水が指の間から溢れ落ちるように、僕の手を彼女の腕がすり抜けていった。
決して離してはいけなかったはずの君の背が、瞬く間に薄暗い坑道の先へと消えていく。
「和泉ィ……! ッ、クソ!!」
八つ当たりとばかりに、周囲を包囲していたメストの手下たちを一掃した。レイピアの切っ先が、僕の複雑な感情を表すように、風を切る音を震わせる。
折角、
二人を犠牲にするなんて馬鹿げた計画に乗ったのに、全部水の泡だ。やっぱり和泉の意識が戻った時、もう一度落としておくべきだった。それができなかった僕こそ、悪魔になりきれなかった大馬鹿野郎だ。
僕一人が脱出したって何の意味もない。早く彼女を追わなければ。
しかし、手下たちが最後の足掻きと言わんばかりに後から後から湧いてきて、僕の行く手を阻んでいく。一人一人相手にしていては時間がない。それに
心体増強を発動した和泉に、常態の僕が追いつけるはずもない。
……仕方ない、ここはもう僕も。
「モジュ――」
〝お前は絶対に
心体増強すんじゃねぇぞ。和泉を任せられるのはお前しかいねぇんだからよ、安芸〟
その瞬間、僕の脳裏に蘇ったのは日向の言葉だった。
言いかけた呪文を、吐息と共に呑み込む。
あぁ、そんな約束を彼としていた。最も僕は、承知したつもりなんてないけれど。
どうして僕もそっち側にしてくれなかったんだ、日向。僕だって和泉のためなら、命でも何でも捧げられるのに。
でも、ここで僕まで
心体増強を使ったら、誰が彼らを連れ出すというのだろう。
誰が〝皆で一緒に帰ろう〟と言った、彼女の願いを叶えるというのだろう。
――使えない。僕だけは
心体増強を、使うわけにいかない。
「ッ、あぁあああああ……!」
感情が爆発する。レイピアを強く握り直し、ただ無我夢中で目の前の敵を叩き伏せ、閉ざされた道を切り開く。この胸の苦しさは、体力の限界なんかじゃない。
和泉のバカ、どうして君が
心体増強を使うんだ。しかも長3度……命が保証される短3度の1つ上、4倍増強だ。死ぬかも知れないんだぞ、分かってるのか!?
君を守ると誓ったんだ。君にも、日向にも。
こんなところで失ってたまるか!
込み上がる気持ちを全て力に変え、僕は消えかかる金の残像を追いかけた。
ねぇ、和泉。君が命を危険に晒してまで僕から逃れたのは、総長として
二人を守りたいから?
それとも――。
◇
和泉を安芸に託し、短3度の
心体増強を発動させた俺たちは、あいつらを逃がすための作戦を開始していた。
「はぁあああっ!」
「ギュアラァアアア……ッ!」
「おぉおおおお!!」
音の響かぬ大洞穴内に俺たちの唸り声と、剣を交える金属音が飛び交う。
予定を変更して、俺と近江は商に真っ向から挑むことにした。近江は宙を舞うように高い位置で、俺は地を這うように低い位置で動き回る。お陰で商の周りには、己が振りまくオーラによって、黄金のカーテンが掛かっているように見えた。
苦戦していたのが嘘みてぇだ。反響が悪い状況の中、基本の4音が奪われてることも忘れちまいそうな動きができる。剣だって軽々と扱える。流石、
心体増強の効果。
だが、商も負けちゃいねぇ。奴は俺たちが超高速で動いても、その両方に食らいついてくるのだ。バケモンになっても、蛇酔拳で鍛えた動体視力は衰えてないらしい。
心体増強の効果とスタミナが切れる前に、早く目的を果たさなければ。
「……まずは
アレだな」
巨体を見上げながら、ロングソードで商の丸太みてぇな太腿を裂いた。漆黒の血が金のカーテンを汚す。
案の定、奴は左腕に生やした大鎌で反撃を仕掛ける。瞬間、近江が素早く反応し、サーベルを滑らせるようにして鎌と接触。その軌道を反らせた。しかし商は柔軟な身体を捻らせて対応し、尚も俺の背後を狙いくる。
「跳べ、日向ッ!」
頭上から飛んできた近江の声に、俺は迷わず高く跳躍した。ギリギリのところで、商の鎌は空を切る。
その時、近江の姿は既に奴の左腕の付け根にあった。サーベルが狙いを定めて光の一線を描く。
「オォオオオオオ!」
商は咄嗟に身体を捻って回避しようとしたが、時既に遅し。
近江の剛の一太刀は肉を裂いて骨を断ち、奴の左腕をブッた切った。
「やったか!」
「ギャアアッラァアアアァ!!」
商の雄叫びと共に、噴水のように噴き上がる黒い血がグロテクスさを演出する。
……和泉がいなくて良かったぜ。
切断された痛みのせいか、それに対する怒りからか。商は今までになく狂ったように暴れ始めた。残された右腕と尻尾を振り乱し、周囲の岩肌を叩き崩していく。
俺たちは商の動きと降り注ぐ欠片に注意しながらも、奴への攻撃を続けた。いいぞ、コイツにはもっと暴れ回ってもらわなきゃなんねぇ。
目標は商を倒すことじゃない。和泉の封印の矢がない限り、奴の息の根を止めることは不可能だ。だから当初の予定であった〝洞窟を崩落させて敵の動きを止める〟という内容に変わりはない。
しかし、実は1つの不安要素があった。俺たちの剣は武蔵の斧と違って、分厚い岩壁を砕くのに向いていないことだ。ヘタすりゃ崩落する前に折れちまうだろう。
――幸い、立ちはだかったのは巨大化したバケモン。コイツを使わない手はねぇ。
巻き添えを食うのは覚悟の上!
「よし、畳みかけるぞ!」
「……ふん」
無愛想な返事をする間にも、近江は商の膝へ斬撃を浴びせた。ついに商の巨体がよろめく。
カウンターで鞭のように飛んでくる尻尾を飛び退け、岩壁へと激突させる。そこから根を張るように、ピシピシと亀裂が広がっていった。
いける……! そう思い固唾を飲んで見守った。
だが、あと一歩というところで亀裂は止まり、崩落に至らない。
岩のような集合体は、ある一点を支えにして〝静〟を保っている。その一点を崩さない限り、この堅ぇ壁はそう簡単に落ちねぇ。
もう少し。俺はバックハンドで再度剣を構える……、が。
「っぐ!?」
「がっ……!」
同時に
心体増強を発動させた俺たちは、同じタイミングで呻き声を上げた。宙を舞っていた近江は転がるように地へ落下する。急激に体が重くなり、強烈な吐き気が襲った。言うまでもなく時間切れの兆候だ。
「く、そ……」
意思とは裏腹に消えかかる金のオーラを見て、俺は強く歯噛みした。