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第三話

ー/ー



 次の日も、その次の日も、彼女はここに来た。
 夕暮れ時に姿を見せた日は、学校帰りに寄ったのだと言っていた。
 「サボりは感心しない」と貴方が言ったから、と小さく笑いながら付け加えて。
 雨の日も、彼女は来た。濡れたらいけない、と白い傘を少し傾けてくれた。
 少し激しくなった川の流れに耳を傾けるのも、不思議と心地良かった。

 そうして彼女はいつも色々なことを話してくれた。学校のこと。家のこと。友人のこと。
 特に楽しそうに話してくれたのは、本の話だった。こんな本を読んだ、この本にはこう書かれていた、そうやって嬉々として話してくれた。
 けれど、どれも何処か遠い昔話のように聞こえた。寝かしつけられる前に、何度も聞かされたような、そんな昔話……。

 そんな日々が続いて、気がつけば夏も終わりが近づいてきた。
 蝉の声も次第に薄れていき、緑道に寂しさが漂い始めていた。

「そういえば、今度の日曜日、隣町で花火が上がるそうですよ」

 空にほんのり日暮れの色が見え始めた頃、いつもの会話の終わり際に、彼女はふと思い出したようにそう言った。
 ふうん、と僕は相槌を打つ。

「私、良い場所を知っているの。良かったら、一緒に見ない? 貴女と話したいこともあるの」

「僕と?」

 ええ、と彼女は目を輝かせながら頷いた。
 彼女は僕なんかと花火を見て楽しいのだろうか。本当は仲の良い友人や恋人といる方が楽しいだろうに。

 それでも――

「わかりました。見ましょう、花火」

 答えは、決まっていた。
 その瞬間、彼女の顔がぱっと明るくなった。

「それじゃあ、十九時にここで待ち合わせましょう。私、うんとおめかししてくるから」



 日曜日。僕はベンチに腰掛けていた。
 夕日が木々を赤く染め、ひぐらしの声が物悲しい音色を奏でている。冷たいそよ風が緑道を吹き抜け、夏なのに秋のような寂しい空気が漂っていた。

 日も落ちていき、辺りは青黒い影に包まれていく。規則正しく立ち並んだ街灯が一瞬ちかちかと明滅したかと思うと、ぼんやりとした白い光で足元を照らし始めた。

 時計が十九時を回った頃、カツカツと地面を叩く音が聞こえた。

「お待たせ」

 浴衣姿の彼女は、小さな巾着袋を胸の前に提げ、にこりと笑った。
 白地に青い朝顔が、夕闇の中で一際明るく浮いて見えた。

「わざわざ浴衣で?」

「おめかししてくるって言ったでしょう?」

 浴衣を見せびらかすように、彼女はくるりと一回転してみせた。袖がふわりと舞う。
 あどけない仕草に、僕は笑みをこぼす。

「それじゃあ、花火見に行きましょうか」

 そう言ってベンチから立ち上がろうとする僕を、「待って」と制止しながら彼女はいつものようにベンチに腰掛けた。

「ここが特等席なの」

 彼女はいつものように隣に腰を下ろす。
 特等席。そうは言っても、天井には木の枝があちこち伸びていて空は狭くなっている。とても綺麗に花火を眺められるとは思えない。

「花火なんて見えそうもないって、そう思っているでしょう?」

 僕は頷く。
 彼女は小さく息を吸い、空を見上げた。

「見ていてください。直にわかりますから」

 促されるまま、僕も空を見る。いつの間にかひぐらしの声は止んでいた。
 遠くからひゅるひゅると甲高い音が響いた。白い糸が尾を引きながら僕らの頭上へ差し掛かり、爆ぜた。赤や青や色とりどりの光彩が辺りに飛び散り、腹に響く轟音が後から追いかけてくる。夜風に焦げた火薬のにおいが漂っている気がした。

