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 寒さは和らぎ、暖かな日が続いていた。
 微睡んだ冬は眠りにつき、季節は春へと衣替えをする。
 コテージには陽光が降り注ぎ、微かに聞こえてくる波音が優しく心を撫でてくれるようだった。
 空を見上げると、霞んだ青が柔らかい表情で世界を見守っているように感じる。
 スーパーの袋を持った竜一は、玄関の扉を開けてコテージの中へと入った。
 三和土(たたき)には二足の靴が置かれており、片方は子供用の小さなスニーカーで、もう片方は黒のパンプスだ。
 リビングに入ると、ダイニングで絵を描いている蘭が目に入った。
 隣には、我が子の様子を静かに見守っている奈々の姿がある。

「竜一、おかえり」

 蘭は顔を上げると、笑顔を見せてきた。
 花のような可憐な笑みに竜一も相好を崩す。

「お帰りなさい」

 奈々は穏やかな表情を浮かべた。
 薬物をやっていたときと比較すると、使用していたことすら分からないほど顔色が良く、もう当時の生気の抜けた面影はない。

「ああ」

 竜一はキッチンに向かい、買ってきた食材を冷蔵庫に仕舞う。
 奈々が来てから一週間が経った。
 オーナーである土屋の提案で、数ヶ月ほどコテージで過ごしてみることになった。
 再度母娘で一緒に暮らせるかどうかを判断するためだ。
 久しく会っていなかった親子の再会はどこかぎこちなかったが、蘭が進んで奈々に話しかけるようになると会話は徐々に増えていった。
 樹がコテージから旅立った後、蘭はよく喋るようになり、今では普通の子供と同じように豊かな表情を見せる。
 呪いのような足枷が無くなったことが大きいのだろう。
 蘭は“嫌われないように”から“自分らしく”と生き方を変えた。
 だからこそ自らの言葉で結び直そうとしている。
 樹が残していった言葉たちは、親子関係にまで影響を及ぼした。
 一つの出来事が点と点を繋ぎ、未来に種を植えていく。
 竜一は感謝した。
 かつて最下層でくすぶっていた、一匹の野良犬に。

「竜一、お母さんと一緒にシャボン玉するから一緒にお庭で遊ぼう」

「うん。じゃあ、先に行ってて」

 蘭はサイドボードの中からシャボン液と拭き具を取り出すと、窓を開けて庭へと出て行った。
 奈々も蘭の後に続き、ウッドデッキに足を踏み入れる。

「奈々」

 竜一が呼び止めると、奈々は足を止めてこちらに視線を移す。

「土屋さんと話し合ったが、しばらくこっちに居てもいい。もし二人で暮らせると俺が判断したら、物件もこの辺で探す。もう同じ過ちは犯すな。母であることを忘れるなよ」

「今まで間違った選択ばかりしてきました。でもこれからは、あの子を軸にして生きるようにします。私自身が覚悟を持って変わらないと、また大きな傷を背負わせてしまうから」

「セカンドチャンスは必要だ。でも誰にでもじゃない。失敗から学び、次に生かせる人間に与えられるべきものだ。土屋さんはお前ならできると判断した。だから俺もそう信じてる」

「はい。絶対にもう、自分には負けません」

 母という世界で一番強い生物が宿す『命を賭けて』という覚悟。
 奈々の目にもそれが宿っていた。
 人は欲という水槽の中で泳ぎ、自分を満たしてくれる餌を際限なく求めてしまう。
 だからこそ自身の中に支えを作ることが必要となる。
 夢や信念は、人の強度を上げる最大の武器だ。

「しんどくなったら休めよ。余白がなくなった人間は外部の何かに縋りたくなる。時には自分を楽にする考え方でもいいから息抜きはしろ。言い訳はそのためにある」

「はい」

 言下、インターホンが鳴る。

「来たか」
「今日でしたっけ」
「うん」

 土屋から三日前に連絡が来て、新しい住人が来ることになっていた。
 今は三人でコテージで過ごしており、他の人間が居たのは三週間前。
 久々の住人は中学時代から引きこもっていた女性らしい。まだ二十歳と聞いている。
 竜一が玄関の扉を開けると土屋が立っており、隣には不安気な表情をした若い女性がいた。
 腰まで伸びた長い髪の毛を触りながら、視線の置き所を探している。

