冒険者ギルド
ー/ー 口の中に、まだ消えない旨味が残っていた。
皿の底に残った肉汁をパンの欠片で丁寧にぬぐい、名残を惜しむように口へ運ぶ。
舌の上で、脂の甘みと香草の風味が優しくほどけた。
「……はぁ、幸せ……」
幸福そのものの吐息が、リネットの唇からこぼれ落ちる。
その緩みきった瞬間を――この店の女主人が見逃すはずもなかった。
「あははっ! 随分と満足してもらえたみたいで良かったよ!」
豪快な笑い声と同時に、テーブルが小さく震えた。
ドン、と置かれたのは分厚いガラスのコップ。よく冷えたミルクがなみなみと揺れている。
「あ……その……えっと」
「あんな幸せそうな顔で食べてくれたの、お嬢ちゃんが初めてだからね! これはサービスだよ。飲みな!」
リネットは肩をすぼめた。
周囲の客席からも「いい食べっぷりだったぞ」なんて声が飛んだ気がして、椅子の上で居場所がなくなる。
「それに、見たところ旅慣れてなさそうだしねぇ。今のうちに栄養つけときな!」
(ううっ……全部見抜かれてる……)
反論したいのに、口が動かない。
――美味しすぎたのだ。あの『蒼眼の巨鹿』のソーセージが悪い。
弾ける皮も、あふれる肉汁も、鼻を抜ける香草の余韻も、全部。
責任をすべて食材に押し付けながら、リネットは火照った顔を隠すようにミルクへ口をつけた。
「ところで、もしかしてお嬢ちゃんは『リーベンバウム』の生まれかい?」
「――ぶふっ!?」
ミルクを噴き出しそうになり、慌てて飲み込む。
「えっ、けほっ! ど、どうしてそれを?」
「出で立ちだよ! 動きやすそうな軽装備に、あの肉を追う『狩人のような瞳』。それでピンときたのさ」
(ううっ……そんなに食欲に出てたかな……)
「やっぱりね! あの村の人たちは狩りが上手いからねぇ。うちも、よく『蒼眼の巨鹿』の肉を仕入れる依頼を出してるんだ! いまあんたが食べた肉も、村の狩人が狩ってくれたものだよ!」
「え……そうなんですか?」
「ん? たまにお裾分けで、一番いい部位を譲ってやるんだけど……その様子だと、もしかして……」
女主人は冗談めかしてニヤリと笑った。
「あの旦那、内緒で独り占めしてるのかねぇ?」
その一言が、やけに鮮明に耳に残った。
――父だ。
村で「街からの依頼」を一手に引き受けている凄腕の狩人は、リネットの父、ヴェルナーしかいない。
(……独り占め……? )
脳裏に浮かぶ光景。
暖炉の前で、何食わぬ顔をして最高級の鹿肉を頬張る父。
自分と弟のアラン、そして母ノーマンの知らないところで。こっそりと。肉汁を滴らせながら。
(父さん……? )
胸の底に、じわりと熱が灯った。
感謝とは別種の――暗くて、しぶとい火だ。
「それでこの後、どうするんだい?」
女主人の声が現実へ引き戻す。
リネットは“怒り”を思考の隅へ蹴り飛ばし、顔を上げた。
「えっと、私も狩りが得意なので……冒険者ギルドに行ってみようと思ってます!」
「そうかい! リーベンバウムの出身なら、魔物狩りなんてお手のものだろうね!」
大きく頷くと、女主人は太い指で窓の外を指し、空中に地図を描いた。
「ギルドなら中央広場にある噴水の前さ。大きな時計の付いた、焦げ茶色の建物がそうだよ」
女主人の言葉で、情景が地図のように頭の中に立ち上がる。
中央広場。噴水。時計。焦げ茶色の壁。
「わざわざありがとうございます!」
「いいんだよ! またおいで!」
「ご馳走様でした!」
リネットは巾着から銀貨を取り出して手渡すと、軽い足取りで出口へ向かった。
扉を開けると、外の冷たい空気が心地よく頬を撫でる。
「さて……と……! んんんんんん~っ!!」
頭上で両手を組み、思い切り背伸びをする。
凝り固まっていた背骨がパキパキと鳴り、新鮮な空気が肺を満たした。
「まずは、冒険者ギルドに行ってみようかな!」
父への疑惑は一旦忘れ、リネットは弾むような一歩を踏み出した。
~*~*~*~
