「よかった、わたしが当たりだ」
木々の間から現れたのは、この場にそぐわないほど美しい女性だった。
二十歳前後と思しき彼女は穏やかな笑みを浮かべ、深緑色の瞳で祢墨を見つめている。艶やかな|翠髪《すいはつ》には白い花があしらわれた簪を刺し、垂れ気味の目は可憐な色気を漂わせていた。
あぐりは思わず見惚れてしまいそうになるが、これほど美しい女性がこんな山中にいるなんて明らかに怪しい。
「久しぶりだね、祢墨。ここを通ると思っていたよ」
女性が鈴を転がすような声で名を呼ぶので、あぐりは思わず息を呑む。
「……|荊《いばら》」
祢墨は白銀を揺らめかせ声をこぼし、あぐりは驚いて祢墨を見た。祢墨の顔は無表情であるものの、こんなにも魂の色を揺らす姿を見るのは初めてだった。
「わぁ、嬉しい。わたしのことを覚えていてくれたんだね。あのころは『わたし』だったけ、それとも『ぼく』だったけ?」
荊と呼ばれた女性はにこりと微笑む。
彼女の魂の色は、新緑と深緑色が混ざりあった穏やかなものだった。
しかし、祢墨と同じく揺らめきや色の混ざりがなく、あまりにも静かだ。
彼女も森だと、あぐりは直感する。
「色見を使って|未鷹《みたか》さんを引きずり出そうなんて、大胆な真似をするね。素人は足手纏いになるだけなのに、あなたらしくないや。現に尻尾を見せちゃったじゃない」
殺気を出し続けている祢墨とは逆に、荊は世間話でもするかのような気軽さで祢墨に話し続けている。
「俺の何が分かる」と、祢墨は抑揚なく言い捨てた。
「そうだね。もう十年くらい会っていなかったから、わたしの知っている祢墨じゃなくなっちゃったのかな。懐かしいねぇ。みんなもう死んじゃって、祢墨のことを知っているのはわたしだけになっちゃった」
「昔話をしに来たのか?」
「本当はそうしたいんだけど、できないんだ。祢墨のこと生け捕りにしろって言われているから」
そう言って、荊はおもむろに両手を上げる。
その瞬間、あぐりたちの両側にあった木々がバキバキと音を立てながら一斉に倒れてきた。
突然のことに固まってしまったあぐりとは対照的に、祢墨はすぐに動きあぐりを抱きかかえて倒れてくる木々を避ける。木々はドンと大きな音を出して地面に倒れ、枝が擦れる音と地響きが鳴り木の葉が舞う。
周辺の木々が倒れたおかげで、辺りは一気に視界が開けた。あのまま立っていたら潰されていたと、あぐりは冷や汗を流しながら思う。
「逃げろあぐり! 今来た道を戻れ! ここはすでにこいつの手中だ!」
祢墨はあぐりを降ろし、荊の方に向き直って告げる。珍しく大声を出す祢墨に驚きつつ、「墨も逃げよう!」とあぐりは叫ぶが、「だめだ、こいつからは逃げられない」と祢墨は荊から目を逸らさず言った。
ここは祢墨の言うことを聞いた方がいいと感じたあぐりは、後ろ髪を引かれながらも今来た道を戻る。
「逃がさないよ。その子も捕まえろって言われているもの」
背後から荊の静かな声が聞こえたが、あぐりは脇目も振らず進み続けた。
しかし、目に飛び込んで来た光景に思わず足を止める。
棘のついた蔓が、地面いっぱいに這っていたのだ。
こんな蔓、来るときにはなかったはずだ。
あぐりの歩幅では蔓を越えることができず、跳んでも越えられそうにない。進むには蔓を踏み潰すしかないが、鋭い棘は草履を貫通して足の裏を刺しそうだ。
そうしてまで進むべきかどうか迷っていると、「その蔓に触れるな! 猛毒が塗ってある!」と祢墨の叫ぶ声が聞こえ、あぐりはゾクリと動きを止めた。
どうにか逃げ道がないか周囲を見渡すが、辺り一面に棘の蔓が這っており隙はない。
