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冒険者ギルド

ー/ー



 口の中に、まだ消えない旨味が残っていた。

 皿の底に残った肉汁をパンの欠片で丁寧にぬぐい、名残を惜しむように口へ運ぶ。

 舌の上で、脂の甘みと香草の風味が優しくほどけた。

「……はぁ、幸せ……」

 幸福そのものの吐息が、リネットの唇からこぼれ落ちる。

 その緩みきった瞬間を――この店の女主人が見逃すはずもなかった。

「あははっ! 随分と満足してもらえたみたいで良かったよ!」

 豪快な笑い声と同時に、テーブルが小さく震えた。

 ドン、と置かれたのは分厚いガラスのコップ。よく冷えたミルクがなみなみと揺れている。

「あ……その……えっと」

「あんな幸せそうな顔で食べてくれたの、お嬢ちゃんが初めてだからね! これはサービスだよ。飲みな!」

 リネットは肩をすぼめた。

 周囲の客席からも「いい食べっぷりだったぞ」なんて声が飛んだ気がして、椅子の上で居場所がなくなる。

「それに、見たところ旅慣れてなさそうだしねぇ。今のうちに栄養つけときな!」

(ううっ……全部見抜かれてる……)

 反論したいのに、口が動かない。

――美味しすぎたのだ。あの『蒼眼の巨鹿』のソーセージが悪い。

 弾ける皮も、あふれる肉汁も、鼻を抜ける香草の余韻も、全部。

 責任をすべて食材に押し付けながら、リネットは火照った顔を隠すようにミルクへ口をつけた。

「ところで、もしかしてお嬢ちゃんは『リーベンバウム』の生まれかい?」

「――ぶふっ!?」

 ミルクを噴き出しそうになり、慌てて飲み込む。

「えっ、けほっ! ど、どうしてそれを?」

「出で立ちだよ! 動きやすそうな軽装備に、あの肉を追う『狩人のような瞳』。それでピンときたのさ」

(ううっ……そんなに食欲()に出てたかな……)

「やっぱりね! あの村の人たちは狩りが上手いからねぇ。うちも、よく『蒼眼の巨鹿』の肉を仕入れる依頼を出してるんだ! いまあんたが食べた肉も、村の狩人が狩ってくれたものだよ!」

「え……そうなんですか?」

「ん? たまにお裾分けで、一番いい部位を譲ってやるんだけど……その様子だと、もしかして……」

 女主人は冗談めかしてニヤリと笑った。

「あの旦那、内緒で独り占めしてるのかねぇ?」

 その一言が、やけに鮮明に耳に残った。

――父だ。

 村で「街からの依頼」を一手に引き受けている凄腕の狩人は、リネットの父、ヴェルナーしかいない。

(……独り占め……? )

 脳裏に浮かぶ光景。

 暖炉の前で、何食わぬ顔をして最高級の鹿肉を頬張る父。

 自分と弟のアラン、そして母ノーマンの知らないところで。こっそりと。肉汁を滴らせながら。

(父さん……? )

