表示設定
表示設定
目次 目次




最終話 探偵の帰還

ー/ー



 溶岩を拝める観光地にもならなそうな天然サウナのドワーフの里を後にしたのはそれから直ぐのことで、当初の目的であった代物を手にしたファイド刑事さんも、何処か放心したかのような様子で馬に跨がっていた。

 私とマコフさんはといえば、勿論行きの時と同じように自警団さんたちに護衛されながら馬車に揺られ、半日ぶりの青空を眺めている。
 盗賊の隠した埋蔵金を期待していたところもあり、こちらも放心状態に近い。

「残念だった……って言えばいいのかな。あはは……」

 マコフさんが苦笑しながら言う。一応あれからマコフさん自身も探知魔法なるものでアジト周辺も、はたまたドワーフの里全域もくまなく調査したらしいが、財宝に該当する痕跡は何も見つけられなかったようだ。

 伝説級の賢者と呼ばれる人物の調査で見つからないのであれば、もうどうしようもなく、帰路に着くほかない。

「でも現場について一瞬で全て見抜くなんて、ルックちゃん、あなた本当に一体何者なのかしら。魔法を使ってすらいないのに」
「私は、ただのしがない探偵ですよ。もの探しが得意なだけの女です」

 それ以上でも、それ以下でもない。
 剣も扱えず、魔法も使えず、こんなファンタジー世界には不釣り合いな職業だ。

「あら……霧が出てきたみたいね」

 ふとマコフさんが馬車の外に目を向ける。すると外の景色がうっすらと白く霞んで見えてきていた。ほんの少し前までは森の景色が広がっていたと思うのだけれども、徐々に白い絵の具をこぼしたみたいに掻き消えていく。

 太陽が昇っている時間帯なのに、霧なんて掛かるのだろうか。そんな疑問を脳裏に過ぎらせていると、私たちの乗っている馬車が急停止する。視界が完全に遮られてしまったせいだろう。

 これはしばらく立ち往生か。そう思って、もう何も見えなくなったその白い空間の向こうに目を向ける。

 何も見えるはずがない。
 その先には濃い霧が立ちこめているのだから。
 そのはずだったのだが、私の目には不思議な輪郭が映っていた。

「え……?」

 それを見間違いや、目の錯覚だったとは確信できなかった。
 霧の向こうに、白い猫が佇んでいる。そうとしか思えなかった。

「マコフさん、あそこ、あそこに、チェイサーが――!」

 私は何をしたつもりもなかった。窓越しにチェイサーの姿を見て、いち早くマコフさんにそれを伝えようとしただけ。それだけだったはず。
 振り向いたら、そこには誰もいなかった。

 いや、いなかったんじゃない。何もなかった。
 全てが白い闇に覆い尽くされていた。

 おかしい。何かが歪曲してしまっている。まるで夢の中のように。
 私はたった今、ドワーフの里から馬車に乗り、森の中を移動していた、そのはずだったのに、ここは一体何処だ。

 どうして私は立っている? 馬車の客席に座っていたはずなのに。
 どうして私は霧の中にいる? さっきまで馬車の中にいたはずなのに。

 先導していたファイド刑事さんは何処?
 後方を見ていた他の自警団の人たちは?
 私と馬車に同乗していたマコフさんは?

 どんなに頭を捻ろうとしても、解決しようのない謎が脳髄の奥に黒い染みをつけていくようで、疑問、疑念、疑心が渦を巻くばかり。
 まとまりのない私の頭は、その一点に焦点が定まった。

 この白い空間の中で、明瞭に見えた、あの白猫の姿。
 私は、か細い糸が途切れるような思いで、その影を追った。

 進んでいるのか、下がっているのかも分からないような浮遊感にも近いものに苛まれながらも、私は走っていた。距離感も時間も全てが狂っているみたい。

 まるでその白い影との距離は縮まっていないかのような錯覚に陥りかけたそのとき、私の目の前にその姿が明瞭のものとなった。

 白い霧の中、頭から白いローブを被った女性。てっきりマコフさんかと思った。同じような格好をしていたし、ついさっきまで一緒にいたのだから。
 でも、それはすぐに違うことを理解した。杖を持っていないからだ。

