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◇7-6番外◇ enharmonic ~同じ音を持つ、異なる君

ー/ー



「おい和泉、いい加減に……っ!?」

 防音ブースを飛び出し、追いかけてきた和泉を返した後、再び俺に近づいてきた人物にそう吐き捨てて俺は顔を上げた。
 だがそこで目にしたのは予想した姿ではなく、似ても似つかぬ優男だった。

「おや、やはりそうですか。君は日向君ですね?」

 男は俺の名を口にし、傘を差し出した中腰の体制で笑みを浮かべた。細身で高身長、アッシュグレーの髪、漆黒の瞳に楕円型の眼鏡、上着は何故か白衣といった風変わりの男にはどこか見覚えがある。
 それは勿論、知人や親戚といった類いのものではなく、遠い昔の記憶。俺がまだ〝俺〟ではなかった頃の記憶だ。

「まさか。武蔵っ……副長、なんです、か?」
「はい、そうです。お久しぶりですねぇ、本来は〝初めまして〟ですけど」

 微妙な敬語で答える俺。前世からの付き合いといえ、現世では初対面。見た感じ年上でありそうな男を、流石に呼び捨てにはできなかった。ましてや前世での相手は完全に上司だ。和泉も総長だが、アイツと違って親しい間柄でもなかったから、話し方には相当迷った。

「あぁ、いいんですよ気楽に話してもらって。副長だったのは前世の話ですし、今の僕にそんな権限はありませんよ。それにしても君、どうしてそんなにズブ濡れなんですか? 僕を和泉様と思ったようですが、やはり彼女とはもう合流したんです?」

 終始丁寧に話す武蔵だが、前世の俺と和泉の関係は当然奴も知っており、最後は少しニヤつきながら問う。生憎、いま最もされたくない話題に俺は一気に気持ちが冷め、絡むと面倒くさそうな空気を醸し出すこの男を振り払って移動しようとした。
 だが奴は素早く俺の腕を掴むと、その穏やかな表情を崩すことなく引き寄せた。顔とは正反対に、逃すまいと腕に加わる力は相当強い。

「まぁまぁ、そんなに急がずに。折角の再会なんですから、ゆっくり話をしましょうよ。僕、近くのホテルに泊まってるんです。行く場所がないのなら、そこでどうですか。このままでは日向君も風邪を引いてしまいますし」

 キラリと光る眼鏡のレンズ越しに、全てを見透かすような視線を浴びて身体が硬直した。何が〝気楽に〟だ、生まれ変わっても副長は副長じゃねぇか。コイツ、俺が置かれている状況を一瞬で見抜きやがった。
 心底放っておいてほしかったが、正直頭からつま先まで完全に冷え切っていて、温かい湯船へ浸かりたい願望に心が揺らぐ。濡れて体に張り付くシャツの不快感からも解放されたいところ。

 「ね?」と微笑む武蔵に押され、俺は仕方なく奴が泊まるホテルの部屋へ、転がり込むことになったのだ。


 客室へ着くなり、シャワールームへ押し込まれて冷えた身体を温め、意識の高そうな奴が飲んでるイメージしかないハーブティーを勧められる。
 〝カモミールティーです〟といわれたが、そんな洒落たもん飲んだことのない俺の舌が受け入れるはずもなく、カップに口を付けたのは最初の1回だけだ。

「さて。ではとりあえず、君たちがどこまで進んでいるのか伺いましょうか」
「べ、別に俺は和泉とは何とも……」

 やはりそう来たかと何の気もなしに答えると、武蔵は目を見開いてクスクスと笑い声を上げた。

「違いますよ、メスト討伐に向けてどこまで進捗したかという話です。それとも、そんなに惚気話を聞かせたいのですか?」
「ッ……だから違ぇよ! 紛らわしい言い方すんな馬鹿!」
「酷いですねぇ、勝手に勘違いしたのは日向君じゃないですか」

