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空腹の少女と古い都

ー/ー




「……ふぅ、ふぅ。……よしっ」

 村を離れて数日。

 峠を越える風が、少しだけ肌寒く感じる。

 それでも、リネットの歩みは軽快だった。

 踏み込みを浅くして荷重を散らし、呼吸のリズムを一定に保つ。長い移動に特化した『旅人の歩き方』を、身体が勝手に覚えはじめていた。

 最後の坂道を登り切り、視界が一気に開ける。

「――わぁ……っ!」

 思わず、感嘆の声が漏れた。

 眼下に広がっていたのは、木組みの家々と石畳が美しい、穏やかな田舎町だった。

「町だ……! 着いた、着いたぁーーっ!!」

 背負った荷物の重さも忘れ、リネットは石畳の道を駆け抜ける。

 門をくぐった瞬間、世界の色が変わった気がした。

「すごーい! 人がいっぱい! 建物も高いよ!」

 首が痛くなるほど見上げたり、キョロキョロと周囲を見回したり。

 視界に飛び込んでくるものすべてが新鮮で、胸の奥が熱くなる。

(私……! 本当に旅に出たんだ……! )

 未知の町に足を運び、その空気を吸い込む。

 ようやく実感が湧き上がり、指先が微かに震えた。

 ふと、鼻先をくすぐる匂いがあった。

 焼けたパンの甘く香ばしい匂い。脂の乗った白ソーセージの重厚な気配。そこへハーブの青い刺激と、煮込み料理の湿った湯気までもが混ざり合う。

(……いい匂い! 村とは全然、色が違う! )

 足は止まったままだが、眼球だけが忙しく走った。

 色とりどりの看板の文字。馬車の車輪が石畳を叩く規則的な振動音。水場の縁に当たって弾ける、硬く澄んだ水音。

 行き交う人々の話し声さえも、多重奏のように重なって耳を心地よくくすぐる。

「あ、そうだ! 母さんから貰った地図、確認しなきゃ」

 リネットは荷物から地図を取り出し、バサリと広げた。

「えーっと……リーベンバウム村はこの辺りだから……ここかな?」

 現在地と思われる場所を、人差し指でなぞる。

「……古都・アウゲンブリック」

 その名前の下には、小さな文字で注釈が添えられていた。

――かつては魔王軍との最前線だったが、現在は『世界一治安の良い街』として知られる。

「アウゲンブリック……かぁ。リーベンバウム村とは何もかも違うね」

 地図から顔を上げ、もう一度、街の空気を吸い込む。

(なんだかいい匂いがするし、こんなに穏やかな町が初めての場所で良かった……! )

 道ゆく人々の肩はリラックスして下がっており、子供が焼きたてのパンを片手に笑いながら走り抜けていく。

 路地裏に目をやれば、年配の女性が窓辺の赤い花に水をやっていた。

「でも、ここがかつての最前線……? とてもそうは見えないけど……」

 喉の奥で、独り言がこぼれ落ちる。

 平和そのものの光景に首を傾げかけた時、ふと門の脇に立つ衛兵が目に入った。

(……ん? )

 二人組の衛兵は、脱力して立っている。

 だが、眼球だけが油を差したように滑らかに動き、周囲を巡回していた。

 旅人風の男が通ると軽く顎を引き、何かあれば瞬時に動ける『間合い』を無意識に維持している。

(あの人たち……ちゃんと『守ってる』んだ)

 それが、嫌な緊張を生んでいない。

 ただ“守られている”という安心感だけが、空気に溶けている。

(世界一治安がいいって、こういうことなのかな? )

 肺の奥から息を吐き出す。

 旅の最初の町がここでよかった、と胸郭が緩んだ。

――その、一瞬の隙だった。

『くぅ~~~~』

 腹の底から、間の抜けた長い音が鳴り響いた。

「っ……!?」

 リネットは弾かれたように首をすくめ、周囲を見回す。

 耳の先まで、一気に朱色が這い上がった。

 バッ! と勢いよく地図を持ち上げ、盾にするように顔を隠す。

(だ、誰にも聞かれてないよね!? )

 恐る恐る地図の縁から様子を窺う。

 近くの露店の男はリンゴを磨く手を止めず、子供は笑い声を上げて走り去り、犬は地面の匂いを嗅ぐのに忙しい。

 世界は、リネットの空腹になど興味がないようだった。

「……よかったぁ」

 ほっと胸を撫で下ろすと同時に、再びお腹が主張するように鳴る。

(ず、ずっと歩いてたから……お腹減ってきちゃった……。よし、まずは何か食べよっと! )