「チェイサー……ちゃん?」

 正面に立っていたその女性は、何も言わずローブの上をはだけて顔だけ露出させる。すると、白いもふもふの耳がそこに見えた。マコフさんと一緒だ。

「こんな深い霧の中で、迷子かナ?」

 いやらしく、からかうような笑み。間違いない。チェイサーだった。
 猫の姿しか見た記憶はないけれど、人間の姿に戻るとこんなに美人なのか。
 妹のマコフさんとは瓜二つなのに、表情のソレが妖しく、別人にしか見えない。

「ずいぶんと幻想的な登場の仕方をするのね」
「もっと複雑怪奇な演出をご所望だったかナ。あいにくと引き出しもそれほどないものでね。機会があったのなら今度は何か考えとくナ」

 取り留めもない世間話。違う。私はそんなことを求めているわけじゃない。
 目の前のミステリアスな白い女が、今にも霧の中に消えてしまいそうだった。

「できれば妹さんに迷惑の掛からないようにした方が賢明だと思うんだけど」
「あんな口うるさい奴は放っとけナ。おちおち散歩ものんびりできないナ」

 バツの悪そうな顔をする。そうやって他人にちょっかい出しているから妹さんが尻ぬぐいであれやこれやと苦労しているというのに、やはり関心はなさそうだ。

「ところで、チェイサーちゃん。この白い霧は演出なの? みんな何処かに消えちゃったんだけど」
「逆ナ、逆。ルック、お前の方が消えたんだ」
 そう言われてみれば、そんな気はしていた。近くにいたマコフさんも、ファイド刑事さんも、自警団の皆さんも、はてや馬車までも忽然と消失したのだから。

「チェイサーちゃんからお呼ばれするなんて考えてもなかったから驚いちゃった」
「喜んでいただけて幸いだナ」

 何処までが本心なのかも定かではないが、チェイサーはあまりにも愉快そうに笑ってみせる。どうにも悪意の透けた笑い方のようなのだが。

「さて、小娘。度胸の据わったフリはそろそろやめにするのナ」

 その笑い方、本当に悪魔のようで天使のよう。感情をマドラーでかき混ぜられるみたいな混濁に作り出す。まだ、チェイサーが猫のままの姿で、口を利かなかった方が都合よかったまである。

「私の泣き顔を見て笑いたいなら勘弁してほしいかな」
「まったく……人間はこれだから……」
 あなたも人間じゃないの? などと今、ツッコミを入れたらチェイサーに噛みつかれるのだろうか。白い猫耳を生やした女性を前に、言葉を抑える。

「でも、私、あなたにとっての道化は演じられたと思うけど?」
「滑稽であったことは褒めてやるのナ。おひねりがほしいのならもうひとひねりくらいしてほしかったところだが……まぁ、まけてやるのナ」
 猫の鳴き声のような声で言う。

「探しているものは、どうやら見つかったみたいだしナ」
 と付け加えて。

 チェイサーは言っていた。もしも元の世界に帰るための道しるべを教えてほしいのなら、この世界で何かを見つけだせ、と。
 それがどういうものなのか、何処にあるものなのか一つも答えてはくれなかった。

「どんな謎かけだったのか、答えを聞きたいのだけど」
「謎を解くのはお前の仕事だろう、探偵」
 やっぱり意地悪な猫だ。この妖しい笑みすら猫を被っているようにしか見えない。

 もう少し顔を睨み付けてやろうか。そう思ってもみたが、いつの間にやらチェイサーの体の輪郭はまたぼやけていて、はっきりしなくなっていた。
 一瞬でも目を逸らしたつもりはないのだけれど、白い霧の中に溶けていくかのように消えてしまい、後に残るのは何ものでもない白い白い闇だけだった。

 ※ ※ ※

 ※ ※

 ※

 次に私が気付いたとき、街の喧騒が耳を貫いていた。
 意表を突かれたと言ってもいい。身構える間もなく、霧は最初からなかったかのようにすっかり晴れていて、その代わりに目の前に広がるその光景は、見覚えのある街中でしかなかった。

 見上げればコンクリートジャングル。鉄の車が行き交い、けたたましいくらいに耳に馴染んだ音がようやくこの耳に戻ってきた感じがする。
 後ろを振り返ってみると、狭い路地しかなかった。それこそ野良猫が通りそうなくらい狭い場所で、人一人通るので精一杯。

 記憶を巡らせてみると、そういえば、この狭い路地だったはずだ。
 私は、探偵事務所を設立して初めての依頼、猫探しを頼まれて、卓越したその推理力によって見事場所を突き止めて、白い猫を見つけ出した。
 そうして追いかけていったのが、ここ。

