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第3話:深淵への道

ー/ー



 夜明け前の冷気が、骨まで染みていた。

 東門の下、俺たちは集まっていた。空には(あざ)のような雲が垂れ込め、風がマントの(すそ)をはためかせる。砦の淀んだ息——()えたエールと湿った寝具、そして腐った残飯(ざんぱん)の臭い——を、狭い路地から運び出していた。

 門が(うな)りながら開く。死にかけた獣の(うめ)き声のようだった。

 ボーリンはすでに門の外にいた。泥だらけの道の向こうをうかがっている。俺は地図の写しを彼に渡した。

 キールは足を交互に動かし、手を丸めて息を吹きかけ、腰の剣をやや大げさな動作で調整していた。「まあ、心配すんなって、エララ。この俺がいるんだ、ちょいと散歩して、約束の酒でも(おご)ってやるさ。なあ?」

 エララは、医療袋の確認から顔を上げなかった。「前に言ったはずよ、キール。私は泳げない男に興味はない、と」

 門の横の石にもたれていたライラが、短く鋭い笑い声を上げた。「はっ! なんだお前、カナヅチだったのか。……ちっ、先に知ってりゃ、とっくにどっかの小川にでも突き落としてやったのによ」

 キールは顔を赤くして口ごもった。

 エララの視線が、俺の手袋をした左手に向けられた。何も言わず、ただ袋をしっかりと固定した。

 俺はかすかにうなずいた。

 * * *

 門をくぐった。風が変わった。砦の淀みが背中に落ち、前からは土と草の腐った匂いが来る。泥だらけの道。濃く、まとわりつく泥がブーツに吸い付き、一歩ごとに体温を奪っていく。

 一時間も歩いた頃、道が急に下る区間に達した。濁った雨水が道を寸断(すんだん)し、泥の沼と化している。中央は(ひざ)までありそうだ。俺とボーリンは端を偵察し、諦めて渡った。冷たさがすぐに革越しに突き刺さる。ライラは嫌悪(けんお)を隠さずに続いた。エララはスカートを高く上げ、少し躊躇(ちゅうちょ)してから慎重に足を踏み入れた。

 だが、キールはぴたりと足を止めた。その顔から血の気が引いている。

「嘘だろ、あの泥を見ろよ」彼はつぶやいた。声が上擦(うわず)っている。茶色い水を覗き込み、泥の中から何かが飛び出してくるのを本気で警戒している。「ひどい有様だ。たぶん……回り道があるんじゃないか?」

 半分渡ったライラが、鼻で笑って振り返った。「ぐずぐずしてると、本物の化け物に足首を食われるぞ。さっさと渡れ、坊や」

 キールは(つば)を飲み、神経質に目を動かす。恐る恐る一歩踏み入れると、凍るような水がブーツに流れ込み、鋭く息を吸って後ずさった。目に見えて震えている。

「おい、キール」俺は、感情を殺した声で呼びかけた。「端を通れ。そっちのほうが浅い」

 キールは最終的に自分を奮い立たせて渡りきった。歯をガチガチ鳴らし、水から出るまで悪態(あくたい)をつき続けていた。

 * * *

 道が登り始めた。泥が岩に変わり、足場が硬くなる。左手に、浅い渓谷(けいこく)が口を開けていた。幅は馬車一台分もない。両側の崖が迫り、上から灌木(かんぼく)が垂れ下がって暗い。古い道標が半分、泥に埋まっている。文字は読めない。

 足が止まった。

(——塵渓)

