カタ、カタカタ、カタ、タン──。
タイプライターが軽やかに歌う。RIC(王立アイルランド警察隊| 《※1》)・オーマ署の事務室で、エレノア・ハートレーはいつもどおりの週次報告を作成していた。
”取り立てて状況に変化なし”──事実、この町では何も起きていない。市場に漂うほのかな緊張などという細かな所感は、報告書には現れない。それは隠蔽ではなく、公文書という粗い網は人々の小さな呼吸を掬うようにはできていない──ただ、それだけのことである。タイプライターが乾いた音を立てて印字するその一言は、窓の外の湿った空気を何一つ語っていなかった。
「ふう……」 ひとつ作業に区切りをつけ、エレノアは窓の外を見やる。
三月のライオンは今のところ眠っているようだが、視線を上げれば今にも泣き出しそうな雲がある。視線を下げれば、深い嘆息のような霧がある──いずれも地域柄珍しいことではない。しかし、それらはどことなく不穏なものを孕んでいるようにも思えた。
ここはアルスター地方ティロン県。海を越えて、エレノア──親しい人はノラと呼ぶ──がここに来たのは、およそ二年前のこと。そこからのほとんどは平穏そのものだった。
業務上の書類に現れるのは、迷子になった羊の捜索、地主との小競り合い、深夜のパブでの些細な諍い……それは警察の仕事かと思えるようなことまで含んでいたが、総じて大過ないものだった。
しかし、およそ二ヶ月前、潮目が変わった。
それは、第一次世界大戦が終結して初めて迎える新年早々──新たな夜明けを言祝ぐ気分が薄れ、日常が戻ってきた、一九一九年一月二一日のこと。アイルランド南部のダブリンにて、「アイルランド共和国」の樹立が高々に宣言された。
それだけだったなら、まだしも理想家が夢を語っただけで終わっていたかもしれない。しかし、その言葉に重みを与える事件が宣言の数時間前に起こっていた。
同じく南部のソロヘドベッグにて、RIC職員二名が襲撃・殺害されたのだ。事件そのものはシン・フェイン党| 《※2》とは無関係だったが、ゆえにこそ世を動かした。
共和国宣言とソロヘドベッグの襲撃。それら二つが「たまたま」重なったことで──アイルランドの長雨のなかでも燻り続けたものが、理想という風を受けて燃え上がり、そして燎原の火のごとくに広がった。
「……ここも、いずれそうなってしまうのかな」
窓についた水滴をなぞりながら、エレノアは無意識に呟いた。
「なにか心配事かな、ミス・ハートレー?」 その声に反応したのは、フィッツジェラルドだった。
「あ……すみません、|警部《サー》。仕事に戻ります」
「いや、いいさ。君のおかげで、かなり書類仕事は片付いているし。……それで、どうかしたかな」
ルイス・フィッツジェラルド──RIC・オーマ地区警部。すなわち、エレノアが所属するオーマ署を統括する人物である。そのような立場でありながら誰に接するにも分け隔てなく、そんな彼にエレノアも敬意を抱いていた。
「雲を見ていたら、なんだか心配になってしまって。ダブリンの……その、」
「ああ、それか……」 フィッツジェラルドはため息混じりに言って頷く。
「まあ、意識しないほうが無理というものだろう。ここではまだ表立ったことは起こっていないとはいえ、雰囲気の変化は私も感じる」
「はい、ときどき視線が痛いことがあるというのか……。オマリー巡査たちは、もっと感じているのでは」
ソロヘドベッグの襲撃事件では、RIC職員が標的となった。そして、それと共和化の志向──つまり長く続く英国による統治への反発心とが結びついた。これが意味するのは、つまり制服を着たRICというものは「分かりやすい英国支配の象徴」であり、また先鋭的な向きからすれば「義勇の士が打ち倒した敵」だということだ。
「そうだろうね、彼らは制服を着て町を歩き回るわけだから……。署内での仕事の方が多い私や、そも制服のない君以上に感じるものはあるだろう」
「ええ、落ち着いてくれたらいいのですが……」
「そう願おう。|県《カウンティ》からは『不審者リスト』を作れなどと言われているが……隣人をそんな目で見たくはないね」
「……本当に」
エレノアが応じ、フィッツジェラルドは何も言わず頷く。それで自然に会話は終了し、それぞれがデスクに戻った。時季は年度末、週次報告を作成してもまだ処理すべき書類がある。そこからしばらく、事務室にはカタカタという打鍵音と、サラサラとペンを走らせる音のみが響いていた。
*
「オマリー巡査、戻りました」 「同じくハリス巡査、戻りました」
二時間ほどの後、町のパトロールに出ていた巡査二名──パトリック・オマリーとジョン・ハリスが、水気を吸って濃く変色したコートの裾を揺らしながら戻ってきた。
「ああ、やっと脱げる。重いし、気持ち悪いし……制服だって言ってもなんでこんな……」
「そう言うなジョン。僕らにはちゃんとした格好も大事なんだ……まあ、半分くらいは頷きたいけどな」
愚痴をこぼすハリスをなだめるように、オマリーが応じた。厚手のウールコート──その湿気を多く含んで重くなる様は、雨と霧に愛された環境にあって不適当とも言える。しかしその高級感は格式を演出し、その頑丈さは万一の場合の防御になるのである。
「ご苦労、オマリー君、ハリス君。なにか変わったことは?」
「特段、異常といえるものは──まあ、少しばかり野次は貰いましたが」
フィッツジェラルドの問いにオマリーが答え、それに続いてハリスがやれやれと言わんばかりに頭を揺らした。
「そうか……。仕方がないというのも変だが、君たちには忍耐をお願いすることになる。よろしく頼む」
「はっ」 「……はい」
二人が応えたところで、事務室の大きな柱時計が重々しい音を鳴らした。
「……十八時か。ちょうど報告も受けたし、二人とも上がってくれ。……ああ、オマリー君、明日は非番だから実家に帰るだろう?」
「? はい、そのつもりですが」
「悪いが、ミス・ハートレーに声を掛けて送ってあげてほしい。奥で資料の片付けをしていると思うが、今日は霧が深くなりそうだし、切り上げていいからと」
「ああ、まだいるんですね。承知いたしました」 そこまで済むと、解放されたとばかりにハリスはコートをハンガーに掛け、足早に署内の食堂へ向かっていった。
「……警部。先程は言わなかったのですが、」 ハリスが事務室を出ていったのを見計らって、オマリーはフィッツジェラルドに話しかけた。「実は野次を貰ったというだけでは終わらなくて。そのとき、声の主とハリスとでちょっと言い合いになったのです」
「ふむ……。まあ、あの様子を見ていて、薄々何かあったなとは思ったが」
「その場は何とか、僕が割って入って収めましたが……正確なところをお伝えしておくべきかと」
「ありがとう。……彼は若いから幾らかは仕方ないのだが、願望を言えば、もう少し衝動的な言動を抑えてほしいところだ」
「ええ、まあ……ちょっとヒヤヒヤするところはありますね」
「状況が状況だからね。彼にも君にも我慢させているのは重々承知だが、気にかけてやってほしい。私から何か言うよりは、彼も聞きやすいだろう」
「はっ」
「さあ、今度こそ上がってくれ。お疲れ様」 フィッツジェラルドは手元の書類を整えながら言った。
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※1 RIC(王立アイルランド警察隊):
Royal Irish Constabulary。
英国に属する、アイルランド統治の
ための警察組織。
※2 シン・フェイン党:
共和派の政治勢力。共和国宣言のおよそ
一ヶ月前、議会で圧倒的多数の議席を獲得
していた。