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第二章:境界

ー/ー



 洞窟から出ると、ナラカ=ランカーは明るい陽の光に包まれていた。ピシャーチャの洞窟で暗闇に慣れていたシャクラカーンの目には眩し過ぎて、思わず瞼をぎゅっと閉じた。
 ゆっくりと、恐る恐る目を開けていくと、辺り一帯の殺伐とした環境が見えてきた。足下には黒ずんだ硬い土と岩肌、視界を遮るものと言えば、砂混じりの風に削られたのか奇形の岩ばかりだ。
「さて」と、シャクラカーンの隣に立ったヴィシュラが口を開く。「まずは最も近場に本拠地を構える、アスラから行こうか」
 シャクラカーンは洞窟の入り口を振り返るが、他のピシャーチャは出て来ない。
「今日は一人なのか?」
「うん? ……あぁ、そうだね。今日は戦争をしに行くわけではないからね」
 ヴィシュラが歩き出し、シャクラカーンもその後に続いた。
 風がざらざらと肌に当たり、吹き抜けていく。辺りは静かで、生物の気配はない。大地というものがとても広いことは分かる、けれどここまで殺風景なものなのかとシャクラカーンは震えた。自分は、雲の上に戻れるのだろうか――分からない。もしも、サティヤ・ロカに戻ることができなかったら――? 地中に怪物の巣食うこのナラカ=ランカーで、夥しい量の血を吸い込む硬い土の上で、生きなくてはならないのか――?
 昨日の光景を思い出し、シャクラカーンは恐ろしさを追い払うように頭を振った。――考えない方がいい、絶対にサティヤ・ロカに戻るんだ。シャキヤという種族にこそ与えられた、雲上という楽園に。
 その為には、まずは情報収集が必要だ。他の種族に会ってみたいと願い出たのはシャクラカーンだが、まさかここまでヴィシュラが協力的になってくれるとは思わなかった。戦争をしている四種族は、お互いにいがみ合っているものだとばかり思っていたのだが、彼を見ている限り、少なくともピシャーチャはそういうわけではなさそうだ。
 ――そもそもピシャーチャに感情があるのかどうかも分からないしな……。
 他の種族など単なる食糧としか見ていないのかもしれない。シャクラカーンは前を歩くヴィシュラの背中を見つめて考える。ピシャーチャの中で、彼だけが異質だ。
 見た目はシャキヤだが、彼はシャキヤではない――と思うのだが、『このナラカでシャキヤに擬態する意味はない』と言っていたような気もするし、かと言って他の種族がシャキヤに擬態する理由もない。いや、それ以前に、ピシャーチャは他の種族の皮を被って擬態すると言うが、それは一体どのような原理で――と、そこまで考えたところでシャクラカーンはいつの間にか立ち止まっていたヴィシュラの背中に鼻先をぶつけた。
「うわっ」
 シャクラカーンが体勢を立て直していると、ヴィシュラが振り向いて言った。
「……どうやら、ルドラが来ているようだね」
「ルドラ? って……?」
「アスラの王だよ」
 ヴィシュラの肩の向こうを覗くと、遙か前方、巻き上がる砂埃に見え隠れしているが、ようやく植物らしきものが現れた。水場でもあるのだろうか、深緑色の葉がこんもりと生い茂っている。その合間に、布が三角形に張られたものがいくつも見えた。
 ――集落? にしては簡素すぎるような……。
「まさか。ただの野営だよ、一時的な寝所さ。……まあ、手間が省けたと思おうか」
 再び歩き出したヴィシュラを、シャクラカーンは慌てて追いかけた。


 ナラカ=ランカーの環境も文化も、シャクラカーンの生まれ育ったサティヤ・ロカとはかけ離れている。出会い頭に、言葉も交わさないまま襲いかかってくるというのも、もしかしたらこの種族ならではの文化――なのか?