逃げられないと悟ったあぐりは、その場に立ち尽くし祢墨の方を向いた。
「ずいぶん準備がいいな」
祢墨はいつの間にか両手に一本ずつ短刀を握り、鋭く荊を見据えている。
「当り前だよ。だってあなたが相手だもの」
荊は柔らかく微笑む。彼女も両手に一本ずつ十尺を超える棘々しい茨の鞭を握っており、軽やかに祢墨に向かって鞭を振るった。両の鞭がしなり、爆発音を轟かせ衝撃波が山中に響き渡る。
目にも留まらぬ速さの鞭での攻撃に、「墨‼」とあぐりは悲鳴に近い声を上げた。
しかし、鞭が祢墨に当たることはなかった。
祢墨は驚くほどの身軽さで迫りくる鞭を避け、ときに短刀で弾き返している。倒れている木々を足場に跳び上がり、唸る鞭をかいくぐり荊の元へ向かった。
だが、荊の鞭は蛇のようにしなやかにうねり、祢墨の行く手を塞ぐ。
祢墨は全身から強い白銀の輝きを迸らせており、こんな状況であるのにあぐりは祢墨の魂の色から目が離せなくなる。
鞭が付近の地面や木に当たるたび、土が抉れ破裂音を響かせながら枝や木の皮が弾け飛ぶ。
あの鞭がかすっただけで肉ごと削がれそうだ。せめて木々の間に隠れて鞭から身を護ろうとあぐりは考えるが、至る所に毒の蔓が蔓延っており、隠れる場所はない。
あぐりは体を竦ませながら、二人の戦闘を見守ることしかできなかった。
祢墨の短刀より、荊の持つ鞭の方が明らかに間合いが長く、祢墨は荊に近付けていない。
現在鞭の猛攻を祢墨は凌げているが、このままではじりじりと祢墨の体力が削られていくのではないかとあぐりは不安になる。
鞭を跳びかわしながら、不意に祢墨は荊に向かって棒手裏剣を投げた。
棒手裏剣は矢のような速度で鞭の隙間を縫い、荊の眉間へ向かい一直線に飛んでいく。
荊は右手の鞭を止め、棒手裏剣を人差し指と中指で挟み止めた。そして棒手裏剣の先端をぺろりと舐める。
「|空華《くうげ》の毒か。調合上手になったね」
左手の鞭を一切緩めずに荊は言う。「誰かさんのおかげで」と祢墨が睨みつければ、「ふふ、ありがとう」と荊は花がほころぶように笑い、右手の鞭を再開した。
祢墨は鞭を避け、短刀で退けながら、隙を見て棒手裏剣を投げ応戦している。荊の鞭がしなるたび、空気を斬り裂く音が周囲に響き渡り、木の破片や土埃が舞う。
時折あぐりの真横にも鞭が飛んできて、あぐりは悲鳴を上げ身を縮める。この場にいたらいずれ鞭が当たるのではないかとあぐりは恐怖に苛まれるが、付近は毒の蔓に囲まれ逃げ場などなかった。
そこであぐりは違和感を覚える。
逃げ回る祢墨よりも、ただ立っているだけのあぐりに鞭を当てる方が簡単なはずなのに、荊はそうしない。意図的にあぐりを避けているかのようだ。
(さっき、彼女は私を捕まえろって言われていると言っていた。もしかして、彼女は私への攻撃を避けているの?)
あぐりははっとして荊の言葉の意味を考える。
森は祢墨のことを狙っているが、それと同時に色見を保護し虚色の王の元へ連れて行く任務にも携わっているはずだ。それなら、色見を傷つけるような真似をしないだろう。
荊が自分を攻撃しないと思い至ったあぐりは、心を落ち着かせながらじっと荊の色を観察した。縦横無尽に鞭を振るう荊の攻撃を、少しでも見極められないかと考えたのだ。
戦闘が始まった途端、荊の魂の色は強く輝き出し、鞭の攻撃と連動しているように見えた。
右手の鞭が祢墨の頭上を狙うときは右肩付近の色が光り、左手の鞭が祢墨の足元を狙うときは左足付近の色が光っている。
(彼女の魂の色を見れば、ある程度攻撃の予測ができる。でも、どうすれば祢墨を助けられるの?)