「――よし」

 方針が決まった瞬間、鼻が索敵モードに切り替わる。

 甘い香りが強いほうへ。肉の脂が焦げる香ばしいほうへ。そして、湯気の密度が濃いほうへ。

 狩人の勘が、獲物(ごはん)の居場所を正確に捉えていく。

(……この匂いは……パンだっ! )

 通りの先に、小さな店を見つけた。

 木の看板には素朴な麦の絵。扉の隙間からは、白い湯気と共に暴力的なまでの香りが漏れ出している。

 窓ガラスの向こうには、黄金色に焼き上がったパンの山が見えた。

「……ん、んっ」

 リネットは前髪を指で梳き、服の裾をパンと払う。

 村では気にしなかった身だしなみが、町に入った途端に気になりだすのだから現金なものだ。

 一度だけ深く息を吸い――取っ手を握りしめ、店の中へ踏み込む。

 カラン、コロン。

 と、来客を告げるベルが軽やかに鳴った。

「いらっしゃい! おや? 見ない顔だね?」

 カウンターの奥から、恰幅の良い女主人が顔を出す。

「ええ。私、いま旅の途中で。初めてこの町に訪れたんです」

 極めて、平静を装った声だった。

 あくまで「慣れてますよ」という風を装い、リネットは微笑む。

 だが言い終わった瞬間、横隔膜が歓喜で震えた。

(くぅ~! 『旅をしてまして』だって! 言ってみたかったんだよなぁ……これっ! )

 脳内でいまのセリフを反芻し、身悶えする。

 馬鹿みたいだと分かっていても、緩もうとする口角を必死に奥歯で噛み殺した。

 女主人はそんな客の内心など露知らず、豪快に笑う。

「そうかい! じゃあ、好きなところに座っておくれよ!」

「あ、はい。失礼します」

 促され、リネットは店内を見渡した。

 カウンター席では常連らしい男が肘をつき、ちぎったパンをスープに浸しながら談笑している。

 邪魔にならないよう、壁際にある一人用の小さな丸テーブルへ腰を下ろした。

「で、何が食べたい?」

 女主人が布巾で手を拭きながら近づいてくる。

 距離が縮まると、小麦と、肉の脂と、各種ハーブの匂いが飽和し、鼻腔を占拠した。

「っ……」

 胃袋が、内側からきゅっと絞られる。

「あの! こちらのお店は、何を扱っているんですか?」


「ここはね、蒼眼の巨鹿(サファイア・エルク)の上質な肉を使ったソーセージ! それを挟んだパンが売りだよっ!」

「――蒼眼の、巨鹿ぁっ!?」

 リネットの声が裏返った。

 蒼眼の巨鹿。深く澄んだサファイアブルーの瞳を持ち、大気中の魔力の流れを視認する『森の賢者』だ。

 魔法の予備動作すら先読みして回避する、魔法使い泣かせの魔物。

 村の熟練狩人ですら仕留めることは稀で、食卓に並べば村中が宴になるレベルの代物だった。

(それが……こんな屋台料理みたいに売られてるの!? )

「そ、それにします! それください!」

 即答だった。

 早口で、前のめり。品位も、旅慣れた風情も、もはや微塵もない。

 だが、『蒼眼の巨鹿』というパワーワードの前には、リネットの理性など無力だった。

「はいよ! 毎度あり!」

(まさかこんな所で、あの幻の肉にありつけるなんて……! )

 ~*~*~*~

「お待ちどうさま! 熱いうちに食べてね!」

 ドン、と重量感のある木の皿が置かれた。

 厚みのある、狐色に焼けたパン。その深い切れ目に、極太のソーセージが王のように鎮座している。

「ごくり……」

 ケーシングの表面はパリッと張り、食欲をそそる焦げ目がついている。

 溢れ出した透明な脂に香草の緑が混じり、じゅうじゅうと微かな音を立てていた。

 圧倒的な肉の香りが鼻腔を蹂躙し、だらしなく唾液が垂れそうになる。

(だ、だめだめ……落ち着け私……! ここは村じゃないんだから……! )

