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三話 矢の導き

ー/ー



 パチパチと火の爆ぜる音が聞こえる。
 あぐりがゆっくりと瞼を開けると、ゴツゴツとした岩の天井が見えた。
 ひどく体が怠く頭も重い。
 あぐりが顔を左に向けると、焚き火の炎が目に入る。揺れる炎の奥に、あぐらをかいて短刀の手入れをしている祢墨の姿があった。「あ、起きた?」と、祢墨はすぐにあぐりの方を向く。

「丸一日眠ってたよ」

 祢墨は短刀を懐にしまい、あぐりに近付いてくる。あぐりは体を起こそうとするが、眠り過ぎていたせいか頭がぼんやりし、すぐにふらついてしまう。

「まだ寝てていいよ。どうせ雨で今日は動けないし」

 祢墨の言葉で、あぐりは雨の音が周囲に反響していることに気付いた。
 寝ていてもいいと言われても、固く冷たい岩の床に寝ていたせいで背中が痛い。
 あぐりはゆっくりと上体を起こし、辺りを見渡した。薄暗い岩肌の洞窟で、正面奥に開いた穴から光が入っている。穴からは鬱蒼とした木々が見え、ザアザアと雨が葉を打っていた。
 どうやら、昨日通った洞窟に戻ってきたようだ。
 祢墨はあぐりの額に手を当て、「熱は下がったね」とつぶやいた。

「飲む?」

 祢墨は瓢箪の水筒を差し出してくる。あぐりはこくりと首を振り、水筒を受け取って飲んだ。乾いた喉が潤い、だんだんと頭の(もや)も薄れてくる。

(なんでこんな所にいるんだっけ。そうだ、昨日洞窟を抜けて、そしたら森の人が待ち構えていて……)

「……森の、人は?」

 あぐりは水筒から口を離し、ぽつりと問いかけた。

「一応埋葬はした」

 祢墨は淡々と答える。「……そっか」と、あぐりは複雑な気持ちで返した。

「僕たちが通りそうな道に森を潜ませているんだろうね。未鷹(みたか)派にこの洞窟を抜ける道がばれていたんだ。きっと五頭山(ごずざん)を迂回する道にも潜んでいるはず」
「……じゃあ、この山に他にも森がいるかもしれないってこと?」
「どうだろう。もし他にも森がいたのなら、(いばら)と同時に出てきて僕らを挟み撃ちにするような気がする。たぶん、普通の森だと僕の相手にならないから、荊ぐらい強い森を各地に一人ずつ配置して対処しようとしてるんじゃないかな」

 祢墨の話しぶりからして、荊は森の中でも強い部類だったようだ。
 そして、祢墨は森の中でも最強格なのではないかとあぐりは思う。荊も祢墨のことを「白狼(びゃくろう)の最高傑作」と言っていたし、今までの彼の戦闘を思い返せば、その思いは確信に変わっていく。

「この先も森の襲撃に気を付けて行こう。藤波町(ふじなみまち)にも待ち構えていそうだから、なるべく人通りの多い葦木町(あしぎまち)に変更しよう思う。人目があれば、森も迂闊に動けないからさ。ちょっと遠くなるけど、森との戦闘を避けることを考えればその方がいい。そうすれば卯月の十五日までには蜃龍山(しんりゅうざん)に間に合うはずだよ」

 祢墨の提案に、地理の分からないあぐりは曖昧に頷く。
 最初は一つ目の試練すら突破できないと思っていたのに、いつの間にか最後の試練が目の前まで来ている。しかし、蜃龍山の麓で未鷹が待っていると思うと、どうしようもなく心が暗く塞がっていく。

「未鷹までもう少しだ」

 祢墨は焚火に視線を投げ、静かにつぶやく。
 祢墨の瞳に揺れる焚火の炎が反射し、その純黒の深さにあぐりは息が詰まった。
 祢墨の旅の終わりは、未鷹を殺すことだ。
 そのために森を追われ、命を狙われ、たくさんの命を奪ってきた。

