「ママは一人になりたいの? あたし、いない方がいい?」
不意に花音に話し掛けられて、眞美子はそちらへ身体ごと意識を向ける。父親に対するのとはまったく色の異なる声で問うて来る娘。
「どうして? 花音が一人暮らししたいんだったらまあそれでもいいけど。大学の間は当然一緒に住むつもりでいたわよ、ママは」
「……そっか。うん、ちょっと安心」
訊かれてあっさり返した眞美子に、娘は小さく息を吐いて微笑んだ。やはり見た目ほど内心は平穏ではなかったのだろう。
どちらにしても、賃貸であるこの
家は出るつもりでいたのだ。新しい住処を探さなければ。
「ああ、そうだ。ママは旧姓に戻るけど、あなたはもちろん今のままでいいから。言うまでもないわね」
手の中の届に何気なく目を走らせて、ふと思い当たり念のため花音にも知らせておく。
「うん、わかった。……ママ、職場ではずっと旧姓使用だったんでしょ? あんまり変わんないんじゃない?」
母の改姓については何も気にならないようで、ごく普通に返して来た娘。
「完全に変えた人に比べたらそうかもね。でも病院の保険証とか免許証とか、そういうものは全部『
館石』じゃなくて『鈴木』でないといけなかったから」
鈴木 眞美子から館石 眞美子へ。「戻る」と同時に、それは新たに踏み出す大きな一歩になる。
何にも縛られず、自由気儘に生きたいわけではなかった。
眞美子には仕事もある。定年まで勤めるとして、まだ十年以上。別に、完全にすべてを好き勝手にしたいなどとは思ってもいない。
──もうすぐ元がつく夫のようには。
離婚が成立していない状態で言うことではないのは承知の上で、再婚も恋愛も正直考えたくもない。むしろ絶対にごめんだという気持ちの方が強かった。
もう二度と、伴侶は必要ない。けれど、花音をも拒絶してひとりになりたい気持ちもまた、ないのだ。花音は眞美子にとって唯一の家族になるのだから。
そもそも眞美子は娘を重荷だ、負担だと感じたことはなかった。
花音のことは何よりも大切で愛していたと言い切れる。今思い返せば、どうやって乗り切ったか記憶も曖昧な乳児時代でさえも同様に。
『死』と向き合って、まさしく本能が剥き出しになったあの時。
願ったのは「夫と離れたい」という一点のみで、「一人になりたい」とは思いもしなかった。
娘と二人で暮らしても、互いの自由は確保できるだろう。身体的にも、精神的にも。
これからの人生に浩郎がいないと考えただけで、心が軽くなるのを感じた。年齢を重ねて重くなってしまった身体に反して、今にも走り出しそうな、心。
もう五十も視野に入ろうかというのに、いったい何を浮かれているのか。そう苦言を呈している冷静な自分が、どこかにいる。
だから。
「花音。ママが走り出したら止めてね。転ぶ前に」
「何言ってんの? ママまだそんな年じゃないでしょ。走ればいいじゃない、いくらでも」
なんの脈絡もなくいきなり口にした眞美子に、戸惑いは見せつつそれでも花音は肯定の返事を寄越す。
ありふれた言葉の裏にある真意が、娘に伝わったのかどうか定かではなかった。おそらく彼女は、物理的に母が『走り出す』と受け取っているのではないか。
──まだそんな年じゃないでしょ。
心強いフレーズ。
何事も新しく始めるのに、遅過ぎるなどということはないのかもしれない。もう人生の春はとうに過ぎ去って、秋から冬を迎えるばかりだと思っていた。
そしてそれは確かに事実なのだろう。
けれど心だけは若々しく、春を保つことなら努力次第でできそうな気がした。
娘に教えられてやっと気づくなんて。
「……走れるかしらね」
新たなスタートラインに着いた、この弾む心は。
~END~