「あのさっ、近江」
「……何だ」
いつものように僕の対面に座った近江は、プロテインの飲み物と、サラダチキンのサンドイッチを貪り食っていた。僕にしてみればコイツも、いつぞやに戦った
羽と変わらない筋肉オタクである。
対する僕の食卓には、焼きシシャモに出汁巻き卵、小松菜のおひたし、お麩の味噌汁といった完璧な和食が並んでいる。今日も手際よく、美味しい朝食を作ることができて満足だ。
「近江は、朝の……」
「朝の、何?」
まだ寝起きで機嫌が悪いのか、返事がいつもよりもぶっきらぼうだ。あんなに意気込んだのに、目が虚ろな近江を前にして尻込みする僕。
「朝の、その……通勤ラッシュ、大変?」
お陰でどうでもいい質問をしてしまった。当然、目の前の男はボサボサな
紫苑色の髪を揺らして、不思議そうな表情を浮かべる。
市外のある工場で製造業員として働いている彼は、毎日電車通勤をしていた。僕も大学までは電車を使っているけど、ラッシュ時間を避けて通学しているから苦痛に感じたことはない。
仕方ない。世間話を挟んで、近江の機嫌が良くなるのを待つか。
「まぁオッサンの汗臭いのとかは気に入らんが、筋トレと思えば問題ない」
「そっ、そう。筋トレ
も大事だもんねっ」
よし、少しずつ饒舌になってきた。
都合の良いワードが出たので、〝別の大事なことあるよね〟感を匂わせつつ、話を続ける。
「そういえば定時で帰れるって言ってたけど、帰り遅めだよね。もう残業? トレーニングの時間ある?」
いくらなんでもこれは露骨すぎるか、と心配したけれど、近江は深く考えずに淡々と答えてくれた。多分狙いを定めた獲物のことで、頭がいっぱいなんだろう。
「いや、定時だ。帰りは電車を使ってないから遅くなるだけ」
「……は、どうゆうこと?」
意外な答えが返ってきて、僕は面を食らってしまった。その一瞬の隙を見逃さず、出汁巻き卵の1つをまんまと近江に奪われてしまう。気づいた時には、もう彼の口の中で咀嚼されていた。
「んグ……職場から走って帰るんだよ、俺。それでトレーニングにしてる」
…………。
核心へ迫る前に、思いがけない形で解決してしまった。
近江の奴、しっかり努力しているじゃないか。確かコイツの職場って、ここから12キロぐらい先だったよな? しかも一日労働した後に走っている分、僕らよりも負荷がかかった十分すぎるトレーニングだ。
それなのにサボってるだなんて疑って……。日向だって一緒に――と、そこで数刻前に聞いた奴の言葉がふと蘇った。
〝とりあえず朝に見かけたことはない〟
とりあえず朝にって……まさかアイツ、知ってて黙ってた?
クソ、実戦鍛錬で出し抜いた仕返しか。――いや、これは近江が自発的にやっていることだ、日向が教える筋はない。だから奴は敢えて言わなかったんだ。
「別に驚くことじゃないだろ、時間を有効活用してるだけだし。ってか今日の出汁巻きも旨いな」
「あぁ……、うん。良かったらシシャモも食べなよ」
知らなかったとはいえ罪悪感に苛まれて、ふっくらと焼けたシシャモを差し出す。子持ちで丸々としていて、なかなか食べ応えのあるやつだ。
すると近江はキョトンと目を点にして僕を見つめた。もしかして、疑ったことバレたか。
「何か今日、気前いいじゃん安芸。もしかして和泉とデートか?」
「……ふざけるな、やっぱり返せ」
怪しい笑みを浮かべる近江を睨みつけ、僕はシシャモを取り返した。
それから更に1週間後、各々のトレーニングもかなり定着してきた頃だった。
この日、僕は近江にダンベルを借りて、部屋で軽いトレーニングをしていた。やり始めは筋肉痛に悩まされたけれど、今では10キロのダンベルでも軽々と上下運動できるまでになった。ムキムキになるつもりはないけど、腕の筋肉も少しついてきたような気がする。
そんな中、スマホの着信が鳴り響いた。汗を拭きながら画面を覗けば、目に入ったのは『武蔵』の二文字。
瞬間、一気に緊張が走った。武蔵とはメールのやり取りこそ何度かしているけど、直接話すのは彼が東京に帰る日以来だ。これは余程緊急の連絡に違いない。
「もしもし、武蔵さん? 何かありま――」
『ぎゃあぁぁ……ッ! アッキィイ~、助けてムサシがっ……んNoooooo~~ッ!!』
ほとんど悲鳴のような絶叫に、鼓膜が破れそうで思わず耳から端末を離した。
それは武蔵の声ではなかった。まず彼は僕のことを〝アッキー〟なんて呼ばないし、この英語混じりの日本語は完全にあのお調子者のものだろう。
「えっ、純……!? どうしたんだ、何かあったのか!?」
何故、彼が武蔵の携帯から? と疑問はあるが、この叫びは尋常でない。二人がメストに襲撃されているのではないかと、最悪の状況が過ぎって僕は必死に彼へ呼びかけた。
でも、しばらく悲鳴が聞こえた後、『いい加減に返しなさい』という純とは違う声が耳に入った。携帯の持ち主であるその柔らかい声は、特に切羽詰まっている様子もない。電話の向こうで『
Ack……!』と悲しむ声と、盛大な溜息が続く。
『すみませんねぇ、安芸君。電話をかけた瞬間に、純君に奪われてしまいまして……』
「い、いえ……あの、大丈夫なんですか?」
『えぇ、ご心配なく。ちょーっとキツめの鍛錬をしているだけですから』
なるほど、絶叫の原因はアナタでしたか。確かに純を連れ帰って、鍛え直すと張り切っていたっけ。
軽快に笑っている武蔵だけど、純の悲鳴レベルな叫びから察するに、おそらく〝ちょーっと〟どころの鍛錬ではないということは分かった。これまで何もしてこなかった純が悪いけど、少し同情はする。
家に帰って親父さんと喧嘩したほうが、まだマシだったのでは。
『それより、和矢君から連絡が入りました。……ついにやってくれましたよ』
武蔵の声色が少し低くなり、空気が瞬時に引き締まる。
でも僕は何の話か分からなかった。
「何をですか?」
『おや、安芸君。純君の悲鳴でボケてしまったのですか?』
苦笑交じりにそう言われ、急に恥ずかしくなってしまう。
そう、いつもの僕ならピンと来たはず。彼らが探っていた念願の手がかりに。
改めて、武蔵が咳払いをしてこう告げた。
『判明したんです、――メストのアジトが』