あぐりは手を握りしめながら二人の戦いを見る。このままでは消耗する一方の祢墨をどうにかして助けたかったが、唸る両の鞭をくぐり抜けて祢墨を助ける方法など皆無なように思えた。
祢墨は足元への鞭攻撃を跳んで避けたが、着地した足場にあった木に足を滑らせ体勢を崩した。
その隙を逃さず、荊の左手の鞭は正面から祢墨の頭を狙い、右手の鞭は祢墨の背中を狙う。
「墨‼」
気付いたときには、あぐりは体が動いていた。
鞭が祢墨の体に届く前に、あぐりは祢墨に体当たりし鞭を避けさせる。祢墨の髪をかすった鞭が、勢いそのままにあぐりの右腕を抉り、あぐりは激痛に顔を歪ませる。
「あぐり⁉」と祢墨は目を見開くが、すぐにあぐりを抱え受け身を取った。
「次、右上から攻撃が来る!」
痛みに耐え、あぐりは荊を見据え魂の色を見る。あぐりの予想通り右上から鞭が迫り、祢墨はあぐりを突き飛ばし、自身は伏せて鞭を避けた。
地面に転がされたあぐりは、右腕の傷を押さえながら荊の色を見続ける。「左脇腹を狙ってる!」とあぐりが叫ぶと同時に、祢墨は左からの鞭を跳んで避けた。
「わたしの攻撃を読んでいるの? 邪魔だね、その子」
荊は据わった目をあぐりに向ける。ゾクリと、あぐりの背中が一瞬にして粟立った。いまだ地面に転がされたままのあぐりはなんとか立ち上がろうとするが、足が震えてうまく立てない。
「逃げろあぐり! どうせ俺を捕まえるためなら、色見を殺してもいいって未鷹に指示されている!」
祢墨は白銀の魂の色を揺らめかせて叫ぶ。逃げなければまずいとあぐりも分かっているが、荊の瞳に捉えられ、金縛りにあったかのように全身が動かなかった。
「さすが、分かっているね」
荊が小さくつぶやくと同時に、両の鞭が伸び空を斬り裂きながらあぐりに襲いかかる。動け、動けとあぐりは必死に足を動かそうとするが、右腕の痛みも相まって力が入らない。
避けられないと思ったその時、祢墨があぐりの前に立ちはだかった。あぐり目掛けてしなる鞭を短刀で薙いで弾き返す。
息つく間もなく次々と襲い来る鞭を退けながら、「限界まで下がってろ!」と祢墨は声を上げた。
「う、うん」とあぐりは返し、よろめきながら立ち上がる。そして言われた通り祢墨から離れ、毒の蔓がある場所のギリギリまで下がった。
「驚いた。その子のことが大切なんだね。てっきり未鷹さんを誘き出すための餌なだけだと思ってた」
荊は意外そうに魂の色を揺らす。祢墨は「黙れ」と低く唸り、地面を蹴り上げると鞭をかいくぐり一気に間合いを詰めた。
直後、荊の胸辺りの魂の色が一層輝き、あぐりは全身を戦かせる。
「なにか来る‼」
あぐりの声に、荊の胸に飛び込もうとしていた祢墨は動きを止めた。
その瞬間、地響きを轟かせながら荊の目の前の地面が爆ぜ散る。
「墨‼」と絶叫するあぐりの声は、爆発音にかき消されてしまった。
大きな砂煙が視界を覆う。
石や木の破片がパラパラと降ってきて、あぐりの顔を叩いた。
砂が目に入って痛みを引き起こすが、あぐりは目を開いて必死に祢墨の姿を捜す。やがて煙は晴れ、爆発前と同じ位置に立つ荊は見えたが、どこにも祢墨の姿を見つけることはできなかった。
あぐりは愕然として「墨……」とつぶやく。
「ありがと、あぐり」
突然右隣から声がして、あぐりは「うわっ⁉」と声を上げてしまう。
右を見ると、祢墨が平然とした顔で立っており、「墨!」とあぐりは喜びを隠せず名を呼んだ。祢墨の顔には細かな切り傷がついているが、大きな怪我はしていないようだ。
間一髪爆発から逃れられたのだろう。
「あぁ、残念。でも、完全には避け切れなかったみたいだね。少し右足を巻き込まれたでしょう」
荊は静かに微笑むと、容赦なく鞭をしならせ祢墨とあぐりに向かい振るう。
