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ー/ー 店の休日を利用してわざわざ用意してもらった場である。気が進まないからといって、むげに断ることはできない。コートの裾から忍び込むつめたい風に震えながら、愛子は駅前の居酒屋まで歩いてゆく。
コンビニの前を通り過ぎた時、苗字を呼ばれた。空耳かと思ったが、気のせいではなかった。黒いロングコートの藤田が後ろから歩いてきて、隣に並んだ。
「ちょうどこちらへ来たところです。よろしければご一緒させてください」
愛子は、「はい」と短く応じて前方を見据える。沈黙のなか考えたのは、明日切り出すつもりでいた話のことだ。あらかじめ伝えておく良い機会だと思い、口を開いた。
「藤田店長代理。少しだけ、お話してもよろしいでしょうか? 盗難事件の犯人のことです」
バス待ちをしていた大学生らしきグループが、わあっと歓声を上げて騒いでいる。せっかく勇気を出したが水の泡だ。愛子はうつむき、ため息をつく。
しかし藤田は足を止め、はっきりと愛子に問いかけた。
「盗難事件の犯人をご存知なのですか?」
喧噪に紛れて聞こえていなかっただろうと思い込んでいた愛子は驚いて口をつぐむ。藤田はかすかに笑い、正直に打ち明けた。
「実はとてもよく聞こえるんですよ。耳が遠いふりをして、潜入捜査していたのです。他の従業員のみなさんにはまだ内緒にしていてください」
「かしこまりました」愛子は驚きながらもうなづき、自らが抱えていた秘密を告白した。「先ほどのお話ですが、私は証拠の録音データを持っています。初めはパワハラの証拠を集めるつもりでいたのですが、その過程で偶然、録れてしまいました」
「それはいつ録れたものですか?」
「二週間前です」
「ちょうどわたくしが店長代理としてやってきた日あたりでしょうか?」
「おそらく同日かと……。盗難被害がなくなったからといって、こちらの都合でお話するのが遅くなってしまい、申し訳ありませんでした。録音データは明日、提出いたします」
「どんな告発にも胆力が必要です。ですから遅いということはありません。当該人物の処分は、決して軽くないものになるでしょう。できるだけ速やかに決定し、皆さんに周知いたします」
藤田の言葉はありがたい。しかし言葉の説明だけにも関わらず信用を得られたのはなぜだろう。愛子は疑問を抱きながら訊ねた。
「恐れ入りますが、話の内容をすぐに信じていただけたのはどうしてでしょうか?」
「杉崎店長から特定の人物が疑わしいという報告があり、裏付けを取るために調べていたからです。同一人物によるパワハラについては、他の社員からも相談がありました。確認が取れ次第、会社として謝罪する方向で話を進めていたところです」
「そうだったのですね……」
たった一人の人間のために、どれだけの人々が翻弄されてきただろう。闘う前からあきらめ、辞めていった同僚は数え切れないくらいたくさんいる。井村にどんな処分が下されるかまだわからないが、少なくとも今よりは働きやすい環境になるはずだ。明るい未来を思えば、苦労も報われたというもの。重く沈んでいた気持ちがわずかに上昇するのを愛子は感じた。
どちらからともなく歩き出す。居酒屋は目と鼻の先である。藤田は世間話でもするようにさりげなく言った。
「さて、水野さん。あなたは本当にイチマルスーパーをお辞めになるつもりですか?」
愛子は目を見張ったが、藤田が本社で経理に携わっていることを思い出し、観念して答えた。
「離婚して苗字が変わったのを機に、知らない土地に引っ越すつもりです」
「もしまだ行き先が決まっていないのであれば、近いうちに本社で社員の採用試験が行われるはずですから、受けてみてはいかがでしょう」
暗に井村の席が空くことを含んでいるのだろうか。愛子は「考えてみます」と答え、静かにほほ笑んだ。
了
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