「それでは、いよいよお披露目と参りましょう! 空の女帝こと美人画家、ルシア・ゴルトシュタインさんの新作『|Le Silence d’Azur《静寂のアジュール》』の公開です」
号令と共に館内スピーカーから華々しいファンファーレが響き、正面に飾られていた絵画から深紅のカーテンが引き下ろされる。
豪華な額縁で飾られた1枚の絵が露わになると、集まった人たちから歓喜のリアクションが上がった。
ここは私が生まれ育ったベルギー・オステンド街にある現代美術館。入り口が狭い割りに中は意外と広々としていて悪くはないけど、地元じゃなかったら絶対に来ない地味な場所だ。
今日は私の新作発表兼個展が開かれていて、いつもより多くの人がこの場所に足を運んでいた。海辺の美しいリゾート地だから、観光客の姿もチラホラ。
さて。今回私が描いた新作は、鏡張りの風景が美しい絵だ。舞台は南米チリにあるアタマカ砂漠。風のない静かなチャクサ湖に、|青《アジュール》に染まったアンデス山脈……あの素晴らしい景色を見事に再現したものだ。
観衆からの評価は高く、専門家からも「傑作だ」という言葉をかけられた。ま、私の手にかかれば当然よね。
「……で、エミール。ちゃんと買ってきたの?」
新作発表と囲み取材が終わったところで、私は近くにいた若い男へ話しかけた。私より年下で細身の青年は、白いクラフト紙に包まれたあるものを差し出す。
「か、買ってきましたっ。どうぞ」
「ありがと……ってアンタ、これダークチョコのソースじゃないのよ! ホワイトって言ったでしょう!?」
受け取った棒状のベルギーワッフルを見て私は激昂した。
エミールは私の助手だ。どうやら私に憧れているらしく、弟子入りしたいってウルサイから仕方なく雇ってみたけど、これが仕事の全くできない役立たずで手を焼いている。
「す、すみません……」
「ったくアンタっていっつもそうね! ウユニ行きの航空チケットだって……ッ」
捲し立てるとエミールは体を小さくして何度も頭を下げた。実は今回の絵は当初、今が鏡張りのベストシーズンであるウユニ塩湖を描くつもりだったのだ。ところが彼が航空チケットを間違えて購入したせいで、アタマカへ行くことになってしまった。
幸いにもウユニと似た景色に出会えたことで、イメージと同じ満足のいく作品が描けたものの、危うく今回の新作は見送りになるところだったというわけ。
「つ、次はちゃんと買いますからっ! 今度はどちらへ行かれる予定ですか? ルシアさん」
エミールの問いを聞き流しながら、私はほろ苦いソースがかかったワッフルにかぶりついた。1月の寒空に出来たてのワッフルは格別だ。本当はホワイトチョコの甘さが欲しい気分だったのに……。ま、帰ってきたら食べなきゃ気が済まない大好物だから、何だって食べるけど。
「……ルシアさん?」
なかなか応答をしない私に〝怒らせた〟と不安になったのか、エミールは再度恐る恐る話かけてきた。
怒ってるに違いはないけど、返事をしないのはまた別。だって次の行き先は何も決めてないんだもの。
何を隠そう私は今、自分が描く絵に飽き始めていた。私の描く絵はそのほとんどが、キャンバスの3分の2を空が占める風景画だ。これは、ある画家の影響を受けている。
『ウジェーヌ=ルイ・ブーダン』――19世紀フランスの画家で、青い空と白い雲の表現に長けており、仲間内から『空の王者』と称賛されていた。
12歳の時、パリの美術館で初めて彼の作品に出会った。元より青色が好きな影響で空が好き、というのもあり、数々の哀愁溢れる空を描くブーダンの絵は私の心を鷲掴みにしたのだ。
私もこんな絵が描きたい……!
生まれて初めて受けたその衝動を、すぐに行動へ移した。
父にせがんで油絵の具を買い揃え、絵画教室に通い、世界中の色々な空を描いてきた。地元オステンドの海岸を始め、スペイン・セゴビアのアルカサル、エジプトのカルナック神殿、モルディブの南マーレ環礁。他にもたくさん!
