第一章:洞窟
ー/ー「……う、うぇぇえっ」
シャクラカーンは身体を屈めて、胃の中身を吐き出した。水分の多い吐瀉物が、硬く乾燥した大地に吸い込まれていく。
金属の錆びたようなこの匂いは、彼らの血液の匂いだと気付いた。
「おっと。酔ったのかい? 君は動いていないはずだけれど」
男がシャクラカーンの顔を覗き込む。美しい姿、見慣れた同族の姿をしているが、彼もまた化け物だ。他の種族が息絶えた戦場で、背中を丸めて屍肉を頬張っているピシャーチャと同類なのだ。
「……ば、化け物、め」
「うん?」
震えるシャクラカーンの声が聞き取れなかったのか、男は首を傾げた。後頭部で結い上げた長い髪が揺れる。
「どうして……こんな、こんなことをするんだ……何の意味がある?」
「君、さっきから何故ばかりだね……私は君の親ではないのだけれど? まあいい、問答は素晴らしい文化だ。様々なことを学ばせてくれる」
口元を手の甲で拭い、シャクラカーンは恐怖と気持ち悪さを押し殺して顔を上げた。
薄らと漂っていた雲が割れ、男の髪と、そして白い肌が陽の光に眩く照らされる。男は目を細め、唇を笑みの形にして、シャクラカーンに手を差し伸べた。
「さて、何が知りたいのかな? はぐれものの小さなシャキヤくん」
男は自らの名前を、ヴィシュラと名乗った。
今や戦場に残っているのは赤黒い染みと、無造作に転がる武器と装具だけだ。
――この男に、付いて行ってもいいのか……?
不気味な存在ではある。だが、このまま未知の世界に置き去りにされて、果たして自分は生き延びることができるだろうか。
できることならば雲上に戻りたいが、サティヤ・ロカに戻るための浮力は、シャクラカーンの中には無い。今のままでは、どこに向かって行けばいいのかも分からない。あてもなく彷徨うだけでは、やがて行き倒れて朽ちるだろう。
少なくとも、この男――ヴィシュラに、敵意はないように見える。
シャクラカーンは、迷いながらもヴィシュラの手を取り、立ち上がった。
「あぁ、君、そういえば素足なのだね? この辺りの地表はシャキヤの足には鋭すぎる。靴でも履くかい?」
「い、いらない! 僕だって、地面から少し浮くぐらいのことはできる……」
ヴィシュラが示したのは、主を失った血まみれの靴だ。シャクラカーンは慌てて首を横に振った。
歩き出したヴィシュラの背中を追って、シャクラカーンも進む。二人の後ろにはピシャーチャの大群が続いた。シャクラカーンはできるだけ背後を振り返らないように、前方にいるヴィシュラの後ろ髪だけを視界に入れることにした。
赤肌のアスラ、青肌のラークシャサ、黒肌のヤクシャ、そして黄肌のピシャーチャ。
ナラカ=ランカーに生息する四つの種族には、それぞれ縄張りにしている領域があり、その境目の緩衝地帯を境界と呼んでいるという。
「まあ呼び名は何でもいいのさ」
境界には、それぞれの種族が相手の様子を探るために斥候を送り込んでおり、先程のような小規模な戦闘が頻発している。そこをピシャーチャは狙うのだという。
「それは何故かと、君は疑問に思うようだね?」
シャクラカーンの心を見透かしたように、ヴィシュラは言う。
「理由は幾つかあるけれどね。一つは食事、一つは本能、一つは……野望かな」
「食事……」
先程の凄惨な光景を思い出し、シャクラカーンは肩を震わせた。込み上げてきた吐き気をぐっと堪える。
「食事を取らなければ、ピシャーチャも生きてはいけない」
それは、シャクラカーンにも分かる。生きていくためには、食べることは必要不可欠だ。弱いものは強いものに食われる、世界はそういう風に出来ている。
どのくらいの距離を歩いただろうか。乾いた風がシャクラカーンの髪を通り抜ける。
行先の大地に、ぽっかりと黒い穴が空いていた。階段のような石積みが地表から地中に向けて、斜めに潜っている。
「これは……洞窟……?」
穴の入口でヴィシュラが足を止め、振り向いた。
「地上は人の世界だろう? ピシャーチャは化け物だからね、地下にしか居場所がないのさ」
「……」
「冗談だよ」
シャクラカーンはヴィシュラの後に続き、穴の中へと踏み込んだ。奥へ進むにつれて、空気は冷んやりと、視界は薄暗くなっていく。外界の光で眩く輝く入口が、小さな点のようになる頃、シャクラカーンは手を伸ばして、ヴィシュラの腕を掴んだ。
「お、おい……」
「うん? 何だい?」
「い、いや……その」――暗闇が恐ろしい。などと、言えるはずもなく、シャクラカーンは口ごもった。「ど、どこまで行くんだ」
「……あぁ、成程。雲上には、これほどの暗闇はないのだね」
「う……」
ーー見透かされている。
シャクラカーンは妙な居心地の悪さを感じ、視線を逸らした。
――それにしても、この男は本当にピシャーチャなのか?
サティヤ・ロカで学んだピシャーチャ像とはずいぶん違う。知性がなく、獣のような存在だと書物には書いてあったのに。
「ふむ……もう少し下れば、住居に着くのだけれど。少し待とうか」
ヴィシュラとシャクラカーンをその場に残し、ピシャーチャの大群は暗闇に消えていった。
「待つって……何をだ?」
「灯りだよ」
洞窟の奥から、橙色の灯りが近付いてきた。ピシャーチャだ。取っ手の付いた皿のようなものを持っていて、そこに小さな炎が点っている。ヴィシュラはそれを受け取り、シャクラカーンの顔を照らした。
皿の中には液体と、細長い紐のようなものが入れられている。これは、灯明だ。液体はおそらく脂だろう。形は違うが、サティヤ・ロカでも使われている。月のない夜、あるいは薄暗い宮の中を照らすための道具だ。
ヴィシュラは灯明をシャクラカーンに手渡した。
灯明で周囲を照らしながら、シャクラカーンはヴィシュラに続いて奥へと進む。程なくして、広々とした円形の空間に着いた。天井は高く、壁には楕円形の無数の穴が空いている。その穴の中に、ピシャーチャが背中を丸めて横たわっていた。
ヴィシュラは先程、住居があると言っていた。この空間がピシャーチャの住居なのだろう。暗闇の中で、身動ぎもせずに、彼らは――眠っているのだろうか?
広い空間の真ん中辺りに、場違いに思える簡素な椅子と小さな机が置いてあった。それらは木材を加工して作られたもののようだ。
シャクラカーンが近付いて行くと、その小さな机の上に何かが積み重ねられているのが見えた。あれは――書物?
