7-7
ー/ー
ものすごく気まずい……という感情が彼の表情から滲み出ている。どこかで着替えてきたのか、あるいは一度シェアハウスへ帰ったのか、ズブ濡れだったはずの髪や服は綺麗に乾いていた。服装がいつもよりちょっと大人びてる感じがするけれど。
戻ってきたものの、恐らく何と釈明したらいいのか迷っている彼――高杉君に、気づいたら私は込み上げる思いに押され、駆け出していた。
「いや、なんだ、その……ッ!?」
何か言いかけて高杉君は声を失った。
無理もない、いきなり私に正面から抱きつかれたのだから。
私自身、自分が何をしているのか分かっていなかった。
とにかく嬉しくて、無我夢中で。
「い、和泉っ……!」
「良かった! 本当良かった、高杉君。ありがとう、戻ってきてくれて……」
突然のことで状況に頭が追いついていないのか、高杉君は完全に硬直している。この時、彼の温もりを以前にもどこかで感じていたような錯覚を抱いた。なんだか匂いも懐かしい。
でも少しして高杉君が「分かったから、とりあえず離れろ」と口にした瞬間、自分がとんでもない行動を取っていることをようやく自覚した。慌てて腕を放し、彼から一歩距離を置く。
私ったら、いつからこんな大胆に……ッ!?
我に返った直後から体中の熱が顔に集中していた。恥ずかしくて高杉君の顔も見られない。
「ご、ごごごめんなさい! 嬉しくて体が勝手に」
必死に言い訳を捲し立てたけれど、高杉君からは何の返事もなかった。不思議に思いチラリと横目で彼を見れば、口元を片手で覆って、私と同じくらい真っ赤な顔で明らかに困惑していた。
どどどどうしよう! これでまた高杉君が怒って出て行っちゃったら!? そう不安に駆られた矢先、私の横を早歩きで通り過ぎていった誰かが、高杉君の肩を両手でガッチリと押さえ込んだ。
「やあ日向、戻ってくれて僕も嬉しいよ、さっきは僕も言い過ぎたと思って反省してたんだ本っ当~に悪かった、僕も君と一緒に出て行くべきだったねぇ?」
その口調はいつもどおりに落ち着いていて、自分の非を詫びているように思えた。でも私から見える、その声の主である安芸君の背中から、どこか黒いオーラが放たれているように見えるのは気のせいだろうか。
更に私からは見えない安芸君の顔を見た瞬間、高杉君の表情が一転して見る見る青ざめている気も……。
「オ……、俺コソ悪カッタナ」
「いーや、日向はちっっっっとも悪くないよー? さぁ練習を再開しようじゃないか」
「いっ……てぇっ! おい安芸、やめろっ!!」
安芸君が高杉君の頬を両側から引っ張り、高杉君が変な声を上げている。それがなんだか可笑しくて、ほんの少しだけ動揺が解消された。その様子を見ていた近江君も〝やれやれ〟と言わんばかりに深い溜め息を吐いている。
安芸君の〝再開しよう〟という言葉に、私たちは改めてウォーミングアップから開始した。
心なしか皆の音がワントーン明るくなったのは、きっと気のせいなんかじゃない。
◇
その瞬間、僕自身も動揺した。それこそ心臓が飛び出るかと思うほどに。
喜ぶのは分かるけど、まさか抱きつくなんて予想はしていなかったよ。あの光景を目にした途端、身体の底から嫉妬心というものが湧き上がるのを感じた。僕も一緒に出て行っていれば、君は抱き締めて迎えてくれたんだろうか。
――否、君を困らせて関心を引くことはしたくないな。
我に返り茹でタコみたいな顔をしている和泉を見て、こんなに胸が苦しくなったのは初めてだ。
