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第2話 アルバムの中のあなた

ー/ー



「あっちゃん、あたしたち同じクラス!」

 高校の入学式。昇降口にクラス替えの発表が貼り出されていた。

 毎日ほぼ同じメンバーと顔を突き合わせていた小中学校とは異なり、高校は他地区出身の生徒が多いため、新種の生物の名前かと見誤ってしまうほど見慣れない名前が整然と並んでいる。

 計り知れない不安はあったが、梓と同じ一年G組になった菜々海は浮かれていた。

 一つ息を吸い、唾を飲み下す。教室の前に立つと、ドアの向こうに男子生徒がいた。

 それが恩田航星(おんだこうせい)だった。

 教室に入ろうとする菜々海と、出ようとする航星。

 ドアのガラス越しに視線が確かに重なった。途端、胸がギュッと狭くなるような息苦しさに似た痛みを覚えた。

 白皙(はくせき)の少年。切れ長の瞳は優しげに菜々海を捉えていた。

 ドアが開く。航星は無言で体を斜めにして、菜々海に道を譲った。

 菜々海は直立不動のまま、どう反応したらいいのかわからなかった。

「ほら。菜々海、ぼさっとしないの」

「う、うん」

 梓に背を押され、一年G組の入り口を潜った。航星とすれ違う。

 これまで感じたことのない穏やかで切ない風が動き、思わず振り返った菜々海は航星を目で追っていた。細くて狭い背中を。

 それから菜々海と航星は、接点らしい接点や会話らしい会話もなく日々を過ごした。

 航星は凪いだ水面のように物静かで寡黙な男子生徒だったから、クラスメイトでありながらも菜々海はいつしか空気のような存在と感じるようになり、目にも留まらなくなった。そうして、胸の痛みもすっかり忘れてしまった頃、二年生に進級した。

 小さな変化が起こったのはすっかり教室にも馴染んだ五月。

 きっかけは担任教師の気まぐれで行われた席替えだった。くじ運のいい菜々海は窓際の前から二番目の席を引き当てにんまり。うららかな春の木漏れ日と薫風を含んだ心地よい風が入ってくる特等席だからだ。

 その日、好環境も手伝って、快適な眠りから目覚めた菜々海は寝ぼけ眼をこすって驚いた。

 自習の授業が終了し、休み時間になっていたばかりではない。

 前席の佐々木の席に誰かが座っている。

 すぐに佐々木ではないとわかったのは、肩幅のある佐々木とは違い、華奢な背中だったからだ。

 一年前の航星との出会いが脳裏をかすめた。
 
 あの背中──また、同じクラスだったんだ。

 航星の存在にようやく気づいた自分が、何かとんでもない大失敗をしたかのように恥ずかしく感じた。

「コウちゃん、勝手に俺の席に座るなよ」

 所用から戻ってきた佐々木が「どけよ」とぶっきらぼうに言うと、

「やだよ。この席、すごく居心地がいいんだ。春風が優しくて」

 航星の覚えず低い声が菜々海の胸を震わせた。
 
 仕方がないやつだな。諦めの表情を浮かべた佐々木は航星の横に立ち、楽しげに会話を始める。

 ──恩田君は佐々木君の友達だったんだ。

 菜々海は初めて知った。

 すると、つま先から沸き起こった正体不明の熱が頭のてっぺんまで一気に上り詰め、航星の整った横顔が直視できなくなった。

 平常心を保つため、咄嗟に後ろの梓に話しかけたが、狂った歯車のようにテンションが空回りして、いつも以上にはしゃいでしまった。なぜこんなにも気持ちが波立ったのだろうと自己嫌悪に陥ったほどだった。

 出席番号十番、恩田航星。弓道部。

 空気のように目立たないクラスメイトから、菜々海の心をかき乱す人へと認識に変化があった。

 夏休み中、課題に取りかかっているときも、テレビを見て大笑いしているときも、脳裏に航星が何度も現れた。

 消そうとしても消えない人。気になる人。

 果たして、航星の瞳に、菜々海の姿は映っているのだろうか?