「この子?」

「ああ。今日から一緒に住む、大竹静香さんだ」

 大竹は竜一を一瞥すると、顔を俯かせた。

「電話でも言ったが、中学から外へは出ていない。まだ社会に触れたことがないから、リハビリしたいそうだ」

「お、お願いします」

 大竹は声を震わせながら、囁くように言った。

「自分の意思で応募してきた。弱い自分を変えたいみたいだよ」

「そうか、宜しくな」

「お、お願いします」

「案内するから上がって」

「……はい」

 玄関で靴を脱いだ後、リビングへと案内した。
 開けた窓から、蘭と奈々がシャボン玉で遊んでる風景が見える。

「蘭ちゃん、元気そうだね」

「クズと呼ばれた野良犬のおかげだな」

「この間、莉亜ちゃんから連絡があったよ。今度四人で会うって」

「そっか」

 竜一の頭の中に半年前の光景が蘇り、思わず頬が緩んだ。

「新しい人?」

 蘭が庭から走ってきてウッドデッキに来た。
 視線は大竹に向いており、当の本人は困惑している。

「蘭ちゃんだ。庭にいる女性が彼女のお母さんだよ」

「親子もいるんですね」

「色んな人間がここには来る。竜一くんは多種多様な人を見てきたから、安心して相談するといい」

「あんまりハードルを上げないでくれよ」

 竜一がそう言った後、蘭がサンダルを脱いでリビングに入ってきた。
 大竹の前に立ち、無垢な瞳を向けながら自己紹介を始める。

「美鈴蘭です。よろしくお願いします」

 蘭は膝に手をつき、腰を九十度曲げて丁寧に頭を下げた。

「お、大竹静香です。よ、よろしくお願いします」

 大竹が慌てながら言うと、蘭は顔を上げてニコッと笑みを零した。

「お姉ちゃんも一緒に遊ぼう」

 どうしようと言わんばかりに、大竹は当惑していた。
 その様子を見て、少しばかり時間がかかりそうだなと竜一は思う。

「蘭、部屋も案内しないといけないから、今はお母さんと遊んでて」

「分かった」

 子供らしい可愛げな笑みを灯し、蘭は元気よく返事をした。
 視線を上げると、ウッドデッキに奈々が立っていた。
 お辞儀をし、「美鈴奈々です」と挨拶をする。
 大竹が再び慌てふためきながら名乗ると、蘭と奈々は手を繋いで庭へと戻っていった。

「あの人も、人生をやり直しに来てるんですか?」

「うん。形は違えど、同じように道から逸れてしまった人間だ。今もまだ必死にもがいてる最中かな」

「同じですか……」

 竜一の言葉に、大竹は声を萎ませた。

「私から見たら、もうやり直せているように見える。あんな風に笑ったことなんてないし、手を繋いでくれる人間すらいない。同い年の子たちは順風満帆に進んでるのに、私だけずっと枯れたまま」

 庭では、蘭と奈々が笑顔を咲かせながらシャボン玉と戯れている。
 大竹の目には、劣等感として親子の姿が映っているのかもしれない。

「辛い時期を超えた先で、本当の自分が見つけられる。他人と比べて遅かろうが、そのときに咲く花が一番美しい。どんな花であろうともだ」

「咲けるのかな、こんな人間が……」

 自分を信じることができないのだろう。
 他の人間との間に明確な線を引いている。
 境界線の中から世界を見て、心を閉ざしてしまっているのだと竜一は感じた。
 まずは線を曖昧にし、自分と他人は変わらないんだと知る必要がある。

「咲かないときは咲けない理由がある。それが外的要因なのか内的要因なのかは人それぞれだ。大抵は自分の中にあることが多いけど。どちらにせよ、自分と向き合うことは必要になってくる。少しずつでいいから探していこう。咲くために必要なものを」

「はい……」

「部屋案内してくるから、座って待ってて」

「分かった」

 土屋はダイニングに着き、庭にいる蘭たちに視線を向けた。
 まるでおじいちゃんだなと思いつつ、竜一は大竹に目をやる。

「自分を変える機会は日常の中にごまんとある。でも、ほとんどの人間が気付くことすらなく通り過ぎて行ってしまうんだ。『人は簡単には変わらない』。こんな固定概念に縛られてると見えるもんも見えなくなる。人の根本は思考だ。そこに意識を向けることができれば景色は変わる」

 大竹は竜一の言葉を真剣な表情で聞いていた。
 自分も変われるのだろうか、そんな不安を目に滲ませて。

「花は自分のことを美しいとは思わない。ただ懸命に咲こうとしているだけ。だからこそ美しい。俺は人も同じだと思ってる。だから思いっきり悩め。それは間違いではなく、自分を咲かせるための糧となるから。迷った分だけ、人は美しくなれる」