 それで目的を達成した後、彼に何が残るのだろう。
 ただ殺すだけの人生の先に、彼は何を思うのだろう。

「もうやめよう、墨」

 あぐりの口から、言葉がかすかに零れ落ちる。冷ややかな感情が胸元からせり上がってきて、目が滲み出した。
 祢墨は焚火から目を離し、静謐な瞳であぐりを見つめる。

「命令のために、国を敵に回して、友達まで殺して、なんの意味があるの? ただ墨が擦り切れていくだけだよ。それで未鷹を殺しても、何も残らない。あまりにも無意味だよ」

 あぐりは声を震わせながら続ける。
 命令のため、たった一人の男を殺すために、祢墨は色んなものを失ってきた。昨日はついに、かつての友すら自らの手で殺した。
 無感情を装ってはいたが、あぐりには祢墨が悲しい思いをしていることが分かる。

 この先森が待ち構えているのなら、その中にまた祢墨の友人がいるかもしれない。
 その人すら殺し、無関係の兵たちや色見を殺し、最後に未鷹を殺したところで、なんの意味があるというのだろう。

「ここでやめろって言うの?」

 祢墨は感情を宿さぬ瞳であぐりを見据える。「うん」と、あぐりは臆さず返した。

「ここでやめてどうするの?」
「国を出て、海の向こうに行って、静かに暮らせばいいよ。墨ならできるでしょ」

 祢墨ほどの能力があれば、幻日国から出ることなど容易いだろう。
 この先、祢墨には誰も殺さず静かに生きて欲しいと、あぐりは切に願った。

「あぐりはどうするの?」

 祢墨はさらに問いかけてくる。凪いだ純黒の瞳は、相変わらず何を考えているのか相手に悟らせない。

「ここに置いて行っていいよ」

 あぐりは柔らかな声を出す。耐え切れず、あぐりの目から涙が一筋流れた。
 正直、洞窟から帰る道順は覚えていないし、洞窟から先の山中をどう越えたらいいのかもあぐりは分からない。ここで祢墨に置いて行かれたら、道に迷い、最悪死んでしまうことも想像できる。
 しかし、それでもいいと思えるほど、あぐりはこれ以上祢墨に悲しい思いをしてほしくなかった。
 祢墨の纏う白銀の輝きを見つめれば、それだけであぐりは何も要らないほど満ち足りた気持ちになる。

 祢墨はあぐりを見据えたまま何も話さない。
 パチパチと焚火が鳴る音と、ザアザアと雨が降る音だけ、洞窟内に冷たく響いていた。

「……僕の本当の目的を話すね。あぐりも気付いていたでしょ、僕の目的が未鷹を殺すことだけじゃないって」

 祢墨はおもむろに口を開く。「……うん」と、あぐりは素直に頷いた。
 未鷹を殺すのだけが目的なのかとあぐりが尋ねたとき、「うん」と答えた祢墨の声に嘘の色である菫色が混ざっていたことを、あぐりは覚えている。
 人の嘘が色で分かるあぐりの感覚は、考えを読ませない祢墨の嘘すら当に見抜いていた。

「僕ね、弟がいるんだ」

 祢墨は淡々と話し出す。思いもよらぬ告白に、あぐりは目を見張った。

「『とも』って名前の、二つ下の弟。僕に似ずかわいい弟でね、僕のことを『兄ちゃん』って呼んで慕ってくれた。親に捨てられてからは、二人で支え合って生きてきた。……でも、人攫いに襲われて、気が付いたら僕は森に入っていた。弟の行方は分からなかった。」

 祢墨は話を続ける。弟のことを口にする祢墨の表情が、どこか柔らかいようにあぐりは感じた。

「弟は僕と違って色んな色を見分けることができた。そして、あぐりと一緒で人が色を纏って見えるって言ってた」
「え……」

 あぐりは声がもれる。
 胸元が震え、心臓の鼓動が自然と速くなっていった。

「弟も色見に選ばれているかもしれない」

 ドクリと、あぐりの心臓が大きく鳴る。
 今まで、想像すらできなかった祢墨の本当の目的が、ここに来て初めて鮮明に分かり始めた。

「白狼が殺されて、僕もいつ死ぬか分からない身になった。死ぬ前に、弟に一目会いたかった。色見を選ぶ虚色の王の矢が空に見えたとき、すぐに追ったよ。矢の先に弟がいるかもしれないと思って。……そこにいたのがあぐりだった」

