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プロローグ 1920

ー/ー



「──打ち直しですね、お嬢さん(レディ)

 冷気と湿気が溶け込んだ室内に、粘り気のある声が響く。声の主は、数か月前から我が物顔で署内に出入りする、元将校の男──エドワード・アッシュフォード。その声色は、慇懃でいながらに酷薄であった。

「……なにか、間違いがありましたか」
 エレノア・ハートレーは訊き返した。先刻、彼女は事務官として、その日の作戦行動についての報告書を男に提出した。立ち昇る煙の臭いを思い出しながら、ただ、彼女の見たありのままを。
 
「それはもう。ダブリン城に報告するにあたって、重要な『事実』が抜け落ちているとも」
「私は、虚偽は書いていません」
「ええ。ただ、『書き忘れたことがある』──そうでしょう?」
 エレノアは、アッシュフォードが何を求めているのかなど理解している。ゆえにこそ、彼女の理性はそれを認めてはいけないと警鐘を鳴らしているのだ。「しかしそれは──」

「弁えたまえ、お嬢さん」 アッシュフォードが机を叩くと、鴉の色をしたベレー帽が跳ね上がる。そして彼は立ち上がり、つかつかと歩きながら言った。「君はただの事務官(クラーク)で、私はダブリン城から指令を受けてここにいる立場なのですよ。そこの地区警部殿の不甲斐なさゆえにね」
 アッシュフォードが一瞥した先には、この数ヶ月で老け込んだようにも思える、ティロン県オーマ地区警部ルイス・フィッツジェラルドが立っていた。彼は下唇を噛みつつエレノアを見やり、首を小さく横に振った。

 アッシュフォードはエレノアに歩み寄り、見下ろす。
「それとも、何を書けばいいか分からないのかな。これだから──」
「大尉殿」 フィッツジェラルドが言葉に割り込んだ。「彼女に対してその続きは看過できません」

アッシュフォードは彼を一瞬じろりと睨んでから、わざとらしくため息をついた。
「やれやれ……まあいい。それならば、教えてあげましょう。さあ、席について」
 
 エドワード・アッシュフォード──元軍人だけに鍛えた体躯の面影はあるが、今は不健康なほど痩せている。そして、その視線はエレノアに向けていながらも、同時に遠くを見つめているようである。エレノアは、その異様な雰囲気に圧され、頭ひとつ分上から放たれる声に従った。
 

 カタ、カタ、カタ──エレノアはタイプライターのキーを打つ。ひとつひとつ……背後からの重みを感じながら、普段の彼女とは比べ物にならないほどの遅さで。
「ゆっくりでいい。急いては事を仕損じる……また『打ち間違え』ないように。紙も貴重ですからね」
「……」
 理性は先刻から、従ってはならぬと警鐘を鳴らす。いっぽうで、本能は逆らってはならぬと早鐘を打つ。理性と本能の衝突を表すように、歯がカチ、カチ、カチと音を立てた。

「震えていますね、お嬢さん。まったく、北部の寒さは纏わりつくようで──おっと、そこは先程『打ち忘れた』箇所ですね」
 エレノアの手が止まり、先刻入力した内容が頭をよぎった。
逃走しようとした男性一名に発砲(... shot a male attempt to escape.)──”

「”逃走を図った反抗的な男一名にやむなく発砲(... INEVITABLY shot a REFRACTORY male attempt to escape.)”です。綴りは、I-N-E-V……」
「ッ……分かり、ますから」
「それは失敬。ではどうぞ」
エレノアには、ひと文字打つごとに、これまで自身を支えてきたものが削れていく心地がした。


 やがて「修正」の最後の一文字を打ち、エレノアはプラテン右端のノブに指をかけた。黒い円筒を回せば、紙の上の数々の嘘が一段ずつ、断頭台へ向かう囚人のようにせり上がっていく。カリカリと鳴るラチェットの音は、彼女の心臓を引っ掻く音のようだった。
 そうして十分に紙が送り出されたところで、彼女はその上端を掴み、シリンダーを横断する金属刃に押し当てた。