 十五年前。商団の護衛。俺の情報で近道を選んだ。こんな谷だった。こんな幅。両側が崖で、逃げ場がない。

 伏兵(ふくへい)は崖の上にいた。

 商人の夫婦が死んだ。男は妻を(かば)おうとして背中に矢を受けた。女はその隣で——

 俺の情報だった。俺が選んだ道だった。

 荷台の裏に、娘がいた。十三。手の中に、川原の石を握りしめていた。

 足が止まっていた。どれくらいそうしていたか分からない。

 誰も何も聞かなかった。

 足が動いた。渓谷が後ろへ流れていく。

 ライラは前を歩いている。革紐に通された川石が、歩くたびに背中で揺れていた。

 * * *

 臭い——足が止まった。

 道の脇に、小さな棘山羊(とげやぎ)が横たわっている。

 エララはしゃがみ込んだ。慎重な距離は保っている。毛皮の下、皮膚が青白く変色(へんしょく)している。甘い腐敗臭(ふはいしゅう)が鼻を突いた。

「聖蝕(せいしょく)ね」

 俺は彼女の横にしゃがみ、死骸(しがい)吟味(ぎんみ)した。「ああ。間違いない」

「でも、この痩せ方……急性(きゅうせい)じゃないわね。毛もまだらに抜けてる」エララは眉をひそめ、俺を見た。「慢性曝露(まんせいばくろ)?」

「水だ」俺は立ち上がり、視線を岩だらけの斜面に向けた。「上のどこかに欠片が埋まってる。最近の揺れで岩が割れて、毒が水に垂れ落ちた。こいつは、それを何週間も飲み続けたんだろう」

文献(ぶんけん)では、そこまで離れた水源(すいげん)への汚染(おせん)は稀だと……」

「稀だが、ある。死体が出るまで誰も気づかねえのが、一番厄介(やっかい)なところだ」

「触らない方がいい」ライラが言った。死骸から目を離さない。「……ここ、氷を吸ってるみたいに冷たい」

 キールは、目に見えて唾を飲んだ。目を見開いて、死骸を見つめている。「女神様……」

 ボーリンが初めて口を開いた。「もし水が汚染されているなら……」

「水は手持ち分だけだ。この辺の川には手を出すな。いいな?」俺は順番に一人一人を見た。「それから、目眩(めまい)幻覚(げんかく)鼻血(はなぢ)……どれか一つでも兆候が出たら、即座に言え。隠すな」

 胃の底が冷たくなった。

 俺は腰のナイフを抜き、山羊の頭蓋(ずがい)に突き立てた。乾いた音。引き抜き、泥で拭う。

 ライラの目が細まった。「……なんだ、それ。もう死んでるだろ」

「気にするな。欠片狩(かけらが)りの古い習慣だ」

 ナイフを(さや)に戻す。

 * * *

 山の冷気を(にじ)み出す巨岩(きょがん)の陰に身を寄せ、マントを引き裂くような風からかろうじて身を守る。湿った小枝は頑固に煙を上げるばかりだったが、ボーリンが黙って差し出した乾いた(ふん)(こけ)のおかげで、弱々しい火が生まれた。木のように硬い乾燥肉と、ぬるい穀物粥(こくもつがゆ)。誰も口を開かなかった。

「なあ、エララ」キールが、全員に聞こえるくらいの独り言をつぶやいた。「俺たちが結婚したら、あんたの作る飯はもうちっと柔らかいといいんだが。こんな石みたいな肉じゃ、愛も冷めちまう」

 エララは、粥をかき混ぜる手も止めずに答えた。声も風のように刺した。「心配無用よ、キール。あなたは、私の愛の温もりを感じる前に、この干し肉で窒息死(ちっそくし)するから」

 * * *

 見張りを組み、装備を固定する。俺は弱い炎を見つめていた。聖蝕が冷たく脈打つ。

 キールが少し離れて座り、剣を音もなく()いでいた。あの特徴的な籠手鍔(こてつば)——匠王国(しょうおうこく)製の名品だ。キールの他の粗野(そや)な装備と比べると、場違いなほど上等に見える。

 火の光の中で、キールは小さな砥石(といし)を持ち、ゆっくりと、寸分(すんぶん)の狂いもなく刃に沿って引いていた。石が(はがね)を擦る音は静かで規則正しく、風の唸りの中でほとんど祈りのように響く。一つ一つの動きに無駄がない。終わると、同じ細心(さいしん)の注意で刃を拭き、静かに(さや)へと収めた。

 キールは顔を上げ、俺の目を捉えた。

「……そんなに見つめられると、照れるぜ、アーレン」

 俺はただ唸り、火に視線を戻した。

(怖がっているのだろう。いいことだ)