 僕は息を飲んだ。視界を狭める枝葉は夜空を囲う額縁となり、その中心に大輪の花が咲く。それは刻々と変化し、何枚も絵画を見せられているようだった。

「私ね……」

 不意に、彼女が口を開く。

「私ね、人を死なせてしまったの」

 そう言って空を見上げる彼女の眼は、花火の向こうを見ていた。

「人を?」

「言ったでしょう? 私は悪い子だって。……私の話、聞いてくれる?」

 僕はこくりと頷く。

「その人はね、私の大切な人だったの。初めて会ったのは去年の夏、この緑道で……。その人はこのベンチに座っていたわ。あまりに酷い顔をしていましたから、お水を渡して、それから少しお話をしたの」

 彼女はふふ、と笑いながらその人との思い出を語った。
 僕はただ、彼女の話に耳を傾ける。何だか、他人事ではないような気がした。

「その人のお話は面白かったわ。何でも知っているの。でも、それを鼻にかけるようなこともしないで、ただ、話をしてくれた。ただ、やることが無くて本を読んでいただけだよって謙遜していたわ……。私はすぐにその人に惹かれた。それで私、一つ過ちを犯してしまったの」

 彼女は自分の下駄を眺める。

「……私ね、約束してしまったの。これからもここで会いましょうって」

「それが、過ち?」

 彼女は悲しい顔をこちらに向けた。

「そう。その人はね、何度もここへ来てくれたわ。約束通り。……病院を抜け出してね」

 ああ、そういうことか。僕は〝過ち〟の意味を理解した。

「その人は日に日に弱っていったわ。そうして、夏が終わる前にばったりとここへ来なくなった」

 どうして僕は緑道にいたんだろう。どうしてこのベンチに腰掛けたんだろう。どうして、僕は彼女に惹かれたんだろう。
 そんな問いの一つ一つにかかっていた霧が、少しずつ払い除けられていく。

「実はね、最後に会った日、その人とまた一つ約束をしてしまったの。それはね――」

「一緒に花火を見に行こう」

 僕は彼女の言葉を遮るように言った。彼女は驚いた様子でこちらを見ている。
 全て思い出した。そうだ――

 幽霊は僕だった。

 そうか、あの時、彼女が蒼白な顔を見せたのは、悲しい表情を見せたのは、僕を見たからか。

「僕は、もう死んでいたんだね」

「思い……出したの?」

 うん、と返事をする。彼女は、じっとこちらを見つめていた。何か言おうとしては、言葉を飲み込む。
 ぱちぱちと小さな花火が弾ける音がする。

「私ね……ずっと後悔してた。私が、貴方の未来を奪ってしまったんだって。私があんな約束しなければ、貴方は死なずに、もしかしたら今でも生きていてくれたんじゃないかって……」

震える声で、彼女は言った。

「君はずっと、自分のせいで僕が死んだって、そう思っていたんだ。でもね、それは違うよ。僕はね、君に会うまでずっと、生きていなかったんだ。死んでいないだけ。ただ病室で食べて寝て咳をして……それが、君と出会って、君はこんな僕の話を楽しそうに聞いてくれて……僕はあの瞬間、生きていた。確かに、生きていたんだ。君は僕を生かしてくれたんだよ」

