『もうここへ来てはいけませんよ、……和泉』
もう一人の私を見送り、再び暗い闇の中に取り残された私は独り言ちる。
貴女と話せたことは嬉しかったですが、ここはあの世とこの世の境目。生ける者が立ち入れない世界です。
だから「また会いたい」という願いなど、叶えるべきではありません。
でも大丈夫。私はいつでも貴女の内側から見守っています。それに私でなくとも貴女を見守る人は大勢います。私が前世の彼らに守られたように、今の貴女も多くの仲間たちが支えています。身も……そして、心も。
『それにしても。卑屈な面はさて置き、貴女も〝現世の彼〟を選ぶのですかね』
えぇ。現世の彼も、前世の彼とは別人。面影はあっても、まったく別の人です。
それなのに貴女も彼に惹かれてしまうとは、よほど私たちは強い絆で結ばれているのでしょうか。まぁ、貴女自身はまだ自分の気持ちに気づいていないようですから、今後どうするかは貴女次第。
ですが、貴女の心が誰を選んでも、仲間たちを大切にする貴女なら、最後に伝えた言葉はきっと叶えてくれると信じています。
〝日向のこと、お願いしますね〟――私が愛したあの人の魂を受け継ぐ彼を、どうか守ってほしい。前世の彼を、私は最後まで守れなかったから。
そしてもう一人。
『黒使のことも、どうか貴女の手で――』
運命に勝ち、この美しい日本と、響き続ける音楽を救って。
――この長い戦いを。私の過ちを、終わらせてほしいのです。
◇
金剛玄洞を脱出した日向たちが、和泉に対し胸骨圧迫による心配蘇生を開始してから、どれくらいの時間が経ったであろうか。実際には数分の経過でも、彼らにはもう何時間もそうしているかの様に感じられていた。
傍らでは安芸が和泉の左手を握りしめながら、スマホから彼らの演奏による名曲・カノンの美しい音色を流している。普通なら緊迫した状況にそぐわないが、勿論これはブリッランテの能力であるクラシック治療の効果を期待してのことだ。
最も、彼らにとっての思い出の曲で、彼女の意識を取り戻そうという願いが込められていることも、否定しない。
それでも、彼女はまだその目を開こうとはしなかった。
「帰るんだろ、和泉ッ!? 皆で、一緒にッ!!」
「目を覚ませ和泉! なぁ和泉! 和泉ッ!」
必死に彼女の名前を呼び続ける二人を、数分前に意識を取り戻した近江が硬い表情で見守っていた。経緯は分からずとも、彼は一瞬でこの状況を理解したのだ。
近江にとっても和泉は大切な仲間であり、友人である。失いたくない気持ちは同じだ。でも彼は辛い選択を二人にさせなければならなかった。このままでは二人は永遠に彼女の蘇生を続けるだろう。
「……おい、日向。もうやめろ」
聞こえているのか、いないのか。二人は近江を振り返ることもしない。
彼は悲鳴を上げる心を鬼にした。
「やめろって言ってるだろ! それ以上はもう無駄だ!」
「ッルセぇ黙ってろ!」
「そうだ、まだ終わらせるな日向!!」
抵抗する二人に近江は舌を打ち、和泉から日向を羽交い締めにして引き剥がした。
「いい加減にしろッ! お前らの気持ちは痛いほど分かる! けど、もう……見てらんねぇよ」
「…………っ」
近江の消えそうな声を聞き、日向は魂が抜けたようにうな垂れた。そんな友人を静かに離して俯く近江。続いて安芸が肩を振るわせ、和泉に縋って悲痛に泣き叫んだ。
彼らにとって、一番最悪な結末を迎えてしまった。
誰より守りたかった
女性を守れなかった。ただその事実に誰もが絶望し、安芸の嗚咽とカノンの美しく悲しいメロディが鳴り響く。誰の心にも、大好きなヴァイオリンを片手に優しく微笑む和泉の姿が浮かんでいた。
何故、自分が生き残ってしまったのか。命を捧げると誓ったのに。