古都アウゲンブリック、冒険者ギルド。
受付を済ませたリネットは、案内された個室で小さくなっていた。
活気に満ちたホールとは隔絶された静寂の中、待つこと数分。
「お待たせしました」
向かいの席に腰を下ろしたのは、少年と青年の狭間にいるような、線の細い職員だった。
彼は抱えていた『それ』を、恭しく机の上へ置く。
――ズンッ。
重厚で、鈍い音が室内に落ちた。
武器と呼んでも差し支えない厚みの、通称『マニュアル』。
使い込まれた革表紙に、側面から飛び出した無数の付箋。
圧だけで黙らせてくるその質量に、リネットの背筋がひやりとする。
(えっ……これ……まさか全部説明されるの……? )
「本日、冒険者登録のご案内を担当いたします。フュリン・シュッテリッヒです。よろしくお願いいたします」
「よ、よろしくお願いします!」
恐縮して頭を下げると、フュリンは銀縁の眼鏡をくい、と指先で押し上げた。
「では、まず規則。次に報酬についてご説明しますね」
淡々とした声と共に、分厚い表紙が開かれる。
ページの端は柔らかくめくれ上がっていた。
ここで何人もの新米が、最初の“洗礼”を受けてきた歴史の証だ。
「冒険者は、ギルドが管理する依頼を勝手に受けることはできません。受付が評価と実力を確認し、ギルドマスターへ報告したうえで、正式な受託となります」
説明は流れるようにスムーズで、かつ聞き手を置き去りにしない速度だった。
フュリンは要所で視線を上げ、リネットの表情を確かめる。
理解が追いついているか、疑問が湧いていないか。その確認が、妙に手慣れていた。
「ですので、受付に断られた依頼を独断でこなしてきても……報酬は発生しませんのでご注意ください」
「勝手に依頼を受けちゃう人なんて……本当にいるんですか?」
「ええ。プライドの高い方や、ご自身の実力に絶対の自信がある方ほど、そういった傾向が見られますね」
フュリンは淡々と、しかし辛辣な事実を述べた。
眼鏡の奥の瞳が「そういう手合いの尻拭いが一番大変なんです」と語っている気がする。
「……では、次です」
ペラリ、とページがめくられた。
「ギルドは依頼を管理・仲介する機関です。施設の維持やトラブル対応のため、報酬の二十パーセントを手数料として差し引かせていただきます。ご了承ください」
「二十パーセント……」
安くはない数字だ。
けれど、リネットは眉をひそめることもなく、素直に頷いた。
(施設の維持。依頼の調整。怪我人の対応……どれも、タダじゃ回らないもんね)
村長を支える父の背中を見てきた彼女には、その理屈が骨のところで理解できていた。
誰かが裏で汗をかいているから、表の人間が輝けるのだ。
「とはいえ、掲示板の依頼リストには『差し引き後』の金額を記載しております。そこからさらに減る、ということはございません」
「あ、そうなんですね! よかったぁ」
肩の力が、ふっと抜ける。
後から「ここから税金と手数料が引かれます」と言われるより、最初から手取りが見えているほうが、精神衛生上ずっといい。
(冒険者の世界ってもっと大雑把だと思ってたけど……仕組みは案外、堅実な『お仕事』なんだ)
「では、さらに次へ……」
「はい」
――そして、そこからが本当の地獄だった。
規則。例外条項。罰則規定。階級制度。
次から次へと、整った言葉のレンガが積み上げられていく。
討伐証明の提出方法に始まり、希少素材の取り扱い、緊急時の報告義務、果ては提携宿屋の割引規定まで。
「こちらの項目ですが――」
フュリンの声は一定の温度で続き、要所で柔らかな笑みを挟んでくる。
丁寧だ。親切だ。だが、情報量という名の暴力が止まらない。
(……まだ、あるの……? )
(……ねえ、この本、ページ増えてない……? )
リネットの目が回るのが先か、説明が終わるのが先か。
気づけば窓の外の光が傾き、茜色が室内へ差し込み始めていた。
~*~*~*~