 竜一は優しい笑みを咲かせた。
 希望という言葉を編んだ、一輪の花のように。


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 寒さは和らぎ、暖かな日が続いていた。
 微睡んだ冬は眠りにつき、季節は春へと衣替えをする。
 コテージには陽光が降り注ぎ、微かに聞こえてくる波音が優しく心を撫でてくれるようだった。
 空を見上げると、霞んだ青が柔らかい表情で世界を見守っているように感じる。
 スーパーの袋を持った竜一は、玄関の扉を開けてコテージの中へと入った。
 |三和土《たたき》には二足の靴が置かれており、片方は子供用の小さなスニーカーで、もう片方は黒のパンプスだ。
 リビングに入ると、ダイニングで絵を描いている蘭が目に入った。
 隣には、我が子の様子を静かに見守っている奈々の姿がある。
「竜一、おかえり」
 蘭は顔を上げると、笑顔を見せてきた。
 花のような可憐な笑みに竜一も相好を崩す。
「お帰りなさい」
 奈々は穏やかな表情を浮かべた。
 薬物をやっていたときと比較すると、使用していたことすら分からないほど顔色が良く、もう当時の生気の抜けた面影はない。
「ああ」
 竜一はキッチンに向かい、買ってきた食材を冷蔵庫に仕舞う。
 奈々が来てから一週間が経った。
 オーナーである土屋の提案で、数ヶ月ほどコテージで過ごしてみることになった。
 再度母娘で一緒に暮らせるかどうかを判断するためだ。
 久しく会っていなかった親子の再会はどこかぎこちなかったが、蘭が進んで奈々に話しかけるようになると会話は徐々に増えていった。
 樹がコテージから旅立った後、蘭はよく喋るようになり、今では普通の子供と同じように豊かな表情を見せる。
 呪いのような足枷が無くなったことが大きいのだろう。
 蘭は“嫌われないように”から“自分らしく”と生き方を変えた。
 だからこそ自らの言葉で結び直そうとしている。
 樹が残していった言葉たちは、親子関係にまで影響を及ぼした。
 一つの出来事が点と点を繋ぎ、未来に種を植えていく。
 竜一は感謝した。
 かつて最下層でくすぶっていた、一匹の野良犬に。
「竜一、お母さんと一緒にシャボン玉するから一緒にお庭で遊ぼう」
「うん。じゃあ、先に行ってて」
 蘭はサイドボードの中からシャボン液と拭き具を取り出すと、窓を開けて庭へと出て行った。
 奈々も蘭の後に続き、ウッドデッキに足を踏み入れる。
「奈々」
 竜一が呼び止めると、奈々は足を止めてこちらに視線を移す。
「土屋さんと話し合ったが、しばらくこっちに居てもいい。もし二人で暮らせると俺が判断したら、物件もこの辺で探す。もう同じ過ちは犯すな。母であることを忘れるなよ」
「今まで間違った選択ばかりしてきました。でもこれからは、あの子を軸にして生きるようにします。私自身が覚悟を持って変わらないと、また大きな傷を背負わせてしまうから」
「セカンドチャンスは必要だ。でも誰にでもじゃない。失敗から学び、次に生かせる人間に与えられるべきものだ。土屋さんはお前ならできると判断した。だから俺もそう信じてる」
「はい。絶対にもう、自分には負けません」
 母という世界で一番強い生物が宿す『命を賭けて』という覚悟。
 奈々の目にもそれが宿っていた。
 人は欲という水槽の中で泳ぎ、自分を満たしてくれる餌を際限なく求めてしまう。
 だからこそ自身の中に支えを作ることが必要となる。
 夢や信念は、人の強度を上げる最大の武器だ。
「しんどくなったら休めよ。余白がなくなった人間は外部の何かに縋りたくなる。時には自分を楽にする考え方でもいいから息抜きはしろ。言い訳はそのためにある」
「はい」
 言下、インターホンが鳴る。
「来たか」
「今日でしたっけ」
「うん」
 土屋から三日前に連絡が来て、新しい住人が来ることになっていた。
 今は三人でコテージで過ごしており、他の人間が居たのは三週間前。
 久々の住人は中学時代から引きこもっていた女性らしい。まだ二十歳と聞いている。
 竜一が玄関の扉を開けると土屋が立っており、隣には不安気な表情をした若い女性がいた。
 腰まで伸びた長い髪の毛を触りながら、視線の置き所を探している。
「この子?」
「ああ。今日から一緒に住む、大竹静香さんだ」
 大竹は竜一を一瞥すると、顔を俯かせた。
