「そんなこと、一方的に言われても困ります」
玲は静かな怒りを瞳の奥で燃やしていた。彼の目を見つめながら、私は夏芽が涙交じりにあのとき私の部屋で起こった出来事を玲に打ち明けているシチュエーションを想像した。
「そもそも、私はあの子の傍にいるべき人間じゃないからね」
「い、言ってる意味がわかりません」
「私、中学のときからやりまくってたの。通ってた塾の男子を取っ替え引っ替えしてね。そんなどうしようもないビッチがあの子の友達としてやっていけると思う? ずっとあの子にとって理想の親友像を演じてただけ。でももう疲れたの。やめたいの。だから私のことはほっといて二人で仲良くしたらいいよ」
自分が捨て鉢になっていることはわかっていた。けれどそれにしたって、夏芽は勿論、聡一郎にも打ち明けようとしなかった過去を、玲に躊躇なく晒せてしまうなんて、どうやら今の私は相当自暴自棄みたいだ。
「関係ないです。小瀬先輩が何人とし、していようと、和久井先輩との仲にはなんの関係もありませんよ」
もっとわかりやすく絶句してくれるかと思っていたのに、玲は意外なほど冷静にそんな綺麗事を抜かす。流石に腹立たしくなって、彼の神経を逆撫でするように鼻で笑ってみせる。
「ごめんごめん。こういうこと言ったら顔赤くして黙ってくれると思ってたんだけどね。ちょっと舐めてたわ」
けれど、玲の口から思いもよらない言葉が返ってきて、私の薄ら笑いは消え失せてしまう。
「知ってましたよ」
「え?」
「だから、小瀬先輩がその、色んな人としてたっていうこと、です」
「は? 嘘つかないで。どうしてあんたが知ってんの」
「俺、中三のときから通ってるんですよ、その塾に」
そういうことか、と私は脱力してしまう。本当に、もう少しでテーブルに突っ伏してしまうところだった。
樋渡綾に初めて会ったあの日、通っていた塾のことを確かに訊かれた。『弟が受験を控えていて』と、そんなことを彼女が言っていたのを私は思い出す。
「今小瀬先輩が言っていたことは、じゅ、塾の中でちょっとした噂になっているんです。俺は直接話したことはないんですけど、その、小瀬さんと、し、したっていう人が、今も国公立大コースにいるみたいで……」
辿々しく教えてくれる玲に、あっそ、と呟くのが精一杯だった。
玲が話したような状況はある程度覚悟はしていたはずなのに、やっぱりどこかでがっくりときている自分がいる。今となっては名前どころか、顔すらも思い出せない彼らのことを、秘密は守ってくれるものだと、私はおめでたくも信用してしまっていたのだ。
いや、信用なんて美しいもんじゃない。それだってやっぱり、一種の甘えだったんだろう。つくづく、自分の愚かさに嫌気が差してしまう。
「なんでもいいよ、もう。とにかくそのことはあんたのお姉さんも知ってるってことね。あ、もしかしてもう夏芽にも話してる? 仕方ないか、あんたら付き合ってんだもんね」
卑屈さに澱んでいる。私の発する言葉全てが。
もうこれ以上、傷つきたくない。それが、今の私が心から願っている弱々しい望みだった。今すぐ頭を抱えてその場にうずくまってしまいたい。誰の目も、声も、感情も、等しくシャットアウトしてしまいたいと思った。
「姉さんには言ってません。勿論、和久井先輩にも」
俯いてしまっていた私のつむじ辺りに、毅然とした声が降りかかる。どうにか顔を上げると、玲が唇を結んでこちらをまっすぐ見据えていた。樋渡綾そっくりの、射るような力強さを静かに宿した視線。私は押し潰されたように瞼を伏せてしまう。
「嘘つかないで。あんたとお姉さんがズブズブなことくらい、私も知ってんだから」
「たしかに、俺は姉さんには色々なことを打ち明けてますよ。そのことは認めます。でも、なんの根拠もない噂話を無責任に広めるようなくだらない人間じゃありません」
し、信じてください。最後の最後でどもりながら、けれど最後まで私をまっすぐ見据えたまま、玲はそう言い切った。
そんな綺麗事信じられるわけがないじゃない。私は目の前のシスコン野郎の言葉を、冷笑混じりに否定したかった。わずかに残った精神力を振り絞ってでもそうしてやりたかった。けれど、どうしてもできなかった。ぼろぼろになった私の心が、玲の言葉を信じたいと叫んでいた。
「小瀬先輩はさっき、自分は和久井先輩の傍にいるべき人間じゃないって、そ、そう言いましたよね。俺は、全然そんなふうに思いません。何人としたとか、そんなことは二人の仲とはなんの関係もありませんよ」
なんでこいつは、私なんかに心のうちを、己の信じる正義を曝け出せるんだろう。怖くないのか、嗤われることが。自分の感性が歪んでいるかもしれないという、その可能性が。
「セックスした人数は関係なくても、私が都合の悪いことを一切打ち明けずに隠し通してたのは事実じゃん?」
「友達との間に、隠し事があってはいけないんですか?」
間髪入れずに訊き返されて、私はなにも言えなかった。ひどく幼稚で独善的なはずの玲の問いかけが、私の中の脆い部分を深く穿っていくのがわかった。「小瀬先輩」と玲が私の名前を呼ぶ。
「和久井先輩は、あなたのことを信頼しています。あなたのことを話す和久井先輩は本当によく笑うんです。だから、俺は、ふ、二人に仲直りしてほしいんです」
もうちょっとスマートな頼み方というものがあるだろう、と私はため息をつきたくなる。けれど、こんなやつだからこそあの子との距離を縮めることができたのかもしれない。なんにせよ、私はあまりに玲のことを知らなさすぎる。こいつに、夏芽を託したというのに。
「大事なこと教えてあげよっか。人間関係ってね、双方向的なものでないと成立しないの。私の言ってること、わかる?」
卑怯なやり口だな、と自分でも思う。こんなカビ臭い一般論で、私はいたいけな願いに蓋をしようとしている。
玲はきっと、心から信じている。私と夏芽が涙ながらに謝罪と抱擁を交わして仲直りをすることで、世界はより良くなるのだと。誰も傷つかないハッピーエンドを迎えられるのだと。その思いは確かに立派だ。平和的だし、理想的だと思う。けれど、それは私が望むハッピーエンドではない。夏芽を玲に託した時点で、私たちは決定的に袂を分かってしまっている。
じゃあね、と私は五百円玉を置いてソファから立ち上がる。頼むからなにも口にしてくれるなよ、と祈りながら、私は喫茶店の出口を足早に目指す。
私なんかよりもよっぽど自分の気持ちを堂々と、誠実に訴えた玲だけれど、一つだけ詰めが甘かった点がある。それは、私の本心について一切触れてこなかったところだ。
玲と樋渡綾との決定的な違いがあるとすれば、それは私が夏芽に対して抱いている感情への理解度だ。私の中に潜んでいる、私自身もその全容を把握できていない感情を、もしも玲からも的確に、徹底的に追及されていたら――。
絶えることのない日差しを日傘で凌ぎながら、私は黙々と進む。こめかみのあたりを鬱陶しく伝う汗と一緒に、くだらない想像を乱暴にぬぐい落とす。