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第2話:蝕まれた男

ー/ー



 冒険者の(とりで)——現在
 女神たちが堕ち、砕け散ってから約1820年後

 * * *

 暗い。

 蝋燭(ろうそく)が一本、窓枠の上で痩せた炎を(とも)している。蝋が垂れて木を焦がした跡が、何層にも重なっていた。

 ライラの手が、俺の腹を滑った。指先が冷たい。

 壁の染みが目に入る。天井まで這っている。雨漏りか、カビか。階下から(くさ)った樽の酸っぱい臭いが、薄い床板を通して昇ってくる。

 彼女の手が、下に降りた。俺の体はもう応えていた。

 彼女が跨った。

 ベッドが鳴った。木枠の()ぎ目がずれる、あの聞き慣れた音。こいつはいつか俺たちの下で折れる。膝が俺の脇腹に食い込む。腰を降ろした。

「——ン……」

 喉の奥で潰したような声が、腹に響いた。俺は彼女の腰を掴んだ。指がその柔らかな肉感に深く沈み込む。

 彼女が動いた。ゆっくりと。前に(かし)ぐたびに、蝋燭の光が鎖骨の窪みに溜まった汗を光らせた。

 ベッドが鳴る。ギシ。ギシ。

 俺は片手を彼女の後頭部に回し、陽に灼けた麦わらのような金髪を掴んだ。根元から。引いた。首が()け反る。蝋燭の光が首筋の(けん)を浮かび上がらせた。

「ッ——ァ……ン……」

 汗の匂い。煙の匂い。安エールが染みた髪の匂い。その下に、彼女自身の匂い。

 川石が胸の上で揺れていた。擦り切れた革紐(かわひも)に通された丸い石が、彼女が動くたびに俺の肌を叩く。冷たい。

(……まだあの石かよ)

 腰を突き上げた。彼女の指が俺の肩に食い込んだ。

 爪が皮膚を裂いた。

 彼女の胸が俺の胸に押しつけられ、心臓の鼓動が肋骨(ろっこつ)越しに伝わってくる。天井の染みが視界の端で揺れる。

 ギシ。ギシ。ギシ。

 速くなった。呼吸が荒い。俺のも。彼女のも。彼女の腹が俺の上で痙攣(けいれん)している。髪を握った手に力を入れた。もう片方の手で腰骨を押さえつけた。

「ン——ッ、ァ——」

 いつもより、強く俺を掴んでいる。爪が肩の肉に埋まっている。痛い。

 彼女が先に震えた。全身が硬直し、膝が俺の脇腹を締めつけた。喉の奥で、何かが詰まる音がした。顔を俺の首筋に埋めた。

 俺もすぐ後に。目の裏が白くなり、背骨の底から熱が駆け上がった。ベッドの木枠が一際大きく(きし)み、どこかで継ぎ目が外れる音がした。

 * * *

 天井の染みを見ていた。彼女は俺の胸に頬を預けたまま動かない。息が鎖骨にかかる。川石が二人の間に挟まって、肋骨に冷たく押し当てられていた。

 蝋燭がまだ燃えている。階下で、何かが倒れる鈍い音。酔い潰れた誰かが椅子から落ちたのだろう。

 彼女の指が、俺の左手に触れた。

 震えていた。俺の手が。

 止まらない。

「前より酷くなってる」

「寒さのせいだろ」

「嘘つき」

 しばらく、そのままだった。

 それからライラは身を起こした。俺の上から降り、床に落ちた肌着を拾い、頭からかぶる。背中が見えた。肩甲骨(けんこうこつ)の間に古い傷跡。蝋燭の光が、背骨の稜線(りょうせん)をなぞっていた。立ち上がり、革鎧の紐に手をかける。

