7-6
ー/ー
〝私、高杉君が戻るまで待ってる! 私たちのカルテットには、高杉君のチェロが必要だから……!〟
遠くでアイツのそんな声が響いていたが、俺は聞こえないフリをした。
聞いていなければ、戻る理由にもならない。
我ながらガキみたいで情けないとは思っている。それでも俺は和泉の顔も、安芸の顔も見たくなかった。近江も既に防音ブースへ来ているだろう。奴には迷惑でしかないだろうが、昔から中立の立場にいた近江なら何の気にもしていない可能性はある。
とにかく今日はもう防音ブースへ戻るつもりはない。
戻ればまた過去と現実の狭間に、押し潰されるような気がして。
かといってシェアハウスに戻れば、いずれ安芸とは顔を合わせることになる。部屋に閉じこもったところで奴がそれを許すはずもない。
つまり俺は帰る場所を失ったってわけだ。冷たい雨が体温を徐々に奪っていき、今更ながら傘を持たなかったことを少し後悔する。仕方なく歩道に座れそうな石造りの縁を見つけて、うな垂れた。
<もう、あなたは頭に血が上るとすぐコレなんだから。もう少し冷静になって考えないと。あなたは私の大切なパートナーなんですからね>
唐突にそんな言葉が脳裏に蘇った。カッとなると衝動的に行動へ出るのは、古くからの俺の悪い癖らしい。その度に彼女には心配をかけて叱られたものだ。でも最後には花のような優しい微笑みを浮かべて、また俺の名を呼ぶ。<ね、日向>と。
目を閉じればさっきまでそこにいたように、そっと寄り添う彼女の姿がある。会ったこともないはずのその人は、俺に言いようのない安心感を与えてくれた。やはり俺の心が求めているのは――。
〝私、高杉君のチェロ好きだよ!〟
その姿をかき消したのは、彼女と似ているようで異なる、明るく真っ直ぐな声だった。ハッとして目を開く。それは数日前にアイツがくれた言葉だ。
記憶に従い、決してやりたいわけじゃなかったチェロを極めたのは、この国を救うなんて望んでもない宿命のためだ。地元ではコンクールを総ナメしていたが、有名な演奏家に聞かせれば「君は技術こそ優れているが、音がまるでお葬式だね」と言われた。まぁ俺だって俺のチェロが大嫌いだったし、チェロ自体を好きだと思ったこともないから文句はねぇ。
ただ、いよいよアイツとの再会が近づくほど、チェロを弾く時に彼女の笑顔が浮かんでいた。心穏やかなままに演奏すると、不思議と音が光をまとうのだ。それが分かってからチェロを弾くのが、ほんの少しだけ楽しくなった。
あの日、所詮は偽りだと思っていたアイツが、真剣な眼差しで見上げて俺のチェロを好きだと言った。
瞬間、身体の中心で何かが動いた。そして俺は何かを言おうとした。
「……違う。俺が聞かせたかったのは、お前じゃなくて――」
座ったまま前かがみになって、膝に肘を置いている姿勢を取っていたが、不意に俺の周りから雨が消えた。
誰かが傘を差し出している。そう理解した俺はきっとアイツだと思って奥歯を噛んだ。……どうして戻ってきた。
「おい和泉、いい加減に……っ!?」
顔を上げた際、目の前にいた人物を睨みつけたが、俺はすぐに言葉を失った。
◇
防音ブースに戻ってから既に1時間が経過した。でもそこに彼の姿はなく、私たちは三人での練習を続けている。
安芸君は私が戻った時、真っ先に謝って事の経緯を説明してくれた。どうやら高杉君は安芸君との演奏途中で、口論になり出ていってしまったようだ。
内容までは私が知るところではないから聞かなかったけれど、二人が演奏なんて珍しいと思った。それも私が来るよりかなり早い時間に。
高杉君が不在の今、ひとまず私と安芸君はフックスの二重奏を弾きこんでいた。人に聴かせるのだから完璧な状態でお届けしたいというのは、音楽に限らずアーティストの誰もが思うことだろう。
私と安芸君はそれで練習が進んでいるけれど、高杉君とデュオを組む近江君は個人練習を続けるしかない。彼だって二重奏のツメをやりたいだろうし、カノンもまだ調整の必要がある。私は高杉君が戻ってくると信じているけど、もしこのまま彼が戻らなかったら……ライブはどうなってしまうのか、という不安は拭えないでいた。
口には出さないけど、安芸君は高杉君が置き去りにした荷物を時折チラチラ目にしているから、心配をしているというのは分かった。
一方で近江君は、時間が経つにつれ苛立ちの空気を醸し出していた。そもそも短気な近江君が、この状況をいつまでも見逃せるわけがない。
「~~~~ッ、あぁっもう! おい安芸!」
更に1時間半ほど経ったところで、近江君はついに大声を上げた。演奏中だった安芸君は驚いて勢いよく息を吹き出し、クラリネットが『ピーッ!』と甲高い音を発する。そして同時に肩を跳ね上げて振り返った。
「な、なに? 近江」
「日向のことだ、このまま戻らないとも限らん。念の為、トリオの構成を考えたらどうだ」
それは近江君なりに最悪の事態を想定しての提案だった。でもその問いへ即座に異を唱えたのは、安芸君ではなく私だ。
「ダメ、もう少し待って。高杉君は必ず帰ってくるよ! 近江君のデュオ練習なら私が代理でチェロパートを弾くから……ね?」
「あのなぁ、そーゆう問題じゃないだろ」
私の懇願に近江君は呆れた表情を浮かべている。確かに既に会場を押さえている今、キャンセルをするわけにもいかず、四重奏が組めないのであれば三重奏でやるしかない。曲の構成だって考え直す必要もあり、時間がない中で決断するなら今だ。
けれど、そうなればカノンはもう披露できない。……私たちのカノンは、高杉君だけでなく他の誰が欠けても成立しないのだ。
でも私は、私たちのカノンを皆に聞いてもらいたい。だからまだ諦めたくない!