 祢墨の瞳に捉えられ、あぐりの全身が一気に粟立つ。
 今まで心に残っていたわだかまりが、全て線となって繋がった。
 あの日、あの時、祢墨があぐりの元に現れたのは、偶然ではなかったのだ。
 あぐりでも無茶だと思うような作戦で虚色の王の元へ行こうとしていたのは、それが一番弟に会える可能性が高かったからだ。

「あぐりと最初に会った時驚いたよ。弟と同じことを言うんだもの」

 抑揚のない祢墨の声に、あぐりは祢墨との出会いを思い出す。
 祢墨の嘘を見抜いたとき、祢墨は「俺の何を見ている」とあぐりに投げかけた。
 祢墨はあぐりが常人には見えない何かが見えていると、あの瞬間から分かっていたのだ。

 祢墨が魂の色を揺れ動かしたのは、あぐりが祢墨の嘘を見抜いたからではなく、弟と同じように色を見ていたからだということに、あぐりは今になって気付く。

「それで確信した、弟は色見に選ばれたって。あぐりと行動すれば、そのうち弟に会えると思った。正直未鷹を殺すのはついでだ」

 祢墨は嘘の混じらぬ言葉ではっきりと言う。
 今まで祢墨に抱いていた疑念が、あぐりの中で全て霧散し消えていく。
 彼は、端から命令のために動いているのではない。
 たった一人の弟のため、全てを賭けて虚色の王の元へ行こうとしているのだ。

 あぐりは今までの旅を振り返る。
 そういえば、祢墨はもう一人の色見について気にかけていたような気がする。
 色見と兵士たちの動向を知りたいのだとあぐりは思っていたが、本当は色見が弟かどうか判断したかったのだろう。

「最初から、言ってくれればよかったのに」

 あぐりは心悲しさを感じながら祢墨を見る。最初から弟のためだと言ってくれたのなら、なんの疑いもなく祢墨に協力してあげたのにと、あぐりは心から思った。

「個人的な情報を、他人にばらしてはいけないと叩き込まれていたんだ。それが命取りになることもあるから。このことは誰にも言ってないよ。白狼にもね。でも、あぐりには話しておこうと思ったんだ」

 あぐりはあまりの切なさに胸が痛くなる。
 過酷な森での生活では、感情も自身の過去すらも捨てなければ生きていけなかったのだろう。
 しかし、彼は弟のことだけは捨てなかった。
 争いが起き、師も仲間も全員殺された中で、祢墨は生き別れた弟に会うことだけを願って生き延びたのだ。
 その弟のことを、祢墨は唯一あぐりにだけ話してくれた。

 出会ったとき、あぐりは祢墨のことを人の心が無い白銀の獣だと思っていた。それなのに、いつの間にか彼が自分に心を開いてくれていたのだと知り、あぐりは先ほどとは違う熱を持った涙が込み上げてきた。

「私、必ず三つ目の試練を突破する」

 涙を堪え、あぐりは強い眼差しで祢墨に告げる。祢墨と別れようと思っていた先ほどまでの気持ちは、すでに心の中から消え去っていた。今はただ、祢墨を弟の元に連れて行く決意だけが、あぐりの胸に強く輝いていた。

「絶対に、虚色の王のところに行こう。そこに弟さんがいる」

 虚色の王への道は、三つの試練を全て突破した色見にしか示されない。祢墨の弟が試練を突破しているのならば、虚色の王の元で必ず会えるはずだ。なんとしてでも最後の試練を突破してやると、あぐりの心は今までなく奮い立っていた。
「うん」と、祢墨もどこか目を輝かせて頷いた。

「私、魂の色を見れば弟さんかどうか分かるかも」
「え、そんなことも分かるの?」

 祢墨はわずかに眉を寄せる。
 
「うん。家族って、大体似た色になるんだよ」

 人によって差はあるが、家族の色は似た色になることをあぐりは経験上知っている。父が赤系、母が青系の色を纏っていたなら、子も赤系か青系の色を纏っていることが多い。兄弟ならばもっと顕著で、大抵似た色になる。
 祢墨の弟ならば、きっと綺麗な白銀を纏っているんだろうなと、あぐりは思う。
 