「蝕止(しょくど)めは」

「……二週間分」

 革紐を締める手が、一瞬止まった。見えた。

「金になる話がある。聞く?」

 * * *

「東の峠の話」

 俺も着替えながら聞いた。汗の冷えた肌にリネンが張りつく。手袋を()める。震えが、革の下に隠れた。

「ギルドで聞いた。巡回隊(じゅんかいたい)も避けてるってさ」

「巡回隊が?」

「ああ。空気が硝子(ガラス)みたいに脆くて、肌を何かが這うような気がするって。静かすぎて、何もかもが止まっちまったみたいだって」

(巡回隊が避ける場所——)危険。つまり、金になるかもしれない。

「他には?」

「たぶん、ただの神経過敏と悪いエールのせいさ」肩をすくめた。川石が揺れた。「でも……気になった。ここの掲示板を眺めてるよりはマシだろ」

「降りるか」

「ボーリンと他の連中が何か聞いてないか確かめよう」

 * * *

 階段は十二段。三段目と七段目が特にひどく軋む。最後の段を降りた時、冷たい空気が首筋の汗に触れた。酸っぱいエール、床板に染みた泥、消えかけの炉の灰。誰かがテーブルに突っ伏して寝ている。(よだれ)が木目に沿って垂れていた。

 ライラは俺の三歩先を歩いていた。

 キールとエララは、すでに奥の隅のテーブルにいた。キールは赤ら顔(あからがお)で、すでに半ば酔っている。

「……まともな契約が一つもねえ! ネズミの皮剥ぎと肥溜(こえだ)めの見張りだけだ!」

 錫の(さかずき)を叩きつけ、エールを飛び散らせた。

 エララは彼の横で静かに座り、粘つくテーブルの上に広げた清潔な布の上で、医療器具を丹念(たんねん)に磨いていた。銀の耳飾(みみかざ)りがランプの光を鈍く弾く。聖庁都(せいちょうと)紋章(もんしょう)。あの街から何で逃げてきたのか、俺は聞いたことがない。聞く気もない。

「アーレン! ライラ! やっと来たか!」キールが怒鳴り、さらにエールをこぼした。「何か見つけたか? それとも俺たち勇者は、糞荷車の見張りのままか?」

「最近まともな仕事があったか? 一つもねえだろ」

 俺は短く答え、ライラの横のベンチに腰を下ろした。エールの杯を引き寄せる。左手が震えた。杯の中身が揺れる。

 キールの目がそこに留まった。

「おい、アーレン。そっちの方がよっぽど問題じゃねえか」顎で俺の手を指した。「エララ、お前の薬草でどうにかならんのか? あれだけ持ってるんだからよ」

 エララは手を止めなかった。メスの刃を布で拭きながら、冷たく答える。

「蝕止めは薬草では作れない。魔族(まぞく)の血が要る」

「魔族の——」キールが口を開けた。

「それに」エララは続けた。「仮に血が手に入ったとして、精製(せいせい)の術式を知っているのは聖庁都の巫女(みこ)だけ。私の手には余る」

 キールは口をつぐんだ。

「……高えわけだ」

「ああ。高い」

 俺はエールを飲んだ。苦い。薄い。

「やっぱりな!」キールは再び杯を叩きつけた。テーブルが揺れ、エララの道具が跳ねる。メスがチンキ剤(ちんきざい)小瓶(こびん)に当たり、危うく倒れそうになった。エララは素早く手を伸ばし、小瓶を掴んだ。氷のような視線でキールを射抜(いぬ)く。

「いい加減にしなさい、この酔っ払い」

 低く、張り詰めた声だった。キールはニヤリと笑う。

「おいおい、美人にしてはずいぶん口が悪いじゃないか」

「なら、もう一度私の道具に触れてみなさい。次の薬に『間違えて』影蔭草(かげかげそう)を混ぜてやる。お前の内臓(ないぞう)がさぞ『美しい』ことになるでしょうね」

 キールの顔から笑みが消えた。

 その時、ボーリンが音もなく俺の隣の席に滑り込む。油紙(あぶらがみ)の包みをエララの近くに置いた。「薬草だ」エララはそれを取り上げる。「今回は良質?」ボーリンは短くうなずく。「十分だ」