お陰で今はブーダンの意思を継承した『空の女帝』とまで呼ばれるようになった。
でも、正直もう飽きた。
「あのー……」
「ウルッサイわね! そんなに決めてほしければ、アンタが決めなさいよ! 今まで見たことのない空を私に見せてくれれば、ちょっとは見直してあげるわ!」
そう啖呵を切ると、エミールは分かりやすく狼狽えた。
仕方ない、ヒントくらい出してやるか。
「そうね。彩雲でも見つければ、また新しい世界が開けるかしら?」
「さ、サイウン?」
初めて聞いた単語と言わんばかりに、彼は目をパチクリとさせた。でも残念ながら、これ以上の面倒は見てらんないので「自分で調べな」とデコピンをお見舞いして突き放す。
私の助手を務めるなら、これくらいは円滑にやってもらわないと。良い機会だから試させてもらうわ。
「じゃ、見つけたら教えてね~」
困惑の声を上げるエミールに背を向け、私は美術館を後にした。
――でも、それから数日後。
「ったく、何やってんのよアイツは!?」
彩雲を探すように指示をして以来、エミールからの連絡は一向に来なかった。それどころかこの数日間、彼の姿すら見ていない。
「まさか諦めて逃げたんじゃ……」
あり得るわ、あの子メンタル超弱そうだし。
けど私は難題を出したつもりなどない。
彩雲は大気光学現象だ。太陽光が|巻積雲《けんせきうん》(いわし雲など)の小さな水の粒に当たり、|回折《かいせつ》(光が回り込む現象)することによって色が分かれて見える、虹を雲に塗り広げたような光景である。
珍しさから『吉兆の前触れ』なんて言われてるけど、実は大してレアな現象ではない。コツさえ掴めば一年中頻繁に見ることができるものなのだ。
そんなのは今の時代、調べればすぐに分かるわけで、1,2日以内に連絡が来るだろうと思っていたのだけれど……やっぱダメだわ、アイツ。
「も~我慢できないッ、自分で探しに行くわ!」
エミールへ期待するのを止めて、私は準備してあったリュックを背負い家を飛び出した。今日は良い天気だし、巻積雲さえあればすぐに見られるはずだわ。
そう高をくくってスマホに雲レーダーを表示させ、巻積雲が発生している場所を目指した。見つけたら写真撮って、エミールに「もう結構」って送りつけようかしら。
ところがレーダーが示す場所に辿り着いても、雲ひとつさえ見られなかった。なによコレ、全っ然当てにならないわね。
オマケにリュックが重くて肩も痛くなってきた。こんな時|エーミル《アイツ》がいれば、全部持たせて楽チンなのに。
「誰よ、彩雲なんていつでも見られるって言った奴! だったら今すぐ私の前に、発生させてみなさいよ――ッ!」
腹が立つあまり、私は空に向かってその怒りをぶちまけた。でも瞬間的に我へ返り、慌てて辺りを見渡す。幸い自分以外の人影はなく、大きすぎる独り言は誰にも聞かれていなかったみたいだ。
危ない、危ない。私ほどの著名人がこんなところで喚いている姿なんて見られたら、SNSで笑いモノにされちゃうわ。
「あぁ、確かに滑稽だったね。文句を言ったって出ないものは出ないのにさ」
その声は、誰もいないと思っていたはずの空間に凜と響いた。小馬鹿にするような態度が癪に障って振り返る。でも視線の先にはやはり誰もいなくて不思議に思っていると、再びクスクスと楽しそうに笑う声が聞こえた。
そこでようやく声の出所が頭上だと理解して視線を少し上げると、風に靡くコバルトブルーのマントが目に入ったのだ。
お伽噺から飛び出したような美少年。そう称するに相応しい綺麗な顔立ちの男の子が、空の中に堂々と浮かんでいる。
怒りは一瞬にしてどこかへ吹き飛び、私は唖然と彼を見上げた。
「やぁ。君が|空《僕》を見上げる姿を、色々なところでよく見かけていたよ。〝空の女帝〟って言われているんだろう? 僕みたいに空の称号で呼ばれてる君とは、一度話してみたいと思ってたんだ。ようやく天気の願いを望んでくれたね」
どうやら相手は私を知っているらしい。画家として有名だから別に変じゃないけど、私は初めて見た子だった。こんな透明感のある子、一度見たら忘れるはずがないもの。――っていうか、それ以前に!