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 夜明け前の冷気が、骨まで染みていた。
 東門の下、俺たちは集まっていた。空には|痣《あざ》のような雲が垂れ込め、風がマントの|裾《すそ》をはためかせる。砦の淀んだ息——|酸《す》えたエールと湿った寝具、そして腐った|残飯《ざんぱん》の臭い——を、狭い路地から運び出していた。
 門が|唸《うな》りながら開く。死にかけた獣の|呻《うめ》き声のようだった。
 ボーリンはすでに門の外にいた。泥だらけの道の向こうをうかがっている。俺は地図の写しを彼に渡した。
 キールは足を交互に動かし、手を丸めて息を吹きかけ、腰の剣をやや大げさな動作で調整していた。「まあ、心配すんなって、エララ。この俺がいるんだ、ちょいと散歩して、約束の酒でも|奢《おご》ってやるさ。なあ?」
 エララは、医療袋の確認から顔を上げなかった。「前に言ったはずよ、キール。私は泳げない男に興味はない、と」
 門の横の石にもたれていたライラが、短く鋭い笑い声を上げた。「はっ! なんだお前、カナヅチだったのか。……ちっ、先に知ってりゃ、とっくにどっかの小川にでも突き落としてやったのによ」
 キールは顔を赤くして口ごもった。
 エララの視線が、俺の手袋をした左手に向けられた。何も言わず、ただ袋をしっかりと固定した。
 俺はかすかにうなずいた。
 * * *
 門をくぐった。風が変わった。砦の淀みが背中に落ち、前からは土と草の腐った匂いが来る。泥だらけの道。濃く、まとわりつく泥がブーツに吸い付き、一歩ごとに体温を奪っていく。
 一時間も歩いた頃、道が急に下る区間に達した。濁った雨水が道を|寸断《すんだん》し、泥の沼と化している。中央は|膝《ひざ》までありそうだ。俺とボーリンは端を偵察し、諦めて渡った。冷たさがすぐに革越しに突き刺さる。ライラは|嫌悪《けんお》を隠さずに続いた。エララはスカートを高く上げ、少し|躊躇《ちゅうちょ》してから慎重に足を踏み入れた。
 だが、キールはぴたりと足を止めた。その顔から血の気が引いている。
「嘘だろ、あの泥を見ろよ」彼はつぶやいた。声が|上擦《うわず》っている。茶色い水を覗き込み、泥の中から何かが飛び出してくるのを本気で警戒している。「ひどい有様だ。たぶん……回り道があるんじゃないか?」
 半分渡ったライラが、鼻で笑って振り返った。「ぐずぐずしてると、本物の化け物に足首を食われるぞ。さっさと渡れ、坊や」
 キールは|唾《つば》を飲み、神経質に目を動かす。恐る恐る一歩踏み入れると、凍るような水がブーツに流れ込み、鋭く息を吸って後ずさった。目に見えて震えている。
「おい、キール」俺は、感情を殺した声で呼びかけた。「端を通れ。そっちのほうが浅い」
 キールは最終的に自分を奮い立たせて渡りきった。歯をガチガチ鳴らし、水から出るまで|悪態《あくたい》をつき続けていた。
 * * *
 道が登り始めた。泥が岩に変わり、足場が硬くなる。左手に、浅い|渓谷《けいこく》が口を開けていた。幅は馬車一台分もない。両側の崖が迫り、上から|灌木《かんぼく》が垂れ下がって暗い。古い道標が半分、泥に埋まっている。文字は読めない。
 足が止まった。
(——塵渓)
 十五年前。商団の護衛。俺の情報で近道を選んだ。こんな谷だった。こんな幅。両側が崖で、逃げ場がない。
 |伏兵《ふくへい》は崖の上にいた。
 商人の夫婦が死んだ。男は妻を|庇《かば》おうとして背中に矢を受けた。女はその隣で——
 俺の情報だった。俺が選んだ道だった。
 荷台の裏に、娘がいた。十三。手の中に、川原の石を握りしめていた。
 足が止まっていた。どれくらいそうしていたか分からない。
