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第3話 進め、それぞれの道

ー/ー



 翌日。

 菜々海と梓は都内でショッピングを楽しむため、電車に揺られていた。

 生憎、車内は近くの公園に向かうものと見られる花見客でごった返しており、二人は吊り革に掴まっていた。

「あったま痛い……」

 梓が吊り革にもたれるようにして、頭を抑えた。

「あっちゃんは飲みすぎなんだよ。ひとりでビール、チューハイ、焼酎まで開けちゃうんだから。顔が赤くならないからって調子に乗りすぎ」

「菜々海が弱いだけよ」

「あっちゃんが無双すぎるの」

「せっかく菜々海と買い物デートなのにぃ……」

「着いたらひとまず休憩しようか」

「そうしてもらえると助かる」

 昨晩、梓に問い詰められた菜々海は航星に抱いた恋心を告白した。

「どうして今まで相談してくれなかったのよ」

「卒業式の日にこの気持ちが初恋だったとわかったんだもの」

 正直に告げると、梓は眉根を寄せて今にも泣き出しそうな表情になった。

「菜々海のつらい気持ちに気づいてあげられなくてごめん」

 それから梓はアルコールを飲みに飲んで、さんざん菜々海に絡んだあと、ひとり泣きながら酔いつぶれた。

「恩田航星が都内の大学にいるらしいよ」

 意識を手放す前に梓が教えてくれたが、航星がどこの大学に通っていようと、菜々海にはあまり関係のないことだった。

 眠りについた梓の涙を拭いながら、この優しい親友が自分を思う温かい心に触れ、菜々海は拒絶し続けてきた未来を受け入れようと心に決めたのだ。

 終わったはずの恋を惰性で望むのはもうやめにして、自分で作り出した、未来と過去を隔てる壁を乗り越える権利はいつも手の中にあったことに気がついたのだから。

 菜々海は二日酔いの友人に優しい眼差しを向けたあと、ふと同じ車両の離れに視線を投げた。

 ドア付近に同じように吊り革に掴まった青年が立っている。

 柔らかそうな黒髪の、シンプルな装いをした青年だ。

 背を向けてはいるが、見間違えるはずはない。

 菜々海が三年間見つめ続けた華奢な背中。見れば心が凪いだ背中。

「どした?」

 呆然とする菜々海の視線を辿った梓は、「恩田航星(おんだこうせい)!」と小さく叫んだ。

「運命かも。一緒に声かけに行こうよ」

「あっちゃん、あたし壁を越えるわ」

 そう言うと菜々海は声を張り上げた。

「Y県立U高校三年G組十番、恩田航星君!」

 隣の梓はぎょっとした。乗客の視線が菜々海に注がれる。

「三年G組二十番、坂下奈々海。ずっと好きでした」

 航星の瞳に菜々海が少しでも映っているのか怯えが先立ち、アルバムを封印したけれど、振り返った航星は、確かに菜々海を捉えていた。

 ドア越しでもなく、アルバム越しでもなく、瞳と瞳が交錯し合った。航星の驚きに揺れる瞳。

「卒業、おめでとう」

 言えなかった言葉。別れの言葉。ようやく口にすることができた。

 さよなら──。

 電車のドアが開いた。菜々海は、航星が表情を緩め、微笑む前にホームへ飛び降りた。背後で梓の菜々海を呼ぶ声がするが、構わず改札を抜け、春爛漫の河川敷まで全速力で駆け下りた。

 人はこの世に生まれ出た瞬間から、強制的に列車に乗せられ、未来に向かって突き進む。最終的に死という終着駅に辿り着くまで、一体、何度変化するのだろう。

 変化とは歩を進めること。

 一度でも歩みを止めてしまったものにとって再び踏み出すことは、膨大な勇気が必要だと錯覚する。

 カットしたばかりの髪が伸びるように、整えた爪も伸びてしまう。病に倒れれば、快復もする。煩悶もすれば、翌日は爽快な気分になる時もある。実際はそれもごく当たりの前の変化で、わずかでも確かな一歩なのだ。

 不変など有り得ない。過去を思い出に変えていかなければ、人は先へは進めない。けれど、思い出を捨てても、決して忘れてはならない。自分が重ねた時間のすべてを受け止めていくしかない。