「忌まわしきピシャーチャがァァァ!!」
 巨大な鉄の剣が、甲高い音を立てて大地を削りながら、ヴィシュラに迫る。
「おっと」
 シャクラカーンが腹部に衝撃を感じた次の瞬間、何が起きたのか分からないまま視界がくるくると回転した。
 ヴィシュラに突き飛ばされて地面に転がり、目をぱちくりさせて空を見上げたシャクラカーンに、細身のアスラが手を差し伸べた。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ……」
 シャクラカーンは、そのアスラの手を借りて、ふらふらと立ち上がった。
 背は高いが、筋骨隆々という身体つきではない。アスラは多腕の種族だと聞いている――先日ピシャーチャたちが捕食していた者たちには、確かに二本よりも多く腕があった――が、目の前にいる男の腕は二本だけだ。彼は細い眼を薄く開いて、澄み渡る空のような青い瞳でシャクラカーンの顔を覗き込んだ。
「貴方は、どうやらピシャーチャではなさそうだ」
「僕はシャキヤだ」
 ピシャーチャと間違われるなんてとんでもない、と張り上げたつもりのシャクラカーンの声は、大剣が大地にめり込む轟音にかき消された。六本の腕を持つアスラが、ヴィシュラに迫っている。その身体は突出して背が高く、筋肉質だ。眉間にしわを寄せて、憎々しげに拳や剣撃を繰り出すも、一方のヴィシュラは涼しい顔で避け続けていた。反撃の余裕がないというわけではなさそうだが、彼にその意思はないらしい。
 時折、六腕のアスラの大剣や拳、蹴りによって粉砕された木や石の破片が、さらに細かな土埃と共にシャクラカーンたちの方へ飛んでくる。
「痛っ」
 せめて目だけは守らなければ、とシャクラカーンは顔の前に手をかざして、破片を防ぐ。
「あぁ失礼、そろそろ止めましょうかね……迷惑なので」
 シャクラカーンを助け起こしたアスラの男はそう言うと、軽やかな足取りで六腕のアスラに近付き、男が振るう剣先の合間を縫ってその頬に平手打ちを食らわせた。巨体のアスラは頭から真横に吹き飛び、盛大に音を響かせながら細い木の幹に突っ込んだ。
 ――あの質量が!?
「やれやれ、ルドラの戦闘癖には困ったものだね」
 トン、とヴィシュラは軽やかに、シャクラカーンの隣へと着地した。
「全くですね。いつまでも子供なんですから」
 平手打ちをした方のアスラが悠然と歩いてきて、やれやれと言わんばかりに両手を広げて肩を竦めた。
 

「ぐ、ぐぅう……イシュ!」
 吹き飛ばされた方のアスラ――ルドラと呼ばれていた男は、いかにも頑丈そうな身体を起こし、頭から木の破片を払い落としながら大股で歩み寄ってきた。シャクラカーンから見れば長身だと思っていたヴィシュラよりも頭二つ分は優に超えている。
「お呼びですか陛下」
 イシュが片手を胸に当てて、頭を下げた。
「お呼びですか……ではない! 貴様、いま俺を張り飛ばしただろう」
「ええ、粉塵やら破片やらが不快でしたもので」
「何でも正直に言えば許されるというものではないぞ!? 貴様は俺の副官という立場を何だと考えているのだ」
「まあ……保護者ですかねぇ」
「俺は幼児か?!」
 ルドラは眉根を寄せ、納得のいかない様子で六本のうち二本の腕を組む。髪の短いイシュとは反対に、長めの暗紅色の髪を頭の後ろで雑にまとめている。アスラの王、とヴィシュラは言っていた。胸元や耳に金属の装飾品を付けているところを見るに、確かに位は高そうだ。
 ――落ち着きは、イシュの方があるように見えるけれど。
「さて、陛下、戯れはその辺で」
「む……戯れだと?  俺は本気で」
「ピシャーチャを制圧するには用意が足りないことは分かっているでしょう」
