風は流れ、季節は巡る。
時は静かに月日を重ね、気がつけば十数年が経過していた。
ラトは草原の支配者となっていた。
今や数十万の騎馬を従えるこの男は、「風の王」の異名を持つ偉丈夫へと変貌を遂げていた。
日に灼けた逞しい身体。鷹のような鋭い視線。
彼の行く先には、最後の敵の居城がある。
「今日こそけりをつけるぞ!」
王の下知に、屈強の騎馬隊は勇躍した。
だが。
敵の居城はもぬけの殻だった。
「王よ。敵は逃げたようです」
「よし。城を占拠するぞ」
勢いづいた味方は、敵の城を荒々しく踏みにじる。
ラトは悠然とその様子を眺めつつ、奥へ奥へと進んでいく。
そして、ラトは豪奢な設えの一室に辿り着く。
その部屋には窓がなく、昼間でも薄暗い。
(ここは、彼奴の寝所か)
「けほっ……けほっ」
不意に、誰かが咳き込む声がした。
ラトは眦を上げると、すらりと剣を抜いた。
その声の方へと、慎重に歩を進めていく。
重いカーテンを乱暴に跳ね上げる。
僅かに灯りが灯る中、そこには短剣を握りしめたひとが、震える足で立っていた。
長い髪。華奢な身体。若く美しい男だ。
「皆、逃げた。ここには私だけだ」
その者は、荒い息をつきながらそう告げた。
ラトは無言のまま、大股で彼に近づいた。
男であれば、命を奪うまでだ。
剣をゆっくりと振り上げる。
そして、無慈悲に振り下ろそうとしたとき――。
「うっ……げほ、げほっ!」
男は激しく咳き込むと、力なくその場に崩れ落ちた。
咳き込むたびに華奢な背中が震えた。
「かはっ」
大きく男の身体が揺れた時、ラトの鼻に微かな血の匂いが届いた。
(死病……か)
その時。
男の首元から、ペンダントが滑り落ちた。
神の悪戯か、灯りがそのペンダントを鮮やかに映し出した。
「――!」
それを見たラトの顔色が変わった。
(あれは――!)
『ありがとう、ラト。大事にするね』
遠い昔に消えた、少年の嬉しそうな笑顔が脳裏に蘇った。
からん。
ラトの手から、剣が滑り落ちた。
男を引きずるように灯りの近くへと連れて行き、胸倉を掴む。
「な、何を――」
か細い抗議の声を聞き流し、灯りにその顔を近づける。
青白い顔。
右の目は泉の如き透明な青。
そして、左の目は琥珀の如き褐色。
「アラン――!」
ラトの唇が、探し求めていた少年の名を呼んだ。
だが、男は否定した。
「アラン?……誰です、それは」
「え?」
「私は、ファナ……」
ファナと名乗る男は、気を失った。
ラトはその身体を腕に抱えたまま、茫然と揺れる灯りを見つめていた。
ラトは、周囲の制止も聞かずファナを連れ帰った。
「王よ、なりません!聖なる地に穢れを持ち込むおつもりか!」
「構わぬ!神へは後で詫びればよい!」
ラトの気迫に、側近たちは頭を垂れるより他になかった。
ラトはファナを連れて皆から離れ、泉のほとりに天幕を張った。
移動が堪えたのか、ファナはぐったりと眠ってしまった。
ラトは藁にも縋る思いで腕利きの薬師を呼び寄せた。
だが、薬師の見立ては芳しくなかった。
「もはや、我々に出来ることは何もありません。後は神の御心のままに」
「……そうか。わかった」
「気休めにしかなりませんが」
と言いながら、薬師は滋養にいいという煎じ薬を置いていった。
ラトは薬を煎じてファナの目覚めを待った。
病み衰えたその寝顔に、ラトの心は痛んだ。
やがて、ファナはゆっくりと目を開けた。
「ここは……?」
「俺の天幕だ」
ファナは怪訝そうにラトの顔を見る。
「――あなたは、風の王」
敵の王の姿に、息を呑むファナ。
「安心しろ。病人に危害を加えるつもりはない」
ラトは煎じ薬が入った椀を手に、ファナの身体をゆっくりと起こした。
「滋養に良い薬だ。飲めるか?」
頷くファナ。
ラトは、少しずつ椀を傾けて、ファナの口に薬を注ぐ。
ファナは二口ほど薬を飲むと、
「もう、これで」
ラトの手を押し戻した。
「王よ。何故、私を」
「俺がそうしたかったからだ」
ファナの問いに、ラトは答えにならぬ回答をした。
「ところでファナ。お前は、彼奴の妾か」
「はい。2年ほど前から」
「いつから、そのような生活を?」
「さあ――昔のことは、何も覚えていないのです。私は何処の誰で、何をしていたのやら」
ファナは、訥々と言葉を繋いだ。
この一言で、ラトは得心する。
