午前七時三十分。古いアパートの薄い壁を抜けて、その音はやってくる。
ショパンの『ノクターン第二番』
お世辞にも上手とは言えないが、一音一音を慈しむような、ひたむきな打鍵。それが、僕の目覚まし代わりだった。
隣室に住んでいるのは、腰の曲がった物静かな老婦人だ。名前も知らないが、ベランダ越しに目が合うと、彼女はいつも恥ずかしそうに、庭のハーブのような穏やかな微笑みを返してくれた。
しかし、その朝は違った。
いつものようにノクターンが流れ始めたが、音が妙に「硬い」のだ。空気の振動ではなく、頭に直接響くような、重力を持たない音。
ふと窓の外を見ると、彼女の部屋のカーテンは閉まったままで、救急車のサイレンが遠くから近づいてくるのが聞こえた。
いやな予感は的中した。彼女は明け方、眠るように息を引き取ったのだという。
不動産屋さんが部屋の整理に入る間も、不思議なことにピアノの音は止まらなかった。
厳密には「鳴り続けていた」のではない。
午前七時三十分になると、そこに誰もいないはずの部屋から、決まったフレーズが溢れ出すのだ。
それはまるで、空間に染み付いた記憶の漏洩だった。
一週間が過ぎ、部屋が空っぽになっても、音は消えなかった。
不動産屋さんは困り顔で
「これでは次の人が……」
と、こぼしている。
僕はたまらなくなって、その部屋に入れてもらった。
家具一つない、ガランとした六畳間。陽だまりの中に、音だけが浮いていた。
僕は一旦自分の部屋に戻り、ベランダで一番日当たりの良い場所に置いていた鉢植えから花を摘んだ。育てているカモミールの花だ。
「いつも、ありがとうございました」
音が一番濃く鳴っている場所に、そっと花を置いた。
その瞬間、ピアノの旋律がふっと揺れた。
たどたどしかった指使いが、最後の一節だけ、驚くほど鮮やかに、力強く跳ねた。それはまるで、長年の練習が報われた瞬間の歓喜のように。
それ以来、ピアノの音は聞こえなくなった。
代わりに、僕の部屋のカモミールが、冬の間だというのに、見たこともないような白い花を次々と咲かせ始めた。
今でも午前七時三十分になると、花の香りがふわりと濃くなる。
僕はそれを合図に、新しい朝のコーヒーを淹れるのだ。