつけて座る。あいつの横。弩を膝に置いて、入り口に向けて。
 * * *
 五日目の昼。
 兎の汁を温め直した。椀に移した。あいつは壁にもたれたまま動かない。顔色は——少し戻っている。最初の夜の死人のような色はない。だがまだ、遠い。
 水を飲ませなきゃいけない。ここ二日、ほとんど入っていない。唇に垂らしても、飲み込む力がない。
(——角度が要る)
 何度か試した。横から。後ろから。頭を手で支えて。どれも零れる。喉が落ちているから、水が奥に届かない。
 あいつの横に座った。後頭部を持ち上げた。角の根元が掌に当たった。硬くて、重い。膝の上に乗せた。|太腿《ふともも》に角の重さが沈む。乾いた血で固まった髪が指に絡んだ。
(——角度の問題だ。それだけだ)
 水袋の口を唇に当てた。傾けた。ゆっくりと。水が流れ込む。顎を伝って零れかけた。角度を直した。もう一度。
 ——喉が、動いた。
 もう少し傾けた。また動いた。三口。四口。
 五口目——
 目が開いた。
 紫。近い。大きい。下から俺を見上げている。
 手が止まった。水袋が傾いたまま。水が一滴、あいつの唇の端を伝って落ちた。
 間。
(——いつから起きてた)
 紫の目が動いた。水袋を見た。俺の手を見た。自分の頭がある場所を——見なかった。
 口が微かに動いた。声は出なかった。唇だけが形を作りかけて、また閉じた。何を言おうとしたのか分からない。分からなくていい。
 水袋を傾けた。何もなかったみたいに。続きを。
 あいつは飲んだ。目を閉じたまま。頭を膝から離さなかった。離す力がないのか。離さないのか。分からない。六口。七口。喉が動くたびに、振動が太腿に伝わった。
 五日間聞いていた呼吸が、今、手の中にある。
 水袋を下ろした。栓をした。あいつの目はもう閉じている。だが眉の間の力が違う。さっきまでの——ただ沈んでいるだけの顔じゃない。
 干し肉を裂いた。硬すぎる。あいつの顎じゃ噛み切れない。自分の口に入れて、噛んだ。柔らかくなるまで。手のひらに出した。あいつの唇に指を当てた。
 間。
 口が開いた。指で奥に押し込んだ。顎が動いた。遅い。力がない。もう一切れ。同じように噛んで、柔らかくして、口に入れた。
 あいつが咳き込んだ。小さく。喉の奥で引っかかったか。水袋を唇に当てた。少しだけ流し込んだ。飲んだ。落ち着いた。
 もう一切れ。噛んだ。柔らかくした。口に入れた。また一切れ。
 繰り返しているうちに、手が覚えた。裂いて、口に入れて、噛んで、出して、唇を開いて、押し込む。あいつが噛み終わるのを待って、次を入れる。
 紫の目がこちらを見ている。噛んでいる間、ずっと。俺の顎が動くのを見ている。口から手のひらに出すのを見ている。その手が自分の唇に近づくのを見ている。何も言わない。ただ見ている。
 火が|爆《は》ぜた。
 ——自分が何をしているのか、急に分かった。
 魔族の女の頭を膝に乗せて、肉を噛み砕いて、口に押し込んでいる。親鳥が|雛《ひな》にやるように。
 手が止まった。
 紫の目がまだこちらを見ている。噛みかけの肉が口の中にある。出すのも変だ。飲み込んだ。新しいのを裂いた。口に入れた。噛んだ。唇を開いて、押し込んだ。
 あいつは噛んだ。何も言わない。俺も何も言わない。火の音だけ。
 もう一切れ。噛んだ。口に入れた。今度は指ごと噛まれかけた。唇が指に触れた。一瞬。
 何も言わなかった。次の一切れを噛み始めた。噛んでいる。あいつも噛んでいる。目が合った。逸らした。
 もう一切れ。口に入れた。また目が合った。
(……気まずいな)
 紫が揺れている。火の光だ。近い。
 口が勝手に動いた。自分の胸を指した。
「アーレン」
 紫の目が——大きくなった。噛むのが止まっている。
 火が|爆《は》ぜた。薪が崩れて、火の粉が上がった。紫の目がこちらを見ている。動かない。何かを測っている。
 もう一切れ噛みながら、待った。
「——シャアイラ」
 低い。|掠《かす》れている。だが——声だ。
 頷いた。手のひらに出した。口に入れた。あいつは噛んだ。水袋を傾けてあいつの唇に当てた。飲んだ。
 火の音。噛む音。呼吸。
「……アぁ……れン」
 噛む手が止まった。こちらを見ていない。顔が横を向いている。耳の先と頬が暗くなっている。
「ズマン……ナァ」
 火が|爆《は》ぜた。
「——構うな」
 もう一切れ噛んで、口に入れた。あいつは噛んだ。まだこちらを見ていない。
 避難場所がある。食料がある。水がある。
 ——名前もある。
 今は——それで十分だ。