「電話でも言ったが、中学から外へは出ていない。まだ社会に触れたことがないから、リハビリしたいそうだ」
「お、お願いします」
 大竹は声を震わせながら、囁くように言った。
「自分の意思で応募してきた。弱い自分を変えたいみたいだよ」
「そうか、宜しくな」
「お、お願いします」
「案内するから上がって」
「……はい」
 玄関で靴を脱いだ後、リビングへと案内した。
 開けた窓から、蘭と奈々がシャボン玉で遊んでる風景が見える。
「蘭ちゃん、元気そうだね」
「クズと呼ばれた野良犬のおかげだな」
「この間、莉亜ちゃんから連絡があったよ。今度四人で会うって」
「そっか」
 竜一の頭の中に半年前の光景が蘇り、思わず頬が緩んだ。
「新しい人?」
 蘭が庭から走ってきてウッドデッキに来た。
 視線は大竹に向いており、当の本人は困惑している。
「蘭ちゃんだ。庭にいる女性が彼女のお母さんだよ」
「親子もいるんですね」
「色んな人間がここには来る。竜一くんは多種多様な人を見てきたから、安心して相談するといい」
「あんまりハードルを上げないでくれよ」
 竜一がそう言った後、蘭がサンダルを脱いでリビングに入ってきた。
 大竹の前に立ち、無垢な瞳を向けながら自己紹介を始める。
「美鈴蘭です。よろしくお願いします」
 蘭は膝に手をつき、腰を九十度曲げて丁寧に頭を下げた。
「お、大竹静香です。よ、よろしくお願いします」
 大竹が慌てながら言うと、蘭は顔を上げてニコッと笑みを零した。
「お姉ちゃんも一緒に遊ぼう」
 どうしようと言わんばかりに、大竹は当惑していた。
 その様子を見て、少しばかり時間がかかりそうだなと竜一は思う。
「蘭、部屋も案内しないといけないから、今はお母さんと遊んでて」
「分かった」
 子供らしい可愛げな笑みを灯し、蘭は元気よく返事をした。
 視線を上げると、ウッドデッキに奈々が立っていた。
 お辞儀をし、「美鈴奈々です」と挨拶をする。
 大竹が再び慌てふためきながら名乗ると、蘭と奈々は手を繋いで庭へと戻っていった。
「あの人も、人生をやり直しに来てるんですか?」
「うん。形は違えど、同じように道から逸れてしまった人間だ。今もまだ必死にもがいてる最中かな」
「同じですか……」
 竜一の言葉に、大竹は声を萎ませた。
「私から見たら、もうやり直せているように見える。あんな風に笑ったことなんてないし、手を繋いでくれる人間すらいない。同い年の子たちは順風満帆に進んでるのに、私だけずっと枯れたまま」
 庭では、蘭と奈々が笑顔を咲かせながらシャボン玉と戯れている。
 大竹の目には、劣等感として親子の姿が映っているのかもしれない。
「辛い時期を超えた先で、本当の自分が見つけられる。他人と比べて遅かろうが、そのときに咲く花が一番美しい。どんな花であろうともだ」
「咲けるのかな、こんな人間が……」
 自分を信じることができないのだろう。
 他の人間との間に明確な線を引いている。
 境界線の中から世界を見て、心を閉ざしてしまっているのだと竜一は感じた。
 まずは線を曖昧にし、自分と他人は変わらないんだと知る必要がある。
「咲かないときは咲けない理由がある。それが外的要因なのか内的要因なのかは人それぞれだ。大抵は自分の中にあることが多いけど。どちらにせよ、自分と向き合うことは必要になってくる。少しずつでいいから探していこう。咲くために必要なものを」
「はい……」
「部屋案内してくるから、座って待ってて」
「分かった」
 土屋はダイニングに着き、庭にいる蘭たちに視線を向けた。
 まるでおじいちゃんだなと思いつつ、竜一は大竹に目をやる。
「自分を変える機会は日常の中にごまんとある。でも、ほとんどの人間が気付くことすらなく通り過ぎて行ってしまうんだ。『人は簡単には変わらない』。こんな固定概念に縛られてると見えるもんも見えなくなる。人の根本は思考だ。そこに意識を向けることができれば景色は変わる」
 大竹は竜一の言葉を真剣な表情で聞いていた。
 自分も変われるのだろうか、そんな不安を目に滲ませて。
「花は自分のことを美しいとは思わない。ただ懸命に咲こうとしているだけ。だからこそ美しい。俺は人も同じだと思ってる。だから思いっきり悩め。それは間違いではなく、自分を咲かせるための糧となるから。迷った分だけ、人は美しくなれる」
 竜一は優しい笑みを咲かせた。
 希望という言葉を編んだ、一輪の花のように。