 いつしかそんなことを考え始めたが、確かめることが怖くて、菜々海は航星の視界に飛び込むのを躊躇(ためら)うようになっていた。

 そんな怯えから目を合わせられないというのに、修学旅行、文化祭、事あるごとに航星の姿を探していた。あたし、どうかしちゃってる──。

 高校生活最後の年は大学受験を配慮した学校側の方針でクラス替えは行われず、二年と同じ顔ぶれで三年G組に進級した。

 六月になって菜々海はようやく胸のざわめきから解放されるときがやってきた。席替えで航星と前後の席になったのだ。

 授業中、休み時間と、目の前にはいつも航星の背中があるから視線を交わす怖れはなく、白のワイシャツが眩しい背中をぼんやり見つめているときは心が波立つ回数も減って、菜々海はひどく安堵した。

 不思議なことに家でもよく眠れるようになり、そんなときは決まって航星の背中が夢に現れた。背中は平気なのに、なぜ顔を合わせられないのだろう──。

 そうして駆け足で過ぎていった季節。周囲はあっという間に受験に追い立てられていった。

 もちろん、航星の希望する進路など知らないまま、最後にすれ違ったのは卒業式の放課後だった。

 菜々海は航星の背中を振り返って悟った。

 これは初恋だったのだ、と。

 そして、初恋だと気づいた瞬間が、恋の終わりでもあることを。

 乾いたままの頬を、まだ冬の色をまとった春風がさらさらと撫で、去ってゆく。

「卒業、おめでとう」

 かけそびれた別れの言葉は航星の背中が見えなくなってから、自分にだけ聞こえる声になった。

 きっと素敵な未来が待っている。

 自分は初恋に終止符を打って、新しいステージへ踏み出していくのだ。

 そのときの菜々海はそう信じていた。


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「あっちゃん、あたしたち同じクラス!」
 高校の入学式。昇降口にクラス替えの発表が貼り出されていた。
 毎日ほぼ同じメンバーと顔を突き合わせていた小中学校とは異なり、高校は他地区出身の生徒が多いため、新種の生物の名前かと見誤ってしまうほど見慣れない名前が整然と並んでいる。
 計り知れない不安はあったが、梓と同じ一年G組になった菜々海は浮かれていた。
 一つ息を吸い、唾を飲み下す。教室の前に立つと、ドアの向こうに男子生徒がいた。
 それが|恩田航星《おんだこうせい》だった。
 教室に入ろうとする菜々海と、出ようとする航星。
 ドアのガラス越しに視線が確かに重なった。途端、胸がギュッと狭くなるような息苦しさに似た痛みを覚えた。
 |白皙《はくせき》の少年。切れ長の瞳は優しげに菜々海を捉えていた。
 ドアが開く。航星は無言で体を斜めにして、菜々海に道を譲った。
 菜々海は直立不動のまま、どう反応したらいいのかわからなかった。
「ほら。菜々海、ぼさっとしないの」
「う、うん」
 梓に背を押され、一年G組の入り口を潜った。航星とすれ違う。
 これまで感じたことのない穏やかで切ない風が動き、思わず振り返った菜々海は航星を目で追っていた。細くて狭い背中を。
 それから菜々海と航星は、接点らしい接点や会話らしい会話もなく日々を過ごした。
 航星は凪いだ水面のように物静かで寡黙な男子生徒だったから、クラスメイトでありながらも菜々海はいつしか空気のような存在と感じるようになり、目にも留まらなくなった。そうして、胸の痛みもすっかり忘れてしまった頃、二年生に進級した。
 小さな変化が起こったのはすっかり教室にも馴染んだ五月。
