天高く突き抜けるヴァイオリンの調べ。
薄紅色の開花を歓迎するように、春風がその音色を乗せて槙尾川の水面を滑り、緩やかな波紋を作る。
和矢君・広君の二人とこの河川敷で演奏をしてから、あまりの清々しさがクセになってしまい、時々一人で練習場として使うようになった。実は、屋外で楽器練習をすることにはメリットがある。音の反響がない分、自分の〝素の音〟がよく聞こえるから、無意識にごまかしていた部分を知ることができるのだ。加えて、音を遠くに飛ばす鍛錬もできる。
この河川敷は広さも十分にあるから、騒音の迷惑になることもない。通行人の注目を浴びる恥ずかしさを乗り越えられれば、練習場としては最高のポイントだ。
日曜日の今日も10時から楽団の練習が始まる。だから私はここに朝8時から立っていた。本番が近いコンサートの曲を中心に練習をしていたけれど、ひとしきり見直しを終えた今は、いつもの
十八番を弾いている。
すると、曲の中間くらいに差し掛かった頃。私の音に寄り添うように、花形と呼ばれるに相応しい華やかでハリのある音色が、同じメロディーを伝い始めた。一瞬驚いたけれど、背後から飛んでくる音の正体には思い当りがあり、私は気にせず相手の姿を確認しないまま演奏を続けた。
終盤。彼は同じ主旋律を辿るユニゾンから、彼自身のセンスによるハモりへと演奏を切り替える。それだけで、すっかり馴染みあるはずのガヴォットが『私、こんな顔もあるのよ』といわんばかりの異なる姿を見ているように感じた。なんて心地よいハーモニーを作り出すのだろう。
音楽は、そんな少しのスパイスを加えるだけで色を変える。だからこそ面白く、追求の甲斐があるもので。
演奏を終え弓を弦から離すと、私はゆっくりと後ろを振り返った。昨日の激戦明けだというのに、クラシック療養のお陰か彼からは疲労のかけらも感じられない。左腕の怪我と体調のほうも心配はなさそうだ。
「おはようございます、武蔵さん」
「おはようございます、和泉ちゃん。すみません、邪魔する気はなかったんですが、貴女の音を聴いていたら……つい」
朝日を反射して輝きを放つトランペットを片手に、苦笑を浮かべながら武蔵さんはそう言った。「いえ」と短い返事をすると、彼は安堵したように表情を穏やかにした。
「ニュース見ました。あのホテルに多額の寄付があったとか……。あれは武蔵さんですよね?」
それは彼が宿泊しているホテルの話だ。商との戦いの舞台となってしまったあのホテルには、駐車場と正面玄関前にその爪痕を盛大に残していた。その責任を問われないように私たちは昨日、武蔵さんに全てを任せて逃げてきてしまった。
去り際、確かに武蔵さんは〝いざとなったら僕が何とかします〟と言っていたけど、その〝何とか〟の方法がまさか匿名で高額の寄付とは……、彼にしかできない荒業だろう。
「えぇ、ご迷惑をおかけした責任は取らなければなりませんからね。そういった資金が必要になることを見込んで、僕は自分の事業を立ち上げたんです」
「そうだったんですか……。でも、経営への影響は大丈夫なんですか?」
ニュースでは〝多額の〟と伝えられただけで、正確な金額は公表されていない。でも恐らくは破壊してしまったロータリーなどはもちろん、駐車場に停まっていた他人の車などの分まで補える修理代を払っているはずだ。
加えて武蔵さんは、日向君たちのシェアハウスの家賃まで立て替えると申し出ている。現段階で既に、目を見張るほど高額の出費をしていることは間違いないはずだ。
すると彼は満面の笑みで「大丈夫ではないですぅ」と答えたので、私は思わずズッコケそうになった。……てっきり〝ご心配には及びません〟という返事が来ると思ったのに。
「もちろん、即負債を抱えるほどのダメージにはなりませんが、無限に資金があるわけでもないのは確かです。ですから支出のバランスを見極めながら、適切な判断をしていきますよ」
なるほど。要は財布の紐を締める時は締める、と彼は言っているのだ。
私が感心していると、武蔵さんは改めるように小さく咳払いをして、真っ直ぐな視線を向けた。
「というわけで、今回の支出に伴って節約をするために、僕は一度東京へ帰ろうと思います。ホテルの宿泊代もバカになりませんからね」
「……え?」
想定外の報告だった。彼は日中、日向君たちのシェアハウスを使用する許可も取っていて、この先も一緒に行動してくれるものだと思っていた。あれからまだ一日しか経っていないのに、もう帰ってしまうという。
先導者としても私なんかより武蔵さんのほうが適任であることは、火を見るより明らかだろう。それに彼は日向君たちにとっても心強い存在であるはず。
「勝手を言って、すみません。ですがもう既に、ホテルのチェックアウトは済ませてあります」
「そんな……、考え直してもらえないですか? 私、武蔵さんには傍にいてほしいです」
かなり大胆な発言だけど、これは本心だ。
彼はレンズ越しに見える漆黒の瞳を丸めて驚いていたけれど、すぐに緩やかなカーブを描いて微笑みに変えた。
「嬉しいですねぇ、そう言っていただけるなんて。実は他の三人へ先に報告をしてきたのですが、彼らの心配は家賃のことだけでしたからねぇ……。言い出しっぺは僕ですし、東京に帰るのも僕のワガママなので、その契約は継続すると言ったら〝じゃ、またな!〟で終わりですよ? まったく、薄情なんですから」
まぁ、安芸君だけは残念そうな顔をしてくれましたが……、と武蔵さんは続けた。彼ららしいというか、何というか。
でも三人が引き留めなかったのは不思議だ。武蔵さんがいてくれたほうが、絶対に戦力となるのに。
そんな心境を悟ってか、武蔵さんは「大丈夫です」と告げる。
「和矢君たちと一緒ですよ。これが最後ではありませんし、いざという時はすぐ駆けつけます。だから正直、別れを惜しむ必要もないのです。僕が和泉ちゃんへ会いに来たのはサヨナラの挨拶ではなく……、改めてきちんと謝りたかったからです」
そう言って苦笑を浮かべた武蔵さんと私の間に、暖かな風が吹き抜けていった。