 わざとらしく肩を竦める武蔵に、俺は言い返すこともできずに舌打ちをして引き下がる。
 くそ、さっきから完全にコイツのペースに飲まれてるじゃねぇか。

「話を戻しましょう。君は和泉様と再会して、既にメストとも一戦を交えている。それは間違いないですね?」
「……あぁ。俺が最初にコンタクトを取ったのは安芸だ。アイツと一緒に和泉を探し出し、その後に近江とも合流した。ついでに言っておくと、陸前と陸中ともパイプはできている」

 そう告げると武蔵は感心と言わんばかりに「ほぅ」と呟いた。奴は俺たち四人が繋がっていることは見越していたが、陸前(和矢)陸中()までに及んでいたことが意外だったらしい。あの二人に出会えたのは、アイツらの行動力の賜だけどな。

 それから俺は、和泉には記憶復活(アウフレーベント)が働いてなかったことや、アイツが感じる音のズレのこと、そして五音衆が復活していることを話した。
 武蔵はカモミールティーを片手に、全ての話を興味深く聞いていた。時折見せる真剣な顔は、前世のコイツとちっとも変わっていないように感じる。

「そうですか。ご丁寧に五音衆まで僕らを追いかけてきたとなると、少々厄介ですね。しかし記憶がない和泉様に、よく君たちは封印呪文を思い出させましたね」
「あぁ。ちょっと手荒い真似はしたが、恐らくアイツは自分に眠る前世の潜在意識を……」

 そこまで言いかけて、俺は言葉を失った。武蔵が不思議そうに俺の顔を覗き込む。

 アイツの中には前世の和泉の〝魂〟自体は宿っている。俺はその可能性を信じ、アイツに自分の中に眠るソレへ語りかけるよう促した。何故なら俺が恋い焦がれて止まない〝前世の和泉〟は、困ってる奴を全力で助けるお人好しだとよく理解していたからだ。生まれ変わった自分の願いにも応えるだろうと確信していた。

 結果、アイツは封印呪文を思い出すことができた。が、そうしてアイツが前世の彼女と同等の存在へ近づくたびに、俺は〝現世(アイツ)〟の中に〝前世(彼女)〟の影を追いかけるようになってしまった。声色も眼差しも〝前世(彼女)〟の面影がチラつく。
 現世(アイツ)現世(アイツ)であり、前世(彼女)とは別人だと理解していたはずなのに。

 だから()()()、俺は安芸に譲ってしまった。俺なんかが「和泉(お前)和泉(お前)だ」と言ったところで、説得力なんかあるはずもない。

「もう俺は和泉(アイツ)を、どう受け入れたら良いのか、分かんねぇんだ……」

 その台詞を口に出していることにも、それを聞いた武蔵が小さく息を飲んだことにも気づかず、俺は静かに頭を抱えた。まるで途方もない闇の中を歩かされている気分だ。
 分からない。俺の心で眩しいくらいの輝かしい笑顔を向ける〝君〟は、どっちなんだ……?

「――君の目に映るもの。それが答えなのではありませんか?」

 暗闇に光が差し込むように、その凜とした声は俺の胸に真っ直ぐと突き刺さった。弾かれるように顔を上げると、呆れつつも優しい笑みを浮かべる副長の姿があった。

「君が何に悩んでいるのか、僕の想像にすぎませんが……。さっき君は〝自分(彼女)に眠る前世の潜在意識を〟と言いましたよね? 察するに、その潜在意識を呼び覚まし封印呪文を思い出したのなら、前世の意識が眠っているのは確かです」

 いまいち武蔵の言いたいことが分からず、俺は唖然として首を傾げるしかない。「そんなことは分かっている」と言い返すために口を開こうとすれば、〝聞きなさい〟とばかりに右手を挙げて制止されてしまった。

「しかし現状、彼女には前世の記憶がないのでしょう? ということは、潜在意識が前に出ない限り、彼女の精神は現世の彼女そのものに他ありません」
「はぁ? なに当たり前のこと言って……」
「馬鹿ですねぇ、まだ分かりませんか? 記憶がないのなら、彼女は前世の君を知りません。よって彼女は純粋に〝今〟の高杉日向という存在を信じ、命を預けていると断言できるのではありませんか」

 それなのに君が()()()()を見ていないだなんて、あまりに勝手だと思いませんか?