 胸の底に、じわりと熱が灯った。

 感謝とは別種の――暗くて、しぶとい火だ。

「それでこの後、どうするんだい?」

 女主人の声が現実へ引き戻す。

 リネットは“怒り”を思考の隅へ蹴り飛ばし、顔を上げた。

「えっと、私も狩りが得意なので……冒険者ギルドに行ってみようと思ってます!」

「そうかい! リーベンバウムの出身なら、魔物狩りなんてお手のものだろうね!」

 大きく頷くと、女主人は太い指で窓の外を指し、空中に地図を描いた。

「ギルドなら中央広場にある噴水の前さ。大きな時計の付いた、焦げ茶色の建物がそうだよ」

 女主人の言葉で、情景が地図のように頭の中に立ち上がる。

 中央広場。噴水。時計。焦げ茶色の壁。

「わざわざありがとうございます!」

「いいんだよ! またおいで!」

「ご馳走様でした!」

 リネットは巾着から銀貨を取り出して手渡すと、軽い足取りで出口へ向かった。

 扉を開けると、外の冷たい空気が心地よく頬を撫でる。

「さて……と……! んんんんんん~っ!!」

 頭上で両手を組み、思い切り背伸びをする。

 凝り固まっていた背骨がパキパキと鳴り、新鮮な空気が肺を満たした。

「まずは、冒険者ギルドに行ってみようかな!」

 父への疑惑は一旦忘れ、リネットは弾むような一歩を踏み出した。


 ~*~*~*~


 古都アウゲンブリック、冒険者ギルド。

 受付を済ませたリネットは、案内された個室で小さくなっていた。

 活気に満ちたホールとは隔絶された静寂の中、待つこと数分。

「お待たせしました」

 向かいの席に腰を下ろしたのは、少年と青年の狭間にいるような、線の細い職員だった。

 彼は抱えていた『それ』を、恭しく机の上へ置く。

――ズンッ。

 重厚で、鈍い音が室内に落ちた。

 武器と呼んでも差し支えない厚みの、通称『マニュアル』。

 使い込まれた革表紙に、側面から飛び出した無数の付箋。

 圧だけで黙らせてくるその質量に、リネットの背筋がひやりとする。

(えっ……これ……まさか全部説明されるの……? )

「本日、冒険者登録のご案内を担当いたします。フュリン・シュッテリッヒです。よろしくお願いいたします」

「よ、よろしくお願いします!」

 恐縮して頭を下げると、フュリンは銀縁の眼鏡をくい、と指先で押し上げた。

「では、まず規則。次に報酬についてご説明しますね」

 淡々とした声と共に、分厚い表紙が開かれる。

 ページの端は柔らかくめくれ上がっていた。

 ここで何人もの新米が、最初の“洗礼”を受けてきた歴史の証だ。

「冒険者は、ギルドが管理する依頼を勝手に受けることはできません。受付が評価と実力を確認し、ギルドマスターへ報告したうえで、正式な受託となります」

 説明は流れるようにスムーズで、かつ聞き手を置き去りにしない速度だった。

 フュリンは要所で視線を上げ、リネットの表情を確かめる。

 理解が追いついているか、疑問が湧いていないか。その確認が、妙に手慣れていた。

「ですので、受付に断られた依頼を独断でこなしてきても……報酬は発生しませんのでご注意ください」

「勝手に依頼を受けちゃう人なんて……本当にいるんですか?」

「ええ。プライドの高い方や、ご自身の実力に絶対の自信がある方ほど、そういった傾向が見られますね」

 フュリンは淡々と、しかし辛辣な事実を述べた。

 眼鏡の奥の瞳が「そういう手合いの尻拭いが一番大変なんです」と語っている気がする。

「……では、次です」

 ペラリ、とページがめくられた。

「ギルドは依頼を管理・仲介する機関です。施設の維持やトラブル対応のため、報酬の二十パーセントを手数料として差し引かせていただきます。ご了承ください」

「二十パーセント……」

 安くはない数字だ。

 けれど、リネットは眉をひそめることもなく、素直に頷いた。

(施設の維持。依頼の調整。怪我人の対応……どれも、タダじゃ回らないもんね)

 村長を支える父の背中を見てきた彼女には、その理屈が骨のところで理解できていた。

 誰かが裏で汗をかいているから、表の人間が輝けるのだ。

「とはいえ、掲示板の依頼リストには『差し引き後』の金額を記載しております。そこからさらに減る、ということはございません」

「あ、そうなんですね! よかったぁ」

 肩の力が、ふっと抜ける。

 後から「ここから税金と手数料が引かれます」と言われるより、最初から手取りが見えているほうが、精神衛生上ずっといい。

(冒険者の世界ってもっと大雑把だと思ってたけど……仕組みは案外、堅実な『お仕事』なんだ)

「では、さらに次へ……」

「はい」

――そして、そこからが本当の地獄(おべんきょう)だった。

 規則。例外条項。罰則規定。階級制度。

 次から次へと、整った言葉のレンガが積み上げられていく。

 討伐証明の提出方法に始まり、希少素材の取り扱い、緊急時の報告義務、果ては提携宿屋の割引規定まで。

「こちらの項目ですが――」

 フュリンの声は一定の温度で続き、要所で柔らかな笑みを挟んでくる。

 丁寧だ。親切だ。だが、情報量という名の暴力が止まらない。

(……まだ、あるの……? )

(……ねえ、この本、ページ増えてない……? )

 リネットの目が回るのが先か、説明が終わるのが先か。

 気づけば窓の外の光が傾き、茜色が室内へ差し込み始めていた。


 ~*~*~*~


「以上で、冒険者についての説明は終わりです」

 パタン、と分厚い表紙が閉じる音が、室内に重く残った。

(な、長かった……おしり痛いぃ……)

 貼り付けていた愛想笑いの裏で、リネットは音もなく崩れ落ちていた。

 背中は石のように固まり、首はずっしりと重い。

 木の椅子に三時間も押しつけられた腰から下が、じわじわと痺れるように抗議してくる。

(魔物と戦う前に、“座学”という名の試練で再起不能になるところだったよ……)