 ライラがカウンターへ向かった。

「おいグロク、てめえのションベンが入ってねえ酒は無えのか?」

 山のような親父が、ニヤリと笑った。「ライラみたいな上等な女には、特別なのを隠してある。高くて、硬くて、可愛い口専用の逸品(いっぴん)だ」

 ライラの唇に薄笑いが浮かぶ。彼女は少し身を乗り出した。「へえ、四十年ものの枯れた樽か。中身はとっくに酢になってんじゃないの」

 バーテンダーが大声で笑った。「ハッ! 失せろ、ライラ。エールが欲しいのか欲しくないのか?」

 俺は鼻から息を吐いた。その時、喧騒(けんそう)の向こうから、砥石(といし)で擦るようなしわがれ声が響いた。

「——三日前だ。東の尾根(おね)の近くでな。何かを感じた」

 酒場のざわめきが、一瞬止んだ。

「空気が薄くなった。寒さで歯が痛んだ。すべてが……止まった」

 ヨルンの視線は遠い。焦点が合っていない。

「鳥もいない。虫も鳴かねえ。ただ沈黙。骨の(ずい)まで染みるような、おかしな種類の沈黙だ。ギルドの巡回隊は今、あの尾根を避けてるって話だ」

 俺はボーリンと視線を交わした。東の峠——巡回隊が逃げ出すほどの場所が、ただの噂話で済むか。これは金になる。俺は身を乗り出した。ボーリンは短くうなずいた。

幽霊(ゆうれい)になる手っ取り早い方法みたいだな」キールは言った。口調は軽いが、目がちらりと俺を見た。「だが、巡回隊が怖がってるなら、ギルドは調査に高く払うかもしれねえ」

 エララは薬草から顔を上げた。目が細くなった。

「脆い空気? 奇妙な臭い? ……聖穢(せいえ)兆候(ちょうこう)かも——」

 胸が締め付けられた。欠片——本物なら、王国が殺し合うほどの値がつく。

(銀貨。それだけだ。あと数ヶ月、息ができればいい)

「危険なのは分かってる」俺は仲間たちの目を見た。「降りたいなら、それでいい。だが、俺にはもう選択肢がねえ。噂が本当なら、ギルドは依頼を出す。たぶん偵察(ていさつ)だ。それだけでもそこそこの金になる。もし欠片だったら……かなりの金だ」

「明日ギルドに行く。これが本物か確かめる。誰か来るか?」

 沈黙。誰も断らない。

 やがて、エールを持って戻ってきたライラが肩をすくめた。「ここで腐って死ぬよりはマシさ」

 キールは一拍おいて、ただうなずいた。エララはため息をつき、薬草をしまい始めた。ボーリンだけが、まっすぐ俺を見た。「ギルドの依頼書を見てからだ。そこから危険度(きけんど)を測る」

(五人か)

 * * *

 目を開けた。壁が濡れていた。砦の石壁から(にじ)み出すカビのような湿り気。体の芯が(きし)む。

 俺とボーリンはギルドホールへ向かった。他の者たちとは、後で合流する手筈(てはず)だ。

 泥。寒さ。いつもの砦だ。

 道と呼べるものは泥沼に消えていた。タールのように濃く、(ねば)つく茶色。荷車が刻んだ深い(わだち)は、悪臭(あくしゅう)を放つ水の(みぞ)と化している。ブーツが水しぶきを上げ、冷たい泥が熱を奪っていく。道行く連中、誰も目を合わせない。泥色の服、泥色の顔。

 カァン……カァン……

 かつて市場だった方角から、鍛冶(かじ)の音。一軒だけ、まだ火が生きてる。熱い金属の匂いが、腐臭(ふしゅう)の中で妙に懐かしい。

 ギルドホールの重い扉を押し開けた。(すす)と汗の臭い。空気が肺にまとわりつく。壁一面の掲示板。傷んだ羊皮紙(ようひし)が、端から端まで貼り付けられている。護衛(ごえい)依頼、変異獣(へんいじゅう)賞金首(しょうきんくび)、必死の申し出。冒険者たちが集まっている。擦り切れた革、()びた鎖帷子(くさりかたびら)。小声で情報を交換し、互いを値踏(ねぶ)みしていた。