悪い夢であってほしい。そう願わずにはいられない。
ほどなくして、日向の頬を汗ではない一滴の雫が伝ったことに、誰が気づいただろうか。
その時、安芸の嗚咽がピタリと止まった。真っ赤な顔で、彼は握りっぱなしにしていた和泉の手を見つめている。僅かに感じた反応を、彼は動転している自分の気のせいだと思った。
しかし次の奇跡の瞬間を、無気力に和泉の穏やかな表情を見つめていた日向も、確かに目にする。
一輪の花が開くように、閉ざされていた和泉の瞼が開く。
彼女の瞳に、光が宿る。
「ッ……! いず――」
安芸がその名を呼ぶより早く、和泉の体は日向の腕の中にすっぽりと収っていた。一瞬の出来事で、安芸は呆然とその様子を見ていることしかできない。
安芸が公に彼女への好意を示していたにもかかわらず、日向はそうせずにいられなかった。否、彼の体は勝手に動いていたのだ。
「あ、あのっ、日向君……」
呼びかけにも応じず、彼は〝自分に必要〟と認めた存在を確かめるように、より強く和泉を抱き締めた。身動きが封じられた彼女を、温もりと懐かしく愛しい香りが包み込む。
それは和泉自身も強く求めていたものだったが、目覚めたばかりの彼女は思考が追いついていなかった。でも彼らの表情に刻まれた痛みを見て、胸が苦しくなった。
そんな和泉の感情を読み取り、安芸は複雑な心境を押し殺して、彼女の髪を撫でながら微笑みかける。とにかく今は彼女が息を吹き返したことが、何よりの喜びだ。
「……おかえり、和泉」
そう口にする安芸の泣き腫らした顔に、和泉も涙を浮べる。
変わらない彼の優しさが染みた。
「遅いんだよ、グズ和泉」
安芸の後ろから今度は近江が声をかけた。表情は照れくさそうで、でも彼女の命を諦めようとした申し訳なさを感じさせる。
安芸、近江、そして表情の見えない日向の、己を案じる想いに和泉は大粒の涙を溢した。〝彼女〟の言ったとおり、自分が必要とされている幸せを噛みしめる。
でも和泉が何よりも嬉しかったのは――。
「良かった、皆が無事で……」
自分が死にかけてまで守った、大切な
仲間たちの姿があること。
彼女の言葉でようやく日向は体を離し、気まずそうに目を逸らして「バーカ」と一言呟いた。そして彼らは、誰からともなく笑い合った。
「けど、ごめん和泉。君を危険な目に遭わせただけで、音の回収を叶えられなくて」
お互いの無事を確認し合えたところで、安芸が和泉にそう謝罪した。実は、彼らはまだ補聴器のない和泉の耳に、平穏な音が流れていることを知らないでいた。
安芸と近江がメストの機械を破壊した時、まだ4つの音は奪われたままだった。何故なら二人が破壊したのは音の周波数を下げる『
周波数変換機』であったのだから。
「あ、それなんだけど。音ならちゃんと――」
「変な機械なら俺も見つけたから、ぶっ壊したぜ。……そいや、そっから槍の切れ味、だいぶ良くなったっけさぁ」
和泉の言葉を遮り、聞き慣れない声が空気を裂く。〝彼〟の存在は見事に忘れられていたが、まだ彼らの傍にいたのだ。オレンジメッシュが入った外バネの金髪を持つ、越後と名乗ったその男は不敵な笑みを浮べた。
「それよか、感動してるとこ悪ぃけど……」
歓喜の余韻に浸っていた彼らが、反応に遅れるのは必然。
気づいた時にはもう、和泉の姿は越後の手中にあった。
――自慢の槍を、喉元へ静かに突きつけられた状態で。
日向たちは息を飲み、目の前の光景を疑う。
目覚めたばかりの和泉はまだ衰弱しており、屈強な男の腕から逃れることなどできない。
狼狽えている彼らに越後は鼻を鳴らし、冷徹な表情でこう告げた。
「この女、
記憶回復の洗礼を受けてねぇって……マジなんら?」