カウンターに置かれたのは、四つ折りにされた一枚の便箋だった。
クリーニング店に持ち込むにはあまりに場違いな代物に、櫂は戸惑いの視線を送る。
「……これの、汚れを落としてほしいんです」
そう言ったのは、まだ大学生くらいに見える、雨に濡れたような瞳をした青年だった。
櫂がその便箋を覗き込むが、どこにも汚れなどない。ただ、整った筆跡で数行の言葉が並んでいるだけだ。
「お客様、当店はクリーニング店ですが……」
「シミがあるんです。ここに」
青年が指差したのは、文末の、何も書かれていない空白だった。
「ひどい嘘がつかれているんです。黒い、消えないインクのシミが、ずっと僕の目を刺すんです。これさえ消えれば、僕はあの人のことを、ただの綺麗な思い出にできるのに」
櫂は息を呑んだ。青年の指す「シミ」は、彼の心にだけ映る後悔の跡なのだ。
視線を向けると、店主の霧斗は、その便箋をじっと見つめていた。その瞳には、先日の「ノート」を前にした時と同じ、深い沈黙が宿っている。
霧斗は無言でアイロン台に向かった。
シュ、という鋭い蒸気の音が店内に響く。
「……言葉は、一度吐き出せば消すことはできない」
霧斗はそう呟き、熱を帯びたアイロンの先を、便箋の「空白」へ向けて寸止めした。
「だが、その言葉に囚われている自分を、白く塗りつぶすことはできる。君が消したいのはこの手紙か? それとも、これを信じた自分か?」
青年の肩が、びくりと震えた。
霧斗はアイロンを置くと、スチームの余熱だけを便箋に浴びせる。真っ白な霧が文字を覆い、一瞬だけ、並んだ言葉たちが潤んで見えた。
「……消えた気がします。その、嘘のシミが」
青年は、湿り気を帯びた便箋を大切そうに受け取ると、深く頭を下げて店を出て行った。
その背中を見送った後、霧斗は自分の右手を、まるで汚れたものを洗うかのように、もう片方の手で強く擦った。
かつて自分もまた、誰かに「消えないインクのシミ」を残したことがある者の仕草だった。
櫂は、その光景を逃さずメモ帳に刻みつける。
――『記憶はアイロンでプレスできるが、言葉が残した火傷は、一生冷めることがない』
霧斗は振り向かないまま、低く言った。
「……櫂。余計なことは書かなくていい。さっさと仕事をしろ」