 途中、何度か意識が遠のきかけた。

 それでも最後まで座り切った――その事実だけが、今のリネットを支える小さな誇りだった。

「お疲れ様でした。これで、貴女も正式な冒険者です」

「あ、ありがとうございます……!」

(やっと……やっとスタート地点だ……! )

 痺れた足の感覚が戻りはじめた頃、ふと視線が個室の外へ滑った。

 ガラス越しに見えるギルドのホール。

 そこは――老人たちで埋め尽くされていた。

「……え?」

 あちこちで椅子が小さく軋み、酒ではなく湯気を立てるティーカップが並んでいる。

 いくつものテーブルに談笑の輪ができ、誰かが誰かの肩を叩く。

 しわがれた、けれど温かい笑い声が短く弾けて、穏やかに空気へ溶けていた。

 賑わっている。けれど、騒がしくない。

 そこにあるのは血気盛んな熱気ではなく、縁側で茶を啜るような“集会”の空気だった。

「あの……フュリンさん」

「はい、なんでしょう?」

「ここのギルド、想像してたのと雰囲気が全然違うなって……。冒険者ギルドって、どこもこんな感じなんですか?」

 恐る恐る尋ねると、フュリンは眼鏡の位置を直し、ホールを見回した。

「ええ……。こちらの支部は特に、ご年配の方が多く集われますね」

「やっぱり、そうなんですね」

「ですが、それこそが……この町が平和な証でもあります」

 彼は誇らしげに目を細めた。

「平和な、証……?」

「はい。かつてこの街は、魔王軍との最前線であり、殺伐とした土地でした。多くの冒険者が命を落とし、老人になるまで生き残れる者は稀だったそうです」

 淡々とした口調が、過去の重みを紡ぐ。

「ですが、一人の『勇者』が現れ、周辺の脅威を打ち払いました。彼がこのギルドを建て、規律を整えたのです」

「勇者が……」

「ええ。その結果、無茶な特攻をする者は減り、町を守りながら歳を重ねられる冒険者が増えました」

 フュリンはホールの老人たち――かつての戦士たちへ、敬意を込めた視線を向ける。

「今、この町がこうして穏やかに賑わっていられるのは……勇者と、その意志を継いで『生き残った』彼らのおかげなのですよ」




みんなのリアクション

 口の中に、まだ消えない旨味が残っていた。
 皿の底に残った肉汁をパンの欠片で丁寧にぬぐい、名残を惜しむように口へ運ぶ。
 舌の上で、脂の甘みと香草の風味が優しくほどけた。
「……はぁ、幸せ……」
 幸福そのものの吐息が、リネットの唇からこぼれ落ちる。
 その緩みきった瞬間を――この店の女主人が見逃すはずもなかった。
「あははっ! 随分と満足してもらえたみたいで良かったよ!」
 豪快な笑い声と同時に、テーブルが小さく震えた。
 ドン、と置かれたのは分厚いガラスのコップ。よく冷えたミルクがなみなみと揺れている。
「あ……その……えっと」
「あんな幸せそうな顔で食べてくれたの、お嬢ちゃんが初めてだからね! これはサービスだよ。飲みな!」
 リネットは肩をすぼめた。
 周囲の客席からも「いい食べっぷりだったぞ」なんて声が飛んだ気がして、椅子の上で居場所がなくなる。
「それに、見たところ旅慣れてなさそうだしねぇ。今のうちに栄養つけときな!」
(ううっ……全部見抜かれてる……)
 反論したいのに、口が動かない。
――美味しすぎたのだ。あの『蒼眼の巨鹿』のソーセージが悪い。
 弾ける皮も、あふれる肉汁も、鼻を抜ける香草の余韻も、全部。
 責任をすべて食材に押し付けながら、リネットは火照った顔を隠すようにミルクへ口をつけた。
「ところで、もしかしてお嬢ちゃんは『リーベンバウム』の生まれかい?」
「――ぶふっ!?」
 ミルクを噴き出しそうになり、慌てて飲み込む。
「えっ、けほっ! ど、どうしてそれを?」
「出で立ちだよ! 動きやすそうな軽装備に、あの肉を追う『狩人のような瞳』。それでピンときたのさ」
(ううっ……そんなに|食欲《目》に出てたかな……)
「やっぱりね! あの村の人たちは狩りが上手いからねぇ。うちも、よく『蒼眼の巨鹿』の肉を仕入れる依頼を出してるんだ! いまあんたが食べた肉も、村の狩人が狩ってくれたものだよ!」
「え……そうなんですか?」
「ん? たまにお裾分けで、一番いい部位を譲ってやるんだけど……その様子だと、もしかして……」