「相変わらずすごいね、色見の能力って。昨日も荊の攻撃を読んでたし。普通は読めないよ」

 祢墨の裏のない褒め言葉に、あぐりは「ありがとう」と微笑む。
 今思えば、祢墨は最初からあぐりの能力を疑わなかった。自分のことを否定せず受け入れてくてたのは墨だけだったなと、あぐりは温かな気持ちになる。

「弟さんは、墨が何色に見えるって言っていたの?」
「……金色」
「そうなんだ。私と同じだね」
「え?」

 祢墨は目を瞬かせてあぐりを見た。
 
「僕のこと、白銀だって言ってなかったけ?」
「うん」

 あぐりは穏やかに頷き、言葉を続ける。
 
「金色も白銀も、まぶしく輝いて見えるから」

 あぐりは祢墨を瞳を見てまっすぐに言うと、祢墨は魂の色がわずかに揺らめかせ、「……そっか」とつぶやいた。
 祢墨の纏う金色はさぞかし美しいのだろうなと、輝く白銀を見ながらあぐりは目を細める。

「まだ寝てなよ。体怠いでしょ」
「うん」

 祢墨に促され、あぐりはゆっくりと体を横たえた。祢墨の面倒見がいいのも、弟がいたからなのだなと、あぐりは一人納得する。
 不意に祢墨があぐりの頭に手を置いた。あぐりは怪訝な目を祢墨に向ける。
 
「なんだか、あぐりのこと弟みたいに思えてきたよ」
 
 祢墨は予想だにしないことを言い出し、あぐりは思わず笑みをこぼした。
 
「私、女なのに?」

 あぐりがふわりと笑えば、「あ」と祢墨は声をもらす。
 
「そうだった、妹だった。ごめんね」
「いいよ」

 祢墨はおもむろにあぐりの頭を撫でた。
 撫でられる心地良さに身を委ね、あぐりはゆっくりと目を閉じる。
 この先で待つ祢墨の弟はどんな姿をしているのだろうと、まだ見ぬ色見に思いを馳せた。