「以上で、冒険者についての説明は終わりです」
パタン、と分厚い表紙が閉じる音が、室内に重く残った。
(な、長かった……おしり痛いぃ……)
貼り付けていた愛想笑いの裏で、リネットは音もなく崩れ落ちていた。
背中は石のように固まり、首はずっしりと重い。
木の椅子に三時間も押しつけられた腰から下が、じわじわと痺れるように抗議してくる。
(魔物と戦う前に、“座学”という名の試練で再起不能になるところだったよ……)
途中、何度か意識が遠のきかけた。
それでも最後まで座り切った――その事実だけが、今のリネットを支える小さな誇りだった。
「お疲れ様でした。これで、貴女も正式な冒険者です」
「あ、ありがとうございます……!」
(やっと……やっとスタート地点だ……! )
痺れた足の感覚が戻りはじめた頃、ふと視線が個室の外へ滑った。
ガラス越しに見えるギルドのホール。
そこは――老人たちで埋め尽くされていた。
「……え?」
あちこちで椅子が小さく軋み、酒ではなく湯気を立てるティーカップが並んでいる。
いくつものテーブルに談笑の輪ができ、誰かが誰かの肩を叩く。
しわがれた、けれど温かい笑い声が短く弾けて、穏やかに空気へ溶けていた。
賑わっている。けれど、騒がしくない。
そこにあるのは血気盛んな熱気ではなく、縁側で茶を啜るような“集会”の空気だった。
「あの……フュリンさん」
「はい、なんでしょう?」
「ここのギルド、想像してたのと雰囲気が全然違うなって……。冒険者ギルドって、どこもこんな感じなんですか?」
恐る恐る尋ねると、フュリンは眼鏡の位置を直し、ホールを見回した。
「ええ……。こちらの支部は特に、ご年配の方が多く集われますね」
「やっぱり、そうなんですね」
「ですが、それこそが……この町が平和な証でもあります」
彼は誇らしげに目を細めた。
「平和な、証……?」
「はい。かつてこの街は、魔王軍との最前線であり、殺伐とした土地でした。多くの冒険者が命を落とし、老人になるまで生き残れる者は稀だったそうです」
淡々とした口調が、過去の重みを紡ぐ。
「ですが、一人の『勇者』が現れ、周辺の脅威を打ち払いました。彼がこのギルドを建て、規律を整えたのです」
「勇者が……」
「ええ。その結果、無茶な特攻をする者は減り、町を守りながら歳を重ねられる冒険者が増えました」
フュリンはホールの老人たち――かつての戦士たちへ、敬意を込めた視線を向ける。
「今、この町がこうして穏やかに賑わっていられるのは……勇者と、その意志を継いで『生き残った』彼らのおかげなのですよ」
皿の底に残った肉汁をパンの欠片で丁寧にぬぐい、名残を惜しむように口へ運ぶ。
舌の上で、脂の甘みと香草の風味が優しくほどけた。
「……はぁ、幸せ……」
幸福そのものの吐息が、リネットの唇からこぼれ落ちる。
その緩みきった瞬間を――この店の女主人が見逃すはずもなかった。
「あははっ! 随分と満足してもらえたみたいで良かったよ!」
豪快な笑い声と同時に、テーブルが小さく震えた。
ドン、と置かれたのは分厚いガラスのコップ。よく冷えたミルクがなみなみと揺れている。
「あ……その……えっと」
「あんな幸せそうな顔で食べてくれたの、お嬢ちゃんが初めてだからね! これはサービスだよ。飲みな!」
リネットは肩をすぼめた。
周囲の客席からも「いい食べっぷりだったぞ」なんて声が飛んだ気がして、椅子の上で居場所がなくなる。
「それに、見たところ旅慣れてなさそうだしねぇ。今のうちに栄養つけときな!」
(ううっ……全部見抜かれてる……)
反論したいのに、口が動かない。
――美味しすぎたのだ。あの『蒼眼の巨鹿』のソーセージが悪い。
弾ける皮も、あふれる肉汁も、鼻を抜ける香草の余韻も、全部。
責任をすべて食材に押し付けながら、リネットは火照った顔を隠すようにミルクへ口をつけた。
「ところで、もしかしてお嬢ちゃんは『リーベンバウム』の生まれかい?」