あぐりたちの後ろには毒の蔓が這っており、正面から迫ってくる鞭を避ける場はなかった。
今度こそ逃げられない。
そう思ったあぐりは、咄嗟に頭を抱えて身を小さく固めた。しかし、祢墨は動じることなく短刀を構え、冷静な瞳で鞭を見つめている。
鞭が祢墨の頭を捉えたその刹那、祢墨は寸分狂わず鞭の先端を短刀で薙ぎ払った。
鞭の先端が斬れ落ち、それを皮切りに鞭が折れ、歪み、先端からボトボトと地面に落ちていく。
「え?」
あぐりは顔を上げ、呆然として落ちゆく鞭を見る。
荊は笑みを消し再度鞭をしならせるが、曲がった箇所から亀裂が入り、次々と千切れていった。
あぐりが呆然としている間に、祢墨は脱兎の勢いで荊の元へ駆けて行く。
荊は顔色を変えず鞭から手を離し、両手の中指に寸鉄を装着した。
祢墨は荊の首を目掛け短刀を振るい、荊はそれを寸鉄で受け止める。金属同士がぶつかり合い、鋭い音が連続して山中に響いた。
祢墨は荊を押し返すと、鋭く右足を蹴り上げ荊の首を狙う。
荊は体を後ろに逸らして避け、祢墨の右足を掴むが、祢墨はそのまま体を回転させて荊を倒そうとする。
荊はすぐに足を離し、体を伏せて祢墨の回転蹴りを避け、寸鉄で祢墨の首元を突いた。
祢墨は左手の短刀で寸鉄を受け止め、右手に短刀で荊の目を斬りつけるが、それをまた荊は避ける。
緊迫した二人の交戦の間に入ることなどできず、あぐりは胸の前で両手を強く組みながら祢墨を見守った。
激しい接近戦の末、祢墨は荊の左手の寸鉄を指ごと斬り飛ばした。
すぐに荊は右手の寸鉄で祢墨の目を突いたが、祢墨は身をかがめ紙一重で避ける。
そして、荊の胸を右手の短刀で深く刺した。
荊はわずかに顔をしかめ、寸鉄を祢墨の首に刺そうとするが、祢墨は左手の短刀で寸鉄を弾き返す。
荊はわずかによろめき、自身の胸に沈む短刀を見下ろし「なるほど」とつぶやいた。
「短刀に何か塗っていたのか。どうりで鞭が斬られた場所から朽ちていったわけだ。変わった形をした短刀だね。毒を溜めておく溝が彫ってあるって、今気づいたよ」
荊は口から血を吐きながら声を出し、祢墨は無表情に短刀を抜き荊を見つめる。
荊がおもむろに足を崩し、後ろに倒れ込んだが、祢墨は短刀を手放し跪いて彼女の体を支えた。
祢墨の腕の中に荊は収まり、「荊」と祢墨は白銀にわずかに濃藍色を滲ませてつぶやく。
暗い青色系の色は、悲しみの色だ。
何事にも無感情だった祢墨がそんな色を滲ませるのは初めてのことなので、あぐりは驚愕しその場から動けなくなる。
「よかったねぇ、祢墨。大事なものが見つかったんだね」
祢墨の腕の中で、荊は血を流しながらこれ以上ないほどの美しい笑顔を見せる。
彼女の魂の色には、喜びの色である黄色が滲んでいた。死の間際だというのに、なぜ彼女がこんなにも喜んでいるのかあぐりには理解できない。
「その子を連れて、蜃龍山に向かうんでしょ。その麓で未鷹さんが待ち構えている」
自らの血にむせ、息も絶え絶えになりながらも、荊は祢墨の目を見て話し続けた。
「……あの人を動かしているのは、ただの劣等感だ。昔から白狼さんに勝てなかったことをずっと根に持って、白狼さんの痕跡を全て消そうとしている。あなたが最後なんだよ、祢墨。あの人はあなたが死ぬまで決して諦めない。白狼さんの最高傑作であるあなたを」
荊の声がかすれ、次第に弱々しくなっていく。命の灯が消えつつある荊の姿を、あぐりは固唾を吞んで見つめることしかできない。
荊はゆっくりと瞬いたあと、右手を震わせながら伸ばし、祢墨の左頬に静かに添える。祢墨の左頬に、荊の血がわずかに滲んだ。
「ありがとう、祢墨。これでぼくも、ようやく自由に……」
荊は魂の色を黄色に輝かせ、目を細めてにこりと微笑む。