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 あぐりがゆっくりと瞼を開けると、ゴツゴツとした岩の天井が見えた。
 ひどく体が怠く頭も重い。
 あぐりが顔を左に向けると、焚き火の炎が目に入る。揺れる炎の奥に、あぐらをかいて短刀の手入れをしている祢墨の姿があった。「あ、起きた?」と、祢墨はすぐにあぐりの方を向く。
「丸一日眠ってたよ」
 祢墨は短刀を懐にしまい、あぐりに近付いてくる。あぐりは体を起こそうとするが、眠り過ぎていたせいか頭がぼんやりし、すぐにふらついてしまう。
「まだ寝てていいよ。どうせ雨で今日は動けないし」
 祢墨の言葉で、あぐりは雨の音が周囲に反響していることに気付いた。
 寝ていてもいいと言われても、固く冷たい岩の床に寝ていたせいで背中が痛い。
 あぐりはゆっくりと上体を起こし、辺りを見渡した。薄暗い岩肌の洞窟で、正面奥に開いた穴から光が入っている。穴からは鬱蒼とした木々が見え、ザアザアと雨が葉を打っていた。
 どうやら、昨日通った洞窟に戻ってきたようだ。
 祢墨はあぐりの額に手を当て、「熱は下がったね」とつぶやいた。
「飲む?」
 祢墨は瓢箪の水筒を差し出してくる。あぐりはこくりと首を振り、水筒を受け取って飲んだ。乾いた喉が潤い、だんだんと頭の|靄《もや》も薄れてくる。
(なんでこんな所にいるんだっけ。そうだ、昨日洞窟を抜けて、そしたら森の人が待ち構えていて……)
「……森の、人は?」
 あぐりは水筒から口を離し、ぽつりと問いかけた。
「一応埋葬はした」
 祢墨は淡々と答える。「……そっか」と、あぐりは複雑な気持ちで返した。
「僕たちが通りそうな道に森を潜ませているんだろうね。|未鷹《みたか》派にこの洞窟を抜ける道がばれていたんだ。きっと|五頭山《ごずざん》を迂回する道にも潜んでいるはず」
「……じゃあ、この山に他にも森がいるかもしれないってこと?」
「どうだろう。もし他にも森がいたのなら、|荊《いばら》と同時に出てきて僕らを挟み撃ちにするような気がする。たぶん、普通の森だと僕の相手にならないから、荊ぐらい強い森を各地に一人ずつ配置して対処しようとしてるんじゃないかな」
 祢墨の話しぶりからして、荊は森の中でも強い部類だったようだ。
 そして、祢墨は森の中でも最強格なのではないかとあぐりは思う。荊も祢墨のことを「|白狼《びゃくろう》の最高傑作」と言っていたし、今までの彼の戦闘を思い返せば、その思いは確信に変わっていく。
「この先も森の襲撃に気を付けて行こう。|藤波町《ふじなみまち》にも待ち構えていそうだから、なるべく人通りの多い|葦木町《あしぎまち》に変更しよう思う。人目があれば、森も迂闊に動けないからさ。ちょっと遠くなるけど、森との戦闘を避けることを考えればその方がいい。そうすれば卯月の十五日までには|蜃龍山《しんりゅうざん》に間に合うはずだよ」
 祢墨の提案に、地理の分からないあぐりは曖昧に頷く。
 最初は一つ目の試練すら突破できないと思っていたのに、いつの間にか最後の試練が目の前まで来ている。しかし、蜃龍山の麓で未鷹が待っていると思うと、どうしようもなく心が暗く塞がっていく。
「未鷹までもう少しだ」
 祢墨は焚火に視線を投げ、静かにつぶやく。
 祢墨の瞳に揺れる焚火の炎が反射し、その純黒の深さにあぐりは息が詰まった。
 祢墨の旅の終わりは、未鷹を殺すことだ。
 そのために森を追われ、命を狙われ、たくさんの命を奪ってきた。
 それで目的を達成した後、彼に何が残るのだろう。
 ただ殺すだけの人生の先に、彼は何を思うのだろう。
「もうやめよう、墨」
 あぐりの口から、言葉がかすかに零れ落ちる。冷ややかな感情が胸元からせり上がってきて、目が滲み出した。
 祢墨は焚火から目を離し、静謐な瞳であぐりを見つめる。
「命令のために、国を敵に回して、友達まで殺して、なんの意味があるの? ただ墨が擦り切れていくだけだよ。それで未鷹を殺しても、何も残らない。あまりにも無意味だよ」
 あぐりは声を震わせながら続ける。
 命令のため、たった一人の男を殺すために、祢墨は色んなものを失ってきた。昨日はついに、かつての友すら自らの手で殺した。
 無感情を装ってはいたが、あぐりには祢墨が悲しい思いをしていることが分かる。