 女主人は冗談めかしてニヤリと笑った。
「あの旦那、内緒で独り占めしてるのかねぇ?」
 その一言が、やけに鮮明に耳に残った。
――父だ。
 村で「街からの依頼」を一手に引き受けている凄腕の狩人は、リネットの父、ヴェルナーしかいない。
(……独り占め……? )
 脳裏に浮かぶ光景。
 暖炉の前で、何食わぬ顔をして最高級の鹿肉を頬張る父。
 自分と弟のアラン、そして母ノーマンの知らないところで。こっそりと。肉汁を滴らせながら。
(父さん……? )
 胸の底に、じわりと熱が灯った。
 感謝とは別種の――暗くて、しぶとい火だ。
「それでこの後、どうするんだい?」
 女主人の声が現実へ引き戻す。
 リネットは“怒り”を思考の隅へ蹴り飛ばし、顔を上げた。
「えっと、私も狩りが得意なので……冒険者ギルドに行ってみようと思ってます!」
「そうかい! リーベンバウムの出身なら、魔物狩りなんてお手のものだろうね!」
 大きく頷くと、女主人は太い指で窓の外を指し、空中に地図を描いた。
「ギルドなら中央広場にある噴水の前さ。大きな時計の付いた、焦げ茶色の建物がそうだよ」
 女主人の言葉で、情景が地図のように頭の中に立ち上がる。
 中央広場。噴水。時計。焦げ茶色の壁。
「わざわざありがとうございます!」
「いいんだよ! またおいで!」
「ご馳走様でした!」
 リネットは巾着から銀貨を取り出して手渡すと、軽い足取りで出口へ向かった。
 扉を開けると、外の冷たい空気が心地よく頬を撫でる。
「さて……と……! んんんんんん~っ!!」
 頭上で両手を組み、思い切り背伸びをする。
 凝り固まっていた背骨がパキパキと鳴り、新鮮な空気が肺を満たした。
「まずは、冒険者ギルドに行ってみようかな!」
 父への疑惑は一旦忘れ、リネットは弾むような一歩を踏み出した。
 ~*~*~*~
 古都アウゲンブリック、冒険者ギルド。
 受付を済ませたリネットは、案内された個室で小さくなっていた。
 活気に満ちたホールとは隔絶された静寂の中、待つこと数分。
「お待たせしました」
 向かいの席に腰を下ろしたのは、少年と青年の狭間にいるような、線の細い職員だった。
 彼は抱えていた『それ』を、恭しく机の上へ置く。
――ズンッ。
 重厚で、鈍い音が室内に落ちた。
 武器と呼んでも差し支えない厚みの、通称『マニュアル』。
 使い込まれた革表紙に、側面から飛び出した無数の付箋。
 圧だけで黙らせてくるその質量に、リネットの背筋がひやりとする。
(えっ……これ……まさか全部説明されるの……? )
「本日、冒険者登録のご案内を担当いたします。フュリン・シュッテリッヒです。よろしくお願いいたします」
「よ、よろしくお願いします!」
 恐縮して頭を下げると、フュリンは銀縁の眼鏡をくい、と指先で押し上げた。
「では、まず規則。次に報酬についてご説明しますね」
 淡々とした声と共に、分厚い表紙が開かれる。
 ページの端は柔らかくめくれ上がっていた。
 ここで何人もの新米が、最初の“洗礼”を受けてきた歴史の証だ。
「冒険者は、ギルドが管理する依頼を勝手に受けることはできません。受付が評価と実力を確認し、ギルドマスターへ報告したうえで、正式な受託となります」
 説明は流れるようにスムーズで、かつ聞き手を置き去りにしない速度だった。
 フュリンは要所で視線を上げ、リネットの表情を確かめる。
 理解が追いついているか、疑問が湧いていないか。その確認が、妙に手慣れていた。
「ですので、受付に断られた依頼を独断でこなしてきても……報酬は発生しませんのでご注意ください」
「勝手に依頼を受けちゃう人なんて……本当にいるんですか?」
「ええ。プライドの高い方や、ご自身の実力に絶対の自信がある方ほど、そういった傾向が見られますね」
 フュリンは淡々と、しかし辛辣な事実を述べた。
 眼鏡の奥の瞳が「そういう手合いの尻拭いが一番大変なんです」と語っている気がする。
「……では、次です」
 ペラリ、とページがめくられた。
「ギルドは依頼を管理・仲介する機関です。施設の維持やトラブル対応のため、報酬の二十パーセントを手数料として差し引かせていただきます。ご了承ください」
「二十パーセント……」
 安くはない数字だ。