僕の一言で皆が定位置の席に戻っていく。勝手に出て行き、勝手に戻ってきた自分を非難することなく、何事もなかったかのように練習を再開する彼女たちを見て、日向はどう感じているのか。恐らくここに戻ってくるまでに色々なことを考えて思い悩んだのだとは思う。彼なりに何らかの答えを出したからこそ、戻ってこれたのだろう。
日向は僕に引っ張られた頬を撫でながら、合奏の準備にとりかかろうとした。だが一歩踏み出したところで、まだ奴の前方に立っていた僕は、その右肩を押さえた。
「……本当に、悪かったと思っている」
彼以外には聞こえないように、小さめの声でそう言った。
あぁ、これは僕の本心だ。
「もう君の悩みについて、僕は何も口出ししない。……でも、彼女は本当に心配していたよ。そして君が必ず戻ってくると信じていた。そんな彼女の気持ちを無下にすることだけは、許すわけにいかない」
「……あぁ、分かってる」
視線も合わさず彼の返事を聞くと、僕は肩に置いた手をゆっくりと離した。
それからは穏やかに合奏が始まった。僕には夕方からバイトが入っているため、カノンを注力して調整することとなった。
日向の音は再び柔らかく暖かい音に戻っていた。カノンは彼の演奏から始まるため、それを受け継いで和泉や僕、近江の音もどこか優しい雰囲気に包まれている。この演奏であれば、きっと多くの人たちを魅了できるだろうと僕は確信した。
なにより、演奏している僕も楽しい。
和泉とのデュオは勿論幸せいっぱいだけれど、四人での演奏も安心感があり楽しんで演奏できている。
昔も今も変わらず、このメンバーでいることが僕にとって一番の至福のひとときなのだ。
何度目かの通しを弾き終えて、和泉を筆頭に僕たちは満足げに頷き合った。次に全員が揃うのはライブの一日前が最後だ。それまでは各自で今日の内容を忘れないよう、反復練習を重ねるのみ。
無事に曲が仕上がったので、僕と和泉は帰る支度を始めた。
合わせて当然のように日向もチェロの手入れに取りかかった……のだが。
「……おい」
その日向の手を掴んだ男がいた。
言わずもがな、近江である。
「あん?」
「お前、まさかこの期に及んで帰る、とか言わんだろうな? こっちは散々待たされたんだ、御礼にたっぷり付き合ってもらうぞ」
目の奥をギラギラと光らせている近江に、日向は思わず一歩引く。なんとなく彼の助けを求める視線がこちらに向いている気がするが、残念ながらこれは自業自得。僕は涼しい顔をして楽器ケースを閉め、隣でオロオロとしている和泉の手を握った。
「じゃ、僕たちは帰るよ。退室処理よろしくね、二人とも」
そう言い残して、僕と和泉はブースを後にした。
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戻ってきたものの、恐らく何と釈明したらいいのか迷っている彼――高杉君に、気づいたら私は込み上げる思いに押され、駆け出していた。
「いや、なんだ、その……ッ!?」
何か言いかけて高杉君は声を失った。
無理もない、いきなり私に正面から抱きつかれたのだから。
私自身、自分が何をしているのか分かっていなかった。
とにかく嬉しくて、無我夢中で。
「い、和泉っ……!」
「良かった! 本当良かった、高杉君。ありがとう、戻ってきてくれて……」
突然のことで状況に頭が追いついていないのか、高杉君は完全に硬直している。この時、彼の温もりを以前にもどこかで感じていたような錯覚を抱いた。なんだか匂いも懐かしい。
でも少しして高杉君が「分かったから、とりあえず離れろ」と口にした瞬間、自分がとんでもない行動を取っていることをようやく自覚した。慌てて腕を放し、彼から一歩距離を置く。
私ったら、いつからこんな大胆に……ッ!?
