「
浩郎、私たち別れましょう」
検査結果を聞いた二日後。金曜日の夜。眞美子より少し遅く帰って来た夫を捉まえて、ダイニングテーブルで向かい合う。
今日は娘の
花音はアルバイトで帰りが遅い。時間はあると見越して、離婚について話し合うのに今を選んだ。
「な、何。なんで、そんな急に!? 眞美子──」
唐突に切り出したように見えるだろう妻に、夫の浩郎は動揺を見せた。
「急じゃないわ、私にとっては。いいえ、あなただってわかってる筈じゃない?」
思い当たることがないとは言わせない。
わざわざ口にするまでもなく、浩郎はそれについては何も反論しなかった。……できなかったのだろうが。
「離婚なんてしない。……俺たちには花音だっているんだ。二人だけで決められることじゃないだろ!?」
この男は、娘の名を出せば家族の形を維持する名目ででも眞美子が引くしかないと思っているのか。その娘は、もう一年もすれば二十歳になるのに。
「だったらまた花音も交えて話しましょうか。そうよね、もう子どもじゃないんだし。あの子にとっても『家族』の話なんだから」
難色を示す浩郎を黙殺し、眞美子は強引に話を打ち切った。
娘の予定を確認し、時間を合わせて数日後に持った話し合いの場。
ダイニングテーブルの定位置に着いて、それぞれの前に眞美子が淹れたコーヒーのカップを置いた。
「花音。ママはパパと別れるつもりでいるの。あなた、どう思う?」
単刀直入に訊いた眞美子に、浩郎は信じられないという目を向けて来る。
「そんな言い方、花音だって驚くだろ──」
「ママやっと決心したんだ。あー、良かった」
慌てている浩郎に構わず、故意に被せるように花音が平然と答えた。
「よかった、──え? え、何?」
娘の言葉を受け入れられないらしく混乱している父親に、花音は反応を返す気さえないようだ。
無表情で口を噤んだままでいる。
「眞美子、……花音」
自分が家族に一切必要とされていないことをようやく理解したのか、浩郎は落ち着きをなくし視線を彷徨わせ始めた。
誰も手を付けようとさえしないままに、目の前のテーブルに置かれたコーヒーが冷めて行くのを眞美子だけが見つめている。
微動だにせず無言を貫く母親の隣で、花音は感情の窺えない瞳で父親を
眺めていた。
「君は俺が苦しんでても、……死んでも、平気なんだろうな」
助け舟を出す気もない妻に、浩郎が当て付けがましく口にした言葉。
あまりにも当然過ぎる問いに、眞美子は一瞬虚を突かれて言葉が出なかった。
「──そ」
「平気よ、あたしは。きっとママも」
答えようとした眞美子に、横から花音が冷ややかな声を被せる。
「ねえ、アンタまさか、自分があたしたちに好かれてるとでも思ってたの? どんだけ図々しいんだよ。呆れるわ」
娘からの完全なる拒絶に等しい言葉に絶句している浩郎に、花音がさらに追い打ちを掛けた。
「親にそんな──!」
「親。親、かぁ。生物学的にはそうなんだろうね。でもさ、アンタがあたしに何してくれたの? アンタ、家族を養ってさえいないよね。自分の事ばっかで。ママが同じくらい稼いでるからって、ずーっと好き勝手してたじゃん」
淡々と父親を責め立てる言葉を吐き出しながら、花音は隣の椅子に座る眞美子の手をそっと握って来る。
……母に救いを求めるのではなく、母を力づけるかのように。
「小っちゃい頃から、あたしの側にいてくれたのはママだけだったわ。ご飯作って洗濯してくれたのも、忙しいのに時間作って学校に来てくれたのも、熱出したときずっと付ききりで看病してくれたのも、──服買って学費出してくれたのも全部ママ、だよね!?」
「一緒にいて、金出すだけが親の仕事じゃ……」
苦し紛れの浩郎の言葉に、花音は容赦する気もなさそうだ。
「うん。だからさ、訊いてんじゃん。アンタは何したの? ……あと、アンタの思う『親の仕事』っていったい何?」
皮肉っぽく笑いながら、花音は浩郎に再度問いを投げた。彼には答えられないことなど、わかりきっている問いを。
浩郎は娘のことは愛していたのだ。気の向いた時だけ、自分の都合のいいように可愛がる、まるでペットに対するようなやり方で。
ただその身勝手な愛情は、当然ながら娘には通じていなかっただけのこと。
けれど彼は、何の根拠もなく娘に愛されていると自信を持っていたようだ。だからこそ望まない事実を突き付けられて抵抗する気力もなくなったらしい。
今風の表現なら『心が折れた』というのか?
「……わかった。眞美子、離婚届書くから。俺は君たちには迷惑でしかなかったんだな」
俯いてぼそぼそと呟く浩郎に、眞美子は黙ったまま鞄に仕舞った書類を出すとテーブルを挟んだ向かい側に差し出した。
「その通りだよ。でもさ、まだそんな同情引くみたいな言い方してる以上、ホントにはわかってないんでしょ?」
花音の苛烈な言葉に、浩郎は顔を歪めて目を潤ませる。
──娘が父親を嫌っていることくらい、母としてわからなかった筈もない。
けれど、これほどまでの『憎悪』を秘めていたことには気づいてやれなかった。
たとえ彼に対する表面上の対応が同じだとしても、花音が眞美子と同じく平気だったとは限らないのに。
申し訳なかった、とただそれだけを痛感する。
浩郎が記入した離婚届を、眞美子も埋めて行った。
証人はどうしようか。両親、にも報告する必要があるだろう。顔を出したついでに書いてもらうという手もあるが、眞美子の実家は北海道なのだ。自宅は東京で、すぐには帰省もできない。早くても年末だろう。
……できる限り早急に提出してしまいたい。迷惑かもしれないけれど、同じ首都圏で暮らす妹夫婦に頼むのが最善か?
夫がふらふらと部屋を出て行く背中をぼんやりと見送りながら、眞美子は証人欄を残して記入を終えた離婚届を手にこの先の具体的な手順に思いを巡らせていた。