 この先森が待ち構えているのなら、その中にまた祢墨の友人がいるかもしれない。
 その人すら殺し、無関係の兵たちや色見を殺し、最後に未鷹を殺したところで、なんの意味があるというのだろう。
「ここでやめろって言うの?」
 祢墨は感情を宿さぬ瞳であぐりを見据える。「うん」と、あぐりは臆さず返した。
「ここでやめてどうするの?」
「国を出て、海の向こうに行って、静かに暮らせばいいよ。墨ならできるでしょ」
 祢墨ほどの能力があれば、幻日国から出ることなど容易いだろう。
 この先、祢墨には誰も殺さず静かに生きて欲しいと、あぐりは切に願った。
「あぐりはどうするの?」
 祢墨はさらに問いかけてくる。凪いだ純黒の瞳は、相変わらず何を考えているのか相手に悟らせない。
「ここに置いて行っていいよ」
 あぐりは柔らかな声を出す。耐え切れず、あぐりの目から涙が一筋流れた。
 正直、洞窟から帰る道順は覚えていないし、洞窟から先の山中をどう越えたらいいのかもあぐりは分からない。ここで祢墨に置いて行かれたら、道に迷い、最悪死んでしまうことも想像できる。
 しかし、それでもいいと思えるほど、あぐりはこれ以上祢墨に悲しい思いをしてほしくなかった。
 祢墨の纏う白銀の輝きを見つめれば、それだけであぐりは何も要らないほど満ち足りた気持ちになる。
 祢墨はあぐりを見据えたまま何も話さない。
 パチパチと焚火が鳴る音と、ザアザアと雨が降る音だけ、洞窟内に冷たく響いていた。
「……僕の本当の目的を話すね。あぐりも気付いていたでしょ、僕の目的が未鷹を殺すことだけじゃないって」
 祢墨はおもむろに口を開く。「……うん」と、あぐりは素直に頷いた。
 未鷹を殺すのだけが目的なのかとあぐりが尋ねたとき、「うん」と答えた祢墨の声に嘘の色である菫色が混ざっていたことを、あぐりは覚えている。
 人の嘘が色で分かるあぐりの感覚は、考えを読ませない祢墨の嘘すら当に見抜いていた。
「僕ね、弟がいるんだ」
 祢墨は淡々と話し出す。思いもよらぬ告白に、あぐりは目を見張った。
「『とも』って名前の、二つ下の弟。僕に似ずかわいい弟でね、僕のことを『兄ちゃん』って呼んで慕ってくれた。親に捨てられてからは、二人で支え合って生きてきた。……でも、人攫いに襲われて、気が付いたら僕は森に入っていた。弟の行方は分からなかった。」
 祢墨は話を続ける。弟のことを口にする祢墨の表情が、どこか柔らかいようにあぐりは感じた。
「弟は僕と違って色んな色を見分けることができた。そして、あぐりと一緒で人が色を纏って見えるって言ってた」
「え……」
 あぐりは声がもれる。
 胸元が震え、心臓の鼓動が自然と速くなっていった。
「弟も色見に選ばれているかもしれない」
 ドクリと、あぐりの心臓が大きく鳴る。
 今まで、想像すらできなかった祢墨の本当の目的が、ここに来て初めて鮮明に分かり始めた。
「白狼が殺されて、僕もいつ死ぬか分からない身になった。死ぬ前に、弟に一目会いたかった。色見を選ぶ虚色の王の矢が空に見えたとき、すぐに追ったよ。矢の先に弟がいるかもしれないと思って。……そこにいたのがあぐりだった」
 祢墨の瞳に捉えられ、あぐりの全身が一気に粟立つ。
 今まで心に残っていたわだかまりが、全て線となって繋がった。
 あの日、あの時、祢墨があぐりの元に現れたのは、偶然ではなかったのだ。
 あぐりでも無茶だと思うような作戦で虚色の王の元へ行こうとしていたのは、それが一番弟に会える可能性が高かったからだ。
「あぐりと最初に会った時驚いたよ。弟と同じことを言うんだもの」
 抑揚のない祢墨の声に、あぐりは祢墨との出会いを思い出す。
 祢墨の嘘を見抜いたとき、祢墨は「俺の何を見ている」とあぐりに投げかけた。
 祢墨はあぐりが常人には見えない何かが見えていると、あの瞬間から分かっていたのだ。
 祢墨が魂の色を揺れ動かしたのは、あぐりが祢墨の嘘を見抜いたからではなく、弟と同じように色を見ていたからだということに、あぐりは今になって気付く。
「それで確信した、弟は色見に選ばれたって。あぐりと行動すれば、そのうち弟に会えると思った。正直未鷹を殺すのはついでだ」
 祢墨は嘘の混じらぬ言葉ではっきりと言う。
 今まで祢墨に抱いていた疑念が、あぐりの中で全て霧散し消えていく。