 書記官は、受付の後ろに座っていた。(ひげ)はきちんと整えられ、ベストはインクで汚れている。目は死んだ魚のように、光を映さない。

「昨夜、ある噂を聞いた」俺は荒い声で切り出した。書記官はゆっくりと顔を上げたが、その目は(うつ)ろなままだ。「東の峠の向こうだ。奇妙な光、死んだような静寂、巡回隊も避けている。——聖穢の兆候だ」

 書記官の指が止まった。ほんの一瞬。

「その話はあんたが初めてじゃない」一拍置いて彼は言った。声は、乾いた羊皮紙をめくるようにざらついている。「それで?」

 書記官は(まばた)きすると、カウンターの下から厚い書類の束を引き出した。「報告はいくつか受けている。だが未確認(みかくにん)だ。ギルドは確証(かくしょう)なしに正式な依頼は掲示(けいじ)しない」

「だが、何かをまとめているはずだ」ボーリンが静かに口を挟んだ。

 書記官は疲れたようにうなずき、二人の間で視線を動かした。「内容は偵察。洞窟の測量(そくりょう)と、『神の欠片』の探索(たんさく)。……あれば、だがな」

 左手が跳ねた。手袋の中で。

 彼は特定の羊皮紙を指で叩いた。「まだ本決まりではない。斥候(せっこう)帰還(きかん)を待っている。今日の午後には準備できるはずだ」

「報酬は?」

「詳細な地域測量で銀貨五十枚。神の欠片を発見して位置を記録すれば、さらに百枚」書記官は間を置いた。「完全な回収任務(かいしゅうにんむ)になればもっと出る。だがそれは全く別の仕事で、(ともな)う危険も比べ物にならん」

(五十枚……!)

 心臓が跳ねた。頭蓋(ずがい)の奥が、鈍く脈打っている。

(山分けしても、数週間はこの震えを止められる……!)

 手が手袋の中で震える。俺は身を乗り出し、声を落とした。「俺たちが受ける。最初の権利は俺たちだ。ここで待つ」

 書記官の視線が俺の手袋をした左手に留まった。

「正午過ぎに戻ってこい」彼はついに言った。「依頼が上がれば、あんたたちのものだ」

「峠が開く直前から続いてる話だ」ボーリンが静かに言った。書記官にではない。俺に。

 書記官は興味を失ったようにうなずき、書類作業に戻った。

「いや、俺が残る」

 俺は眉を上げた。

「俺たちがいなければ、他の誰かがこの仕事を持っていく。それだけだ」ボーリンは書記官を見据えたまま述べた。「お前は行け。休め。他の連中にも知らせろ。俺が誰も割り込ませない」

 反論しかけた。だが、膝が重い。視界の端がちらついている。

「すまんな……ボーリン」

 * * *

 正午過ぎにギルドホールに戻ると、ボーリンが歩哨(ほしょう)のように書記官の机の近くに立っている。俺の目を捉え、ほとんど分からないほど小さくうなずいた。

 書記官はさらに憔悴(しょうすい)した様子で、ため息をつく。「依頼が上がった。東の峠の偵察任務だ」親指で掲示板の方を指した。そこには新しい、急いで走り書きされた羊皮紙が掛かっている。「詳細は記録済みだ。あんたたちのものだ」

 俺は掲示板へ向かう。東の峠。偵察。測量。神の欠片の可能性。標準ギルド料金。書記官が差し出した鈍い炭の筆記具(ひっきぐ)で、仲間たちの名前を署名した。羊皮紙を擦る炭の音が、妙に大きく響く。