 時に行く手を阻むものを振り払い、失敗を成長の糧にして、人は生きていく。

 菜々海の立ち止まった年月は、夢でも幻でもない。時間の無駄でもなければ、徒労でもない。真実で、尊く価値あるものだったと今ならわかる。

「待ってよ、菜々海」

 息せき切ってやって来た梓を、菜々海は振り返った。両手を振り上げた。

「バンザーイ!」

「ちょっとやめてよ、恥ずかしいって。人が見てる」

 梓が困惑して言った。だが、やめなかった。笑った。止まらない涙が頬を濡らした。それを見た梓は、唇を一文字にして、菜々海の手をしっかりと握る。

「「バンザーイ!」」

 二人は何度も腕を振り上げては下げ、振り上げては下げ、桜の散る青い空を仰いだ。その手が白い雲を掴むまで。この手で未来を掴むまで。

 届かなければ、足で踏み出せばいい。足で進み、この手で掴む。

 菜々海は確かに未来へ踏み出したのだ。

 春の祝福の中で。




 * * * * * 




 時間をください。

 あなたを忘れぬよう書き留めておきます。

 いつか、漠然とした記憶で辿るようになる前に、鮮明にあなたを想った軌跡をここに記しておきたいのです。

 あなたを踏み台にして一歩を踏み出すあたしを、ここで覚えておきたいのです。

 あの頃、あたしはあなたが好きでした。



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 翌日。
 菜々海と梓は都内でショッピングを楽しむため、電車に揺られていた。
 生憎、車内は近くの公園に向かうものと見られる花見客でごった返しており、二人は吊り革に掴まっていた。
「あったま痛い……」
 梓が吊り革にもたれるようにして、頭を抑えた。
「あっちゃんは飲みすぎなんだよ。ひとりでビール、チューハイ、焼酎まで開けちゃうんだから。顔が赤くならないからって調子に乗りすぎ」
「菜々海が弱いだけよ」
「あっちゃんが無双すぎるの」
「せっかく菜々海と買い物デートなのにぃ……」
「着いたらひとまず休憩しようか」
「そうしてもらえると助かる」
 昨晩、梓に問い詰められた菜々海は航星に抱いた恋心を告白した。
「どうして今まで相談してくれなかったのよ」
「卒業式の日にこの気持ちが初恋だったとわかったんだもの」
 正直に告げると、梓は眉根を寄せて今にも泣き出しそうな表情になった。
「菜々海のつらい気持ちに気づいてあげられなくてごめん」
 それから梓はアルコールを飲みに飲んで、さんざん菜々海に絡んだあと、ひとり泣きながら酔いつぶれた。
「恩田航星が都内の大学にいるらしいよ」
 意識を手放す前に梓が教えてくれたが、航星がどこの大学に通っていようと、菜々海にはあまり関係のないことだった。
 眠りについた梓の涙を拭いながら、この優しい親友が自分を思う温かい心に触れ、菜々海は拒絶し続けてきた未来を受け入れようと心に決めたのだ。
 終わったはずの恋を惰性で望むのはもうやめにして、自分で作り出した、未来と過去を隔てる壁を乗り越える権利はいつも手の中にあったことに気がついたのだから。
 菜々海は二日酔いの友人に優しい眼差しを向けたあと、ふと同じ車両の離れに視線を投げた。
 ドア付近に同じように吊り革に掴まった青年が立っている。
 柔らかそうな黒髪の、シンプルな装いをした青年だ。
 背を向けてはいるが、見間違えるはずはない。
 菜々海が三年間見つめ続けた華奢な背中。見れば心が凪いだ背中。
「どした?」
 呆然とする菜々海の視線を辿った梓は、「|恩田航星《おんだこうせい》!」と小さく叫んだ。
「運命かも。一緒に声かけに行こうよ」
「あっちゃん、あたし壁を越えるわ」
 そう言うと菜々海は声を張り上げた。
「Y県立U高校三年G組十番、恩田航星君!」
 隣の梓はぎょっとした。乗客の視線が菜々海に注がれる。
「三年G組二十番、坂下奈々海。ずっと好きでした」
 航星の瞳に菜々海が少しでも映っているのか怯えが先立ち、アルバムを封印したけれど、振り返った航星は、確かに菜々海を捉えていた。
 ドア越しでもなく、アルバム越しでもなく、瞳と瞳が交錯し合った。航星の驚きに揺れる瞳。
「卒業、おめでとう」
 言えなかった言葉。別れの言葉。ようやく口にすることができた。
 さよなら──。
 電車のドアが開いた。菜々海は、航星が表情を緩め、微笑む前にホームへ飛び降りた。背後で梓の菜々海を呼ぶ声がするが、構わず改札を抜け、春爛漫の河川敷まで全速力で駆け下りた。
 人はこの世に生まれ出た瞬間から、強制的に列車に乗せられ、未来に向かって突き進む。最終的に死という終着駅に辿り着くまで、一体、何度変化するのだろう。
 変化とは歩を進めること。
 一度でも歩みを止めてしまったものにとって再び踏み出すことは、膨大な勇気が必要だと錯覚する。
 カットしたばかりの髪が伸びるように、整えた爪も伸びてしまう。病に倒れれば、快復もする。煩悶もすれば、翌日は爽快な気分になる時もある。実際はそれもごく当たりの前の変化で、わずかでも確かな一歩なのだ。
 不変など有り得ない。過去を思い出に変えていかなければ、人は先へは進めない。けれど、思い出を捨てても、決して忘れてはならない。自分が重ねた時間のすべてを受け止めていくしかない。
 時に行く手を阻むものを振り払い、失敗を成長の糧にして、人は生きていく。
 菜々海の立ち止まった年月は、夢でも幻でもない。時間の無駄でもなければ、徒労でもない。真実で、尊く価値あるものだったと今ならわかる。
「待ってよ、菜々海」
 息せき切ってやって来た梓を、菜々海は振り返った。両手を振り上げた。
「バンザーイ!」
「ちょっとやめてよ、恥ずかしいって。人が見てる」
 梓が困惑して言った。だが、やめなかった。笑った。止まらない涙が頬を濡らした。それを見た梓は、唇を一文字にして、菜々海の手をしっかりと握る。
「「バンザーイ!」」
 二人は何度も腕を振り上げては下げ、振り上げては下げ、桜の散る青い空を仰いだ。その手が白い雲を掴むまで。この手で未来を掴むまで。
 届かなければ、足で踏み出せばいい。足で進み、この手で掴む。
 菜々海は確かに未来へ踏み出したのだ。
 春の祝福の中で。
 * * * * * 
 時間をください。
 あなたを忘れぬよう書き留めておきます。
 いつか、漠然とした記憶で辿るようになる前に、鮮明にあなたを想った軌跡をここに記しておきたいのです。
 あなたを踏み台にして一歩を踏み出すあたしを、ここで覚えておきたいのです。
 あの頃、あたしはあなたが好きでした。