「ところで君、シャキヤの主食は何だい? ねずみとキノコとどちらがお好みかな?」
ヴィシュラはシャクラカーンの方を見て、相変わらずの軽い調子で言った。
「……腹は空いてない」
ねずみというのは確か小型の獣だったはず、とシャクラカーンは記憶を辿る。サティヤ・ロカには存在しない生き物だ。食べたこともなければ、食べようとも思わない。
「ほう? 雲上界の人々は霞でも食べて生きているのかな?」
「霞なんて食べても、味がしないだろ。花と蜜があれば充分だ、った……うう、何で僕はこんなところに落ちてきたんだ……」
「重いからだよ」
「そういうことじゃない!」
最後に見た、サティヤ・ロカの景色は美しかった。明るい水色の空と、眩い太陽、それから清々しい花の香り。そして自分を見下ろして、端正な顔で嘲るように笑っていた同族の顔を思い出し、シャクラカーンは慌ててそれを振り払おうと首を振った。
「ところで君、雲の上のその上がどうなっているのか、知っているかい?」
「はあ……? 上って……天界か? 太陽と星があるところだろ」
「そう、太陽と星がある世界。そこにも人が住んでいるとしたら……彼らは何を思って生きているのだろうね」
ヴィシュラは細い顎に手を当てて、考え込むような仕草を見せる。
「何だそれ……天界に人が住んでいるなんて、聞いたことない……あ、もしかして天人のことか? あんなの伝説だろ。お前、意外と夢想家だな」
「ふむ……サティヤ・ロカにも記録はない、か……まあ君が知らないだけかもしれないけれど」
引っかかる言い方だ。シャクラカーンはむっとして、ヴィシュラを睨みつけた。
『混ざりものめ』
『お前なんて、この雲上に相応しくない』
彼らはそう言い放って、シャクラカーンを雲の端に突き飛ばした。淡い金色の瞳に、白い肌をした純粋なシャキヤたちだ。その美麗な顔が、今は嘲りに歪んでいる。
強い力で押され、シャクラカーンは身体の均衡を崩して雲を踏み外した。雲の端には近寄ってはいけないと、ずっと母に言われていたのに。
冷たい空気がシャクラカーンを置き去りにして昇っていく――いや、逆だ。シャクラカーンの方が空気を割いて、落下しているのだ。
内臓が逆転するような、不快な感覚。一方で、頭は霞がかかったようにぼんやりとしている。
――どうして、自分は落ちているのだろう?
同族に突き落とされたから落ちている、その事実は分かっているはずなのに。胸の奥が鈍く痛んだ。
やがて視界が白く包まれ――
「……っ!」
シャクラカーンは、はっと目を覚ました。瞼を開けたのに、暗い。そうだ、ここはピシャーチャの棲む洞窟だ。身体が痛いのは、硬い岩肌が下にあるからだ。
サティヤ・ロカの柔らかな寝床とは違う、とても快適とは言えない住居だった。硬くて狭い劣悪な環境で、それでも眠ってしまったのは、疲労が限界に達していたからだろう。
シャクラカーンは身体を捻って、壁の穴から這い出した。死人の気分になるような、この闇の中にいつまでも浸っていたくない。
ふと、開けた空間の中心がぼんやりと明るくなっていることに気付く。灯明の火に照らされて、ヴィシュラの顔が浮かび上がっている。彼は微かな明かりの中で、書物を読んでいるようだ。
よろよろと立ち上がるシャクラカーンの動きを感じたのか、ヴィシュラが顔を上げた。
「おや、目が覚めたのかい?」
こんな暗い中で文字が読めるのかとシャクラカーンは目を凝らしたが、灯明の火はあまりにも微かで、本の題名を判別することはできなかった。
「……それ、読めるのか」
「うん? ……ああ、我々ピシャーチャの眼は暗闇に慣れているからね。さすがに明かり無しでは難しいけれど」
シャクラカーンが近付いて行くと、ヴィシュラは書物をパタンと閉じ、机の上に置いた。
「……なあ。僕は、サティヤ・ロカに戻れると思うか?」
「難しい問題だね。シャキヤがナラカに降りてくることはあっても、地を這う四種族が雲上に昇った例は聞いたことがない。君はシャキヤだけれど……うん、重いからね。自力では無理だろう」
「……そう、か……そうだよな……」
シャクラカーンは俯いて、ヴィシュラの足元に座り込んだ。目が熱くなって、涙が零れそうになる。
ヴィシュラの声は変わらずに落ち着いていて柔らかい。同情も憐れみもない。面白がっている風でもなく、ただ事実を言っているだけだ。それがシャクラカーンの気持ちを、ほんの少し楽にしてくれた。
「まあ、前例が無いからと言って、これからも出来ないとは限らないからね。君がサティヤ・ロカに昇る方法を見つけることを我々も願っているよ」
「……絶ッ対にお前には教えないからな?!」
彼の言葉に、救われた気がしたのは黙っておこう。前例が無いなら、作ればいいんだ――そうだ、いつまでも落ち込んではいられない。
「おや、何故だい? 我々がサティヤ・ロカを侵略するとでも? そんなことはしないさ。我々が目指すものは、もっと上だからね」
「上……さっきも言ってたな。天上界か?」
ヴィシュラのこの天上界への執着は、一体何なのだろう――シャクラカーンは首を傾げて、彼の言葉を待った。
「……昔話をしようか」
ヴィシュラは椅子から立ち上がり、ゆっくりと歩きながら語り始めた。
◆◆◆
――昔、初めのピシャーチャが生まれた時、何者かが言った。
『何だ、この出来損ないは』
完全なる人を造ろうとして失敗した。
次に配合を変えて、ラークシャサ。
アスラ。
ヤクシャ。
少しずつ理想に近付いていき、最後にシャキヤが生まれた。
その出来に満足したのか、何者かはシャキヤに雲上の住処を与え、自身はさらにその上の世界に昇った。
全てを見下ろせる、天上界へ。
◆◆◆
「……そんな、話……聞いたことない」シャクラカーンは呆然と聞き返す。「僕たちが……造られた?」
確かに、自分たちがどのように生まれたのか、習ったことはなかった。考えることもなかった。自分たちは遙か昔から自然とそこにいるものだと思っていた。
ヴィシュラはシャクラカーンを見下ろして、相変わらずの薄い微笑みを貼り付けたシャキヤの顔で言った。
「我々は、天人を引きずり下ろす」
暗闇の中、灯明の火によって浮かび上がる彼の顔は穏やかで静かで、だからこそ恐ろしかった。
「ピシャーチャはラークシャサ、アスラ、ヤクシャに成った。シャキヤにも成った。次は天人に成る。……『私』は出来損ないではないと、証明するのさ」
シャクラカーンは身体を屈めて、胃の中身を吐き出した。水分の多い吐瀉物が、硬く乾燥した大地に吸い込まれていく。
金属の錆びたようなこの匂いは、彼らの血液の匂いだと気付いた。
「おっと。酔ったのかい? 君は動いていないはずだけれど」
男がシャクラカーンの顔を覗き込む。美しい姿、見慣れた同族の姿をしているが、彼もまた化け物だ。他の種族が息絶えた戦場で、背中を丸めて屍肉を頬張っているピシャーチャと同類なのだ。
「……ば、化け物、め」
「うん?」
震えるシャクラカーンの声が聞き取れなかったのか、男は首を傾げた。後頭部で結い上げた長い髪が揺れる。
「どうして……こんな、こんなことをするんだ……何の意味がある?」
「君、さっきから何故ばかりだね……私は君の親ではないのだけれど? まあいい、問答は素晴らしい文化だ。様々なことを学ばせてくれる」
口元を手の甲で拭い、シャクラカーンは恐怖と気持ち悪さを押し殺して顔を上げた。
薄らと漂っていた雲が割れ、男の髪と、そして白い肌が陽の光に眩く照らされる。男は目を細め、唇を笑みの形にして、シャクラカーンに手を差し伸べた。
「さて、何が知りたいのかな? はぐれものの小さなシャキヤくん」
男は自らの名前を、ヴィシュラと名乗った。
今や戦場に残っているのは赤黒い染みと、無造作に転がる武器と装具だけだ。
――この男に、付いて行ってもいいのか……?