「……お前の言う通りだ。どういうわけか、今日はやる気が無さそうだからな……一体何をしに来たんだ、貴様は」
「道案内だよ。ほら、そこにいるだろう」
 ヴィシュラがシャクラカーンを指し示す。
「なんだ?」ルドラは、今存在に気付いたとでも言うように鋭い目でシャクラカーンを見た。頭の天辺からつま先まで、値踏みするように眺め回し、そしてヴィシュラに尋ねる。「お前の仲間か?」
「違う! 僕はシャキヤだ!」
「シャキヤだと? 本物か? 雲上人がこのナラカに何の用だ?」
「う……それは……その……」
 ルドラの、重く真っ直ぐな視線に耐えきれず、シャクラカーンは目を泳がせた。落下したから、なんて格好悪いし――どのように答えるべきか考えていると、ヴィシュラが横から口を挟んだ。
「浮力が弱くて墜ちて来たのさ。混血だから」
「何でお前が言うんだよ!  僕のことだろ」
「おや?  言いづらいのかと」
「ぐっ……!  それはそうだけど!」
 図星ではある。シャクラカーンは気まずさを誤魔化すようにヴィシュラを睨んだ。
「ふむ」ルドラは頷いた。「敵意が無いのは分かった。俺としても、こんな軽く折れそうな小童に戦いを仕掛けるほど狭量ではない。客として迎えようではないか」
「こ、こわっぱ……」
 ぽん、とルドラが大きな手をシャクラカーンの頭に置き、撫で回した。痛くはない――ないのだが、身体も大きければ動きも大きい相手だ。視界が揺れて、シャクラカーンは目を回しそうになった。
「そういうわけで、雲上に帰りたいらしいのだけれども、なかなか方法がない」と、ヴィシュラはイシュの方を向いて言った。「面倒を見てやるといい」
「なるほど、それは可哀想なことで」
「……おい、何故イシュに言う。アスラの首長は俺だぞ」
「君に任せたら吹き飛ぶだろう? シャキヤは軽いからね」
「でしょうね。陛下は大雑把ですからね」
「貴様は一体どちらの味方なんだ!」


 ルドラは数人の屈強なアスラを連れて、境界にやって来ていた。彼らは物珍しそうにシャクラカーンを取り囲んだ。
「本物のシャキヤだって?」
「足元を見ろ、浮いてるぞ」
「とても軽いらしいな!」と、一人がシャクラカーンの脇に手を回し、抱え上げる。
「うわっ」
 シャクラカーンが抵抗する間もなく、アスラたちは「俺も俺も」と代わる代わるにシャクラカーンの身体を天に掲げては歓声を上げた。
 彼らの手のひらは、シャクラカーンの胴回りを半周するほど大きくて、下手に力を込められれば骨の数本は折れてしまいそうだ。どのアスラも、露わになっている上半身には鎧のような筋肉が付いている。敵意がないのはありがたいことだが、圧倒的に自分よりも強大な生き物に弄ばれている気分だ。
「お前たち、その辺にしてやれ」
 ルドラが呆れた顔で部下を窘めた。彼らは「ちぇー」「陛下だけずるいぜ」などと唇を尖らせながらも、簡素な布の建物――一時的な寝所だとヴィシュラは言っていた気がする――の方へ去って行った。
 ようやく好奇心旺盛なアスラたちの手から逃れることができたシャクラカーンは、少しふらつきながらイシュの傍に寄る。――この顔ぶれの中では、一番まともそうだし。
 正直なところ、悪意はなさそうだがヴィシュラは得体が知れなくて近寄リ難く、ルドラは純粋に大きくて怖い。
 イシュは、近付いてきたシャクラカーンに対してわずかに目を細めただけで、何も言わなかった。
「ところで、この辺りでアスラの集団を見なかったか?」と、ルドラがヴィシュラに尋ねた。
「うん?」
「陛下のやり方に反抗して集落を出たアスラの群れがいるのですよ。我々はそれを連れ戻しに来たのです」
「あぁ、あれなら食べたよ。残らずね」
「やはりか貴様ッ! この、化け物め!」