 武蔵は少し大げさに溜め息を吐きながら、そう続けた。
 その時、俺の脳裏には〝私、高杉君のチェロ好きだよ!〟と言ったアイツの真っ直ぐな瞳が浮かんだ。それはアイツが奏でるヴァイオリンの調べのように、純粋で気高く、美しかった。

 俺のチェロを聞いて喜んでくれたのは、〝現実の和泉(お前)〟だ。

「君が〝現世の日向〟であり、その心に湧く感情は他ならぬ君自身のものです。そして君の目に映るものが現実です。前世の存在があろうとなかろうと関係ありません。勿論、前世の記憶(彼女)も大事でしょうが、それに囚われすぎていると、現実の大切な瞬間を見逃してしまいますよ」

 出会ったばかりのはずなのに、武蔵の言葉は素直に俺の心に響き渡る。冷え切って固まった氷のような何かを、じんわりと溶かすように。……現実の大切な瞬間、か。

〝私、高杉君が戻るまで待ってる! 私たちのカルテットには、高杉君のチェロが必要だから……!〟

 無意識に口元に笑みが零れる。彼女が待っていてくれるなら、早く帰らねぇとな。
 そんな俺の様子を見て満足そうに笑った武蔵が何かシャクに触り、俺は咄嗟にとぼけたフリをした。

「あぁん? だから、俺は和泉とは何でもねぇって言ってるだろ。つーかお前、さっき俺に〝馬鹿〟っつったな?」

 急に逆ギレしだした俺に武蔵の笑顔が引き攣る。でも奴は俺の目を見てすぐに苦笑した。俺が心に掛かっていた闇から抜ける一歩を踏み出したことを、恐らく奴は理解したのだろう。