不気味な存在ではある。だが、このまま未知の世界に置き去りにされて、果たして自分は生き延びることができるだろうか。
できることならば雲上に戻りたいが、サティヤ・ロカに戻るための浮力は、シャクラカーンの中には無い。今のままでは、どこに向かって行けばいいのかも分からない。あてもなく彷徨うだけでは、やがて行き倒れて朽ちるだろう。
少なくとも、この男――ヴィシュラに、敵意はないように見える。
シャクラカーンは、迷いながらもヴィシュラの手を取り、立ち上がった。
「あぁ、君、そういえば素足なのだね? この辺りの地表はシャキヤの足には鋭すぎる。靴でも履くかい?」
「い、いらない! 僕だって、地面から少し浮くぐらいのことはできる……」
ヴィシュラが示したのは、主を失った血まみれの靴だ。シャクラカーンは慌てて首を横に振った。
歩き出したヴィシュラの背中を追って、シャクラカーンも進む。二人の後ろにはピシャーチャの大群が続いた。シャクラカーンはできるだけ背後を振り返らないように、前方にいるヴィシュラの後ろ髪だけを視界に入れることにした。
赤肌のアスラ、青肌のラークシャサ、黒肌のヤクシャ、そして黄肌のピシャーチャ。
ナラカ=ランカーに生息する四つの種族には、それぞれ縄張りにしている領域があり、その境目の緩衝地帯を境界と呼んでいるという。
「まあ呼び名は何でもいいのさ」
境界には、それぞれの種族が相手の様子を探るために斥候を送り込んでおり、先程のような小規模な戦闘が頻発している。そこをピシャーチャは狙うのだという。
「それは何故かと、君は疑問に思うようだね?」
シャクラカーンの心を見透かしたように、ヴィシュラは言う。
「理由は幾つかあるけれどね。一つは食事、一つは本能、一つは……野望かな」
「食事……」
先程の凄惨な光景を思い出し、シャクラカーンは肩を震わせた。込み上げてきた吐き気をぐっと堪える。
「食事を取らなければ、ピシャーチャも生きてはいけない」
それは、シャクラカーンにも分かる。生きていくためには、食べることは必要不可欠だ。弱いものは強いものに食われる、世界はそういう風に出来ている。
どのくらいの距離を歩いただろうか。乾いた風がシャクラカーンの髪を通り抜ける。
行先の大地に、ぽっかりと黒い穴が空いていた。階段のような石積みが地表から地中に向けて、斜めに潜っている。
「これは……洞窟……?」
穴の入口でヴィシュラが足を止め、振り向いた。
「地上は人の世界だろう? ピシャーチャは化け物だからね、地下にしか居場所がないのさ」
「……」
「冗談だよ」
シャクラカーンはヴィシュラの後に続き、穴の中へと踏み込んだ。奥へ進むにつれて、空気は冷んやりと、視界は薄暗くなっていく。外界の光で眩く輝く入口が、小さな点のようになる頃、シャクラカーンは手を伸ばして、ヴィシュラの腕を掴んだ。
「お、おい……」
「うん? 何だい?」
「い、いや……その」――暗闇が恐ろしい。などと、言えるはずもなく、シャクラカーンは口ごもった。「ど、どこまで行くんだ」
「……あぁ、成程。雲上には、これほどの暗闇はないのだね」
「う……」
ーー見透かされている。
シャクラカーンは妙な居心地の悪さを感じ、視線を逸らした。
――それにしても、この男は本当にピシャーチャなのか?
サティヤ・ロカで学んだピシャーチャ像とはずいぶん違う。知性がなく、獣のような存在だと書物には書いてあったのに。
「ふむ……もう少し下れば、住居に着くのだけれど。少し待とうか」
ヴィシュラとシャクラカーンをその場に残し、ピシャーチャの大群は暗闇に消えていった。
「待つって……何をだ?」
「灯りだよ」
洞窟の奥から、橙色の灯りが近付いてきた。ピシャーチャだ。取っ手の付いた皿のようなものを持っていて、そこに小さな炎が点っている。ヴィシュラはそれを受け取り、シャクラカーンの顔を照らした。
皿の中には液体と、細長い紐のようなものが入れられている。これは、灯明だ。液体はおそらく脂だろう。形は違うが、サティヤ・ロカでも使われている。月のない夜、あるいは薄暗い宮の中を照らすための道具だ。
ヴィシュラは灯明をシャクラカーンに手渡した。
灯明で周囲を照らしながら、シャクラカーンはヴィシュラに続いて奥へと進む。程なくして、広々とした円形の空間に着いた。天井は高く、壁には楕円形の無数の穴が空いている。その穴の中に、ピシャーチャが背中を丸めて横たわっていた。
ヴィシュラは先程、住居があると言っていた。この空間がピシャーチャの住居なのだろう。暗闇の中で、身動ぎもせずに、彼らは――眠っているのだろうか?
