多くのことから目を逸らし、視界の端だけでどうにか世界を捉えながら、私は夏休みを過ごした。
聡一郎のこと、了のこと、そして夏芽のこと。恋人もセフレも親友もすべて失った哀れな人間。それが私。そうやって自分に言い聞かせてみても、現実感はどこまでも希薄だ。すべてを失った私とは、どんな私だ? 彼女らと出会うまでの私は、いったいどんなふうに生きていた? 手付かずのままだった夏休みの課題を少しずつ崩していきながら、そんな途方もない思案に浸っていくことがいつしか習慣となっていた。当たり前だけれど、明快な答えなんてものは一切降りてこない。絶対に正解が用意されている、という安心感を与えてくれるだけ、目の前に積もっているワークブックたちは良心的なのかもしれない。
けれど、八月最後の金曜日、バイト先からの帰り道、私はその、正解のない方の個人的なホームワークに一つの答えを見つけた。無為な思考と非生産的な営みの末に探り当てた、この夏唯一と言ってもいい貴重な教訓だ。
――生きていく上で、甘えることは必要不可欠なのかもしれない。
教訓と言いつつ推論の域を脱していないけれど、その辺りは今後の人生で補強していけばいい。とにかく、今の私の懐で疼いているのは、誰かに甘えずに生きてくなんてのは無理なのかも、という生傷交じりのしみじみとした実感だった。
〈誰にも甘えなければ、自由に生きられる〉
祖母との最後のやりとりから、私の無意識に根付いていた行動規範。甘えるということは、みっともなく本音を晒したり、一方的に懇願することだと思っていた。けれど、そうじゃない。甘えるということはきっと、理想を叶えようとする姿勢そのものなのだろう。その認識を持ち合わせていなかったから、私は盛大にしくじってしまった。むしろ私は、無自覚のうちに、あまりに甘えすぎていたのだ。恋人に、セフレに、親友に。
誰にも甘えずにいたつもりだったのに実際のところはゲロ甘だった――そんな痛々しい過去を恥じている。けれどその一方で、あの人はあまりに甘えるのが下手だったんじゃないか、と思い浮かぶ人がいる。
長岡聡一郎。私が手ひどく裏切ってしまった、もう二度と姿を見せないでくれと言われた、元彼。
聡一郎には、悪いことをしたと思う。一方的に傷つけてしまったことを、申し訳ないなと思っている。けれどそれは、罪悪感と呼ばれるような殊勝なものではやはりなかった。むしろ、日を追うごとに私の中で広がっていくのは、彼ともう一回やり直したいという、どうしようもなく純度の高まった一つの願望だった。
もっと彼の本心を辿りたい。私のことをどう思っているのか。どのような手順で私との仲を深めていくつもりだったのか。また私と付き合うつもりはないのか。私に関する未消化であろう部分を、私は聡一郎に訊ねてみたい。そしていつか、樋渡綾に対して抱いている思いの深淵をのぞいてみたい。真相に、辿り着いてみたい。
だから、まずはちゃんと謝ろう。自分勝手なことをしてごめんなさい、と。ぶつかることを避けて楽な方に流れてしまってごめんなさい、と心から謝ろう。それでもまだ許されないのなら、心を閉ざされているのであれば、辛抱強く待とうと思う。一方的な我慢比べになってしまうとしても構わない。十七年間も生きてきたんだから、私だってそろそろ誠実さというものを知らなくちゃいけない。
そんなことを考えていると、ほんの少しだけ気持ちが上向きになった。
始業式の日の朝は、陰気な曇り空だった。家を出る前にちらっと目にした天気予報では、週末は再び猛暑日となるでしょうと気象予報士が笑いながら眉を顰めていた。外は風が吹いていて、私は剥き出しの腕を軽くさすりながら通学路を歩く。普段よりもずっと早い時間だからか、学校が近づいても他に生徒を見かけない。
ふと、鞄の中でスマホが震えた感触があった。取り出してみると、LINEの通知が表示されている。すぐに確認すると、二日前に私が送ったメッセージに対する返事が、味も素っ気もない簡潔な文章で記されてあった。そのままスマホを鞄にしまいながら、私は頭の中で届いたメッセージを反復する。修飾という概念が存在しないひどく散文的な内容だというのに、口許が知らず知らず緩んでしまうのを止められなかった。
夏休み最終日だった昨日、私は夏芽の家に向かった。ずっと借りっぱなしだったおじいちゃんのフィルムカメラを返すためだ。あの子がいませんように、と祈りながらインターホンを押すと、おばあちゃんが出た。玄関の引き戸が開くと、懐かしい匂いがふんわりと鼻をくすぐる。
