土曜日、楽団の練習日。コンサート開催まで1カ月を切り、団長の気合の入りようも熱を帯びてきた。
春休みが終わり進学と就職先で活動する私たちだけど、この練習にはきちんと参加しており曲の仕上げに励んでいる。
コンサートの日取りはゴールデンウイークの初日。入場は無料だからチケット販売などはしておらず、集客状況は当日まで不明だ。でも毎年開いているこのコンサートには、多くのお客さんが聞きに来てくれているから、今年も期待を背負っているに違いない。
「ほな、今日はここまでにしとこか。明日は新世界も、もっぺんガッツリ詰めなアカンな。……あ、観光地の新世界やないで?」
団長のお決まりのボケに誰かが「タコ焼き詰めるんかい!」とツッコんだところで、今日はお開きとなった。
練習室内は一気に緊張感が解け、皆いそいそと帰宅の準備に取り掛かる。
〝新世界〟は観光名所――でなく今年の目玉として披露する、アントニン・ドヴォルザークが作曲した『交響曲第9番』のこと。全4楽章、一般的な演奏で約45分かかる〝3大交響曲〟のひとつだ。副題が『新世界より』だから、その愛称で親しまれている。
余談だけれどこの曲は、シンバルが曲中に第4楽章のたった一打しかないことで、しばし話題になったり。
「和泉……、この後ちょっといい?」
ヴァイオリンをケースに収納したタイミングで、安芸君にそう声をかけられた。後ろには同じく片付けを済ませた日向君と近江君も控えている。一緒に帰るのがすっかり定着しているけど、今日は三人ともどこか真剣な顔つきだ。そういえば、朝から口数も少なかったように思う。
「大丈夫だけど、何かあった?」
「うん、大事な話」
その一言だけで、それが私たちの別の顔である〝ブリッランテ〟としての話であることは一瞬で分かった。朝に言わなかったのは、きっと演奏に雑念が入らないようにという安芸君の配慮だろう。
練習室を後にし、向かったのは彼らのシェアハウス。以前は多少の躊躇を感じていたのに、完全にカフェのような感覚でお邪魔するまでになってしまった。いつも美味しい紅茶を淹れてくれるし……。
今日の演奏についてなどの談笑も早々に済ませたところで、安芸君はスマートに本題を切り出した。
「昨日、武蔵さんから連絡があったんだ。……メストのアジトが判明した、ってね」
イチゴのフィナンシェを口にしようとして、予想以上の告知に私は手を止めた。
「……えっ、ほ、本当なの?」
「本当さ。音の周波数を妨害する電波の出所を、武蔵さんと和矢で追跡していたんだ。僕も難しいと思っていたけれど、流石あの二人だよ」
その言葉に、私の脳裏にも彼らの姿が浮かぶ。武蔵さんの技術と和矢君の頭脳があれば、できないことなんてないのでは? という感覚にさえ陥ってしまいそうだ。もちろん、広君とソプラ・テナーの援助があることも忘れてはいけない。
「既に地図も受け取ってる。けど武蔵さんは、どうするか君の判断に委ねると言ったんだ。僕らの総長である、和泉に」
その一言に私は息を飲んだ。思いがけず重大な決断に迫られてしまい、一気に肩が重くなるのを感じる。
総長と言われるのは慣れたけど、今の私に名乗る資格はないことも自覚している。この決断はおそらく、今後の運命を左右する大事な局面だ。果たして私が決めても良いのだろうか。
静まりかえった空間を破ったのは、対面に座った日向君だった。
「……安易に乗り込むのは危険だと思うぜ。こんな簡単に掴めるなんて、罠の匂いしかねぇだろ」
机の上で組んだ手を見つめながら、珍しく慎重な発言をする彼。
すると早速、いつものように近江君が噛みついた。
「武蔵と和矢が奴らより一枚上手ってだけだろう。臆することはない、早急に乗り込むべきだ。それとも、またヒヨってるのか? 日向」
「んなわけねぇだろ、俺は時期尚早だっつってんだよ! まだ仲間は二人いるんだ、全員が揃ってから行くのが万全だろうがッ」
予想に反することなく二人は意見をぶつけて、鼻がつきそうなくらい睨み合った。その様子に安芸君が冷ややかな視線を送り、大きく咳払いをして制する。
「やめなって、和泉を困らせるなよバカ。……僕が気になるのは、未だ再戦に現れない商のことさ」
そう言うと彼は、商についての3つの可能性を示唆した。
まず、既に死んでいる可能性。商自身が「しくじり帰れば殺される」と言っていたように、既にアンリに殺されていること。でもこの場合なら、商についてこれ以上懸念する必要はない。
次に、私たちと戦うよりも優先すべき何かがある可能性。それなら邪魔されないように、メストだって全力で抵抗するはず。
そして最後。私たちの動向を探り、機会を狙っている可能性。この場合はこちらがアジトを掴んだことも知られたと思うべき、と安芸君は言う。
「仮に1つ目だとしても、まだ五音衆は二人いるはずだ。つまりいずれにしろアンリ以前の脅威と、敵の本拠地で戦闘を強いられるのは確実なんだ。だから慎重であるに越したことはないよ」
「なら最後のパターンが怪しいぜ。商との戦いの後から、誰かに見張られてる気配がある」
「へぇ。日向、気づいてたのか。僕だけだと思ってたのに」
目を丸くして驚いている安芸君に、日向君はフンと鼻息を吐く。
そんな……。じゃあやっぱり、アジトを知ったことも既にメストに?
「待てよ、監視の件なら俺だって気づいてる! だがそれこそ今すぐ乗り込まなきゃ、こうしている間に逃げられるぞ!?」
近江君が血相を変えて、椅子から勢いよく立ち上がった。衝撃で机が揺れ、ティーカップが音を立てる。
「〝慎重に〟と言っただけで、僕は〝乗り込まない〟とは言ってないよ。奴らからのアクションを待つほど、僕らが受け身である必要なんてないんだ。これは、これまで一方的に攻められていた僕たちが、始めて主導権を握るチャンスでもある。無論、罠の可能性を承知の上でね」
あくまで中立的に場を整理する安芸君に、近江君は黙って着席する。
それを見て安芸君は「だから」と続けた。
「これは僕らが決めることじゃない。采配を振るのは和泉、やはり君であるべきだ」
私を貫く凜とした声と視線に、彼が託した覚悟を理解した。