ああ、彼は全てを忘れてしまったのか、と。
あの町で出会ったことも。
青空の下で、共に笑い合ったあの日々も。
そして。
ファナが口にしたこの言葉は、ラトの心を大きく引き裂いた。
「それで……気づいた時には、私は人ではなく――『月の雫』と呼ばれる、美術品になっておりました」
「――!」
ラトは言葉を失った。
神はやはり、禁を犯した者をお赦しにはならなかったのか――。
その夜。
ファナは高い熱を出した。
熱に浮かされ、苦しむファナを前に、ラトはただ額を冷やしてやることしか出来なかった。
「ああ、わああ!」
錯乱して叫び声を上げるファナ。
やがて、その唇がラトを呼ぶ。
「ラト、ラト……ラト!」
か細い手が宙を泳ぐ。
「ラト、ごめんなさい、ごめんなさい」
ファナは――アランは、泣きながら詫び始めた。
「剣に触れて、ごめんなさい。もうしないから、許して、僕を許して……お願い、僕を見捨てないで」
「アラン!」
ラトは思わずその痩せこけた身体を抱き締める。
「もういい!お前は悪くない!お前は悪くないんだ!」
「ラト、ラト、ごめんなさい、ごめんなさい」
「アラン、もういい。もう、いいんだ」
――アランはラトに謝り続け、ラトはそれを赦し続けた。
「神よ、神よ、もう十分でしょう?これ以上この者を苦しめないで下さい!」
ラトはアランを抱き締めながら、神に祈る。
「神よ、偉大なる神よ。どうかあなたの御慈悲を――!」
ラトの願いが神に通じたのか。
やがてアランは落ち着きを取り戻し、ラトの胸で眠り始めた。
ラトはそっとアランを寝かせると、乱れ切った髪を整えてやった。
それからのアランは、熱で苦しむことはなくなった。
穏やかに呼吸をして、うとうとと眠り、時折目を覚まして水や薬を口にした。
――神はようやくこの美しい者を憐れと思し召し、怒りを解いて下さったようだ。
ただ、来るべき時は確実に近づいている。
ラトはその予感を強く抱き、神に更なる祈りを捧げた。
『神よ、神よ。どうかこの者が穏やかに終わりを迎えられますように』
空には、さやけき月が上がっていた。
星のない夜だ。
アランは水を求めた。
ラトは泉から水を汲み、アランの身体を後ろから抱くようにしてゆっくりと飲ませた。
「ああ……」
アランは嘆息すると、そのままラトの胸に背中を預けた。
そして、途切れ途切れに語り始めた。
「夢を見ていました。
大好きだった人の夢です。
顔も名前も覚えていませんが、
私にとってのその人は、風のようであり、
全てを照らしてくれる太陽のようでもありました。
ただ……私はどうやらその人にとても悪いことをしてしまったようで。
昔のことは全て忘れた今でも、そのことがずっとこの胸にあるのです」
アランの息遣いが乱れた。
ラトはそっと彼を寝かせると、髪を撫でながら穏やかに語りかけた。
「ファナ」
「はい」
「俺は、そいつはお前のことをとっくの昔に許していると思うぞ」
アランの目元が小さくほころんだ。
「ありがとう。あなたは優しい人ですね」
「ファナ」になったアランが、ラトに初めて見せた笑顔だった。
「風の王よ……あなたの名は……」
「ラトだ」
「ラト……ラト」
アランは息をつきながら、その名を反芻する。
「どうしてだろう……とても、なつかし……」
そこで、言葉が、途絶えた。
静かに夜が明けた。
地平線の先が、少しずつ暁の色に染まっていく。
ラトはその逞しい腕にアランを抱き、草原の高台に立っていた。
古の時代より彼の一族が仲間を見送って来た場所だ。
アランはラトの腕の中で安らかに眠っている。
ようやく全ての苦しみから解放されたその美しい顔は、微笑んでいるようにも見えた。
ラトは作法に従い、「風の王」として祈りを捧げる。
『神よ、偉大なる神よ。
この者は草原の民ではありませぬが、家族として共に日々を過ごした者。
どうか我々と同じく、あなたの御許に招いて下さりますよう。
この美しき月の雫を、風の御国へ』
草原を這うように風が巻き起こり、そのまま高台へと吹き上げた。
アランはその風に乗って、空へと誘われた。
――月の雫。我らと共に参ろうぞ。
風は、アランを受け入れてくれたのだ。
風はゆく。
風は語る。
この儚くも美しい物語を。
吟遊詩人の唇を借りて、静かに語り継ぐ。
風の王と月の雫の物語を――。
おわり。