我に返った直後から体中の熱が顔に集中していた。恥ずかしくて高杉君の顔も見られない。
「ご、ごごごめんなさい! 嬉しくて体が勝手に」
必死に言い訳を捲し立てたけれど、高杉君からは何の返事もなかった。不思議に思いチラリと横目で彼を見れば、口元を片手で覆って、私と同じくらい真っ赤な顔で明らかに困惑していた。
どどどどうしよう! これでまた高杉君が怒って出て行っちゃったら!? そう不安に駆られた矢先、私の横を早歩きで通り過ぎていった誰かが、高杉君の肩を両手でガッチリと押さえ込んだ。
「やあ日向、戻ってくれて僕も嬉しいよ、さっきは僕も言い過ぎたと思って反省してたんだ本っ当~に悪かった、僕も君と一緒に出て行くべきだったねぇ?」
その口調はいつもどおりに落ち着いていて、自分の非を詫びているように思えた。でも私から見える、その声の主である安芸君の背中から、どこか黒いオーラが放たれているように見えるのは気のせいだろうか。
更に私からは見えない安芸君の顔を見た瞬間、高杉君の表情が一転して見る見る青ざめている気も……。
「オ……、俺コソ悪カッタナ」
「いーや、日向はちっっっっとも悪くないよー? さぁ練習を再開しようじゃないか」
「|い《ひ》っ……|てぇ《へぇ》っ! |おい安芸《ふぉいあひ》、|やめろ《ひゃへほ》っ!!」
安芸君が高杉君の頬を両側から引っ張り、高杉君が変な声を上げている。それがなんだか可笑しくて、ほんの少しだけ動揺が解消された。その様子を見ていた近江君も〝やれやれ〟と言わんばかりに深い溜め息を吐いている。
安芸君の〝再開しよう〟という言葉に、私たちは改めてウォーミングアップから開始した。
心なしか皆の音がワントーン明るくなったのは、きっと気のせいなんかじゃない。
◇
その瞬間、僕自身も動揺した。それこそ心臓が飛び出るかと思うほどに。
喜ぶのは分かるけど、まさか抱きつくなんて予想はしていなかったよ。あの光景を目にした途端、身体の底から嫉妬心というものが湧き上がるのを感じた。僕も一緒に出て行っていれば、君は抱き締めて迎えてくれたんだろうか。
――否、君を困らせて関心を引くことはしたくないな。
我に返り茹でタコみたいな顔をしている和泉を見て、こんなに胸が苦しくなったのは初めてだ。
僕の一言で皆が定位置の席に戻っていく。勝手に出て行き、勝手に戻ってきた自分を非難することなく、何事もなかったかのように練習を再開する彼女たちを見て、日向はどう感じているのか。恐らくここに戻ってくるまでに色々なことを考えて思い悩んだのだとは思う。彼なりに何らかの答えを出したからこそ、戻ってこれたのだろう。
日向は僕に引っ張られた頬を撫でながら、合奏の準備にとりかかろうとした。だが一歩踏み出したところで、まだ奴の前方に立っていた僕は、その右肩を押さえた。
「……本当に、悪かったと思っている」
彼以外には聞こえないように、小さめの声でそう言った。
あぁ、これは僕の本心だ。
「もう君の悩みについて、僕は何も口出ししない。……でも、彼女は本当に心配していたよ。そして君が必ず戻ってくると信じていた。そんな彼女の気持ちを無下にすることだけは、許すわけにいかない」
「……あぁ、分かってる」
視線も合わさず彼の返事を聞くと、僕は肩に置いた手をゆっくりと離した。
それからは穏やかに合奏が始まった。僕には夕方からバイトが入っているため、カノンを注力して調整することとなった。
日向の音は再び柔らかく暖かい音に戻っていた。カノンは彼の演奏から始まるため、それを受け継いで和泉や僕、近江の音もどこか優しい雰囲気に包まれている。この演奏であれば、きっと多くの人たちを魅了できるだろうと僕は確信した。
なにより、演奏している僕も楽しい。
和泉とのデュオは勿論幸せいっぱいだけれど、四人での演奏も安心感があり楽しんで演奏できている。
昔も今も変わらず、このメンバーでいることが僕にとって一番の至福のひとときなのだ。
何度目かの通しを弾き終えて、和泉を筆頭に僕たちは満足げに頷き合った。次に全員が揃うのはライブの一日前が最後だ。それまでは各自で今日の内容を忘れないよう、反復練習を重ねるのみ。
無事に曲が仕上がったので、僕と和泉は帰る支度を始めた。
合わせて当然のように日向もチェロの手入れに取りかかった……のだが。
「……おい」
その日向の手を掴んだ男がいた。
言わずもがな、近江である。
「あん?」
「お前、まさかこの期に及んで帰る、とか言わんだろうな? こっちは散々待たされたんだ、御礼にたっぷり付き合ってもらうぞ」
目の奥をギラギラと光らせている近江に、日向は思わず一歩引く。なんとなく彼の助けを求める視線がこちらに向いている気がするが、残念ながらこれは自業自得。僕は涼しい顔をして楽器ケースを閉め、隣でオロオロとしている和泉の手を握った。
「じゃ、僕たちは帰るよ。退室処理よろしくね、二人とも」
そう言い残して、僕と和泉はブースを後にした。