『みーちゃん、久しぶりだね』
うん、久しぶり、と私は屈託のない感じで笑ってみせる。そしておばあちゃんがなにか言うより早く、バッグからカメラを取り出して、『これ、おじいちゃんに渡しといて』と手渡した。受け取りながら、おばあちゃんは少し戸惑っているようだった。そのことがなんとなくわかってしまって、私は息が詰まるような感覚がした。
『ねえ、もしかして、夏芽と喧嘩でもしたの?』
案の定、おばあちゃんはそう訊ねてくる。はぐらかしてしまいそうになるのをこらえて、私は『やっぱりわかる?』と軽い調子で答えた。
『だって、今年はうちに泊まりに来なかったからね』
夏の終わりの恒例となっていたお泊まり会。今日がまさに例年ならば実施される日であったことに、私は気づいていなかった。安堵と寂寥感が、同じくらいの割合で心を浸していく。まっすぐ前を見れなくて視線を逸らした先には、金魚鉢があった。玄関の靴箱の上にある見慣れたはずのそれに、なんだか違和感を覚える。なんだろう、と思って考えると、すぐに答えは見つかった。
『あの金魚、いないね』
おじいちゃん曰く癌を患っていた、瘤がついたあの金魚はもう鉢から姿を消していた。最後にここを訪れたときには、元気に泳いでいたのに。
『うん。つい昨日死んじゃってね。夏芽が裏にお墓作ってあげてたよ』
『そっか』
まるでなにかを象徴するようなタイミングだな、と私はそんなことを思ってみる。それから、あの子も同じようになにかを感じただろうか、とも。
『また、いつでも遊びに来ていいからね』
とおばあちゃんはにっこりと笑った。夏芽との仲直りまでは促されないまま言葉が綴じられたことにほっとして、それから、胸が締め付けられるように痛んだ。『ありがと』と返すのが精一杯だった。
教室が近づくにつれて、息苦しさは増していく。最初に顔を合わせたとき、いったいどんな反応をすればいいんだろうと、そんなことを考えてしまう。
けれど、いざ夏芽に「おはよう」と声をかけられたとき、私は彼女の変わりようにただただ驚いてしまった。
「おは、よう」
そうやってただ挨拶を返す以外に、どうすることもできなかった。髪、切ったんだ? と確認することすら。
夏芽はそっと踵を返して自分の席へと戻る。私の知らない後ろ姿が、ゆっくりと遠ざかっていく。追いかけることはできない。言葉や態度では決して崩れることのない隔たりが、私たちの間にたしかに存在していた。
「ミミ、おはよ」
ポン、と肩を叩かれる。璃李依の髪は普段よりもしっかりめに巻かれていて、そのことをどうにか褒めてあげると、とても嬉しそうにしていた。
席について程なく、予鈴が鳴り担任教師が入ってくる。喧騒が段々と収束していき、始業式へ向かう前の点呼が始まる。出席番号順に名前が呼ばれ、夏休み明けの気のない返事がそれに応える。
挨拶を交わしたときは髪型の変化にばかり目がいって気づかなかったけれど、夏芽の表情は、とっても張り詰めていた。それが私と向かい合うために作られた、あの子が初めて経験する感情を具現化したものなのだとしたら、申し訳ないなと思ってしまう。ごめんね夏芽、と。これからもうしばらく煩わせてしまうかもしれないけど、頑張って。無責任だね。他人事だね。けど、私にできることって、もうなにもないから。
「小瀬」
担任教師が、名前を呼んでいる。そのことは、ちゃんと理解できている。けれど私は――私の頭は――終わりゆこうとしているなにかを処理しようと懸命に動いていて、それ以外にリソースを割けずにいる。「ちょい、ミミ?」と返事をしない私を、璃李依が気遣ってくれる。
「小瀬深澄」
担任教師が、苛立ちを滲ませた声で私の名前を呼ぶ。瞼の裏がチリチリするほど強く目を瞑り、それから小さく息を吐きながらゆっくりと開いた。
「はい」
やっとの思いで、私は返事をする。
知らない感情が心のうちをさざなみのように揺らし、脆く心許ない魂のようなものが胸の奥できらきら輝いているのがわかった。どうして今このタイミングで、正体も知れないそれらの存在を感じ取ることができたのかはわからない。けれど、ただ一つ言えることがある。
私は、今の私を守りながら残りの人生を生きていかなければいけない。
不安がある。恐怖もある。けれどそれ以上に、今感じているこの新しい鼓動を止めてはならないという使命感が、私を奮い立たせている。
小さな予感と、小さな覚悟。私はそっと瞼を閉じて、生まれ変わろうとしている私たちのことを思う。担任教師が、最後のクラスメートの名前を呼ぶのを聴きながら。