 * * *

 ライラは隣で眠っている。呼吸が深い。背中がこちらを向いていた。

 左手が震えている。手袋は外してある。暗闇の中で、指が勝手に痙攣するのを見ていた。

 二週間分。山分けした報酬で、もう少し延ばせるかもしれない。延ばせなければ——

 考えるな。

 明日は峠だ。


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 冒険者の|砦《とりで》——現在
 女神たちが堕ち、砕け散ってから約1820年後
 * * *
 暗い。
 |蝋燭《ろうそく》が一本、窓枠の上で痩せた炎を|灯《とも》している。蝋が垂れて木を焦がした跡が、何層にも重なっていた。
 ライラの手が、俺の腹を滑った。指先が冷たい。
 壁の染みが目に入る。天井まで這っている。雨漏りか、カビか。階下から|腐《くさ》った樽の酸っぱい臭いが、薄い床板を通して昇ってくる。
 彼女の手が、下に降りた。俺の体はもう応えていた。
 彼女が跨った。
 ベッドが鳴った。木枠の|継《つ》ぎ目がずれる、あの聞き慣れた音。こいつはいつか俺たちの下で折れる。膝が俺の脇腹に食い込む。腰を降ろした。
「——ン……」
 喉の奥で潰したような声が、腹に響いた。俺は彼女の腰を掴んだ。指がその柔らかな肉感に深く沈み込む。
 彼女が動いた。ゆっくりと。前に|傾《かし》ぐたびに、蝋燭の光が鎖骨の窪みに溜まった汗を光らせた。
 ベッドが鳴る。ギシ。ギシ。
 俺は片手を彼女の後頭部に回し、陽に灼けた麦わらのような金髪を掴んだ。根元から。引いた。首が|仰《の》け反る。蝋燭の光が首筋の|腱《けん》を浮かび上がらせた。
「ッ——ァ……ン……」
 汗の匂い。煙の匂い。安エールが染みた髪の匂い。その下に、彼女自身の匂い。
 川石が胸の上で揺れていた。擦り切れた|革紐《かわひも》に通された丸い石が、彼女が動くたびに俺の肌を叩く。冷たい。
(……まだあの石かよ)
 腰を突き上げた。彼女の指が俺の肩に食い込んだ。
 爪が皮膚を裂いた。
 彼女の胸が俺の胸に押しつけられ、心臓の鼓動が|肋骨《ろっこつ》越しに伝わってくる。天井の染みが視界の端で揺れる。
 ギシ。ギシ。ギシ。
 速くなった。呼吸が荒い。俺のも。彼女のも。彼女の腹が俺の上で|痙攣《けいれん》している。髪を握った手に力を入れた。もう片方の手で腰骨を押さえつけた。
「ン——ッ、ァ——」
 いつもより、強く俺を掴んでいる。爪が肩の肉に埋まっている。痛い。
 彼女が先に震えた。全身が硬直し、膝が俺の脇腹を締めつけた。喉の奥で、何かが詰まる音がした。顔を俺の首筋に埋めた。
 俺もすぐ後に。目の裏が白くなり、背骨の底から熱が駆け上がった。ベッドの木枠が一際大きく|軋《きし》み、どこかで継ぎ目が外れる音がした。
 * * *
 天井の染みを見ていた。彼女は俺の胸に頬を預けたまま動かない。息が鎖骨にかかる。川石が二人の間に挟まって、肋骨に冷たく押し当てられていた。
 蝋燭がまだ燃えている。階下で、何かが倒れる鈍い音。酔い潰れた誰かが椅子から落ちたのだろう。
 彼女の指が、俺の左手に触れた。
 震えていた。俺の手が。
 止まらない。
「前より酷くなってる」
「寒さのせいだろ」
「嘘つき」
 しばらく、そのままだった。
 それからライラは身を起こした。俺の上から降り、床に落ちた肌着を拾い、頭からかぶる。背中が見えた。|肩甲骨《けんこうこつ》の間に古い傷跡。蝋燭の光が、背骨の|稜線《りょうせん》をなぞっていた。立ち上がり、革鎧の紐に手をかける。
「蝕止《しょくど》めは」
「……二週間分」
 革紐を締める手が、一瞬止まった。見えた。