「おっと」ルドラの拳を呆気なく躱し、ヴィシュラは踵を返す。「ではお別れだよ、シャクラカーン。雲上に昇る方法が見つかったらぜひ教えてくれ」
「え? あ、おい! 待っ……」
 シャクラカーンが反射的に引き留めようと手を伸ばしかけて、その必要があるのかと頭の片隅で葛藤しているうちに、ヴィシュラの背中は遠ざかって消えた。取り残されたシャクラカーンは、行き場を失った手を下ろす。
 それを見て、ルドラが言った。
「寂しいのか?」
「陛下……もっと他に言いようがあるでしょうに」と、イシュは頭を抱えた。
「ぼ、僕がか?! そんなわけないだろ!」
 ――そう、そんなはずはない。見知らぬ場所で心細くなっているだけだ。ほんの少し、ただそれだけだ。
「そ、それより! アスラの群れって……五十はいた気がするけど。その、ピシャーチャに、た、食べられていたのがそれなら……うぅぅ」
 思い出すと吐き気が込み上げてきた。シャクラカーンは頭を軽く振って、その光景を追い払った。
「何だ、お前も見たのか?」
「彼らの上に立っていた男は、アスラの中でも歴史のある血筋でしたからね。そのくらいは集まるでしょう」
「ふん……不満があるなら面と向かって言えばいいものを」
「彼は貴方の地位が欲しかっただけですよ。黄金色に輝く冠がね。それさえあれば、何もかもが上手くいくと勘違いしたのでしょう」
「その果てがピシャーチャ共の胃袋か。愚かを通り越して哀れですらある」
 ルドラがこめかみに指を当て、長く息を吐いた。かつての仲間の死を悲しんでいるのだろうか――それは虚空にするりと溶けて行った。
 
 雲上からの落下の痛みはもう消えた。それでもなお残るものがある。身体ではない、心が痛いのだとシャクラカーンは気付いた。
 アスラたちの関係は、お互いに気心が知れている風で、温かみがあるように見える。
 ヴィシュラは化け物ではあるが、シャクラカーンを拾い上げ、寝床を提供し、食糧さえ提供しようとした。それは彼なりの目的があってのことで、優しさではないだろうが、それでも、見知らぬ場所で何が起きたのかも理解出来ずに絶望していたシャクラカーンにとっては、確かに救いだった。認めるのは悔しいが、きっとそう。
 この大地ではシャクラカーンは異物だ。けれど――
 ――雲の上にも、僕の居場所は無かったんだ。




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 洞窟から出ると、ナラカ=ランカーは明るい陽の光に包まれていた。ピシャーチャの洞窟で暗闇に慣れていたシャクラカーンの目には眩し過ぎて、思わず瞼をぎゅっと閉じた。
 ゆっくりと、恐る恐る目を開けていくと、辺り一帯の殺伐とした環境が見えてきた。足下には黒ずんだ硬い土と岩肌、視界を遮るものと言えば、砂混じりの風に削られたのか奇形の岩ばかりだ。
「さて」と、シャクラカーンの隣に立ったヴィシュラが口を開く。「まずは最も近場に本拠地を構える、アスラから行こうか」
 シャクラカーンは洞窟の入り口を振り返るが、他のピシャーチャは出て来ない。
「今日は一人なのか?」
「うん? ……あぁ、そうだね。今日は戦争をしに行くわけではないからね」
 ヴィシュラが歩き出し、シャクラカーンもその後に続いた。
 風がざらざらと肌に当たり、吹き抜けていく。辺りは静かで、生物の気配はない。大地というものがとても広いことは分かる、けれどここまで殺風景なものなのかとシャクラカーンは震えた。自分は、雲の上に戻れるのだろうか――分からない。もしも、サティヤ・ロカに戻ることができなかったら――? 地中に怪物の巣食うこのナラカ=ランカーで、夥しい量の血を吸い込む硬い土の上で、生きなくてはならないのか――?