 途端に、彼女はぼろぼろと涙をこぼした。堰を切ったみたいに、溢れていた。
 僕はその顔に手を伸ばしたけれど、その手は空を切った。

 彼女が落ち着くまで、じっと側にいた。触れられないけれど、その白く細い手に僕の手のひらを重ねた。温もりが伝わってくるようだった。

「ねえ、憶えてる? もう一つの約束」

 すすり泣く彼女に、僕はそっと声をかける。

「来年、桜を見ようって。僕ね、桜並木を見たことが無いんだ。だからさ、来年一緒に見たいんだ、君と」

 涙でぐしゃぐしゃになった顔で、彼女は返事をする。

「うん、一緒に見よう。約束だよ、絶対に、絶対に――」

 最後の花火が咲いた。その光は、ベンチに座る少女と、その隣の空白を照らし、そして散っていった。


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 次の日も、その次の日も、彼女はここに来た。
 夕暮れ時に姿を見せた日は、学校帰りに寄ったのだと言っていた。
 「サボりは感心しない」と貴方が言ったから、と小さく笑いながら付け加えて。
 雨の日も、彼女は来た。濡れたらいけない、と白い傘を少し傾けてくれた。
 少し激しくなった川の流れに耳を傾けるのも、不思議と心地良かった。
 そうして彼女はいつも色々なことを話してくれた。学校のこと。家のこと。友人のこと。
 特に楽しそうに話してくれたのは、本の話だった。こんな本を読んだ、この本にはこう書かれていた、そうやって嬉々として話してくれた。
 けれど、どれも何処か遠い昔話のように聞こえた。寝かしつけられる前に、何度も聞かされたような、そんな昔話……。
 そんな日々が続いて、気がつけば夏も終わりが近づいてきた。
 蝉の声も次第に薄れていき、緑道に寂しさが漂い始めていた。
「そういえば、今度の日曜日、隣町で花火が上がるそうですよ」
 空にほんのり日暮れの色が見え始めた頃、いつもの会話の終わり際に、彼女はふと思い出したようにそう言った。
 ふうん、と僕は相槌を打つ。
「私、良い場所を知っているの。良かったら、一緒に見ない? 貴女と話したいこともあるの」
「僕と?」
 ええ、と彼女は目を輝かせながら頷いた。
 彼女は僕なんかと花火を見て楽しいのだろうか。本当は仲の良い友人や恋人といる方が楽しいだろうに。
 それでも――
「わかりました。見ましょう、花火」
 答えは、決まっていた。
 その瞬間、彼女の顔がぱっと明るくなった。
「それじゃあ、十九時にここで待ち合わせましょう。私、うんとおめかししてくるから」
 日曜日。僕はベンチに腰掛けていた。
 夕日が木々を赤く染め、ひぐらしの声が物悲しい音色を奏でている。冷たいそよ風が緑道を吹き抜け、夏なのに秋のような寂しい空気が漂っていた。
 日も落ちていき、辺りは青黒い影に包まれていく。規則正しく立ち並んだ街灯が一瞬ちかちかと明滅したかと思うと、ぼんやりとした白い光で足元を照らし始めた。
 時計が十九時を回った頃、カツカツと地面を叩く音が聞こえた。
「お待たせ」
 浴衣姿の彼女は、小さな巾着袋を胸の前に提げ、にこりと笑った。
 白地に青い朝顔が、夕闇の中で一際明るく浮いて見えた。
「わざわざ浴衣で?」
「おめかししてくるって言ったでしょう?」
 浴衣を見せびらかすように、彼女はくるりと一回転してみせた。袖がふわりと舞う。
 あどけない仕草に、僕は笑みをこぼす。
「それじゃあ、花火見に行きましょうか」
 そう言ってベンチから立ち上がろうとする僕を、「待って」と制止しながら彼女はいつものようにベンチに腰掛けた。
「ここが特等席なの」
 彼女はいつものように隣に腰を下ろす。
 特等席。そうは言っても、天井には木の枝があちこち伸びていて空は狭くなっている。とても綺麗に花火を眺められるとは思えない。
「花火なんて見えそうもないって、そう思っているでしょう?」
 僕は頷く。
 彼女は小さく息を吸い、空を見上げた。
「見ていてください。直にわかりますから」
 促されるまま、僕も空を見る。いつの間にかひぐらしの声は止んでいた。