「金になる話がある。聞く?」
 * * *
「東の峠の話」
 俺も着替えながら聞いた。汗の冷えた肌にリネンが張りつく。手袋を|嵌《は》める。震えが、革の下に隠れた。
「ギルドで聞いた。|巡回隊《じゅんかいたい》も避けてるってさ」
「巡回隊が?」
「ああ。空気が|硝子《ガラス》みたいに脆くて、肌を何かが這うような気がするって。静かすぎて、何もかもが止まっちまったみたいだって」
(巡回隊が避ける場所——)危険。つまり、金になるかもしれない。
「他には?」
「たぶん、ただの神経過敏と悪いエールのせいさ」肩をすくめた。川石が揺れた。「でも……気になった。ここの掲示板を眺めてるよりはマシだろ」
「降りるか」
「ボーリンと他の連中が何か聞いてないか確かめよう」
 * * *
 階段は十二段。三段目と七段目が特にひどく軋む。最後の段を降りた時、冷たい空気が首筋の汗に触れた。酸っぱいエール、床板に染みた泥、消えかけの炉の灰。誰かがテーブルに突っ伏して寝ている。|涎《よだれ》が木目に沿って垂れていた。
 ライラは俺の三歩先を歩いていた。
 キールとエララは、すでに奥の隅のテーブルにいた。キールは|赤ら顔《あからがお》で、すでに半ば酔っている。
「……まともな契約が一つもねえ! ネズミの皮剥ぎと|肥溜《こえだ》めの見張りだけだ!」
 錫の|杯《さかずき》を叩きつけ、エールを飛び散らせた。
 エララは彼の横で静かに座り、粘つくテーブルの上に広げた清潔な布の上で、医療器具を|丹念《たんねん》に磨いていた。銀の|耳飾《みみかざ》りがランプの光を鈍く弾く。|聖庁都《せいちょうと》の|紋章《もんしょう》。あの街から何で逃げてきたのか、俺は聞いたことがない。聞く気もない。
「アーレン! ライラ! やっと来たか!」キールが怒鳴り、さらにエールをこぼした。「何か見つけたか? それとも俺たち勇者は、糞荷車の見張りのままか?」
「最近まともな仕事があったか? 一つもねえだろ」
 俺は短く答え、ライラの横のベンチに腰を下ろした。エールの杯を引き寄せる。左手が震えた。杯の中身が揺れる。
 キールの目がそこに留まった。
「おい、アーレン。そっちの方がよっぽど問題じゃねえか」顎で俺の手を指した。「エララ、お前の薬草でどうにかならんのか? あれだけ持ってるんだからよ」
 エララは手を止めなかった。メスの刃を布で拭きながら、冷たく答える。
「蝕止めは薬草では作れない。|魔族《まぞく》の血が要る」
「魔族の——」キールが口を開けた。
「それに」エララは続けた。「仮に血が手に入ったとして、|精製《せいせい》の術式を知っているのは聖庁都の|巫女《みこ》だけ。私の手には余る」
 キールは口をつぐんだ。
「……高えわけだ」
「ああ。高い」
 俺はエールを飲んだ。苦い。薄い。
「やっぱりな!」キールは再び杯を叩きつけた。テーブルが揺れ、エララの道具が跳ねる。メスが|チンキ剤《ちんきざい》の|小瓶《こびん》に当たり、危うく倒れそうになった。エララは素早く手を伸ばし、小瓶を掴んだ。氷のような視線でキールを|射抜《いぬ》く。
「いい加減にしなさい、この酔っ払い」
 低く、張り詰めた声だった。キールはニヤリと笑う。
「おいおい、美人にしてはずいぶん口が悪いじゃないか」
「なら、もう一度私の道具に触れてみなさい。次の薬に『間違えて』|影蔭草《かげかげそう》を混ぜてやる。お前の|内臓《ないぞう》がさぞ『美しい』ことになるでしょうね」
 キールの顔から笑みが消えた。
 その時、ボーリンが音もなく俺の隣の席に滑り込む。|油紙《あぶらがみ》の包みをエララの近くに置いた。「薬草だ」エララはそれを取り上げる。「今回は良質?」ボーリンは短くうなずく。「十分だ」