 リネットは両手でパンを持ち上げた。

 指先に伝わる熱と、ずしりとした期待の重み。

 パンの香ばしい小麦臭。脂の甘い匂い。そして、爽やかなハーブの刺激。

「い、いただきます……ッ!」

 口を限界まで大きく開け、端にかじりつく。

――パリッ。

 小気味よい音と共に、薄い皮が弾け飛んだ。

「――んふっ!?」

 次の瞬間、舌の上に溢れ出したのは、ただの肉汁ではない。

 熱い。濃い。

 暴力的なまでの旨味の奔流が、脳髄まで一気に駆け上がった。


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「……ふぅ、ふぅ。……よしっ」
 村を離れて数日。
 峠を越える風が、少しだけ肌寒く感じる。
 それでも、リネットの歩みは軽快だった。
 踏み込みを浅くして荷重を散らし、呼吸のリズムを一定に保つ。長い移動に特化した『旅人の歩き方』を、身体が勝手に覚えはじめていた。
 最後の坂道を登り切り、視界が一気に開ける。
「――わぁ……っ!」
 思わず、感嘆の声が漏れた。
 眼下に広がっていたのは、木組みの家々と石畳が美しい、穏やかな田舎町だった。
「町だ……! 着いた、着いたぁーーっ!!」
 背負った荷物の重さも忘れ、リネットは石畳の道を駆け抜ける。
 門をくぐった瞬間、世界の色が変わった気がした。
「すごーい! 人がいっぱい! 建物も高いよ!」
 首が痛くなるほど見上げたり、キョロキョロと周囲を見回したり。
 視界に飛び込んでくるものすべてが新鮮で、胸の奥が熱くなる。
(私……! 本当に旅に出たんだ……! )
 未知の町に足を運び、その空気を吸い込む。
 ようやく実感が湧き上がり、指先が微かに震えた。
 ふと、鼻先をくすぐる匂いがあった。
 焼けたパンの甘く香ばしい匂い。脂の乗った白ソーセージの重厚な気配。そこへハーブの青い刺激と、煮込み料理の湿った湯気までもが混ざり合う。
(……いい匂い! 村とは全然、色が違う! )
 足は止まったままだが、眼球だけが忙しく走った。
 色とりどりの看板の文字。馬車の車輪が石畳を叩く規則的な振動音。水場の縁に当たって弾ける、硬く澄んだ水音。
 行き交う人々の話し声さえも、多重奏のように重なって耳を心地よくくすぐる。
「あ、そうだ! 母さんから貰った地図、確認しなきゃ」
 リネットは荷物から地図を取り出し、バサリと広げた。
「えーっと……リーベンバウム村はこの辺りだから……ここかな?」
 現在地と思われる場所を、人差し指でなぞる。
「……古都・アウゲンブリック」
 その名前の下には、小さな文字で注釈が添えられていた。
――かつては魔王軍との最前線だったが、現在は『世界一治安の良い街』として知られる。
「アウゲンブリック……かぁ。リーベンバウム村とは何もかも違うね」
 地図から顔を上げ、もう一度、街の空気を吸い込む。
(なんだかいい匂いがするし、こんなに穏やかな町が初めての場所で良かった……! )
 道ゆく人々の肩はリラックスして下がっており、子供が焼きたてのパンを片手に笑いながら走り抜けていく。
 路地裏に目をやれば、年配の女性が窓辺の赤い花に水をやっていた。
「でも、ここがかつての最前線……? とてもそうは見えないけど……」
 喉の奥で、独り言がこぼれ落ちる。
 平和そのものの光景に首を傾げかけた時、ふと門の脇に立つ衛兵が目に入った。
(……ん? )
 二人組の衛兵は、脱力して立っている。
 だが、眼球だけが油を差したように滑らかに動き、周囲を巡回していた。
 旅人風の男が通ると軽く顎を引き、何かあれば瞬時に動ける『間合い』を無意識に維持している。
(あの人たち……ちゃんと『守ってる』んだ)
 それが、嫌な緊張を生んでいない。
 ただ“守られている”という安心感だけが、空気に溶けている。
(世界一治安がいいって、こういうことなのかな? )
 肺の奥から息を吐き出す。
 旅の最初の町がここでよかった、と胸郭が緩んだ。
――その、一瞬の隙だった。
『くぅ~~~~』
 腹の底から、間の抜けた長い音が鳴り響いた。
「っ……!?」
 リネットは弾かれたように首をすくめ、周囲を見回す。
 耳の先まで、一気に朱色が這い上がった。
 バッ! と勢いよく地図を持ち上げ、盾にするように顔を隠す。
(だ、誰にも聞かれてないよね!? )
 恐る恐る地図の縁から様子を窺う。
 近くの露店の男はリンゴを磨く手を止めず、子供は笑い声を上げて走り去り、犬は地面の匂いを嗅ぐのに忙しい。