「んで、あと何が聞きたいんだよ。ライブが控えてるんだから、さっさとしろ」
「相変わらず、君は強引ですねぇ……。ん、今ライブと言いましたか?」


 そしてこの後、俺は武蔵の策略にまんまと乗らされ、後悔する羽目となるわけだが。



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「おい和泉、いい加減に……っ!?」
 防音ブースを飛び出し、追いかけてきた和泉を返した後、再び俺に近づいてきた人物にそう吐き捨てて俺は顔を上げた。
 だがそこで目にしたのは予想した姿ではなく、似ても似つかぬ優男だった。
「おや、やはりそうですか。君は日向君ですね?」
 男は俺の名を口にし、傘を差し出した中腰の体制で笑みを浮かべた。細身で高身長、アッシュグレーの髪、漆黒の瞳に楕円型の眼鏡、上着は何故か白衣といった風変わりの男にはどこか見覚えがある。
 それは勿論、知人や親戚といった類いのものではなく、遠い昔の記憶。俺がまだ〝俺〟ではなかった頃の記憶だ。
「まさか。武蔵っ……副長、なんです、か?」
「はい、そうです。お久しぶりですねぇ、本来は〝初めまして〟ですけど」
 微妙な敬語で答える俺。前世からの付き合いといえ、現世では初対面。見た感じ年上でありそうな男を、流石に呼び捨てにはできなかった。ましてや前世での相手は完全に上司だ。和泉も総長だが、アイツと違って親しい間柄でもなかったから、話し方には相当迷った。
「あぁ、いいんですよ気楽に話してもらって。副長だったのは前世の話ですし、今の僕にそんな権限はありませんよ。それにしても君、どうしてそんなにズブ濡れなんですか? 僕を和泉様と思ったようですが、やはり彼女とはもう合流したんです?」
 終始丁寧に話す武蔵だが、前世の俺と和泉の関係は当然奴も知っており、最後は少しニヤつきながら問う。生憎、いま最もされたくない話題に俺は一気に気持ちが冷め、絡むと面倒くさそうな空気を醸し出すこの男を振り払って移動しようとした。
 だが奴は素早く俺の腕を掴むと、その穏やかな表情を崩すことなく引き寄せた。顔とは正反対に、逃すまいと腕に加わる力は相当強い。
「まぁまぁ、そんなに急がずに。折角の再会なんですから、ゆっくり話をしましょうよ。僕、近くのホテルに泊まってるんです。行く場所がないのなら、そこでどうですか。このままでは日向君も風邪を引いてしまいますし」
 キラリと光る眼鏡のレンズ越しに、全てを見透かすような視線を浴びて身体が硬直した。何が〝気楽に〟だ、生まれ変わっても副長は副長じゃねぇか。コイツ、俺が置かれている状況を一瞬で見抜きやがった。
 心底放っておいてほしかったが、正直頭からつま先まで完全に冷え切っていて、温かい湯船へ浸かりたい願望に心が揺らぐ。濡れて体に張り付くシャツの不快感からも解放されたいところ。
 「ね?」と微笑む武蔵に押され、俺は仕方なく奴が泊まるホテルの部屋へ、転がり込むことになったのだ。
 客室へ着くなり、シャワールームへ押し込まれて冷えた身体を温め、意識の高そうな奴が飲んでるイメージしかないハーブティーを勧められる。
 〝カモミールティーです〟といわれたが、そんな洒落たもん飲んだことのない俺の舌が受け入れるはずもなく、カップに口を付けたのは最初の1回だけだ。
「さて。ではとりあえず、君たちがどこまで進んでいるのか伺いましょうか」
「べ、別に俺は和泉とは何とも……」
 やはりそう来たかと何の気もなしに答えると、武蔵は目を見開いてクスクスと笑い声を上げた。
「違いますよ、メスト討伐に向けてどこまで進捗したかという話です。それとも、そんなに惚気話を聞かせたいのですか?」
「ッ……だから違ぇよ! 紛らわしい言い方すんな馬鹿!」
「酷いですねぇ、勝手に勘違いしたのは日向君じゃないですか」
 わざとらしく肩を竦める武蔵に、俺は言い返すこともできずに舌打ちをして引き下がる。
 くそ、さっきから完全にコイツのペースに飲まれてるじゃねぇか。
「話を戻しましょう。君は和泉様と再会して、既にメストとも一戦を交えている。それは間違いないですね?」
「……あぁ。俺が最初にコンタクトを取ったのは安芸だ。アイツと一緒に和泉を探し出し、その後に近江とも合流した。ついでに言っておくと、陸前と陸中ともパイプはできている」
 そう告げると武蔵は感心と言わんばかりに「ほぅ」と呟いた。奴は俺たち四人が繋がっていることは見越していたが、|陸前《和矢》と|陸中《広》までに及んでいたことが意外だったらしい。あの二人に出会えたのは、アイツらの行動力の賜だけどな。
 それから俺は、和泉には|記憶復活《アウフレーベント》が働いてなかったことや、アイツが感じる音のズレのこと、そして五音衆が復活していることを話した。