 けれど、リネットは眉をひそめることもなく、素直に頷いた。
(施設の維持。依頼の調整。怪我人の対応……どれも、タダじゃ回らないもんね)
 村長を支える父の背中を見てきた彼女には、その理屈が骨のところで理解できていた。
 誰かが裏で汗をかいているから、表の人間が輝けるのだ。
「とはいえ、掲示板の依頼リストには『差し引き後』の金額を記載しております。そこからさらに減る、ということはございません」
「あ、そうなんですね! よかったぁ」
 肩の力が、ふっと抜ける。
 後から「ここから税金と手数料が引かれます」と言われるより、最初から手取りが見えているほうが、精神衛生上ずっといい。
(冒険者の世界ってもっと大雑把だと思ってたけど……仕組みは案外、堅実な『お仕事』なんだ)
「では、さらに次へ……」
「はい」
――そして、そこからが本当の|地獄《おべんきょう》だった。
 規則。例外条項。罰則規定。階級制度。
 次から次へと、整った言葉のレンガが積み上げられていく。
 討伐証明の提出方法に始まり、希少素材の取り扱い、緊急時の報告義務、果ては提携宿屋の割引規定まで。
「こちらの項目ですが――」
 フュリンの声は一定の温度で続き、要所で柔らかな笑みを挟んでくる。
 丁寧だ。親切だ。だが、情報量という名の暴力が止まらない。
(……まだ、あるの……? )
(……ねえ、この本、ページ増えてない……? )
 リネットの目が回るのが先か、説明が終わるのが先か。
 気づけば窓の外の光が傾き、茜色が室内へ差し込み始めていた。
 ~*~*~*~
「以上で、冒険者についての説明は終わりです」
 パタン、と分厚い表紙が閉じる音が、室内に重く残った。
(な、長かった……おしり痛いぃ……)
 貼り付けていた愛想笑いの裏で、リネットは音もなく崩れ落ちていた。
 背中は石のように固まり、首はずっしりと重い。
 木の椅子に三時間も押しつけられた腰から下が、じわじわと痺れるように抗議してくる。
(魔物と戦う前に、“座学”という名の試練で再起不能になるところだったよ……)
 途中、何度か意識が遠のきかけた。
 それでも最後まで座り切った――その事実だけが、今のリネットを支える小さな誇りだった。
「お疲れ様でした。これで、貴女も正式な冒険者です」
「あ、ありがとうございます……!」
(やっと……やっとスタート地点だ……! )
 痺れた足の感覚が戻りはじめた頃、ふと視線が個室の外へ滑った。
 ガラス越しに見えるギルドのホール。
 そこは――老人たちで埋め尽くされていた。
「……え?」
 あちこちで椅子が小さく軋み、酒ではなく湯気を立てるティーカップが並んでいる。
 いくつものテーブルに談笑の輪ができ、誰かが誰かの肩を叩く。
 しわがれた、けれど温かい笑い声が短く弾けて、穏やかに空気へ溶けていた。
 賑わっている。けれど、騒がしくない。
 そこにあるのは血気盛んな熱気ではなく、縁側で茶を啜るような“集会”の空気だった。
「あの……フュリンさん」
「はい、なんでしょう?」
「ここのギルド、想像してたのと雰囲気が全然違うなって……。冒険者ギルドって、どこもこんな感じなんですか?」
 恐る恐る尋ねると、フュリンは眼鏡の位置を直し、ホールを見回した。
「ええ……。こちらの支部は特に、ご年配の方が多く集われますね」
「やっぱり、そうなんですね」
「ですが、それこそが……この町が平和な証でもあります」
 彼は誇らしげに目を細めた。
「平和な、証……?」
「はい。かつてこの街は、魔王軍との最前線であり、殺伐とした土地でした。多くの冒険者が命を落とし、老人になるまで生き残れる者は稀だったそうです」
 淡々とした口調が、過去の重みを紡ぐ。
「ですが、一人の『勇者』が現れ、周辺の脅威を打ち払いました。彼がこのギルドを建て、規律を整えたのです」
「勇者が……」
「ええ。その結果、無茶な特攻をする者は減り、町を守りながら歳を重ねられる冒険者が増えました」
 フュリンはホールの老人たち――かつての戦士たちへ、敬意を込めた視線を向ける。
「今、この町がこうして穏やかに賑わっていられるのは……勇者と、その意志を継いで『生き残った』彼らのおかげなのですよ」


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