陽が去った後の店内は、いつにも増して湿り気を帯びていた。
カウンターに残された茶色の紙袋。その中から取り出されたノートを、霧斗は作業台の上に広げた。
それは、記憶を消すためのアイロン台ではなく、かつて彼が言葉を紡いでいた「机」としての役割を、数年ぶりに取り戻していた。
「……霧斗さん」
櫂が声をかける。霧斗の背中は、寄せ付けない拒絶の気配を纏いながらも、どこか崩れそうなほどに強張っている。
「櫂、今日はもう帰れと言ったはずだ」
「すみません。でも、そのノート……まだ『声』がしています。霧斗さんが消さないなら、僕が……」
霧斗は振り返らなかった。ただ、筆箱から一本の、ひどく使い込まれた万年筆を取り出した。
アイロンを握る時の力強い指先が、細いペンを握った途端、幽かな震えを見せる。
霧斗は、陽が言っていた「祝辞の下書き」のページを開いた。
そこには、若き日の彼が、妹の門出を祝うために絞り出した、あまりにも純粋で、それゆえに今の彼が最も忌み嫌う「温かな記憶」が並んでいた。
彼はその言葉を、消しゴムで消すことはしなかった。
代わりに、万年筆の先を紙に落とす。
――さらさらと、乾いた音が静寂を削る。
霧斗は、元の文章を塗りつぶすのではなく、その行間に、今の自分にしか書けない「沈黙」を書き加えていた。
かつて書いた『おめでとう』という言葉の隣に、今の彼が記したのは、それを守り抜けなかった自責か、あるいは忘却への決意か。
櫂は、店の隅からその光景を凝視していた。
霧斗の書く文字は、櫂の躍るような筆跡とは対照的に、まるで墓石を刻むような重みを持っていた。それは「書く」ことで記憶を定着させているのではなく、書くことでその記憶に「蓋(ふた)」をしているように見えた。
やがて霧斗はペンを置き、ノートを静かに閉じた。
彼はそれを、アイロンでプレスすることもしなかった。ただ、大切そうに、あるいは呪わしそうに、引き出しの奥深くへと仕舞い込んだ。
「……櫂。書くということは、その記憶を一生背負い続けるということだ。お前に、その覚悟があるのか」
霧斗の視線が、初めて櫂を射抜いた。
その瞳は、霧の向こうにある底なしの淵のように暗く、深い。
櫂は何も答えられず、ただ自分のメモ帳を強く握りしめた。
店内に残ったのは、万年筆のインクの匂いと、消しきれなかった微かな「祝辞」の残響だけだった。