 彼は、端から命令のために動いているのではない。
 たった一人の弟のため、全てを賭けて虚色の王の元へ行こうとしているのだ。
 あぐりは今までの旅を振り返る。
 そういえば、祢墨はもう一人の色見について気にかけていたような気がする。
 色見と兵士たちの動向を知りたいのだとあぐりは思っていたが、本当は色見が弟かどうか判断したかったのだろう。
「最初から、言ってくれればよかったのに」
 あぐりは心悲しさを感じながら祢墨を見る。最初から弟のためだと言ってくれたのなら、なんの疑いもなく祢墨に協力してあげたのにと、あぐりは心から思った。
「個人的な情報を、他人にばらしてはいけないと叩き込まれていたんだ。それが命取りになることもあるから。このことは誰にも言ってないよ。白狼にもね。でも、あぐりには話しておこうと思ったんだ」
 あぐりはあまりの切なさに胸が痛くなる。
 過酷な森での生活では、感情も自身の過去すらも捨てなければ生きていけなかったのだろう。
 しかし、彼は弟のことだけは捨てなかった。
 争いが起き、師も仲間も全員殺された中で、祢墨は生き別れた弟に会うことだけを願って生き延びたのだ。
 その弟のことを、祢墨は唯一あぐりにだけ話してくれた。
 出会ったとき、あぐりは祢墨のことを人の心が無い白銀の獣だと思っていた。それなのに、いつの間にか彼が自分に心を開いてくれていたのだと知り、あぐりは先ほどとは違う熱を持った涙が込み上げてきた。
「私、必ず三つ目の試練を突破する」
 涙を堪え、あぐりは強い眼差しで祢墨に告げる。祢墨と別れようと思っていた先ほどまでの気持ちは、すでに心の中から消え去っていた。今はただ、祢墨を弟の元に連れて行く決意だけが、あぐりの胸に強く輝いていた。
「絶対に、虚色の王のところに行こう。そこに弟さんがいる」
 虚色の王への道は、三つの試練を全て突破した色見にしか示されない。祢墨の弟が試練を突破しているのならば、虚色の王の元で必ず会えるはずだ。なんとしてでも最後の試練を突破してやると、あぐりの心は今までなく奮い立っていた。
「うん」と、祢墨もどこか目を輝かせて頷いた。
「私、魂の色を見れば弟さんかどうか分かるかも」
「え、そんなことも分かるの?」
 祢墨はわずかに眉を寄せる。
「うん。家族って、大体似た色になるんだよ」
 人によって差はあるが、家族の色は似た色になることをあぐりは経験上知っている。父が赤系、母が青系の色を纏っていたなら、子も赤系か青系の色を纏っていることが多い。兄弟ならばもっと顕著で、大抵似た色になる。
 祢墨の弟ならば、きっと綺麗な白銀を纏っているんだろうなと、あぐりは思う。
「相変わらずすごいね、色見の能力って。昨日も荊の攻撃を読んでたし。普通は読めないよ」
 祢墨の裏のない褒め言葉に、あぐりは「ありがとう」と微笑む。
 今思えば、祢墨は最初からあぐりの能力を疑わなかった。自分のことを否定せず受け入れてくてたのは墨だけだったなと、あぐりは温かな気持ちになる。
「弟さんは、墨が何色に見えるって言っていたの?」
「……金色」
「そうなんだ。私と同じだね」
「え?」
 祢墨は目を瞬かせてあぐりを見た。
「僕のこと、白銀だって言ってなかったけ?」
「うん」
 あぐりは穏やかに頷き、言葉を続ける。
「金色も白銀も、まぶしく輝いて見えるから」
 あぐりは祢墨を瞳を見てまっすぐに言うと、祢墨は魂の色がわずかに揺らめかせ、「……そっか」とつぶやいた。
 祢墨の纏う金色はさぞかし美しいのだろうなと、輝く白銀を見ながらあぐりは目を細める。
「まだ寝てなよ。体怠いでしょ」
「うん」
 祢墨に促され、あぐりはゆっくりと体を横たえた。祢墨の面倒見がいいのも、弟がいたからなのだなと、あぐりは一人納得する。
 不意に祢墨があぐりの頭に手を置いた。あぐりは怪訝な目を祢墨に向ける。
「なんだか、あぐりのこと弟みたいに思えてきたよ」
 祢墨は予想だにしないことを言い出し、あぐりは思わず笑みをこぼした。
「私、女なのに?」
 あぐりがふわりと笑えば、「あ」と祢墨は声をもらす。
「そうだった、妹だった。ごめんね」
「いいよ」
 祢墨はおもむろにあぐりの頭を撫でた。
 撫でられる心地良さに身を委ね、あぐりはゆっくりと目を閉じる。
 この先で待つ祢墨の弟はどんな姿をしているのだろうと、まだ見ぬ色見に思いを馳せた。