 昨日の光景を思い出し、シャクラカーンは恐ろしさを追い払うように頭を振った。――考えない方がいい、絶対にサティヤ・ロカに戻るんだ。シャキヤという種族にこそ与えられた、雲上という楽園に。
 その為には、まずは情報収集が必要だ。他の種族に会ってみたいと願い出たのはシャクラカーンだが、まさかここまでヴィシュラが協力的になってくれるとは思わなかった。戦争をしている四種族は、お互いにいがみ合っているものだとばかり思っていたのだが、彼を見ている限り、少なくともピシャーチャはそういうわけではなさそうだ。
 ――そもそもピシャーチャに感情があるのかどうかも分からないしな……。
 他の種族など単なる食糧としか見ていないのかもしれない。シャクラカーンは前を歩くヴィシュラの背中を見つめて考える。ピシャーチャの中で、彼だけが異質だ。
 見た目はシャキヤだが、彼はシャキヤではない――と思うのだが、『このナラカでシャキヤに擬態する意味はない』と言っていたような気もするし、かと言って他の種族がシャキヤに擬態する理由もない。いや、それ以前に、ピシャーチャは他の種族の皮を被って擬態すると言うが、それは一体どのような原理で――と、そこまで考えたところでシャクラカーンはいつの間にか立ち止まっていたヴィシュラの背中に鼻先をぶつけた。
「うわっ」
 シャクラカーンが体勢を立て直していると、ヴィシュラが振り向いて言った。
「……どうやら、ルドラが来ているようだね」
「ルドラ? って……?」
「アスラの王だよ」
 ヴィシュラの肩の向こうを覗くと、遙か前方、巻き上がる砂埃に見え隠れしているが、ようやく植物らしきものが現れた。水場でもあるのだろうか、深緑色の葉がこんもりと生い茂っている。その合間に、布が三角形に張られたものがいくつも見えた。
 ――集落? にしては簡素すぎるような……。
「まさか。ただの野営だよ、一時的な寝所さ。……まあ、手間が省けたと思おうか」
 再び歩き出したヴィシュラを、シャクラカーンは慌てて追いかけた。
 ナラカ=ランカーの環境も文化も、シャクラカーンの生まれ育ったサティヤ・ロカとはかけ離れている。出会い頭に、言葉も交わさないまま襲いかかってくるというのも、もしかしたらこの種族ならではの文化――なのか?
「忌まわしきピシャーチャがァァァ!!」
 巨大な鉄の剣が、甲高い音を立てて大地を削りながら、ヴィシュラに迫る。
「おっと」
 シャクラカーンが腹部に衝撃を感じた次の瞬間、何が起きたのか分からないまま視界がくるくると回転した。
 ヴィシュラに突き飛ばされて地面に転がり、目をぱちくりさせて空を見上げたシャクラカーンに、細身のアスラが手を差し伸べた。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ……」
 シャクラカーンは、そのアスラの手を借りて、ふらふらと立ち上がった。
 背は高いが、筋骨隆々という身体つきではない。アスラは多腕の種族だと聞いている――先日ピシャーチャたちが捕食していた者たちには、確かに二本よりも多く腕があった――が、目の前にいる男の腕は二本だけだ。彼は細い眼を薄く開いて、澄み渡る空のような青い瞳でシャクラカーンの顔を覗き込んだ。
「貴方は、どうやらピシャーチャではなさそうだ」
「僕はシャキヤだ」
 ピシャーチャと間違われるなんてとんでもない、と張り上げたつもりのシャクラカーンの声は、大剣が大地にめり込む轟音にかき消された。六本の腕を持つアスラが、ヴィシュラに迫っている。その身体は突出して背が高く、筋肉質だ。眉間にしわを寄せて、憎々しげに拳や剣撃を繰り出すも、一方のヴィシュラは涼しい顔で避け続けていた。反撃の余裕がないというわけではなさそうだが、彼にその意思はないらしい。
 時折、六腕のアスラの大剣や拳、蹴りによって粉砕された木や石の破片が、さらに細かな土埃と共にシャクラカーンたちの方へ飛んでくる。
「痛っ」
 せめて目だけは守らなければ、とシャクラカーンは顔の前に手をかざして、破片を防ぐ。
「あぁ失礼、そろそろ止めましょうかね……迷惑なので」
 シャクラカーンを助け起こしたアスラの男はそう言うと、軽やかな足取りで六腕のアスラに近付き、男が振るう剣先の合間を縫ってその頬に平手打ちを食らわせた。巨体のアスラは頭から真横に吹き飛び、盛大に音を響かせながら細い木の幹に突っ込んだ。
 ――あの質量が!?