 遠くからひゅるひゅると甲高い音が響いた。白い糸が尾を引きながら僕らの頭上へ差し掛かり、爆ぜた。赤や青や色とりどりの光彩が辺りに飛び散り、腹に響く轟音が後から追いかけてくる。夜風に焦げた火薬のにおいが漂っている気がした。
 僕は息を飲んだ。視界を狭める枝葉は夜空を囲う額縁となり、その中心に大輪の花が咲く。それは刻々と変化し、何枚も絵画を見せられているようだった。
「私ね……」
 不意に、彼女が口を開く。
「私ね、人を死なせてしまったの」
 そう言って空を見上げる彼女の眼は、花火の向こうを見ていた。
「人を?」
「言ったでしょう? 私は悪い子だって。……私の話、聞いてくれる?」
 僕はこくりと頷く。
「その人はね、私の大切な人だったの。初めて会ったのは去年の夏、この緑道で……。その人はこのベンチに座っていたわ。あまりに酷い顔をしていましたから、お水を渡して、それから少しお話をしたの」
 彼女はふふ、と笑いながらその人との思い出を語った。
 僕はただ、彼女の話に耳を傾ける。何だか、他人事ではないような気がした。
「その人のお話は面白かったわ。何でも知っているの。でも、それを鼻にかけるようなこともしないで、ただ、話をしてくれた。ただ、やることが無くて本を読んでいただけだよって謙遜していたわ……。私はすぐにその人に惹かれた。それで私、一つ過ちを犯してしまったの」
 彼女は自分の下駄を眺める。
「……私ね、約束してしまったの。これからもここで会いましょうって」
「それが、過ち?」
 彼女は悲しい顔をこちらに向けた。
「そう。その人はね、何度もここへ来てくれたわ。約束通り。……病院を抜け出してね」
 ああ、そういうことか。僕は〝過ち〟の意味を理解した。
「その人は日に日に弱っていったわ。そうして、夏が終わる前にばったりとここへ来なくなった」
 どうして僕は緑道にいたんだろう。どうしてこのベンチに腰掛けたんだろう。どうして、僕は彼女に惹かれたんだろう。
 そんな問いの一つ一つにかかっていた霧が、少しずつ払い除けられていく。
「実はね、最後に会った日、その人とまた一つ約束をしてしまったの。それはね――」
「一緒に花火を見に行こう」
 僕は彼女の言葉を遮るように言った。彼女は驚いた様子でこちらを見ている。
 全て思い出した。そうだ――
 幽霊は僕だった。
 そうか、あの時、彼女が蒼白な顔を見せたのは、悲しい表情を見せたのは、僕を見たからか。
「僕は、もう死んでいたんだね」
「思い……出したの?」
 うん、と返事をする。彼女は、じっとこちらを見つめていた。何か言おうとしては、言葉を飲み込む。
 ぱちぱちと小さな花火が弾ける音がする。
「私ね……ずっと後悔してた。私が、貴方の未来を奪ってしまったんだって。私があんな約束しなければ、貴方は死なずに、もしかしたら今でも生きていてくれたんじゃないかって……」
震える声で、彼女は言った。
「君はずっと、自分のせいで僕が死んだって、そう思っていたんだ。でもね、それは違うよ。僕はね、君に会うまでずっと、生きていなかったんだ。死んでいないだけ。ただ病室で食べて寝て咳をして……それが、君と出会って、君はこんな僕の話を楽しそうに聞いてくれて……僕はあの瞬間、生きていた。確かに、生きていたんだ。君は僕を生かしてくれたんだよ」
 途端に、彼女はぼろぼろと涙をこぼした。堰を切ったみたいに、溢れていた。
 僕はその顔に手を伸ばしたけれど、その手は空を切った。
 彼女が落ち着くまで、じっと側にいた。触れられないけれど、その白く細い手に僕の手のひらを重ねた。温もりが伝わってくるようだった。
「ねえ、憶えてる? もう一つの約束」
 すすり泣く彼女に、僕はそっと声をかける。
「来年、桜を見ようって。僕ね、桜並木を見たことが無いんだ。だからさ、来年一緒に見たいんだ、君と」
 涙でぐしゃぐしゃになった顔で、彼女は返事をする。
「うん、一緒に見よう。約束だよ、絶対に、絶対に――」
 最後の花火が咲いた。その光は、ベンチに座る少女と、その隣の空白を照らし、そして散っていった。