「――ぶふっ!?」
ミルクを噴き出しそうになり、慌てて飲み込む。
「えっ、けほっ! ど、どうしてそれを?」
「出で立ちだよ! 動きやすそうな軽装備に、あの肉を追う『狩人のような瞳』。それでピンときたのさ」
(ううっ……そんなに食欲に出てたかな……)
「やっぱりね! あの村の人たちは狩りが上手いからねぇ。うちも、よく『蒼眼の巨鹿』の肉を仕入れる依頼を出してるんだ! いまあんたが食べた肉も、村の狩人が狩ってくれたものだよ!」
「え……そうなんですか?」
「ん? たまにお裾分けで、一番いい部位を譲ってやるんだけど……その様子だと、もしかして……」
女主人は冗談めかしてニヤリと笑った。
「あの旦那、内緒で独り占めしてるのかねぇ?」
その一言が、やけに鮮明に耳に残った。
――父だ。
村で「街からの依頼」を一手に引き受けている凄腕の狩人は、リネットの父、ヴェルナーしかいない。
(……独り占め……? )
脳裏に浮かぶ光景。
暖炉の前で、何食わぬ顔をして最高級の鹿肉を頬張る父。
自分と弟のアラン、そして母ノーマンの知らないところで。こっそりと。肉汁を滴らせながら。
(父さん……? )
胸の底に、じわりと熱が灯った。
感謝とは別種の――暗くて、しぶとい火だ。
「それでこの後、どうするんだい?」
女主人の声が現実へ引き戻す。
リネットは“怒り”を思考の隅へ蹴り飛ばし、顔を上げた。
「えっと、私も狩りが得意なので……冒険者ギルドに行ってみようと思ってます!」
「そうかい! リーベンバウムの出身なら、魔物狩りなんてお手のものだろうね!」
大きく頷くと、女主人は太い指で窓の外を指し、空中に地図を描いた。
「ギルドなら中央広場にある噴水の前さ。大きな時計の付いた、焦げ茶色の建物がそうだよ」
女主人の言葉で、情景が地図のように頭の中に立ち上がる。
中央広場。噴水。時計。焦げ茶色の壁。
「わざわざありがとうございます!」
「いいんだよ! またおいで!」
「ご馳走様でした!」
リネットは巾着から銀貨を取り出して手渡すと、軽い足取りで出口へ向かった。
扉を開けると、外の冷たい空気が心地よく頬を撫でる。
「さて……と……! んんんんんん~っ!!」
頭上で両手を組み、思い切り背伸びをする。
凝り固まっていた背骨がパキパキと鳴り、新鮮な空気が肺を満たした。
「まずは、冒険者ギルドに行ってみようかな!」
父への疑惑は一旦忘れ、リネットは弾むような一歩を踏み出した。
~*~*~*~
古都アウゲンブリック、冒険者ギルド。
受付を済ませたリネットは、案内された個室で小さくなっていた。
活気に満ちたホールとは隔絶された静寂の中、待つこと数分。
「お待たせしました」
向かいの席に腰を下ろしたのは、少年と青年の狭間にいるような、線の細い職員だった。
彼は抱えていた『それ』を、恭しく机の上へ置く。
――ズンッ。
重厚で、鈍い音が室内に落ちた。
武器と呼んでも差し支えない厚みの、通称『マニュアル』。
使い込まれた革表紙に、側面から飛び出した無数の付箋。
圧だけで黙らせてくるその質量に、リネットの背筋がひやりとする。
(えっ……これ……まさか全部説明されるの……? )
「本日、冒険者登録のご案内を担当いたします。フュリン・シュッテリッヒです。よろしくお願いいたします」
「よ、よろしくお願いします!」
恐縮して頭を下げると、フュリンは銀縁の眼鏡をくい、と指先で押し上げた。
「では、まず規則。次に報酬についてご説明しますね」
淡々とした声と共に、分厚い表紙が開かれる。
ページの端は柔らかくめくれ上がっていた。
ここで何人もの新米が、最初の“洗礼”を受けてきた歴史の証だ。
「冒険者は、ギルドが管理する依頼を勝手に受けることはできません。受付が評価と実力を確認し、ギルドマスターへ報告したうえで、正式な受託となります」