「アンタ、どうやって浮いてるのよ!?」
「どうって、僕だって〝空の番人〟なんだから、浮くぐらい普通でしょ。……あ、もしかして君はできないの? なら僕の方がずっと格上だね。君は僕を敬って〝メネル様〟と呼ぶべきだ」
空の番人……何よコイツ、一丁前にマウント取ってくるじゃない。大体、普通は浮けないもんなんですけど!? でも実際浮いてるってことは、からかってるわけじゃないってことかしら。
とりあえずこの子が〝メネル〟っていうことは分かったけど、子供相手に様付けなんてするもんですか。再び沸々とした苛立ちが込み上がって軽く睨みつけると、彼は怯むどころか不敵の笑みを口元に浮かべた。
「へぇ~、いいのかな? 僕にそんな態度をとって。せっかく|女《・》|帝《・》|サ《・》|マ《・》の願いを叶えてあげようと思ったのに」
「ど、どうゆうことよ」
メネルは左耳のイヤリングをキラリと光らせ、ゆっくりと地上に舞い降りた。彼の瞳は、絵の具を何十にも重ねたような多彩な虹彩だ。その美しさに心を奪われ、自然と身体が動かなくなってしまう。
まるで……そう、初めてブーダンの絵を見た時のように。
「女帝サマは彩雲をご所望なんだろう? 彩雲そのものは現象だから出せないけど、確実に見られる発生条件を揃えてあげるよ。僕にはその権限があるのさ」
甘い悪魔の囁きのように私を惑わせるメネル。とても信じがたい話だけど、もしこれが本当なら『私は空の力を手に入れて彩雲を出し、この絵を描くことができた』と言えば、いつも以上に話題となるかもしれない。その上、空の女帝としての品格も上がるはず!
私は直感でここまできた。これは逃しちゃいけないチャンスだわ。
ひとまずここは、あの生意気な子供を立てておきますか。そう思って私はメネルに深く頭を下げた。
「メネル様、先ほどは失礼しました。どうか私の願いを叶えてください」
私の改まった態度に、メネルは目を細めて意味深に大きく息を吐き、そっと手を差し伸べた。
高天井にヒールの音が響く。微睡みの中で辺りを見渡すと、視界に飛び込んできたのは鮮やかなスカイブルーに、綿のような雲が優雅に流れる景色だった。
思わず息を飲んだ。透明な四角い部屋に囲まれてるみたいだけど、もしかして私は今、憧れ続けた空の上にいるのだろうか。
「そうだよ。お目覚めかい? 女帝サマ」
わざとらしく私を女帝様と呼ぶアルトの声に振り返ると、あの金髪美少年が立派な椅子に腰掛けて私を見下ろしていた。〝そうだよ〟という言葉が気になったけど、彼が「さて」と続けるのが早くて聞き返すタイミングを逃した。
「じゃあ早速、そこに契約書があるからサインをしてよ」
「契約書?」
そっか、私はメネルに彩雲の願いを叶えてもらうんだった。彼の豪華すぎる椅子とは違い、自分の前にはシンプルな机と椅子が置かれている。促されるまま椅子に腰掛けると、契約書に目を通した。
そこで初めて知ったのは、契約にはある報酬が必要ということだ。内容は『依頼主の一番好きな食べ物』。
一見すると簡単で、大きな損もないように思えるこの報酬。私の好きな食べ物はもちろんベルギーワッフルだけど、報酬として買ってこいってことかしら。そんなのエミールに頼んじゃえば――。
「報酬のことかい? 残念だけど僕と契約すれば、君はその食べ物をもう二度と口にできなくなるよ」
「……なんですって?」
そんな話、ここに来るまで黙っておくなんて、やっぱり意地汚い生意気な子供ね。彩雲の代償がワッフル……、だとしたら私のほうが大損じゃない! と、手に持っていた羽ペンを机の上に叩きつけた。
「話にならないですわ、メネル様。私の大好きなワッフルを奪うのに、いつでも見られる彩雲が対価じゃ釣り合いません」
「へぇ。ならどうする? 別に僕は契約を止めてもいいんだよ」
