銀色の保冷バッグを助手席に乗せ、軽ワゴン車は夜の住宅街を静かに進む。
私の職業は「配達員」だ。
ただし、運ぶのは単なる食事ではない。依頼主が人生の幕を閉じる直前に望む、記憶の底に眠る「あの味」を完璧に再現し、最期の場所に届ける。
それが『ラスト・メニュー・サービス』の仕事だ。
今回の依頼主は、ホスピスに入所している佐藤節子さん。
オーダーは「昭和四十二年、熱海旅行で食べた、少し焦げたナポリタン」。
再現は容易ではなかった。当時のケチャップの糖度、安価なソフトスパゲッティの食感、そして「少し焦げた」という偶発的なスパイス。調理担当のシェフと試行錯誤を繰り返し、ようやくたどり着いた一皿が、今、私の隣にある。
病室のドアを軽く叩くと、痩せ細った老婦人がベッドの上で小さく微笑んだ。
「お待ちしておりました。……ああ、この香り。間違いないわ」
蓋を開けた瞬間、湯気と共に部屋の空気が変わった。節子さんは震える手でフォークを握り、ゆっくりと麺を口に運ぶ。
一口、また一口。彼女の瞳に、少しずつ色が戻っていくのがわかった。
「……あの時ね、主人と大喧嘩をしたの」
節子さんは懐かしそうに目を細めた。
「せっかくの旅行なのに、彼が仕事の話ばかりするから。私は怒って、海も見ずにこのナポリタンを無我夢中で食べたわ。彼は困った顔をして、ごめんねって、自分のハンバーグを半分私の皿にくれたの。……可笑しいわね。あんなに腹が立ったのに、今思い出すのは、あの人の困った顔と、この甘酸っぱい味ばかり」
記憶の味とは、調味料の配合ではない。
その時、誰と一緒にいて、どんな感情を抱いていたか。その背景ごと飲み込むからこそ、それは「特別」になるのだ。
完食はできなかった。
けれど、節子さんの表情は、まるで長旅を終えて玄関をくぐった人のように、深い安堵に満ちていた。
「ありがとう。私、やっとあの人に会いに行ける気がするわ」
私は深く一礼し、病室を後にした。
空になった容器を回収し、車を走らせる。バックミラーに映る自分の顔は、少しだけ誇らしげに見えた。
私の仕事は、死を見届けることではない。
その人が積み重ねてきた人生の「一番良い欠片」を、最後に一度だけ磨き直して手渡すこと。
依頼主の心の満足が、報酬。
夜明け前の国道を走りながら、私は次の依頼を確認する。
次は「母親が運動会で作ってくれた、形が不揃いな卵焼き」だ。
世界には、まだたくさんの「忘れられない味」が待っている。
私はアクセルを軽く踏み込み、朝焼けの中へと車を走らせた。