説明は流れるようにスムーズで、かつ聞き手を置き去りにしない速度だった。
フュリンは要所で視線を上げ、リネットの表情を確かめる。
理解が追いついているか、疑問が湧いていないか。その確認が、妙に手慣れていた。
「ですので、受付に断られた依頼を独断でこなしてきても……報酬は発生しませんのでご注意ください」
「勝手に依頼を受けちゃう人なんて……本当にいるんですか?」
「ええ。プライドの高い方や、ご自身の実力に絶対の自信がある方ほど、そういった傾向が見られますね」
フュリンは淡々と、しかし辛辣な事実を述べた。
眼鏡の奥の瞳が「そういう手合いの尻拭いが一番大変なんです」と語っている気がする。
「……では、次です」
ペラリ、とページがめくられた。
「ギルドは依頼を管理・仲介する機関です。施設の維持やトラブル対応のため、報酬の二十パーセントを手数料として差し引かせていただきます。ご了承ください」
「二十パーセント……」
安くはない数字だ。
けれど、リネットは眉をひそめることもなく、素直に頷いた。
(施設の維持。依頼の調整。怪我人の対応……どれも、タダじゃ回らないもんね)
村長を支える父の背中を見てきた彼女には、その理屈が骨のところで理解できていた。
誰かが裏で汗をかいているから、表の人間が輝けるのだ。
「とはいえ、掲示板の依頼リストには『差し引き後』の金額を記載しております。そこからさらに減る、ということはございません」
「あ、そうなんですね! よかったぁ」
肩の力が、ふっと抜ける。
後から「ここから税金と手数料が引かれます」と言われるより、最初から手取りが見えているほうが、精神衛生上ずっといい。
(冒険者の世界ってもっと大雑把だと思ってたけど……仕組みは案外、堅実な『お仕事』なんだ)
「では、さらに次へ……」
「はい」
――そして、そこからが本当の地獄だった。
規則。例外条項。罰則規定。階級制度。
次から次へと、整った言葉のレンガが積み上げられていく。
討伐証明の提出方法に始まり、希少素材の取り扱い、緊急時の報告義務、果ては提携宿屋の割引規定まで。
「こちらの項目ですが――」
フュリンの声は一定の温度で続き、要所で柔らかな笑みを挟んでくる。
丁寧だ。親切だ。だが、情報量という名の暴力が止まらない。
(……まだ、あるの……? )
(……ねえ、この本、ページ増えてない……? )
リネットの目が回るのが先か、説明が終わるのが先か。
気づけば窓の外の光が傾き、茜色が室内へ差し込み始めていた。
~*~*~*~
「以上で、冒険者についての説明は終わりです」
パタン、と分厚い表紙が閉じる音が、室内に重く残った。
(な、長かった……おしり痛いぃ……)
貼り付けていた愛想笑いの裏で、リネットは音もなく崩れ落ちていた。
背中は石のように固まり、首はずっしりと重い。
木の椅子に三時間も押しつけられた腰から下が、じわじわと痺れるように抗議してくる。
(魔物と戦う前に、“座学”という名の試練で再起不能になるところだったよ……)
途中、何度か意識が遠のきかけた。
それでも最後まで座り切った――その事実だけが、今のリネットを支える小さな誇りだった。
「お疲れ様でした。これで、貴女も正式な冒険者です」
「あ、ありがとうございます……!」
(やっと……やっとスタート地点だ……! )
痺れた足の感覚が戻りはじめた頃、ふと視線が個室の外へ滑った。
ガラス越しに見えるギルドのホール。
そこは――老人たちで埋め尽くされていた。
「……え?」
あちこちで椅子が小さく軋み、酒ではなく湯気を立てるティーカップが並んでいる。
いくつものテーブルに談笑の輪ができ、誰かが誰かの肩を叩く。
しわがれた、けれど温かい笑い声が短く弾けて、穏やかに空気へ溶けていた。
賑わっている。けれど、騒がしくない。
そこにあるのは血気盛んな熱気ではなく、縁側で茶を啜るような“集会”の空気だった。
「あの……フュリンさん」