 世界は、リネットの空腹になど興味がないようだった。
「……よかったぁ」
 ほっと胸を撫で下ろすと同時に、再びお腹が主張するように鳴る。
(ず、ずっと歩いてたから……お腹減ってきちゃった……。よし、まずは何か食べよっと! )
「――よし」
 方針が決まった瞬間、鼻が索敵モードに切り替わる。
 甘い香りが強いほうへ。肉の脂が焦げる香ばしいほうへ。そして、湯気の密度が濃いほうへ。
 狩人の勘が、獲物(ごはん)の居場所を正確に捉えていく。
(……この匂いは……パンだっ! )
 通りの先に、小さな店を見つけた。
 木の看板には素朴な麦の絵。扉の隙間からは、白い湯気と共に暴力的なまでの香りが漏れ出している。
 窓ガラスの向こうには、黄金色に焼き上がったパンの山が見えた。
「……ん、んっ」
 リネットは前髪を指で梳き、服の裾をパンと払う。
 村では気にしなかった身だしなみが、町に入った途端に気になりだすのだから現金なものだ。
 一度だけ深く息を吸い――取っ手を握りしめ、店の中へ踏み込む。
 カラン、コロン。
 と、来客を告げるベルが軽やかに鳴った。
「いらっしゃい! おや? 見ない顔だね?」
 カウンターの奥から、恰幅の良い女主人が顔を出す。
「ええ。私、いま旅の途中で。初めてこの町に訪れたんです」
 極めて、平静を装った声だった。
 あくまで「慣れてますよ」という風を装い、リネットは微笑む。
 だが言い終わった瞬間、横隔膜が歓喜で震えた。
(くぅ~! 『旅をしてまして』だって! 言ってみたかったんだよなぁ……これっ! )
 脳内でいまのセリフを反芻し、身悶えする。
 馬鹿みたいだと分かっていても、緩もうとする口角を必死に奥歯で噛み殺した。
 女主人はそんな客の内心など露知らず、豪快に笑う。
「そうかい! じゃあ、好きなところに座っておくれよ!」
「あ、はい。失礼します」
 促され、リネットは店内を見渡した。
 カウンター席では常連らしい男が肘をつき、ちぎったパンをスープに浸しながら談笑している。
 邪魔にならないよう、壁際にある一人用の小さな丸テーブルへ腰を下ろした。
「で、何が食べたい?」
 女主人が布巾で手を拭きながら近づいてくる。
 距離が縮まると、小麦と、肉の脂と、各種ハーブの匂いが飽和し、鼻腔を占拠した。
「っ……」
 胃袋が、内側からきゅっと絞られる。
「あの! こちらのお店は、何を扱っているんですか?」
「ここはね、蒼眼の巨鹿《サファイア・エルク》の上質な肉を使ったソーセージ! それを挟んだパンが売りだよっ!」
「――蒼眼の、巨鹿ぁっ!?」
 リネットの声が裏返った。
 蒼眼の巨鹿。深く澄んだサファイアブルーの瞳を持ち、大気中の魔力の流れを視認する『森の賢者』だ。
 魔法の予備動作すら先読みして回避する、魔法使い泣かせの魔物。
 村の熟練狩人ですら仕留めることは稀で、食卓に並べば村中が宴になるレベルの代物だった。
(それが……こんな屋台料理みたいに売られてるの!? )
「そ、それにします! それください!」
 即答だった。
 早口で、前のめり。品位も、旅慣れた風情も、もはや微塵もない。
 だが、『蒼眼の巨鹿』というパワーワードの前には、リネットの理性など無力だった。
「はいよ! 毎度あり!」
(まさかこんな所で、あの幻の肉にありつけるなんて……! )
 ~*~*~*~
「お待ちどうさま! 熱いうちに食べてね!」
 ドン、と重量感のある木の皿が置かれた。
 厚みのある、狐色に焼けたパン。その深い切れ目に、極太のソーセージが王のように鎮座している。
「ごくり……」
 ケーシングの表面はパリッと張り、食欲をそそる焦げ目がついている。
 溢れ出した透明な脂に香草の緑が混じり、じゅうじゅうと微かな音を立てていた。
 圧倒的な肉の香りが鼻腔を蹂躙し、だらしなく唾液が垂れそうになる。
(だ、だめだめ……落ち着け私……! ここは村じゃないんだから……! )
 リネットは両手でパンを持ち上げた。
 指先に伝わる熱と、ずしりとした期待の重み。
 パンの香ばしい小麦臭。脂の甘い匂い。そして、爽やかなハーブの刺激。
「い、いただきます……ッ!」
 口を限界まで大きく開け、端にかじりつく。
――パリッ。
 小気味よい音と共に、薄い皮が弾け飛んだ。
「――んふっ!?」
 次の瞬間、舌の上に溢れ出したのは、ただの肉汁ではない。
 熱い。濃い。
 暴力的なまでの旨味の奔流が、脳髄まで一気に駆け上がった。