 この路地を抜けたと思ったとき、私は異世界のあの場所に立っていたのだ。

 チェイサーは言っていた。道というものは未知の場所に繋がっているのだと。今になって思ってみてもやっぱりたちの悪い冗談のようにしか思えない。
 ここが、あるいは異世界への分岐点だったのだろうか。

 私にとって、こんな狭い路地を渡ることは未知といえば未知だった。それが理由になるのかどうかは定かではない。でも、私はこの道が何処にどのように繋がるのかを知ってしまった今、もうここは未知の道には繋がらないのだろう。

 なんて、ちょっと考えてみたりもしたが、ひょっとすると、これまでのことは全部夢だったんじゃないだろうか。不可解なことも多く、突拍子もないことばかりで、変な夢を見ていたのだとしたらそれで全部が片付く。

 あのファンタジーあふれる世界で、私は一週間近く過ごしてきたと思うが、現実味のなさが今になっても後を引く。

 あの短くも長い異世界旅行も、ただの夢だった。
 そう思う方が自然なような気がして、そう思わなければ脳が潰れてしまいそう。

 きっと私は途方もなく疲れていたに違いない。
 探偵としての仕事を開業して、あらゆるプレッシャーを覚えていたのだ。
 それがストレスとなってしまい、おかしな世界に紛れ込んだのだと。

 それを、結論としたかった。

 疲労感を換金できるのなら老後までの貯蓄になるくらいはあるはずだ。
 急に立っているのも辛くなってきてしまった。
 私は、半ば足を引きずるようにして、その場を立ち去る。

 大丈夫。道は分かる。家に帰ることくらい余裕だ。
 知っている町だからこそ、分かっている町だからこそ、迷うことはない。
 見覚えのある建物、見覚えのある道を辿り、私は帰路につく。

 新海探偵事務所の看板が見えた。当たり前だが、何も変わった様子はない。
 まさか別な人間が所長をしていたり、はたまたガラスとかが割れていて既に何十年も経過していたなどといった不可解なことも起きていない。

 まだまだ出来たてほやほやの我が懐かしき事務所は、私の記憶のままの通りで、玄関を潜れば、何のことはなく私を迎え入れてくれた。

 買ったばかりの応接用のソファに体を任せる。今の今まで立って歩くことができたのが信じられないくらい、全身が重く、身動きがとれそうになかった。

 私は、新海ルック。二十二歳。探偵だ。
 色々な経緯があり、探偵事務所を設立するにまで至った。
 探偵の看板を掲げてからは、まだ大きな仕事は引き受けていない。

 記憶を反芻していく。私が誰であるかを再認識するように。

 ああ、もし、異世界であったことが全て夢だったのであれば、友達のお母さんが飼っていた白猫のエルメスちゃんを探しに行かなければ。
 私の探偵としての初めての仕事なんだから。

 でもまあ、今はちょっとだけ休ませてほしい。申し訳ないけれども、これからまた猫を追いかける余力はない。元気が出たら、猫の一匹や二匹、はたまた百匹だってとっ捕まえてやる。だから、今だけは泥のように休みたい。

 最後の力を振り絞って伸ばした手は、テレビのリモコンに届く。ソファに背中を預けながら、私はテレビの電源をつけた。
 これはある種、私の習慣みたいなものだ。こうやってテレビの音を垂れ流しにしながら、睡眠学習するように情報を耳に入れる。
 異世界にはテレビもなくてご無沙汰だったけど。

 しかし、ニュースというものは、常々私に新しい刺激を運んでくるものだ。
 思わず飛び起きてしまいそうになるくらい、衝撃的な情報が飛んできた。

 その情報とは、とどのつまり日付だ。
 ニュースアナウンサーが告げるその情報に差異がないのであれば、あるいは、それが録画されたものでないのであれば、私の中の記憶との齟齬が発生する。

 時間の帳尻が合わない。私がもしも、猫ちゃん探しの最中に白昼夢を見てしまっただけだというのであれば、そこに一週間分の空白など生まれようがない。
 これでは、まるで私が異世界に行ってきた証明ではないか。