メネルは落胆することもなく淡々と言いのける。何だかここで引き下がったら、自分の負けのような気がした。ワッフルを失うのは嫌だけど、要するにそれ以上の対価を貰えばいいってことよね。……それなら私は、もっといいものを手に入れる。
「いいえ、なら彩雲ではなく〝環水平アーク〟の発生条件を揃えるってのはどうかしら?」
「環水平アーク?」
ここでようやく、メネルの綺麗な顔に怪訝の色を宿し、私はしたり顔を浮べた。
それは彩雲よりもずっと稀な現象だ。環水平アークは、巻雲などの高層にある氷晶雲へ太陽光が屈折することで発生する。特に氷晶の形状と向きが揃っていること、そして雲が太陽の真下で水平に広がっていることが条件だ。それが揃わなければ虹色の帯として現れることはない。
更に太陽高度が58度以上である必要もあり、この条件は夏至前後の限られた期間にしか満たされない。こうした厳しい条件が重なるため環水平アークは滅多に見られず、ましてや真冬のこの時期に出現なんて有り得ないのだ。
「環水平アークが出れば、私は今までで一番いい絵を描いて、春のニューヨークのコンクールに出すわ。そこで最優秀賞を獲ったら、褒美としてメネル様には私の助手になっていただきます」
私の突然の爆弾発言に、メネルは更に不機嫌そうに顔を歪めた。
「どうして僕が? 君にはいい助手がいるじゃないか」
「いやですわ、|エミール《アレ》はただの役立たずですの。貴方が助手になれば、私は天気を思うままに操れるじゃない。私は大好物を失うのよ、それくらいの対価がありませんと」
そう、私は彼自身を手に入れれば良い。顔がいいから隣に立たせても絵になるし、エミールより優秀な助手になるはず。我ながら名案ね。
今回のコンクールの審査員はブーダンの熱烈なファンで、私の絵にも好評を貰ったことがある。何より自分の腕には自信があった。実際に見たとする環水平アークを描けば、最優秀賞は十分狙えるはずだ。
すると暫く呆然としていたメネルは少し俯き、肩を振るわせてクツクツと、そして次第に高らかに笑い始めた。あまりに奇怪で一瞬、背筋が凍る。
「面白いね、君! 僕を手に入れようとする人は初めてだ。いいよ、その話乗った」
ふんぞり返るように座っていたメネルは、興味津々に身を乗り出して私を見た。
意外、断られると思ったのに。
「それなら流石の僕も太陽高度までは動かせないから、この番人の間でその場所へ連れていってあげるよ。その後は君の好きな位置から、ここで思う存分に描くといいさ。書き終えるまでは君に番人の間を動かす権利をあげるから」
「え……、そこまでしてくれるの? 私が勝てば貴方は私のモノになるのよ?」
メネルにとっては不利な条件を叩き出したつもりなのに、何故か彼は「全力でやらなきゃ面白くない」とかなり好戦的だ。何だか不気味だけど、ここは素直に甘えるとしよう。空の上という最高の場所で絵が描けるなんて二度とないでしょうから。
「ありがとう。私、絶対貴方を手に入れるわ」
「うん、君の隣に立てるのを楽しみにしてるよ」
私は意気揚々と契約書にサインをし、その場で絵を描く準備を始めた。するとメネルは早速条件を整えるために、別の場所に移動するという。背もたれに掛けてあったあの青いマントを羽織り、出掛ける準備を始めた。
でも、メネルはどうして私が〝隣に立たせたい〟ことを知ってるのかしら。もしかして彼は――。
「そうだ、|ル《・》|シ《・》|ア《・》|さ《・》|ん《・》。知ってる? 世界で一番好かれている色は、僕たちも好きなブルーなんだ。……じゃあ、世界で一番嫌われている色は?」
唐突な質問に、私はまた彼への問いに出遅れてしまった。
そんなこと急に聞かれても……。答えに戸惑っていると、メネルは唯一部屋の奥にある扉を開いて、満面の笑みを浮べた。
「くすんだダークブラウン、なんだって。その色は使わない方がいいね」
「え、えぇ……そうね」
私の気の抜けた返事を聞き、メネルは楽しそうに扉を閉めた。