広い空間の真ん中辺りに、場違いに思える簡素な椅子と小さな机が置いてあった。それらは木材を加工して作られたもののようだ。
シャクラカーンが近付いて行くと、その小さな机の上に何かが積み重ねられているのが見えた。あれは――書物?
「ところで君、シャキヤの主食は何だい? ねずみとキノコとどちらがお好みかな?」
ヴィシュラはシャクラカーンの方を見て、相変わらずの軽い調子で言った。
「……腹は空いてない」
ねずみというのは確か小型の獣だったはず、とシャクラカーンは記憶を辿る。サティヤ・ロカには存在しない生き物だ。食べたこともなければ、食べようとも思わない。
「ほう? 雲上界の人々は霞でも食べて生きているのかな?」
「霞なんて食べても、味がしないだろ。花と蜜があれば充分だ、った……うう、何で僕はこんなところに落ちてきたんだ……」
「重いからだよ」
「そういうことじゃない!」
最後に見た、サティヤ・ロカの景色は美しかった。明るい水色の空と、眩い太陽、それから清々しい花の香り。そして自分を見下ろして、端正な顔で嘲るように笑っていた同族の顔を思い出し、シャクラカーンは慌ててそれを振り払おうと首を振った。
「ところで君、雲の上のその上がどうなっているのか、知っているかい?」
「はあ……? 上って……天界か? 太陽と星があるところだろ」
「そう、太陽と星がある世界。そこにも人が住んでいるとしたら……彼らは何を思って生きているのだろうね」
ヴィシュラは細い顎に手を当てて、考え込むような仕草を見せる。
「何だそれ……天界に人が住んでいるなんて、聞いたことない……あ、もしかして天人のことか? あんなの伝説だろ。お前、意外と夢想家だな」
「ふむ……サティヤ・ロカにも記録はない、か……まあ君が知らないだけかもしれないけれど」
引っかかる言い方だ。シャクラカーンはむっとして、ヴィシュラを睨みつけた。
『混ざりものめ』
『お前なんて、この雲上に相応しくない』
彼らはそう言い放って、シャクラカーンを雲の端に突き飛ばした。淡い金色の瞳に、白い肌をした純粋なシャキヤたちだ。その美麗な顔が、今は嘲りに歪んでいる。
強い力で押され、シャクラカーンは身体の均衡を崩して雲を踏み外した。雲の端には近寄ってはいけないと、ずっと母に言われていたのに。
冷たい空気がシャクラカーンを置き去りにして昇っていく――いや、逆だ。シャクラカーンの方が空気を割いて、落下しているのだ。
内臓が逆転するような、不快な感覚。一方で、頭は霞がかかったようにぼんやりとしている。
――どうして、自分は落ちているのだろう?
同族に突き落とされたから落ちている、その事実は分かっているはずなのに。胸の奥が鈍く痛んだ。
やがて視界が白く包まれ――
「……っ!」
シャクラカーンは、はっと目を覚ました。瞼を開けたのに、暗い。そうだ、ここはピシャーチャの棲む洞窟だ。身体が痛いのは、硬い岩肌が下にあるからだ。
サティヤ・ロカの柔らかな寝床とは違う、とても快適とは言えない住居だった。硬くて狭い劣悪な環境で、それでも眠ってしまったのは、疲労が限界に達していたからだろう。
シャクラカーンは身体を捻って、壁の穴から這い出した。死人の気分になるような、この闇の中にいつまでも浸っていたくない。
ふと、開けた空間の中心がぼんやりと明るくなっていることに気付く。灯明の火に照らされて、ヴィシュラの顔が浮かび上がっている。彼は微かな明かりの中で、書物を読んでいるようだ。
よろよろと立ち上がるシャクラカーンの動きを感じたのか、ヴィシュラが顔を上げた。
「おや、目が覚めたのかい?」
こんな暗い中で文字が読めるのかとシャクラカーンは目を凝らしたが、灯明の火はあまりにも微かで、本の題名を判別することはできなかった。
「……それ、読めるのか」
「うん? ……ああ、我々ピシャーチャの眼は暗闇に慣れているからね。さすがに明かり無しでは難しいけれど」
シャクラカーンが近付いて行くと、ヴィシュラは書物をパタンと閉じ、机の上に置いた。
「……なあ。僕は、サティヤ・ロカに戻れると思うか?」
「難しい問題だね。シャキヤがナラカに降りてくることはあっても、地を這う四種族が雲上に昇った例は聞いたことがない。君はシャキヤだけれど……うん、重いからね。自力では無理だろう」
「……そう、か……そうだよな……」
シャクラカーンは俯いて、ヴィシュラの足元に座り込んだ。目が熱くなって、涙が零れそうになる。
ヴィシュラの声は変わらずに落ち着いていて柔らかい。同情も憐れみもない。面白がっている風でもなく、ただ事実を言っているだけだ。それがシャクラカーンの気持ちを、ほんの少し楽にしてくれた。
「まあ、前例が無いからと言って、これからも出来ないとは限らないからね。君がサティヤ・ロカに昇る方法を見つけることを我々も願っているよ」
「……絶ッ対にお前には教えないからな?!」
彼の言葉に、救われた気がしたのは黙っておこう。前例が無いなら、作ればいいんだ――そうだ、いつまでも落ち込んではいられない。
「おや、何故だい? 我々がサティヤ・ロカを侵略するとでも? そんなことはしないさ。我々が目指すものは、もっと上だからね」
「上……さっきも言ってたな。天上界か?」
ヴィシュラのこの天上界への執着は、一体何なのだろう――シャクラカーンは首を傾げて、彼の言葉を待った。
「……昔話をしようか」
ヴィシュラは椅子から立ち上がり、ゆっくりと歩きながら語り始めた。
◆◆◆
――昔、初めのピシャーチャが生まれた時、何者かが言った。
『何だ、この出来損ないは』
完全なる人を造ろうとして失敗した。
次に配合を変えて、ラークシャサ。
アスラ。
ヤクシャ。
少しずつ理想に近付いていき、最後にシャキヤが生まれた。
その出来に満足したのか、何者かはシャキヤに雲上の住処を与え、自身はさらにその上の世界に昇った。
全てを見下ろせる、天上界へ。
◆◆◆
「……そんな、話……聞いたことない」シャクラカーンは呆然と聞き返す。「僕たちが……造られた?」
確かに、自分たちがどのように生まれたのか、習ったことはなかった。考えることもなかった。自分たちは遙か昔から自然とそこにいるものだと思っていた。
ヴィシュラはシャクラカーンを見下ろして、相変わらずの薄い微笑みを貼り付けたシャキヤの顔で言った。
「我々は、天人を引きずり下ろす」
暗闇の中、灯明の火によって浮かび上がる彼の顔は穏やかで静かで、だからこそ恐ろしかった。
「ピシャーチャはラークシャサ、アスラ、ヤクシャに成った。シャキヤにも成った。次は天人に成る。……『私』は出来損ないではないと、証明するのさ」
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
「……う、うぇぇえっ」
シャクラカーンは身体を屈めて、胃の中身を吐き出した。水分の多い吐瀉物が、硬く乾燥した大地に吸い込まれていく。
金属の錆びたようなこの匂いは、彼らの血液の匂いだと気付いた。
「おっと。酔ったのかい? 君は動いていないはずだけれど」
男がシャクラカーンの顔を覗き込む。美しい姿、見慣れた同族の姿をしているが、彼もまた化け物だ。他の種族が息絶えた戦場で、背中を丸めて屍肉を頬張っているピシャーチャと同類なのだ。
「……ば、化け物、め」
「うん?」
震えるシャクラカーンの声が聞き取れなかったのか、男は首を傾げた。後頭部で結い上げた長い髪が揺れる。
「どうして……こんな、こんなことをするんだ……何の意味がある?」
「君、さっきから何故ばかりだね……私は君の親ではないのだけれど? まあいい、問答は素晴らしい文化だ。様々なことを学ばせてくれる」
口元を手の甲で拭い、シャクラカーンは恐怖と気持ち悪さを押し殺して顔を上げた。
薄らと漂っていた雲が割れ、男の髪と、そして白い肌が陽の光に眩く照らされる。男は目を細め、唇を笑みの形にして、シャクラカーンに手を差し伸べた。
「さて、何が知りたいのかな? はぐれものの小さなシャキヤくん」
男は自らの名前を、ヴィシュラと名乗った。
今や戦場に残っているのは赤黒い染みと、無造作に転がる武器と装具だけだ。
――この男に、付いて行ってもいいのか……?