「その顔を見たかったのニャ」
 何処から入ってきたのか、いつの間にそこにいたのか、テーブルの上で白猫がまたいやらしく笑っていた。




みんなのリアクション

 溶岩を拝める観光地にもならなそうな天然サウナのドワーフの里を後にしたのはそれから直ぐのことで、当初の目的であった代物を手にしたファイド刑事さんも、何処か放心したかのような様子で馬に跨がっていた。
 私とマコフさんはといえば、勿論行きの時と同じように自警団さんたちに護衛されながら馬車に揺られ、半日ぶりの青空を眺めている。
 盗賊の隠した埋蔵金を期待していたところもあり、こちらも放心状態に近い。
「残念だった……って言えばいいのかな。あはは……」
 マコフさんが苦笑しながら言う。一応あれからマコフさん自身も探知魔法なるものでアジト周辺も、はたまたドワーフの里全域もくまなく調査したらしいが、財宝に該当する痕跡は何も見つけられなかったようだ。
 伝説級の賢者と呼ばれる人物の調査で見つからないのであれば、もうどうしようもなく、帰路に着くほかない。
「でも現場について一瞬で全て見抜くなんて、ルックちゃん、あなた本当に一体何者なのかしら。魔法を使ってすらいないのに」
「私は、ただのしがない探偵ですよ。もの探しが得意なだけの女です」
 それ以上でも、それ以下でもない。
 剣も扱えず、魔法も使えず、こんなファンタジー世界には不釣り合いな職業だ。
「あら……霧が出てきたみたいね」
 ふとマコフさんが馬車の外に目を向ける。すると外の景色がうっすらと白く霞んで見えてきていた。ほんの少し前までは森の景色が広がっていたと思うのだけれども、徐々に白い絵の具をこぼしたみたいに掻き消えていく。
 太陽が昇っている時間帯なのに、霧なんて掛かるのだろうか。そんな疑問を脳裏に過ぎらせていると、私たちの乗っている馬車が急停止する。視界が完全に遮られてしまったせいだろう。
 これはしばらく立ち往生か。そう思って、もう何も見えなくなったその白い空間の向こうに目を向ける。
 何も見えるはずがない。
 その先には濃い霧が立ちこめているのだから。
 そのはずだったのだが、私の目には不思議な輪郭が映っていた。
「え……?」
 それを見間違いや、目の錯覚だったとは確信できなかった。
 霧の向こうに、白い猫が佇んでいる。そうとしか思えなかった。
「マコフさん、あそこ、あそこに、チェイサーが――!」
 私は何をしたつもりもなかった。窓越しにチェイサーの姿を見て、いち早くマコフさんにそれを伝えようとしただけ。それだけだったはず。
 振り向いたら、そこには誰もいなかった。
 いや、いなかったんじゃない。何もなかった。
 全てが白い闇に覆い尽くされていた。
 おかしい。何かが歪曲してしまっている。まるで夢の中のように。
 私はたった今、ドワーフの里から馬車に乗り、森の中を移動していた、そのはずだったのに、ここは一体何処だ。
 どうして私は立っている? 馬車の客席に座っていたはずなのに。
 どうして私は霧の中にいる? さっきまで馬車の中にいたはずなのに。
 先導していたファイド刑事さんは何処?
 後方を見ていた他の自警団の人たちは?
 私と馬車に同乗していたマコフさんは?
 どんなに頭を捻ろうとしても、解決しようのない謎が脳髄の奥に黒い染みをつけていくようで、疑問、疑念、疑心が渦を巻くばかり。
 まとまりのない私の頭は、その一点に焦点が定まった。
 この白い空間の中で、明瞭に見えた、あの白猫の姿。
 私は、か細い糸が途切れるような思いで、その影を追った。
 進んでいるのか、下がっているのかも分からないような浮遊感にも近いものに苛まれながらも、私は走っていた。距離感も時間も全てが狂っているみたい。
 まるでその白い影との距離は縮まっていないかのような錯覚に陥りかけたそのとき、私の目の前にその姿が明瞭のものとなった。
 白い霧の中、頭から白いローブを被った女性。てっきりマコフさんかと思った。同じような格好をしていたし、ついさっきまで一緒にいたのだから。
 でも、それはすぐに違うことを理解した。杖を持っていないからだ。
「チェイサー……ちゃん?」