「やれやれ、ルドラの戦闘癖には困ったものだね」
 トン、とヴィシュラは軽やかに、シャクラカーンの隣へと着地した。
「全くですね。いつまでも子供なんですから」
 平手打ちをした方のアスラが悠然と歩いてきて、やれやれと言わんばかりに両手を広げて肩を竦めた。
「ぐ、ぐぅう……イシュ!」
 吹き飛ばされた方のアスラ――ルドラと呼ばれていた男は、いかにも頑丈そうな身体を起こし、頭から木の破片を払い落としながら大股で歩み寄ってきた。シャクラカーンから見れば長身だと思っていたヴィシュラよりも頭二つ分は優に超えている。
「お呼びですか陛下」
 イシュが片手を胸に当てて、頭を下げた。
「お呼びですか……ではない! 貴様、いま俺を張り飛ばしただろう」
「ええ、粉塵やら破片やらが不快でしたもので」
「何でも正直に言えば許されるというものではないぞ!? 貴様は俺の副官という立場を何だと考えているのだ」
「まあ……保護者ですかねぇ」
「俺は幼児か?!」
 ルドラは眉根を寄せ、納得のいかない様子で六本のうち二本の腕を組む。髪の短いイシュとは反対に、長めの暗紅色の髪を頭の後ろで雑にまとめている。アスラの王、とヴィシュラは言っていた。胸元や耳に金属の装飾品を付けているところを見るに、確かに位は高そうだ。
 ――落ち着きは、イシュの方があるように見えるけれど。
「さて、陛下、戯れはその辺で」
「む……戯れだと?  俺は本気で」
「ピシャーチャを制圧するには用意が足りないことは分かっているでしょう」
「……お前の言う通りだ。どういうわけか、今日はやる気が無さそうだからな……一体何をしに来たんだ、貴様は」
「道案内だよ。ほら、そこにいるだろう」
 ヴィシュラがシャクラカーンを指し示す。
「なんだ?」ルドラは、今存在に気付いたとでも言うように鋭い目でシャクラカーンを見た。頭の天辺からつま先まで、値踏みするように眺め回し、そしてヴィシュラに尋ねる。「お前の仲間か?」
「違う! 僕はシャキヤだ!」
「シャキヤだと? 本物か? 雲上人がこのナラカに何の用だ?」
「う……それは……その……」
 ルドラの、重く真っ直ぐな視線に耐えきれず、シャクラカーンは目を泳がせた。落下したから、なんて格好悪いし――どのように答えるべきか考えていると、ヴィシュラが横から口を挟んだ。
「浮力が弱くて墜ちて来たのさ。混血だから」
「何でお前が言うんだよ!  僕のことだろ」
「おや?  言いづらいのかと」
「ぐっ……!  それはそうだけど!」
 図星ではある。シャクラカーンは気まずさを誤魔化すようにヴィシュラを睨んだ。
「ふむ」ルドラは頷いた。「敵意が無いのは分かった。俺としても、こんな軽く折れそうな小童に戦いを仕掛けるほど狭量ではない。客として迎えようではないか」
「こ、こわっぱ……」
 ぽん、とルドラが大きな手をシャクラカーンの頭に置き、撫で回した。痛くはない――ないのだが、身体も大きければ動きも大きい相手だ。視界が揺れて、シャクラカーンは目を回しそうになった。
「そういうわけで、雲上に帰りたいらしいのだけれども、なかなか方法がない」と、ヴィシュラはイシュの方を向いて言った。「面倒を見てやるといい」
「なるほど、それは可哀想なことで」
「……おい、何故イシュに言う。アスラの首長は俺だぞ」
「君に任せたら吹き飛ぶだろう? シャキヤは軽いからね」
「でしょうね。陛下は大雑把ですからね」
「貴様は一体どちらの味方なんだ!」
 ルドラは数人の屈強なアスラを連れて、境界にやって来ていた。彼らは物珍しそうにシャクラカーンを取り囲んだ。
「本物のシャキヤだって?」
「足元を見ろ、浮いてるぞ」
「とても軽いらしいな!」と、一人がシャクラカーンの脇に手を回し、抱え上げる。
「うわっ」