1時間ぐらい経った頃だろうか。番人の間と言われるこの部屋から見えていた景色が、一瞬にして別の景色に変貌した。どうやらこの部屋は瞬間移動ができるらしい。
視線の先へ徐々に見えてきたのは、真夏のような輝きの太陽と、薄らと浮かび上がり始めた七色の光。地上からよく見るそれは弧を描いた形だけど、今は太陽の真下で横一直線に伸びている。
「すごい……、キレイ」
透明の壁に貼り付き、息を飲んでその光景を見る私。
環水平アーク――幻の虹が、私の目と鼻の先に姿を現した。
私は準備していたキャンバスに早速油絵の具を広げ始めた。大胆に、時には繊細に筆を動かして青々とした空を描き、そこに太陽とアークを加えていく。何だかもう少し近づいてみたいなぁ、と思った瞬間、部屋がグンと動いて丁度良いポイントで止まった。
……そうか。私の意思で動かせるんだったわ、この部屋。思い出したらば右から左から、自由に動かしてアークの色味とかすれ具合をよく観察し、丁寧に色を塗り重ねていった。
私は夢中になって絵を描いた。
そう、文字どおり夢中になって。
「……あれ?」
それに気づいたのは3時間ほど経過した時だった。目がヒリヒリとして、視界が朧気に映って見えた。でも私は早く描かないとアークが消えてしまうと思い、どんどん距離を縮め、食い入るように見続けていたのだ。
アークと共に、煌々と輝き続ける太陽を。
「う……っ、あぁ! メネル……、誰かぁッ!!」
焼けるような目の痛みに耐えきれず、持っていた筆が手からこぼれ落ちてカランと音を立てる。次第に目の前が真っ暗になって、私はその場に倒れ込んだ。
そして一刻も太陽から離れなければという私の意思を汲み、番人の間は勢いよく空を急降下し、海の中へと沈んだのだ。
酷い痛みに薄ら目を開ける。ここはどこ? 何でこんなに目が痛むの? でも体が重くて、立ち上がることすらできない。
その時、ポケットに入っていたスマホが鳴り、震える手で取った。
「誰か、たすけ――」
「ルシアさん! 見つけましたよ、彩雲! 貴女が安全に絵を描ける広場で、とても綺麗に出てるんです。今どこですか? すぐに迎えに行きます!」
この声はエミール?
あぁ、そうか。彼はずっと、私が絵を描ける最適の場所を探してくれていたんだ。
「ごめん、エミール。私……」
「ルシアさん? どうして泣いてるんですか?」
何処で描いたか分からない絵が、私の胸元に抱かれている。それはきっと空の絵だろうけど、どんな空かも覚えてないければ、確認する術もない。
私の目には大好きな青も、赤も緑も映っていない。
映るのはくすんだ色のダークブラウンだけ。
それ以外の色は、見えない。
***
ベルギーワッフルには2種類あるらしい。クリスピーなブリュッセルと、表面をカラメル化させたリエージュ。僕が手に入れたのはクリスピータイプだね。サクサクだけど中はふんわりとして、チョコソースがいい塩梅のアクセントになってる。
彼女は最後に描いた絵をコンクールに出さなかった。完成したかどうかも分からない絵を、自分の作品として出すわけにいかないってさ。彼女の助手は「素敵な絵だから」って泣きながら推してたのにね。
あの助手、優秀だよ。ウユニ塩湖は標高が高い場所にあって、高山病を発症する観光客がほとんどなんだ。だから彼女を守ろうとして、行き先をコッソリ変えたんだから。そうして彼女が快適に絵を描けるよう、いつも配慮していた。
「え、僕は悪くないよ? 太陽に近づきすぎた彼女が悪いんだ」
生憎、僕は|ま《・》|だ《・》助手じゃないから、そんな配慮は必要ない。でも空を制せなかった君は〝空の女帝〟に相応しくないよ。生意気な子供の僕に返してもらうね。
だって空は、僕だけのものなんだから。
彼女が個展を開いていた美術館では、今は別の人の写真展が行われている。その人の代表作は美しいモルフォ蝶が群れを成している写真だ。
あの神々しい青も、もう君の目には見えないんだね。
――すごく、残念だ。