 きっかけは担任教師の気まぐれで行われた席替えだった。くじ運のいい菜々海は窓際の前から二番目の席を引き当てにんまり。うららかな春の木漏れ日と薫風を含んだ心地よい風が入ってくる特等席だからだ。
 その日、好環境も手伝って、快適な眠りから目覚めた菜々海は寝ぼけ眼をこすって驚いた。
 自習の授業が終了し、休み時間になっていたばかりではない。
 前席の佐々木の席に誰かが座っている。
 すぐに佐々木ではないとわかったのは、肩幅のある佐々木とは違い、華奢な背中だったからだ。
 一年前の航星との出会いが脳裏をかすめた。
 あの背中──また、同じクラスだったんだ。
 航星の存在にようやく気づいた自分が、何かとんでもない大失敗をしたかのように恥ずかしく感じた。
「コウちゃん、勝手に俺の席に座るなよ」
 所用から戻ってきた佐々木が「どけよ」とぶっきらぼうに言うと、
「やだよ。この席、すごく居心地がいいんだ。春風が優しくて」
 航星の覚えず低い声が菜々海の胸を震わせた。
 仕方がないやつだな。諦めの表情を浮かべた佐々木は航星の横に立ち、楽しげに会話を始める。
 ──恩田君は佐々木君の友達だったんだ。
 菜々海は初めて知った。
 すると、つま先から沸き起こった正体不明の熱が頭のてっぺんまで一気に上り詰め、航星の整った横顔が直視できなくなった。
 平常心を保つため、咄嗟に後ろの梓に話しかけたが、狂った歯車のようにテンションが空回りして、いつも以上にはしゃいでしまった。なぜこんなにも気持ちが波立ったのだろうと自己嫌悪に陥ったほどだった。
 出席番号十番、恩田航星。弓道部。
 空気のように目立たないクラスメイトから、菜々海の心をかき乱す人へと認識に変化があった。
 夏休み中、課題に取りかかっているときも、テレビを見て大笑いしているときも、脳裏に航星が何度も現れた。
 消そうとしても消えない人。気になる人。
 果たして、航星の瞳に、菜々海の姿は映っているのだろうか?
 いつしかそんなことを考え始めたが、確かめることが怖くて、菜々海は航星の視界に飛び込むのを|躊躇《ためら》うようになっていた。
 そんな怯えから目を合わせられないというのに、修学旅行、文化祭、事あるごとに航星の姿を探していた。あたし、どうかしちゃってる──。
 高校生活最後の年は大学受験を配慮した学校側の方針でクラス替えは行われず、二年と同じ顔ぶれで三年G組に進級した。
 六月になって菜々海はようやく胸のざわめきから解放されるときがやってきた。席替えで航星と前後の席になったのだ。
 授業中、休み時間と、目の前にはいつも航星の背中があるから視線を交わす怖れはなく、白のワイシャツが眩しい背中をぼんやり見つめているときは心が波立つ回数も減って、菜々海はひどく安堵した。
 不思議なことに家でもよく眠れるようになり、そんなときは決まって航星の背中が夢に現れた。背中は平気なのに、なぜ顔を合わせられないのだろう──。
 そうして駆け足で過ぎていった季節。周囲はあっという間に受験に追い立てられていった。
 もちろん、航星の希望する進路など知らないまま、最後にすれ違ったのは卒業式の放課後だった。
 菜々海は航星の背中を振り返って悟った。
 これは初恋だったのだ、と。
 そして、初恋だと気づいた瞬間が、恋の終わりでもあることを。
 乾いたままの頬を、まだ冬の色をまとった春風がさらさらと撫で、去ってゆく。
「卒業、おめでとう」
 かけそびれた別れの言葉は航星の背中が見えなくなってから、自分にだけ聞こえる声になった。
 きっと素敵な未来が待っている。
 自分は初恋に終止符を打って、新しいステージへ踏み出していくのだ。
 そのときの菜々海はそう信じていた。