「はい、なんでしょう?」
「ここのギルド、想像してたのと雰囲気が全然違うなって……。冒険者ギルドって、どこもこんな感じなんですか?」
恐る恐る尋ねると、フュリンは眼鏡の位置を直し、ホールを見回した。
「ええ……。こちらの支部は特に、ご年配の方が多く集われますね」
「やっぱり、そうなんですね」
「ですが、それこそが……この町が平和な証でもあります」
彼は誇らしげに目を細めた。
「平和な、証……?」
「はい。かつてこの街は、魔王軍との最前線であり、殺伐とした土地でした。多くの冒険者が命を落とし、老人になるまで生き残れる者は稀だったそうです」
淡々とした口調が、過去の重みを紡ぐ。
「ですが、一人の『勇者』が現れ、周辺の脅威を打ち払いました。彼がこのギルドを建て、規律を整えたのです」
「勇者が……」
「ええ。その結果、無茶な特攻をする者は減り、町を守りながら歳を重ねられる冒険者が増えました」
フュリンはホールの老人たち――かつての戦士たちへ、敬意を込めた視線を向ける。
「今、この町がこうして穏やかに賑わっていられるのは……勇者と、その意志を継いで『生き残った』彼らのおかげなのですよ」
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
口の中に、まだ消えない旨味が残っていた。
皿の底に残った肉汁をパンの欠片で丁寧にぬぐい、名残を惜しむように口へ運ぶ。
舌の上で、脂の甘みと香草の風味が優しくほどけた。
「……はぁ、幸せ……」
幸福そのものの吐息が、リネットの唇からこぼれ落ちる。
その緩みきった瞬間を――この店の女主人が見逃すはずもなかった。
「あははっ! 随分と満足してもらえたみたいで良かったよ!」
豪快な笑い声と同時に、テーブルが小さく震えた。
ドン、と置かれたのは分厚いガラスのコップ。よく冷えたミルクがなみなみと揺れている。
「あ……その……えっと」
「あんな幸せそうな顔で食べてくれたの、お嬢ちゃんが初めてだからね! これはサービスだよ。飲みな!」
リネットは肩をすぼめた。
周囲の客席からも「いい食べっぷりだったぞ」なんて声が飛んだ気がして、椅子の上で居場所がなくなる。
「それに、見たところ旅慣れてなさそうだしねぇ。今のうちに栄養つけときな!」
(ううっ……全部見抜かれてる……)
反論したいのに、口が動かない。
――美味しすぎたのだ。あの『蒼眼の巨鹿』のソーセージが悪い。
弾ける皮も、あふれる肉汁も、鼻を抜ける香草の余韻も、全部。
責任をすべて食材に押し付けながら、リネットは火照った顔を隠すようにミルクへ口をつけた。
「ところで、もしかしてお嬢ちゃんは『リーベンバウム』の生まれかい?」
「――ぶふっ!?」
ミルクを噴き出しそうになり、慌てて飲み込む。
「えっ、けほっ! ど、どうしてそれを?」
「出で立ちだよ! 動きやすそうな軽装備に、あの肉を追う『狩人のような瞳』。それでピンときたのさ」
(ううっ……そんなに|食欲《目》に出てたかな……)
「やっぱりね! あの村の人たちは狩りが上手いからねぇ。うちも、よく『蒼眼の巨鹿』の肉を仕入れる依頼を出してるんだ! いまあんたが食べた肉も、村の狩人が狩ってくれたものだよ!」
「え……そうなんですか?」
「ん? たまにお裾分けで、一番いい部位を譲ってやるんだけど……その様子だと、もしかして……」
女主人は冗談めかしてニヤリと笑った。
「あの旦那、内緒で独り占めしてるのかねぇ?」
その一言が、やけに鮮明に耳に残った。
――父だ。
村で「街からの依頼」を一手に引き受けている凄腕の狩人は、リネットの父、ヴェルナーしかいない。
(……独り占め……? )
脳裏に浮かぶ光景。
暖炉の前で、何食わぬ顔をして最高級の鹿肉を頬張る父。
自分と弟のアラン、そして母ノーマンの知らないところで。こっそりと。肉汁を滴らせながら。
(父さん……? )