不気味な存在ではある。だが、このまま未知の世界に置き去りにされて、果たして自分は生き延びることができるだろうか。
できることならば雲上に戻りたいが、サティヤ・ロカに戻るための浮力は、シャクラカーンの中には無い。今のままでは、どこに向かって行けばいいのかも分からない。あてもなく彷徨うだけでは、やがて行き倒れて朽ちるだろう。
少なくとも、この男――ヴィシュラに、敵意はないように見える。
シャクラカーンは、迷いながらもヴィシュラの手を取り、立ち上がった。
「あぁ、君、そういえば素足なのだね? この辺りの地表はシャキヤの足には鋭すぎる。靴でも履くかい?」
「い、いらない! 僕だって、地面から少し浮くぐらいのことはできる……」
ヴィシュラが示したのは、主を失った血まみれの靴だ。シャクラカーンは慌てて首を横に振った。
歩き出したヴィシュラの背中を追って、シャクラカーンも進む。二人の後ろにはピシャーチャの大群が続いた。シャクラカーンはできるだけ背後を振り返らないように、前方にいるヴィシュラの後ろ髪だけを視界に入れることにした。
シャクラカーンは身体を屈めて、胃の中身を吐き出した。水分の多い吐瀉物が、硬く乾燥した大地に吸い込まれていく。
金属の錆びたようなこの匂いは、彼らの血液の匂いだと気付いた。
「おっと。酔ったのかい? 君は動いていないはずだけれど」
男がシャクラカーンの顔を覗き込む。美しい姿、見慣れた同族の姿をしているが、彼もまた化け物だ。他の種族が息絶えた戦場で、背中を丸めて屍肉を頬張っているピシャーチャと同類なのだ。
「……ば、化け物、め」
「うん?」
震えるシャクラカーンの声が聞き取れなかったのか、男は首を傾げた。後頭部で結い上げた長い髪が揺れる。
「どうして……こんな、こんなことをするんだ……何の意味がある?」
「君、さっきから何故ばかりだね……私は君の親ではないのだけれど? まあいい、問答は素晴らしい文化だ。様々なことを学ばせてくれる」
口元を手の甲で拭い、シャクラカーンは恐怖と気持ち悪さを押し殺して顔を上げた。
薄らと漂っていた雲が割れ、男の髪と、そして白い肌が陽の光に眩く照らされる。男は目を細め、唇を笑みの形にして、シャクラカーンに手を差し伸べた。
「さて、何が知りたいのかな? はぐれものの小さなシャキヤくん」
男は自らの名前を、ヴィシュラと名乗った。
今や戦場に残っているのは赤黒い染みと、無造作に転がる武器と装具だけだ。
――この男に、付いて行ってもいいのか……?
不気味な存在ではある。だが、このまま未知の世界に置き去りにされて、果たして自分は生き延びることができるだろうか。
できることならば雲上に戻りたいが、サティヤ・ロカに戻るための浮力は、シャクラカーンの中には無い。今のままでは、どこに向かって行けばいいのかも分からない。あてもなく彷徨うだけでは、やがて行き倒れて朽ちるだろう。
少なくとも、この男――ヴィシュラに、敵意はないように見える。
シャクラカーンは、迷いながらもヴィシュラの手を取り、立ち上がった。
「あぁ、君、そういえば素足なのだね? この辺りの地表はシャキヤの足には鋭すぎる。靴でも履くかい?」
「い、いらない! 僕だって、地面から少し浮くぐらいのことはできる……」
ヴィシュラが示したのは、主を失った血まみれの靴だ。シャクラカーンは慌てて首を横に振った。
歩き出したヴィシュラの背中を追って、シャクラカーンも進む。二人の後ろにはピシャーチャの大群が続いた。シャクラカーンはできるだけ背後を振り返らないように、前方にいるヴィシュラの後ろ髪だけを視界に入れることにした。
赤肌のアスラ、青肌のラークシャサ、黒肌のヤクシャ、そして黄肌のピシャーチャ。
ナラカ=ランカーに生息する四つの種族には、それぞれ縄張りにしている領域があり、その境目の緩衝地帯を境界と呼んでいるという。
「まあ呼び名は何でもいいのさ」
境界には、それぞれの種族が相手の様子を探るために斥候を送り込んでおり、先程のような小規模な戦闘が頻発している。そこをピシャーチャは狙うのだという。
「それは何故かと、君は疑問に思うようだね?」
シャクラカーンの心を見透かしたように、ヴィシュラは言う。
「理由は幾つかあるけれどね。一つは食事、一つは本能、一つは……野望かな」
「食事……」
先程の凄惨な光景を思い出し、シャクラカーンは肩を震わせた。込み上げてきた吐き気をぐっと堪える。
「食事を取らなければ、ピシャーチャも生きてはいけない」
それは、シャクラカーンにも分かる。生きていくためには、食べることは必要不可欠だ。弱いものは強いものに食われる、世界はそういう風に出来ている。
どのくらいの距離を歩いただろうか。乾いた風がシャクラカーンの髪を通り抜ける。
行先の大地に、ぽっかりと黒い穴が空いていた。階段のような石積みが地表から地中に向けて、斜めに潜っている。
「これは……洞窟……?」
穴の入口でヴィシュラが足を止め、振り向いた。
「地上は人の世界だろう? ピシャーチャは化け物だからね、地下にしか居場所がないのさ」
「……」
「冗談だよ」
シャクラカーンはヴィシュラの後に続き、穴の中へと踏み込んだ。奥へ進むにつれて、空気は冷んやりと、視界は薄暗くなっていく。外界の光で眩く輝く入口が、小さな点のようになる頃、シャクラカーンは手を伸ばして、ヴィシュラの腕を掴んだ。
「お、おい……」
「うん? 何だい?」
「い、いや……その」――暗闇が恐ろしい。などと、言えるはずもなく、シャクラカーンは口ごもった。「ど、どこまで行くんだ」
「……あぁ、成程。雲上には、これほどの暗闇はないのだね」
「う……」
ーー見透かされている。
シャクラカーンは妙な居心地の悪さを感じ、視線を逸らした。
――それにしても、この男は本当にピシャーチャなのか?