 誰も何も聞かなかった。
 足が動いた。渓谷が後ろへ流れていく。
 ライラは前を歩いている。革紐に通された川石が、歩くたびに背中で揺れていた。
 * * *
 臭い——足が止まった。
 道の脇に、小さな|棘山羊《とげやぎ》が横たわっている。
 エララはしゃがみ込んだ。慎重な距離は保っている。毛皮の下、皮膚が青白く|変色《へんしょく》している。甘い|腐敗臭《ふはいしゅう》が鼻を突いた。
「聖蝕《せいしょく》ね」
 俺は彼女の横にしゃがみ、|死骸《しがい》を|吟味《ぎんみ》した。「ああ。間違いない」
「でも、この痩せ方……|急性《きゅうせい》じゃないわね。毛もまだらに抜けてる」エララは眉をひそめ、俺を見た。「|慢性曝露《まんせいばくろ》?」
「水だ」俺は立ち上がり、視線を岩だらけの斜面に向けた。「上のどこかに欠片が埋まってる。最近の揺れで岩が割れて、毒が水に垂れ落ちた。こいつは、それを何週間も飲み続けたんだろう」
「|文献《ぶんけん》では、そこまで離れた|水源《すいげん》への|汚染《おせん》は稀だと……」
「稀だが、ある。死体が出るまで誰も気づかねえのが、一番|厄介《やっかい》なところだ」
「触らない方がいい」ライラが言った。死骸から目を離さない。「……ここ、氷を吸ってるみたいに冷たい」
 キールは、目に見えて唾を飲んだ。目を見開いて、死骸を見つめている。「女神様……」
 ボーリンが初めて口を開いた。「もし水が汚染されているなら……」
「水は手持ち分だけだ。この辺の川には手を出すな。いいな?」俺は順番に一人一人を見た。「それから、|目眩《めまい》、|幻覚《げんかく》、|鼻血《はなぢ》……どれか一つでも兆候が出たら、即座に言え。隠すな」
 胃の底が冷たくなった。
 俺は腰のナイフを抜き、山羊の|頭蓋《ずがい》に突き立てた。乾いた音。引き抜き、泥で拭う。
 ライラの目が細まった。「……なんだ、それ。もう死んでるだろ」
「気にするな。|欠片狩《かけらが》りの古い習慣だ」
 ナイフを|鞘《さや》に戻す。
 * * *
 山の冷気を|滲《にじ》み出す|巨岩《きょがん》の陰に身を寄せ、マントを引き裂くような風からかろうじて身を守る。湿った小枝は頑固に煙を上げるばかりだったが、ボーリンが黙って差し出した乾いた|糞《ふん》と|苔《こけ》のおかげで、弱々しい火が生まれた。木のように硬い乾燥肉と、ぬるい|穀物粥《こくもつがゆ》。誰も口を開かなかった。
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 エララは、粥をかき混ぜる手も止めずに答えた。声も風のように刺した。「心配無用よ、キール。あなたは、私の愛の温もりを感じる前に、この干し肉で|窒息死《ちっそくし》するから」
 * * *
 見張りを組み、装備を固定する。俺は弱い炎を見つめていた。聖蝕が冷たく脈打つ。
 キールが少し離れて座り、剣を音もなく|研《と》いでいた。あの特徴的な|籠手鍔《こてつば》——|匠王国《しょうおうこく》製の名品だ。キールの他の|粗野《そや》な装備と比べると、場違いなほど上等に見える。
 火の光の中で、キールは小さな|砥石《といし》を持ち、ゆっくりと、|寸分《すんぶん》の狂いもなく刃に沿って引いていた。石が|鋼《はがね》を擦る音は静かで規則正しく、風の唸りの中でほとんど祈りのように響く。一つ一つの動きに無駄がない。終わると、同じ|細心《さいしん》の注意で刃を拭き、静かに|鞘《さや》へと収めた。
 キールは顔を上げ、俺の目を捉えた。
「……そんなに見つめられると、照れるぜ、アーレン」
 俺はただ唸り、火に視線を戻した。
(怖がっているのだろう。いいことだ)