 正面に立っていたその女性は、何も言わずローブの上をはだけて顔だけ露出させる。すると、白いもふもふの耳がそこに見えた。マコフさんと一緒だ。
「こんな深い霧の中で、迷子かナ?」
 いやらしく、からかうような笑み。間違いない。チェイサーだった。
 猫の姿しか見た記憶はないけれど、人間の姿に戻るとこんなに美人なのか。
 妹のマコフさんとは瓜二つなのに、表情のソレが妖しく、別人にしか見えない。
「ずいぶんと幻想的な登場の仕方をするのね」
「もっと複雑怪奇な演出をご所望だったかナ。あいにくと引き出しもそれほどないものでね。機会があったのなら今度は何か考えとくナ」
 取り留めもない世間話。違う。私はそんなことを求めているわけじゃない。
 目の前のミステリアスな白い女が、今にも霧の中に消えてしまいそうだった。
「できれば妹さんに迷惑の掛からないようにした方が賢明だと思うんだけど」
「あんな口うるさい奴は放っとけナ。おちおち散歩ものんびりできないナ」
 バツの悪そうな顔をする。そうやって他人にちょっかい出しているから妹さんが尻ぬぐいであれやこれやと苦労しているというのに、やはり関心はなさそうだ。
「ところで、チェイサーちゃん。この白い霧は演出なの? みんな何処かに消えちゃったんだけど」
「逆ナ、逆。ルック、お前の方が消えたんだ」
 そう言われてみれば、そんな気はしていた。近くにいたマコフさんも、ファイド刑事さんも、自警団の皆さんも、はてや馬車までも忽然と消失したのだから。
「チェイサーちゃんからお呼ばれするなんて考えてもなかったから驚いちゃった」
「喜んでいただけて幸いだナ」
 何処までが本心なのかも定かではないが、チェイサーはあまりにも愉快そうに笑ってみせる。どうにも悪意の透けた笑い方のようなのだが。
「さて、小娘。度胸の据わったフリはそろそろやめにするのナ」
 その笑い方、本当に悪魔のようで天使のよう。感情をマドラーでかき混ぜられるみたいな混濁に作り出す。まだ、チェイサーが猫のままの姿で、口を利かなかった方が都合よかったまである。
「私の泣き顔を見て笑いたいなら勘弁してほしいかな」
「まったく……人間はこれだから……」
 あなたも人間じゃないの? などと今、ツッコミを入れたらチェイサーに噛みつかれるのだろうか。白い猫耳を生やした女性を前に、言葉を抑える。
「でも、私、あなたにとっての道化は演じられたと思うけど?」
「滑稽であったことは褒めてやるのナ。おひねりがほしいのならもうひとひねりくらいしてほしかったところだが……まぁ、まけてやるのナ」
 猫の鳴き声のような声で言う。
「探しているものは、どうやら見つかったみたいだしナ」
 と付け加えて。
 チェイサーは言っていた。もしも元の世界に帰るための道しるべを教えてほしいのなら、この世界で何かを見つけだせ、と。
 それがどういうものなのか、何処にあるものなのか一つも答えてはくれなかった。
「どんな謎かけだったのか、答えを聞きたいのだけど」
「謎を解くのはお前の仕事だろう、探偵」
 やっぱり意地悪な猫だ。この妖しい笑みすら猫を被っているようにしか見えない。
 もう少し顔を睨み付けてやろうか。そう思ってもみたが、いつの間にやらチェイサーの体の輪郭はまたぼやけていて、はっきりしなくなっていた。
 一瞬でも目を逸らしたつもりはないのだけれど、白い霧の中に溶けていくかのように消えてしまい、後に残るのは何ものでもない白い白い闇だけだった。
 ※ ※ ※
 ※ ※
 ※
 次に私が気付いたとき、街の喧騒が耳を貫いていた。
 意表を突かれたと言ってもいい。身構える間もなく、霧は最初からなかったかのようにすっかり晴れていて、その代わりに目の前に広がるその光景は、見覚えのある街中でしかなかった。
 見上げればコンクリートジャングル。鉄の車が行き交い、けたたましいくらいに耳に馴染んだ音がようやくこの耳に戻ってきた感じがする。
 後ろを振り返ってみると、狭い路地しかなかった。それこそ野良猫が通りそうなくらい狭い場所で、人一人通るので精一杯。
 記憶を巡らせてみると、そういえば、この狭い路地だったはずだ。
 私は、探偵事務所を設立して初めての依頼、猫探しを頼まれて、卓越したその推理力によって見事場所を突き止めて、白い猫を見つけ出した。