サティヤ・ロカで学んだピシャーチャ像とはずいぶん違う。知性がなく、獣のような存在だと書物には書いてあったのに。
「ふむ……もう少し下れば、住居に着くのだけれど。少し待とうか」
ヴィシュラとシャクラカーンをその場に残し、ピシャーチャの大群は暗闇に消えていった。
「待つって……何をだ?」
「灯りだよ」
洞窟の奥から、橙色の灯りが近付いてきた。ピシャーチャだ。取っ手の付いた皿のようなものを持っていて、そこに小さな炎が点っている。ヴィシュラはそれを受け取り、シャクラカーンの顔を照らした。
皿の中には液体と、細長い紐のようなものが入れられている。これは、灯明だ。液体はおそらく脂だろう。形は違うが、サティヤ・ロカでも使われている。月のない夜、あるいは薄暗い宮の中を照らすための道具だ。
ヴィシュラは灯明をシャクラカーンに手渡した。
ナラカ=ランカーに生息する四つの種族には、それぞれ縄張りにしている領域があり、その境目の緩衝地帯を境界と呼んでいるという。
「まあ呼び名は何でもいいのさ」
境界には、それぞれの種族が相手の様子を探るために斥候を送り込んでおり、先程のような小規模な戦闘が頻発している。そこをピシャーチャは狙うのだという。
「それは何故かと、君は疑問に思うようだね?」
シャクラカーンの心を見透かしたように、ヴィシュラは言う。
「理由は幾つかあるけれどね。一つは食事、一つは本能、一つは……野望かな」
「食事……」
先程の凄惨な光景を思い出し、シャクラカーンは肩を震わせた。込み上げてきた吐き気をぐっと堪える。
「食事を取らなければ、ピシャーチャも生きてはいけない」
それは、シャクラカーンにも分かる。生きていくためには、食べることは必要不可欠だ。弱いものは強いものに食われる、世界はそういう風に出来ている。
どのくらいの距離を歩いただろうか。乾いた風がシャクラカーンの髪を通り抜ける。
行先の大地に、ぽっかりと黒い穴が空いていた。階段のような石積みが地表から地中に向けて、斜めに潜っている。
「これは……洞窟……?」
穴の入口でヴィシュラが足を止め、振り向いた。
「地上は人の世界だろう? ピシャーチャは化け物だからね、地下にしか居場所がないのさ」
「……」
「冗談だよ」
シャクラカーンはヴィシュラの後に続き、穴の中へと踏み込んだ。奥へ進むにつれて、空気は冷んやりと、視界は薄暗くなっていく。外界の光で眩く輝く入口が、小さな点のようになる頃、シャクラカーンは手を伸ばして、ヴィシュラの腕を掴んだ。
「お、おい……」
「うん? 何だい?」
「い、いや……その」――暗闇が恐ろしい。などと、言えるはずもなく、シャクラカーンは口ごもった。「ど、どこまで行くんだ」
「……あぁ、成程。雲上には、これほどの暗闇はないのだね」
「う……」
ーー見透かされている。
シャクラカーンは妙な居心地の悪さを感じ、視線を逸らした。
――それにしても、この男は本当にピシャーチャなのか?
サティヤ・ロカで学んだピシャーチャ像とはずいぶん違う。知性がなく、獣のような存在だと書物には書いてあったのに。
「ふむ……もう少し下れば、住居に着くのだけれど。少し待とうか」
ヴィシュラとシャクラカーンをその場に残し、ピシャーチャの大群は暗闇に消えていった。
「待つって……何をだ?」
「灯りだよ」
洞窟の奥から、橙色の灯りが近付いてきた。ピシャーチャだ。取っ手の付いた皿のようなものを持っていて、そこに小さな炎が点っている。ヴィシュラはそれを受け取り、シャクラカーンの顔を照らした。
皿の中には液体と、細長い紐のようなものが入れられている。これは、灯明だ。液体はおそらく脂だろう。形は違うが、サティヤ・ロカでも使われている。月のない夜、あるいは薄暗い宮の中を照らすための道具だ。
ヴィシュラは灯明をシャクラカーンに手渡した。
灯明で周囲を照らしながら、シャクラカーンはヴィシュラに続いて奥へと進む。程なくして、広々とした円形の空間に着いた。天井は高く、壁には楕円形の無数の穴が空いている。その穴の中に、ピシャーチャが背中を丸めて横たわっていた。
ヴィシュラは先程、住居があると言っていた。この空間がピシャーチャの住居なのだろう。暗闇の中で、身動ぎもせずに、彼らは――眠っているのだろうか?
広い空間の真ん中辺りに、場違いに思える簡素な椅子と小さな机が置いてあった。それらは木材を加工して作られたもののようだ。
シャクラカーンが近付いて行くと、その小さな机の上に何かが積み重ねられているのが見えた。あれは――書物?