 ──ジャッ。

 乾いた音とともに、一直線に紙が裁断される。それは同時に、エレノアの誇りが刎ね飛ばされた音でもあった。機械から切り離され、彼女の手からも解き放たれた「公文書」は、物言わずデスクに横たわっていた。
 これで嘘が「公式」となる。そして、それを記述したのは自分──そんな自己嫌悪に支配されたエレノアに、追い打ちをかける声が響いた。
 
「さあ、お嬢さん。署名を」
「え……」
「え、ではないでしょう。これは公式の記録であり、作成者と承認者の署名が必要だ──これまで、何度もやってきているでしょうに」

 それは事実である。エレノアが事務官としてこれまで守ってきたその「正しさ」が、そのとき彼女を縛る鎖となった。それまで潔癖なまでに努めてきた日々は、この一枚の「嘘」を証明するためにあったというのか──そう思って、彼女の呼吸が乱れた。
 
「ミス・ハート──」
「黙っていていただきたい、フィッツジェラルド警部。これは文書を作成した者の責務です。部下の仕事を奪う真似はいただけませんねえ」
「ッ……!」

 それもまた、この瞬間においては正論である。フィッツジェラルドには引き下がるしかできなかった。まして、このアッシュフォードという男は安全装置を外したままの爆弾のようなものだ。下手に刺激すればどうなるか分かったものではない。フィッツジェラルドは下唇を噛み切らんばかりの表情のまま、沈黙した。

「……分かり、ました……」
エレノアは一度拳に力を込めてから、ペンを執り──”E. Hartley”の文字が公文書に刻まれた。


「……結構。これで、美しい報告書の完成だ」 検分の後、アッシュフォードは自身の署名を書面に走らせた。 「では、よい夜を。北部の夜は長い……風邪を引かないように」

 アッシュフォードは、剥き出しのウェブリー・リボルバーを腰に揺らしながら、外に続くドアへ歩を進めた。その後ろに従うのは、もはや親の後に続く雛鳥のごとき若き巡査、ジョン・ハリス。