次の瞬間荊は右手を下ろし、魂の色が消え去った。
動かなくなった荊を、祢墨は腕に抱えたまま静かに見つめている。
「彼女、知り合いなの?」
あぐりはおずおずと祢墨に尋ねた。尋ねながらも、知り合い以上の関係だろうことをあぐりは察していた。
「……あぁ。同じときに森に拾われて、二年間一緒に過ごした。俺が白狼の暗殺部隊に入ってからは会っていない。あと、荊は女じゃない。森には男しかいないんだ」
「えっ」
衝撃の言葉にあぐりは声がもれる。祢墨の腕の中で息絶えている荊は、服装も顔立ちも完全に女性のそれで、男性だとは到底思えない。
「……諜報や暗殺活動のときは、女の方が都合のいいことがあるから、そういうときのために適性のある奴は女装の訓練を受ける。荊は飛び抜けて綺麗だったから、早々に女として仕込まれた。……大人たちからも人気だったよ」
祢墨は白銀の魂の色をわずかに揺らしながらぽつぽつと話し出す。
「昔から、荊は人に取り入るのが上手かった。訓練で他の奴らが怪我や病気や飢えで死んでいくなかで、荊は大人に取り入って薬や食料をもらっていた。なぜか俺は荊に気に入られて、分けてくれた。無事に大人になれたなら、一緒に美味いもの食べに行こうって約束したな……」
初めて聞く祢墨の過去話を、あぐりは言葉もなく聞き入った。わずかな言葉の端からでも、過酷な森での生活がひしひしと伝わってきて、あぐりは胸が苦しくなる。
共に生き抜いてきた友人を自らの手で殺した祢墨が、今何を思っているのか、あぐりには想像もつかなかった。
胸の苦しさは次第に大きくなり、手足の感覚が失われていく。
耐えきれず、あぐりは前のめりに倒れ込んだ。
「あぐり?」
祢墨は荊の遺体を地面に横たえると、すぐにあぐりの元へ寄り顔を覗き込む。ひどく息苦しく、あぐりは脂汗を浮かべながら呼吸を乱した。
祢墨はあぐりを仰向けにし、右腕の傷を見る。そして小さく舌打ちをした。
「毒か。俺をかばったとき鞭の棘が刺さったな」
「ごめん……」とあぐりが呼吸の合間に謝れば、「いや、俺の落ち度だ。最初に言っておかなかった」と祢墨は淡々と言った。
「お前が、俺をかばうなんて思わなかったから……」
祢墨はわずかに眉を寄せてつぶやく。そしてすぐに立ち上がり、荊の遺体の横にしゃがみ込むと、荊の服をまさぐった。あまり間を置かずに、祢墨は「あった」と小さく声を零す。
「解毒薬だ。飲め、死ぬぞ」
あぐりの元へ戻ってきた祢墨は、あぐりの目の前に丸薬を差し出す。
しかし、あぐりは目がかすんで、どこに薬があるのかすら分からない。
「あぐり」と呼ぶ声が聞こえるが、次第にその声も遠のいていった。
自分はもう助からないのだろうかと、あぐりの胸が締め付けられるように痛む。
以前ならあんなにも望んでいた死であるはずなのに、喜びはなく、真っ暗な虚しさだけが心に広がっていく。
せめて、墨に殺してもらいたかったなと、遠のく意識の中で思った。
不意に唇に柔らかな感触がした。
そして、口の中に苦く渋い塊が押し込まれる。
わずかに目を開けると、祢墨の顔が離れていくのが分かった。口移しで薬を飲まされたのだと、すぐには気付かなかった。
祢墨は水筒の水を飲み、顔を近づけまた唇を合わせた。わずかに開いた口の間から水が流れ込んできて、あぐりは抵抗せず水を薬ごと吞み込む。先ほどよりも長い口付けのあと、祢墨はゆっくりと顔を離した。
義家族たちから暴行を受けて育ったあぐりにとって、無理やり口付けをされたことは初めてではない。
しかし、祢墨の唇の感触は、今まで感じたことがないほど柔らかくて温かかった。
あぁ、この温もりさえあれば、私はなにもかもを捨てられるのだろう。
目の端から滲んだ涙が頬をつたい始める前に、あぐりの意識は暗闇の中に消えていった。