「ところで君、シャキヤの主食は何だい? ねずみとキノコとどちらがお好みかな?」
ヴィシュラはシャクラカーンの方を見て、相変わらずの軽い調子で言った。
「……腹は空いてない」
ねずみというのは確か小型の獣だったはず、とシャクラカーンは記憶を辿る。サティヤ・ロカには存在しない生き物だ。食べたこともなければ、食べようとも思わない。
「ほう? 雲上界の人々は霞でも食べて生きているのかな?」
「霞なんて食べても、味がしないだろ。花と蜜があれば充分だ、った……うう、何で僕はこんなところに落ちてきたんだ……」
「重いからだよ」
「そういうことじゃない!」
最後に見た、サティヤ・ロカの景色は美しかった。明るい水色の空と、眩い太陽、それから清々しい花の香り。そして自分を見下ろして、端正な顔で嘲るように笑っていた同族の顔を思い出し、シャクラカーンは慌ててそれを振り払おうと首を振った。
「ところで君、雲の上のその上がどうなっているのか、知っているかい?」
「はあ……? 上って……天界か? 太陽と星があるところだろ」
「そう、太陽と星がある世界。そこにも人が住んでいるとしたら……彼らは何を思って生きているのだろうね」
ヴィシュラは細い顎に手を当てて、考え込むような仕草を見せる。
「何だそれ……天界に人が住んでいるなんて、聞いたことない……あ、もしかして天人のことか? あんなの伝説だろ。お前、意外と夢想家だな」
「ふむ……サティヤ・ロカにも記録はない、か……まあ君が知らないだけかもしれないけれど」
引っかかる言い方だ。シャクラカーンはむっとして、ヴィシュラを睨みつけた。
ヴィシュラは先程、住居があると言っていた。この空間がピシャーチャの住居なのだろう。暗闇の中で、身動ぎもせずに、彼らは――眠っているのだろうか?
広い空間の真ん中辺りに、場違いに思える簡素な椅子と小さな机が置いてあった。それらは木材を加工して作られたもののようだ。
シャクラカーンが近付いて行くと、その小さな机の上に何かが積み重ねられているのが見えた。あれは――書物?
「ところで君、シャキヤの主食は何だい? ねずみとキノコとどちらがお好みかな?」
ヴィシュラはシャクラカーンの方を見て、相変わらずの軽い調子で言った。
「……腹は空いてない」
ねずみというのは確か小型の獣だったはず、とシャクラカーンは記憶を辿る。サティヤ・ロカには存在しない生き物だ。食べたこともなければ、食べようとも思わない。
「ほう? 雲上界の人々は霞でも食べて生きているのかな?」
「霞なんて食べても、味がしないだろ。花と蜜があれば充分だ、った……うう、何で僕はこんなところに落ちてきたんだ……」
「重いからだよ」
「そういうことじゃない!」
最後に見た、サティヤ・ロカの景色は美しかった。明るい水色の空と、眩い太陽、それから清々しい花の香り。そして自分を見下ろして、端正な顔で嘲るように笑っていた同族の顔を思い出し、シャクラカーンは慌ててそれを振り払おうと首を振った。
「ところで君、雲の上のその上がどうなっているのか、知っているかい?」
「はあ……? 上って……天界か? 太陽と星があるところだろ」
「そう、太陽と星がある世界。そこにも人が住んでいるとしたら……彼らは何を思って生きているのだろうね」
ヴィシュラは細い顎に手を当てて、考え込むような仕草を見せる。
「何だそれ……天界に人が住んでいるなんて、聞いたことない……あ、もしかして天人のことか? あんなの伝説だろ。お前、意外と夢想家だな」
「ふむ……サティヤ・ロカにも記録はない、か……まあ君が知らないだけかもしれないけれど」
引っかかる言い方だ。シャクラカーンはむっとして、ヴィシュラを睨みつけた。
『混ざりものめ』
『お前なんて、この雲上に相応しくない』
彼らはそう言い放って、シャクラカーンを雲の端に突き飛ばした。淡い金色の瞳に、白い肌をした純粋なシャキヤたちだ。その美麗な顔が、今は嘲りに歪んでいる。
強い力で押され、シャクラカーンは身体の均衡を崩して雲を踏み外した。雲の端には近寄ってはいけないと、ずっと母に言われていたのに。
冷たい空気がシャクラカーンを置き去りにして昇っていく――いや、逆だ。シャクラカーンの方が空気を割いて、落下しているのだ。
内臓が逆転するような、不快な感覚。一方で、頭は霞がかかったようにぼんやりとしている。
――どうして、自分は落ちているのだろう?
同族に突き落とされたから落ちている、その事実は分かっているはずなのに。胸の奥が鈍く痛んだ。
やがて視界が白く包まれ――
「……っ!」
シャクラカーンは、はっと目を覚ました。瞼を開けたのに、暗い。そうだ、ここはピシャーチャの棲む洞窟だ。身体が痛いのは、硬い岩肌が下にあるからだ。
サティヤ・ロカの柔らかな寝床とは違う、とても快適とは言えない住居だった。硬くて狭い劣悪な環境で、それでも眠ってしまったのは、疲労が限界に達していたからだろう。
シャクラカーンは身体を捻って、壁の穴から這い出した。死人の気分になるような、この闇の中にいつまでも浸っていたくない。
ふと、開けた空間の中心がぼんやりと明るくなっていることに気付く。灯明の火に照らされて、ヴィシュラの顔が浮かび上がっている。彼は微かな明かりの中で、書物を読んでいるようだ。
よろよろと立ち上がるシャクラカーンの動きを感じたのか、ヴィシュラが顔を上げた。
「おや、目が覚めたのかい?」
こんな暗い中で文字が読めるのかとシャクラカーンは目を凝らしたが、灯明の火はあまりにも微かで、本の題名を判別することはできなかった。
「……それ、読めるのか」
「うん? ……ああ、我々ピシャーチャの眼は暗闇に慣れているからね。さすがに明かり無しでは難しいけれど」
シャクラカーンが近付いて行くと、ヴィシュラは書物をパタンと閉じ、机の上に置いた。
「……なあ。僕は、サティヤ・ロカに戻れると思うか?」
「難しい問題だね。シャキヤがナラカに降りてくることはあっても、地を這う四種族が雲上に昇った例は聞いたことがない。君はシャキヤだけれど……うん、重いからね。自力では無理だろう」
「……そう、か……そうだよな……」
シャクラカーンは俯いて、ヴィシュラの足元に座り込んだ。目が熱くなって、涙が零れそうになる。
ヴィシュラの声は変わらずに落ち着いていて柔らかい。同情も憐れみもない。面白がっている風でもなく、ただ事実を言っているだけだ。それがシャクラカーンの気持ちを、ほんの少し楽にしてくれた。
「まあ、前例が無いからと言って、これからも出来ないとは限らないからね。君がサティヤ・ロカに昇る方法を見つけることを我々も願っているよ」
「……絶ッ対にお前には教えないからな?!」
彼の言葉に、救われた気がしたのは黙っておこう。前例が無いなら、作ればいいんだ――そうだ、いつまでも落ち込んではいられない。
「おや、何故だい? 我々がサティヤ・ロカを侵略するとでも? そんなことはしないさ。我々が目指すものは、もっと上だからね」
「上……さっきも言ってたな。天上界か?」
ヴィシュラのこの天上界への執着は、一体何なのだろう――シャクラカーンは首を傾げて、彼の言葉を待った。
「……昔話をしようか」
ヴィシュラは椅子から立ち上がり、ゆっくりと歩きながら語り始めた。
『お前なんて、この雲上に相応しくない』
彼らはそう言い放って、シャクラカーンを雲の端に突き飛ばした。淡い金色の瞳に、白い肌をした純粋なシャキヤたちだ。その美麗な顔が、今は嘲りに歪んでいる。
強い力で押され、シャクラカーンは身体の均衡を崩して雲を踏み外した。雲の端には近寄ってはいけないと、ずっと母に言われていたのに。
冷たい空気がシャクラカーンを置き去りにして昇っていく――いや、逆だ。シャクラカーンの方が空気を割いて、落下しているのだ。
内臓が逆転するような、不快な感覚。一方で、頭は霞がかかったようにぼんやりとしている。
――どうして、自分は落ちているのだろう?