 
 エレノアとフィッツジェラルド、二人が残された執務室は、外と変わらぬ冷たく湿った空気が支配していた。



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「──打ち直しですね、|お嬢さん《レディ》」
 冷気と湿気が溶け込んだ室内に、粘り気のある声が響く。声の主は、数か月前から我が物顔で署内に出入りする、元将校の男──エドワード・アッシュフォード。その声色は、慇懃でいながらに酷薄であった。
「……なにか、間違いがありましたか」
 エレノア・ハートレーは訊き返した。先刻、彼女は事務官として、その日の作戦行動についての報告書を男に提出した。立ち昇る煙の臭いを思い出しながら、ただ、彼女の見たありのままを。
「それはもう。ダブリン城に報告するにあたって、重要な『事実』が抜け落ちているとも」
「私は、虚偽は書いていません」
「ええ。ただ、『書き忘れたことがある』──そうでしょう?」
 エレノアは、アッシュフォードが何を求めているのかなど理解している。ゆえにこそ、彼女の理性はそれを認めてはいけないと警鐘を鳴らしているのだ。「しかしそれは──」
「弁えたまえ、お嬢さん」 アッシュフォードが机を叩くと、鴉の色をしたベレー帽が跳ね上がる。そして彼は立ち上がり、つかつかと歩きながら言った。「君はただの|事務官《クラーク》で、私はダブリン城から指令を受けてここにいる立場なのですよ。そこの地区警部殿の不甲斐なさゆえにね」
 アッシュフォードが一瞥した先には、この数ヶ月で老け込んだようにも思える、ティロン県オーマ地区警部ルイス・フィッツジェラルドが立っていた。彼は下唇を噛みつつエレノアを見やり、首を小さく横に振った。
 アッシュフォードはエレノアに歩み寄り、見下ろす。
「それとも、何を書けばいいか分からないのかな。これだから──」
「大尉殿」 フィッツジェラルドが言葉に割り込んだ。「彼女に対してその続きは看過できません」
アッシュフォードは彼を一瞬じろりと睨んでから、わざとらしくため息をついた。
「やれやれ……まあいい。それならば、教えてあげましょう。さあ、席について」
 エドワード・アッシュフォード──元軍人だけに鍛えた体躯の面影はあるが、今は不健康なほど痩せている。そして、その視線はエレノアに向けていながらも、同時に遠くを見つめているようである。エレノアは、その異様な雰囲気に圧され、頭ひとつ分上から放たれる声に従った。
 カタ、カタ、カタ──エレノアはタイプライターのキーを打つ。ひとつひとつ……背後からの重みを感じながら、普段の彼女とは比べ物にならないほどの遅さで。
「ゆっくりでいい。急いては事を仕損じる……また『打ち間違え』ないように。紙も貴重ですからね」
「……」
 理性は先刻から、従ってはならぬと警鐘を鳴らす。いっぽうで、本能は逆らってはならぬと早鐘を打つ。理性と本能の衝突を表すように、歯がカチ、カチ、カチと音を立てた。
「震えていますね、お嬢さん。まったく、北部の寒さは纏わりつくようで──おっと、そこは先程『打ち忘れた』箇所ですね」
 エレノアの手が止まり、先刻入力した内容が頭をよぎった。
”|逃走しようとした男性一名に発砲《... shot a male attempt to escape.》──”
「”|逃走を図った反抗的な男一名にやむなく発砲《... INEVITABLY shot a REFRACTORY male attempt to escape.》”です。綴りは、I-N-E-V……」
「ッ……分かり、ますから」
「それは失敬。ではどうぞ」
エレノアには、ひと文字打つごとに、これまで自身を支えてきたものが削れていく心地がした。
 やがて「修正」の最後の一文字を打ち、エレノアはプラテン右端のノブに指をかけた。黒い円筒を回せば、紙の上の数々の嘘が一段ずつ、断頭台へ向かう囚人のようにせり上がっていく。カリカリと鳴るラチェットの音は、彼女の心臓を引っ掻く音のようだった。
 そうして十分に紙が送り出されたところで、彼女はその上端を掴み、シリンダーを横断する金属刃に押し当てた。
 ──ジャッ。
 乾いた音とともに、一直線に紙が裁断される。それは同時に、エレノアの誇りが刎ね飛ばされた音でもあった。機械から切り離され、彼女の手からも解き放たれた「公文書」は、物言わずデスクに横たわっていた。
 これで嘘が「公式」となる。そして、それを記述したのは自分──そんな自己嫌悪に支配されたエレノアに、追い打ちをかける声が響いた。
「さあ、お嬢さん。署名を」
「え……」
「え、ではないでしょう。これは公式の記録であり、作成者と承認者の署名が必要だ──これまで、何度もやってきているでしょうに」
 それは事実である。エレノアが事務官としてこれまで守ってきたその「正しさ」が、そのとき彼女を縛る鎖となった。それまで潔癖なまでに努めてきた日々は、この一枚の「嘘」を証明するためにあったというのか──そう思って、彼女の呼吸が乱れた。
「ミス・ハート──」
「黙っていていただきたい、フィッツジェラルド警部。これは文書を作成した者の責務です。部下の仕事を奪う真似はいただけませんねえ」
「ッ……!」
 それもまた、この瞬間においては正論である。フィッツジェラルドには引き下がるしかできなかった。まして、このアッシュフォードという男は安全装置を外したままの爆弾のようなものだ。下手に刺激すればどうなるか分かったものではない。フィッツジェラルドは下唇を噛み切らんばかりの表情のまま、沈黙した。
「……分かり、ました……」
エレノアは一度拳に力を込めてから、ペンを執り──”E. Hartley”の文字が公文書に刻まれた。
「……結構。これで、美しい報告書の完成だ」 検分の後、アッシュフォードは自身の署名を書面に走らせた。 「では、よい夜を。北部の夜は長い……風邪を引かないように」
 アッシュフォードは、剥き出しのウェブリー・リボルバーを腰に揺らしながら、外に続くドアへ歩を進めた。その後ろに従うのは、もはや親の後に続く雛鳥のごとき若き巡査、ジョン・ハリス。
 エレノアとフィッツジェラルド、二人が残された執務室は、外と変わらぬ冷たく湿った空気が支配していた。