胸の底に、じわりと熱が灯った。
感謝とは別種の――暗くて、しぶとい火だ。
「それでこの後、どうするんだい?」
女主人の声が現実へ引き戻す。
リネットは“怒り”を思考の隅へ蹴り飛ばし、顔を上げた。
「えっと、私も狩りが得意なので……冒険者ギルドに行ってみようと思ってます!」
「そうかい! リーベンバウムの出身なら、魔物狩りなんてお手のものだろうね!」
大きく頷くと、女主人は太い指で窓の外を指し、空中に地図を描いた。
「ギルドなら中央広場にある噴水の前さ。大きな時計の付いた、焦げ茶色の建物がそうだよ」
女主人の言葉で、情景が地図のように頭の中に立ち上がる。
中央広場。噴水。時計。焦げ茶色の壁。
「わざわざありがとうございます!」
「いいんだよ! またおいで!」
「ご馳走様でした!」
リネットは巾着から銀貨を取り出して手渡すと、軽い足取りで出口へ向かった。
扉を開けると、外の冷たい空気が心地よく頬を撫でる。
「さて……と……! んんんんんん~っ!!」
頭上で両手を組み、思い切り背伸びをする。
凝り固まっていた背骨がパキパキと鳴り、新鮮な空気が肺を満たした。
「まずは、冒険者ギルドに行ってみようかな!」
父への疑惑は一旦忘れ、リネットは弾むような一歩を踏み出した。
~*~*~*~
古都アウゲンブリック、冒険者ギルド。
受付を済ませたリネットは、案内された個室で小さくなっていた。
活気に満ちたホールとは隔絶された静寂の中、待つこと数分。
「お待たせしました」
向かいの席に腰を下ろしたのは、少年と青年の狭間にいるような、線の細い職員だった。
彼は抱えていた『それ』を、恭しく机の上へ置く。
――ズンッ。
重厚で、鈍い音が室内に落ちた。
武器と呼んでも差し支えない厚みの、通称『マニュアル』。
使い込まれた革表紙に、側面から飛び出した無数の付箋。
圧だけで黙らせてくるその質量に、リネットの背筋がひやりとする。
(えっ……これ……まさか全部説明されるの……? )
「本日、冒険者登録のご案内を担当いたします。フュリン・シュッテリッヒです。よろしくお願いいたします」
「よ、よろしくお願いします!」
恐縮して頭を下げると、フュリンは銀縁の眼鏡をくい、と指先で押し上げた。
「では、まず規則。次に報酬についてご説明しますね」
淡々とした声と共に、分厚い表紙が開かれる。
ページの端は柔らかくめくれ上がっていた。
ここで何人もの新米が、最初の“洗礼”を受けてきた歴史の証だ。
「冒険者は、ギルドが管理する依頼を勝手に受けることはできません。受付が評価と実力を確認し、ギルドマスターへ報告したうえで、正式な受託となります」
説明は流れるようにスムーズで、かつ聞き手を置き去りにしない速度だった。
フュリンは要所で視線を上げ、リネットの表情を確かめる。
理解が追いついているか、疑問が湧いていないか。その確認が、妙に手慣れていた。
「ですので、受付に断られた依頼を独断でこなしてきても……報酬は発生しませんのでご注意ください」
「勝手に依頼を受けちゃう人なんて……本当にいるんですか?」
「ええ。プライドの高い方や、ご自身の実力に絶対の自信がある方ほど、そういった傾向が見られますね」
フュリンは淡々と、しかし辛辣な事実を述べた。
眼鏡の奥の瞳が「そういう手合いの尻拭いが一番大変なんです」と語っている気がする。
「……では、次です」
ペラリ、とページがめくられた。
「ギルドは依頼を管理・仲介する機関です。施設の維持やトラブル対応のため、報酬の二十パーセントを手数料として差し引かせていただきます。ご了承ください」
「二十パーセント……」
安くはない数字だ。
けれど、リネットは眉をひそめることもなく、素直に頷いた。
(施設の維持。依頼の調整。怪我人の対応……どれも、タダじゃ回らないもんね)
村長を支える父の背中を見てきた彼女には、その理屈が骨のところで理解できていた。