同族に突き落とされたから落ちている、その事実は分かっているはずなのに。胸の奥が鈍く痛んだ。
やがて視界が白く包まれ――
「……っ!」
シャクラカーンは、はっと目を覚ました。瞼を開けたのに、暗い。そうだ、ここはピシャーチャの棲む洞窟だ。身体が痛いのは、硬い岩肌が下にあるからだ。
サティヤ・ロカの柔らかな寝床とは違う、とても快適とは言えない住居だった。硬くて狭い劣悪な環境で、それでも眠ってしまったのは、疲労が限界に達していたからだろう。
シャクラカーンは身体を捻って、壁の穴から這い出した。死人の気分になるような、この闇の中にいつまでも浸っていたくない。
ふと、開けた空間の中心がぼんやりと明るくなっていることに気付く。灯明の火に照らされて、ヴィシュラの顔が浮かび上がっている。彼は微かな明かりの中で、書物を読んでいるようだ。
よろよろと立ち上がるシャクラカーンの動きを感じたのか、ヴィシュラが顔を上げた。
「おや、目が覚めたのかい?」
こんな暗い中で文字が読めるのかとシャクラカーンは目を凝らしたが、灯明の火はあまりにも微かで、本の題名を判別することはできなかった。
「……それ、読めるのか」
「うん? ……ああ、我々ピシャーチャの眼は暗闇に慣れているからね。さすがに明かり無しでは難しいけれど」
シャクラカーンが近付いて行くと、ヴィシュラは書物をパタンと閉じ、机の上に置いた。
「……なあ。僕は、サティヤ・ロカに戻れると思うか?」
「難しい問題だね。シャキヤがナラカに降りてくることはあっても、地を這う四種族が雲上に昇った例は聞いたことがない。君はシャキヤだけれど……うん、重いからね。自力では無理だろう」
「……そう、か……そうだよな……」
シャクラカーンは俯いて、ヴィシュラの足元に座り込んだ。目が熱くなって、涙が零れそうになる。
ヴィシュラの声は変わらずに落ち着いていて柔らかい。同情も憐れみもない。面白がっている風でもなく、ただ事実を言っているだけだ。それがシャクラカーンの気持ちを、ほんの少し楽にしてくれた。
「まあ、前例が無いからと言って、これからも出来ないとは限らないからね。君がサティヤ・ロカに昇る方法を見つけることを我々も願っているよ」
「……絶ッ対にお前には教えないからな?!」
彼の言葉に、救われた気がしたのは黙っておこう。前例が無いなら、作ればいいんだ――そうだ、いつまでも落ち込んではいられない。
「おや、何故だい? 我々がサティヤ・ロカを侵略するとでも? そんなことはしないさ。我々が目指すものは、もっと上だからね」
「上……さっきも言ってたな。天上界か?」
ヴィシュラのこの天上界への執着は、一体何なのだろう――シャクラカーンは首を傾げて、彼の言葉を待った。
「……昔話をしようか」
ヴィシュラは椅子から立ち上がり、ゆっくりと歩きながら語り始めた。
◆◆◆
――昔、初めのピシャーチャが生まれた時、何者かが言った。
『何だ、この出来損ないは』
完全なる人を造ろうとして失敗した。
次に配合を変えて、ラークシャサ。
アスラ。
ヤクシャ。
少しずつ理想に近付いていき、最後にシャキヤが生まれた。
その出来に満足したのか、何者かはシャキヤに雲上の住処を与え、自身はさらにその上の世界に昇った。
全てを見下ろせる、天上界へ。
次に配合を変えて、ラークシャサ。
アスラ。
ヤクシャ。
少しずつ理想に近付いていき、最後にシャキヤが生まれた。
その出来に満足したのか、何者かはシャキヤに雲上の住処を与え、自身はさらにその上の世界に昇った。
全てを見下ろせる、天上界へ。
◆◆◆
「……そんな、話……聞いたことない」シャクラカーンは呆然と聞き返す。「僕たちが……造られた?」
確かに、自分たちがどのように生まれたのか、習ったことはなかった。考えることもなかった。自分たちは遙か昔から自然とそこにいるものだと思っていた。
ヴィシュラはシャクラカーンを見下ろして、相変わらずの薄い微笑みを貼り付けたシャキヤの顔で言った。
「我々は、天人を引きずり下ろす」
暗闇の中、灯明の火によって浮かび上がる彼の顔は穏やかで静かで、だからこそ恐ろしかった。
「ピシャーチャはラークシャサ、アスラ、ヤクシャに成った。シャキヤにも成った。次は天人に成る。……『私』は出来損ないではないと、証明するのさ」
確かに、自分たちがどのように生まれたのか、習ったことはなかった。考えることもなかった。自分たちは遙か昔から自然とそこにいるものだと思っていた。
ヴィシュラはシャクラカーンを見下ろして、相変わらずの薄い微笑みを貼り付けたシャキヤの顔で言った。
「我々は、天人を引きずり下ろす」
暗闇の中、灯明の火によって浮かび上がる彼の顔は穏やかで静かで、だからこそ恐ろしかった。
「ピシャーチャはラークシャサ、アスラ、ヤクシャに成った。シャキヤにも成った。次は天人に成る。……『私』は出来損ないではないと、証明するのさ」