 そうして追いかけていったのが、ここ。
 この路地を抜けたと思ったとき、私は異世界のあの場所に立っていたのだ。
 チェイサーは言っていた。道というものは未知の場所に繋がっているのだと。今になって思ってみてもやっぱりたちの悪い冗談のようにしか思えない。
 ここが、あるいは異世界への分岐点だったのだろうか。
 私にとって、こんな狭い路地を渡ることは未知といえば未知だった。それが理由になるのかどうかは定かではない。でも、私はこの道が何処にどのように繋がるのかを知ってしまった今、もうここは未知の道には繋がらないのだろう。
 なんて、ちょっと考えてみたりもしたが、ひょっとすると、これまでのことは全部夢だったんじゃないだろうか。不可解なことも多く、突拍子もないことばかりで、変な夢を見ていたのだとしたらそれで全部が片付く。
 あのファンタジーあふれる世界で、私は一週間近く過ごしてきたと思うが、現実味のなさが今になっても後を引く。
 あの短くも長い異世界旅行も、ただの夢だった。
 そう思う方が自然なような気がして、そう思わなければ脳が潰れてしまいそう。
 きっと私は途方もなく疲れていたに違いない。
 探偵としての仕事を開業して、あらゆるプレッシャーを覚えていたのだ。
 それがストレスとなってしまい、おかしな世界に紛れ込んだのだと。
 それを、結論としたかった。
 疲労感を換金できるのなら老後までの貯蓄になるくらいはあるはずだ。
 急に立っているのも辛くなってきてしまった。
 私は、半ば足を引きずるようにして、その場を立ち去る。
 大丈夫。道は分かる。家に帰ることくらい余裕だ。
 知っている町だからこそ、分かっている町だからこそ、迷うことはない。
 見覚えのある建物、見覚えのある道を辿り、私は帰路につく。
 新海探偵事務所の看板が見えた。当たり前だが、何も変わった様子はない。
 まさか別な人間が所長をしていたり、はたまたガラスとかが割れていて既に何十年も経過していたなどといった不可解なことも起きていない。
 まだまだ出来たてほやほやの我が懐かしき事務所は、私の記憶のままの通りで、玄関を潜れば、何のことはなく私を迎え入れてくれた。
 買ったばかりの応接用のソファに体を任せる。今の今まで立って歩くことができたのが信じられないくらい、全身が重く、身動きがとれそうになかった。
 私は、新海ルック。二十二歳。探偵だ。
 色々な経緯があり、探偵事務所を設立するにまで至った。
 探偵の看板を掲げてからは、まだ大きな仕事は引き受けていない。
 記憶を反芻していく。私が誰であるかを再認識するように。
 ああ、もし、異世界であったことが全て夢だったのであれば、友達のお母さんが飼っていた白猫のエルメスちゃんを探しに行かなければ。
 私の探偵としての初めての仕事なんだから。
 でもまあ、今はちょっとだけ休ませてほしい。申し訳ないけれども、これからまた猫を追いかける余力はない。元気が出たら、猫の一匹や二匹、はたまた百匹だってとっ捕まえてやる。だから、今だけは泥のように休みたい。
 最後の力を振り絞って伸ばした手は、テレビのリモコンに届く。ソファに背中を預けながら、私はテレビの電源をつけた。
 これはある種、私の習慣みたいなものだ。こうやってテレビの音を垂れ流しにしながら、睡眠学習するように情報を耳に入れる。
 異世界にはテレビもなくてご無沙汰だったけど。
 しかし、ニュースというものは、常々私に新しい刺激を運んでくるものだ。
 思わず飛び起きてしまいそうになるくらい、衝撃的な情報が飛んできた。
 その情報とは、とどのつまり日付だ。
 ニュースアナウンサーが告げるその情報に差異がないのであれば、あるいは、それが録画されたものでないのであれば、私の中の記憶との齟齬が発生する。
 時間の帳尻が合わない。私がもしも、猫ちゃん探しの最中に白昼夢を見てしまっただけだというのであれば、そこに一週間分の空白など生まれようがない。
 これでは、まるで私が異世界に行ってきた証明ではないか。
「その顔を見たかったのニャ」
 何処から入ってきたのか、いつの間にそこにいたのか、テーブルの上で白猫がまたいやらしく笑っていた。


おすすめ小説


おすすめ小説