 ライラがカウンターへ向かった。
「おいグロク、てめえのションベンが入ってねえ酒は無えのか?」
 山のような親父が、ニヤリと笑った。「ライラみたいな上等な女には、特別なのを隠してある。高くて、硬くて、可愛い口専用の|逸品《いっぴん》だ」
 ライラの唇に薄笑いが浮かぶ。彼女は少し身を乗り出した。「へえ、四十年ものの枯れた樽か。中身はとっくに酢になってんじゃないの」
 バーテンダーが大声で笑った。「ハッ! 失せろ、ライラ。エールが欲しいのか欲しくないのか?」
 俺は鼻から息を吐いた。その時、|喧騒《けんそう》の向こうから、|砥石《といし》で擦るようなしわがれ声が響いた。
「——三日前だ。東の|尾根《おね》の近くでな。何かを感じた」
 酒場のざわめきが、一瞬止んだ。
「空気が薄くなった。寒さで歯が痛んだ。すべてが……止まった」
 ヨルンの視線は遠い。焦点が合っていない。
「鳥もいない。虫も鳴かねえ。ただ沈黙。骨の|髄《ずい》まで染みるような、おかしな種類の沈黙だ。ギルドの巡回隊は今、あの尾根を避けてるって話だ」
 俺はボーリンと視線を交わした。東の峠——巡回隊が逃げ出すほどの場所が、ただの噂話で済むか。これは金になる。俺は身を乗り出した。ボーリンは短くうなずいた。
「|幽霊《ゆうれい》になる手っ取り早い方法みたいだな」キールは言った。口調は軽いが、目がちらりと俺を見た。「だが、巡回隊が怖がってるなら、ギルドは調査に高く払うかもしれねえ」
 エララは薬草から顔を上げた。目が細くなった。
「脆い空気? 奇妙な臭い? ……|聖穢《せいえ》の|兆候《ちょうこう》かも——」
 胸が締め付けられた。欠片——本物なら、王国が殺し合うほどの値がつく。
(銀貨。それだけだ。あと数ヶ月、息ができればいい)
「危険なのは分かってる」俺は仲間たちの目を見た。「降りたいなら、それでいい。だが、俺にはもう選択肢がねえ。噂が本当なら、ギルドは依頼を出す。たぶん|偵察《ていさつ》だ。それだけでもそこそこの金になる。もし欠片だったら……かなりの金だ」
「明日ギルドに行く。これが本物か確かめる。誰か来るか?」
 沈黙。誰も断らない。
 やがて、エールを持って戻ってきたライラが肩をすくめた。「ここで腐って死ぬよりはマシさ」
 キールは一拍おいて、ただうなずいた。エララはため息をつき、薬草をしまい始めた。ボーリンだけが、まっすぐ俺を見た。「ギルドの依頼書を見てからだ。そこから|危険度《きけんど》を測る」
(五人か)
 * * *
 目を開けた。壁が濡れていた。砦の石壁から|滲《にじ》み出すカビのような湿り気。体の芯が|軋《きし》む。
 俺とボーリンはギルドホールへ向かった。他の者たちとは、後で合流する|手筈《てはず》だ。
 泥。寒さ。いつもの砦だ。
 道と呼べるものは泥沼に消えていた。タールのように濃く、|粘《ねば》つく茶色。荷車が刻んだ深い|轍《わだち》は、|悪臭《あくしゅう》を放つ水の|溝《みぞ》と化している。ブーツが水しぶきを上げ、冷たい泥が熱を奪っていく。道行く連中、誰も目を合わせない。泥色の服、泥色の顔。
 カァン……カァン……
 かつて市場だった方角から、|鍛冶《かじ》の音。一軒だけ、まだ火が生きてる。熱い金属の匂いが、|腐臭《ふしゅう》の中で妙に懐かしい。
 ギルドホールの重い扉を押し開けた。|煤《すす》と汗の臭い。空気が肺にまとわりつく。壁一面の掲示板。傷んだ|羊皮紙《ようひし》が、端から端まで貼り付けられている。|護衛《ごえい》依頼、|変異獣《へんいじゅう》の|賞金首《しょうきんくび》、必死の申し出。冒険者たちが集まっている。擦り切れた革、|錆《さ》びた|鎖帷子《くさりかたびら》。小声で情報を交換し、互いを|値踏《ねぶ》みしていた。