誰かが裏で汗をかいているから、表の人間が輝けるのだ。
「とはいえ、掲示板の依頼リストには『差し引き後』の金額を記載しております。そこからさらに減る、ということはございません」
「あ、そうなんですね! よかったぁ」
肩の力が、ふっと抜ける。
後から「ここから税金と手数料が引かれます」と言われるより、最初から手取りが見えているほうが、精神衛生上ずっといい。
(冒険者の世界ってもっと大雑把だと思ってたけど……仕組みは案外、堅実な『お仕事』なんだ)
「では、さらに次へ……」
「はい」
――そして、そこからが本当の|地獄《おべんきょう》だった。
規則。例外条項。罰則規定。階級制度。
次から次へと、整った言葉のレンガが積み上げられていく。
討伐証明の提出方法に始まり、希少素材の取り扱い、緊急時の報告義務、果ては提携宿屋の割引規定まで。
「こちらの項目ですが――」
フュリンの声は一定の温度で続き、要所で柔らかな笑みを挟んでくる。
丁寧だ。親切だ。だが、情報量という名の暴力が止まらない。
(……まだ、あるの……? )
(……ねえ、この本、ページ増えてない……? )
リネットの目が回るのが先か、説明が終わるのが先か。
気づけば窓の外の光が傾き、茜色が室内へ差し込み始めていた。
~*~*~*~
「以上で、冒険者についての説明は終わりです」
パタン、と分厚い表紙が閉じる音が、室内に重く残った。
(な、長かった……おしり痛いぃ……)
貼り付けていた愛想笑いの裏で、リネットは音もなく崩れ落ちていた。
背中は石のように固まり、首はずっしりと重い。
木の椅子に三時間も押しつけられた腰から下が、じわじわと痺れるように抗議してくる。
(魔物と戦う前に、“座学”という名の試練で再起不能になるところだったよ……)
途中、何度か意識が遠のきかけた。
それでも最後まで座り切った――その事実だけが、今のリネットを支える小さな誇りだった。
「お疲れ様でした。これで、貴女も正式な冒険者です」
「あ、ありがとうございます……!」
(やっと……やっとスタート地点だ……! )
痺れた足の感覚が戻りはじめた頃、ふと視線が個室の外へ滑った。
ガラス越しに見えるギルドのホール。
そこは――老人たちで埋め尽くされていた。
「……え?」
あちこちで椅子が小さく軋み、酒ではなく湯気を立てるティーカップが並んでいる。
いくつものテーブルに談笑の輪ができ、誰かが誰かの肩を叩く。
しわがれた、けれど温かい笑い声が短く弾けて、穏やかに空気へ溶けていた。
賑わっている。けれど、騒がしくない。
そこにあるのは血気盛んな熱気ではなく、縁側で茶を啜るような“集会”の空気だった。
「あの……フュリンさん」
「はい、なんでしょう?」
「ここのギルド、想像してたのと雰囲気が全然違うなって……。冒険者ギルドって、どこもこんな感じなんですか?」
恐る恐る尋ねると、フュリンは眼鏡の位置を直し、ホールを見回した。
「ええ……。こちらの支部は特に、ご年配の方が多く集われますね」
「やっぱり、そうなんですね」
「ですが、それこそが……この町が平和な証でもあります」
彼は誇らしげに目を細めた。
「平和な、証……?」
「はい。かつてこの街は、魔王軍との最前線であり、殺伐とした土地でした。多くの冒険者が命を落とし、老人になるまで生き残れる者は稀だったそうです」
淡々とした口調が、過去の重みを紡ぐ。
「ですが、一人の『勇者』が現れ、周辺の脅威を打ち払いました。彼がこのギルドを建て、規律を整えたのです」
「勇者が……」
「ええ。その結果、無茶な特攻をする者は減り、町を守りながら歳を重ねられる冒険者が増えました」
フュリンはホールの老人たち――かつての戦士たちへ、敬意を込めた視線を向ける。
「今、この町がこうして穏やかに賑わっていられるのは……勇者と、その意志を継いで『生き残った』彼らのおかげなのですよ」