 シャクラカーンが抵抗する間もなく、アスラたちは「俺も俺も」と代わる代わるにシャクラカーンの身体を天に掲げては歓声を上げた。
 彼らの手のひらは、シャクラカーンの胴回りを半周するほど大きくて、下手に力を込められれば骨の数本は折れてしまいそうだ。どのアスラも、露わになっている上半身には鎧のような筋肉が付いている。敵意がないのはありがたいことだが、圧倒的に自分よりも強大な生き物に弄ばれている気分だ。
「お前たち、その辺にしてやれ」
 ルドラが呆れた顔で部下を窘めた。彼らは「ちぇー」「陛下だけずるいぜ」などと唇を尖らせながらも、簡素な布の建物――一時的な寝所だとヴィシュラは言っていた気がする――の方へ去って行った。
 ようやく好奇心旺盛なアスラたちの手から逃れることができたシャクラカーンは、少しふらつきながらイシュの傍に寄る。――この顔ぶれの中では、一番まともそうだし。
 正直なところ、悪意はなさそうだがヴィシュラは得体が知れなくて近寄リ難く、ルドラは純粋に大きくて怖い。
 イシュは、近付いてきたシャクラカーンに対してわずかに目を細めただけで、何も言わなかった。
「ところで、この辺りでアスラの集団を見なかったか?」と、ルドラがヴィシュラに尋ねた。
「うん?」
「陛下のやり方に反抗して集落を出たアスラの群れがいるのですよ。我々はそれを連れ戻しに来たのです」
「あぁ、あれなら食べたよ。残らずね」
「やはりか貴様ッ! この、化け物め!」
「おっと」ルドラの拳を呆気なく躱し、ヴィシュラは踵を返す。「ではお別れだよ、シャクラカーン。雲上に昇る方法が見つかったらぜひ教えてくれ」
「え? あ、おい! 待っ……」
 シャクラカーンが反射的に引き留めようと手を伸ばしかけて、その必要があるのかと頭の片隅で葛藤しているうちに、ヴィシュラの背中は遠ざかって消えた。取り残されたシャクラカーンは、行き場を失った手を下ろす。
 それを見て、ルドラが言った。
「寂しいのか?」
「陛下……もっと他に言いようがあるでしょうに」と、イシュは頭を抱えた。
「ぼ、僕がか?! そんなわけないだろ!」
 ――そう、そんなはずはない。見知らぬ場所で心細くなっているだけだ。ほんの少し、ただそれだけだ。
「そ、それより! アスラの群れって……五十はいた気がするけど。その、ピシャーチャに、た、食べられていたのがそれなら……うぅぅ」
 思い出すと吐き気が込み上げてきた。シャクラカーンは頭を軽く振って、その光景を追い払った。
「何だ、お前も見たのか?」
「彼らの上に立っていた男は、アスラの中でも歴史のある血筋でしたからね。そのくらいは集まるでしょう」
「ふん……不満があるなら面と向かって言えばいいものを」
「彼は貴方の地位が欲しかっただけですよ。黄金色に輝く冠がね。それさえあれば、何もかもが上手くいくと勘違いしたのでしょう」
「その果てがピシャーチャ共の胃袋か。愚かを通り越して哀れですらある」
 ルドラがこめかみに指を当て、長く息を吐いた。かつての仲間の死を悲しんでいるのだろうか――それは虚空にするりと溶けて行った。
 雲上からの落下の痛みはもう消えた。それでもなお残るものがある。身体ではない、心が痛いのだとシャクラカーンは気付いた。
 アスラたちの関係は、お互いに気心が知れている風で、温かみがあるように見える。
 ヴィシュラは化け物ではあるが、シャクラカーンを拾い上げ、寝床を提供し、食糧さえ提供しようとした。それは彼なりの目的があってのことで、優しさではないだろうが、それでも、見知らぬ場所で何が起きたのかも理解出来ずに絶望していたシャクラカーンにとっては、確かに救いだった。認めるのは悔しいが、きっとそう。
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