 書記官は、受付の後ろに座っていた。|髭《ひげ》はきちんと整えられ、ベストはインクで汚れている。目は死んだ魚のように、光を映さない。
「昨夜、ある噂を聞いた」俺は荒い声で切り出した。書記官はゆっくりと顔を上げたが、その目は|虚《うつ》ろなままだ。「東の峠の向こうだ。奇妙な光、死んだような静寂、巡回隊も避けている。——聖穢の兆候だ」
 書記官の指が止まった。ほんの一瞬。
「その話はあんたが初めてじゃない」一拍置いて彼は言った。声は、乾いた羊皮紙をめくるようにざらついている。「それで?」
 書記官は|瞬《まばた》きすると、カウンターの下から厚い書類の束を引き出した。「報告はいくつか受けている。だが|未確認《みかくにん》だ。ギルドは|確証《かくしょう》なしに正式な依頼は|掲示《けいじ》しない」
「だが、何かをまとめているはずだ」ボーリンが静かに口を挟んだ。
 書記官は疲れたようにうなずき、二人の間で視線を動かした。「内容は偵察。洞窟の|測量《そくりょう》と、『神の欠片』の|探索《たんさく》。……あれば、だがな」
 左手が跳ねた。手袋の中で。
 彼は特定の羊皮紙を指で叩いた。「まだ本決まりではない。|斥候《せっこう》の|帰還《きかん》を待っている。今日の午後には準備できるはずだ」
「報酬は?」
「詳細な地域測量で銀貨五十枚。神の欠片を発見して位置を記録すれば、さらに百枚」書記官は間を置いた。「完全な|回収任務《かいしゅうにんむ》になればもっと出る。だがそれは全く別の仕事で、|伴《ともな》う危険も比べ物にならん」
(五十枚……!)
 心臓が跳ねた。|頭蓋《ずがい》の奥が、鈍く脈打っている。
(山分けしても、数週間はこの震えを止められる……!)
 手が手袋の中で震える。俺は身を乗り出し、声を落とした。「俺たちが受ける。最初の権利は俺たちだ。ここで待つ」
 書記官の視線が俺の手袋をした左手に留まった。
「正午過ぎに戻ってこい」彼はついに言った。「依頼が上がれば、あんたたちのものだ」
「峠が開く直前から続いてる話だ」ボーリンが静かに言った。書記官にではない。俺に。
 書記官は興味を失ったようにうなずき、書類作業に戻った。
「いや、俺が残る」
 俺は眉を上げた。
「俺たちがいなければ、他の誰かがこの仕事を持っていく。それだけだ」ボーリンは書記官を見据えたまま述べた。「お前は行け。休め。他の連中にも知らせろ。俺が誰も割り込ませない」
 反論しかけた。だが、膝が重い。視界の端がちらついている。
「すまんな……ボーリン」
 * * *
 正午過ぎにギルドホールに戻ると、ボーリンが|歩哨《ほしょう》のように書記官の机の近くに立っている。俺の目を捉え、ほとんど分からないほど小さくうなずいた。
 書記官はさらに|憔悴《しょうすい》した様子で、ため息をつく。「依頼が上がった。東の峠の偵察任務だ」親指で掲示板の方を指した。そこには新しい、急いで走り書きされた羊皮紙が掛かっている。「詳細は記録済みだ。あんたたちのものだ」
 俺は掲示板へ向かう。東の峠。偵察。測量。神の欠片の可能性。標準ギルド料金。書記官が差し出した鈍い炭の|筆記具《ひっきぐ》で、仲間たちの名前を署名した。羊皮紙を擦る炭の音が、妙に大きく響く。
 * * *
 ライラは隣で眠っている。呼吸が深い。背中がこちらを向いていた。
 左手が震えている。手袋は外してある。暗闇の中で、指が勝手に痙攣するのを見ていた。
 二週間分。山分けした報酬で、もう少し延ばせるかもしれない。延ばせなければ——
 考えるな。
 明日は峠だ。