 武蔵はカモミールティーを片手に、全ての話を興味深く聞いていた。時折見せる真剣な顔は、前世のコイツとちっとも変わっていないように感じる。
「そうですか。ご丁寧に五音衆まで僕らを追いかけてきたとなると、少々厄介ですね。しかし記憶がない和泉様に、よく君たちは封印呪文を思い出させましたね」
「あぁ。ちょっと手荒い真似はしたが、恐らくアイツは自分に眠る前世の潜在意識を……」
 そこまで言いかけて、俺は言葉を失った。武蔵が不思議そうに俺の顔を覗き込む。
 アイツの中には前世の和泉の〝魂〟自体は宿っている。俺はその可能性を信じ、アイツに自分の中に眠るソレへ語りかけるよう促した。何故なら俺が恋い焦がれて止まない〝前世の和泉〟は、困ってる奴を全力で助けるお人好しだとよく理解していたからだ。生まれ変わった自分の願いにも応えるだろうと確信していた。
 結果、アイツは封印呪文を思い出すことができた。が、そうしてアイツが前世の彼女と同等の存在へ近づくたびに、俺は〝|現世《アイツ》〟の中に〝|前世《彼女》〟の影を追いかけるようになってしまった。声色も眼差しも〝|前世《彼女》〟の面影がチラつく。
 |現世《アイツ》は|現世《アイツ》であり、|前世《彼女》とは別人だと理解していたはずなのに。
 だから|あ《・》|の《・》|時《・》、俺は安芸に譲ってしまった。俺なんかが「|和泉《お前》は|和泉《お前》だ」と言ったところで、説得力なんかあるはずもない。
「もう俺は|和泉《アイツ》を、どう受け入れたら良いのか、分かんねぇんだ……」
 その台詞を口に出していることにも、それを聞いた武蔵が小さく息を飲んだことにも気づかず、俺は静かに頭を抱えた。まるで途方もない闇の中を歩かされている気分だ。
 分からない。俺の心で眩しいくらいの輝かしい笑顔を向ける〝君〟は、どっちなんだ……?
「――君の目に映るもの。それが答えなのではありませんか?」
 暗闇に光が差し込むように、その凜とした声は俺の胸に真っ直ぐと突き刺さった。弾かれるように顔を上げると、呆れつつも優しい笑みを浮かべる副長の姿があった。
「君が何に悩んでいるのか、僕の想像にすぎませんが……。さっき君は〝|自分《彼女》に眠る前世の潜在意識を〟と言いましたよね? 察するに、その潜在意識を呼び覚まし封印呪文を思い出したのなら、前世の意識が眠っているのは確かです」
 いまいち武蔵の言いたいことが分からず、俺は唖然として首を傾げるしかない。「そんなことは分かっている」と言い返すために口を開こうとすれば、〝聞きなさい〟とばかりに右手を挙げて制止されてしまった。
「しかし現状、彼女には前世の記憶がないのでしょう? ということは、潜在意識が前に出ない限り、彼女の精神は現世の彼女そのものに他ありません」
「はぁ? なに当たり前のこと言って……」
「馬鹿ですねぇ、まだ分かりませんか? 記憶がないのなら、彼女は前世の君を知りません。よって彼女は純粋に〝今〟の高杉日向という存在を信じ、命を預けていると断言できるのではありませんか」
 それなのに君が|彼《・》|女《・》|自《・》|身《・》を見ていないだなんて、あまりに勝手だと思いませんか?
 武蔵は少し大げさに溜め息を吐きながら、そう続けた。
 その時、俺の脳裏には〝私、高杉君のチェロ好きだよ!〟と言ったアイツの真っ直ぐな瞳が浮かんだ。それはアイツが奏でるヴァイオリンの調べのように、純粋で気高く、美しかった。
 俺のチェロを聞いて喜んでくれたのは、〝現実の|和泉《お前》〟だ。
「君が〝現世の日向〟であり、その心に湧く感情は他ならぬ君自身のものです。そして君の目に映るものが現実です。前世の存在があろうとなかろうと関係ありません。勿論、前世の|記憶《彼女》も大事でしょうが、それに囚われすぎていると、現実の大切な瞬間を見逃してしまいますよ」
 出会ったばかりのはずなのに、武蔵の言葉は素直に俺の心に響き渡る。冷え切って固まった氷のような何かを、じんわりと溶かすように。……現実の大切な瞬間、か。
〝私、高杉君が戻るまで待ってる! 私たちのカルテットには、高杉君のチェロが必要だから……!〟
 無意識に口元に笑みが零れる。彼女が待っていてくれるなら、早く帰らねぇとな。
 そんな俺の様子を見て満足そうに笑った武蔵が何かシャクに触り、俺は咄嗟にとぼけたフリをした。
「あぁん? だから、俺は和泉とは何でもねぇって言ってるだろ。つーかお前、さっき俺に〝馬鹿〟っつったな?」
 急に逆ギレしだした俺に武蔵の笑顔が引き攣る。でも奴は俺の目を見てすぐに苦笑した。俺が心に掛かっていた闇から抜ける一歩を踏み出したことを、恐らく奴は理解したのだろう。
「んで、あと何が聞きたいんだよ。ライブが控えてるんだから、さっさとしろ」
「相変わらず、君は強引ですねぇ……。ん、今ライブと言いましたか?」
 そしてこの後、俺は武蔵の策略にまんまと乗らされ、後悔する羽目となるわけだが。