「お願い、近江君! 安芸君もそう思うでしょ!?」
「……僕は」
安芸君を振り返れば、彼は苦しそうに眉をひそめた。安芸君も分かっているのだろう。高杉君が戻ることを願う反面、それが叶わなかった時の対策が必要なことを。
どうしよう。このままじゃ私たちまで気持ちがバラバラになってしまう。
そんな絶望すら感じた直後だった。
〝彼〟がブースの扉を開いたのは。
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〝私、高杉君が戻るまで待ってる! 私たちのカルテットには、高杉君のチェロが必要だから……!〟
遠くでアイツのそんな声が響いていたが、俺は聞こえないフリをした。
聞いていなければ、戻る理由にもならない。
我ながらガキみたいで情けないとは思っている。それでも俺は和泉の顔も、安芸の顔も見たくなかった。近江も既に防音ブースへ来ているだろう。奴には迷惑でしかないだろうが、昔から中立の立場にいた近江なら何の気にもしていない可能性はある。
とにかく今日はもう防音ブースへ戻るつもりはない。
戻ればまた過去と現実の狭間に、押し潰されるような気がして。
かといってシェアハウスに戻れば、いずれ安芸とは顔を合わせることになる。部屋に閉じこもったところで奴がそれを許すはずもない。
つまり俺は帰る場所を失ったってわけだ。冷たい雨が体温を徐々に奪っていき、今更ながら傘を持たなかったことを少し後悔する。仕方なく歩道に座れそうな石造りの縁を見つけて、うな垂れた。
<もう、あなたは頭に血が上るとすぐコレなんだから。もう少し冷静になって考えないと。あなたは私の大切なパートナーなんですからね>
唐突にそんな言葉が脳裏に蘇った。カッとなると衝動的に行動へ出るのは、古くからの俺の悪い癖らしい。その度に彼女には心配をかけて叱られたものだ。でも最後には花のような優しい微笑みを浮かべて、また俺の名を呼ぶ。<ね、日向>と。
目を閉じればさっきまでそこにいたように、そっと寄り添う彼女の姿がある。会ったこともないはずのその人は、俺に言いようのない安心感を与えてくれた。やはり俺の心が求めているのは――。
〝私、高杉君のチェロ好きだよ!〟
その姿をかき消したのは、彼女と似ているようで異なる、明るく真っ直ぐな声だった。ハッとして目を開く。それは数日前に|ア《・》|イ《・》|ツ《・》がくれた言葉だ。
記憶に従い、決してやりたいわけじゃなかったチェロを極めたのは、この国を救うなんて望んでもない宿命のためだ。地元ではコンクールを総ナメしていたが、有名な演奏家に聞かせれば「君は技術こそ優れているが、音がまるでお葬式だね」と言われた。まぁ俺だって俺のチェロが大嫌いだったし、チェロ自体を好きだと思ったこともないから文句はねぇ。
ただ、いよいよアイツとの再会が近づくほど、チェロを弾く時に彼女の笑顔が浮かんでいた。心穏やかなままに演奏すると、不思議と音が光をまとうのだ。それが分かってからチェロを弾くのが、ほんの少しだけ楽しくなった。
あの日、所詮は偽りだと思っていたアイツが、真剣な眼差しで見上げて俺のチェロを好きだと言った。
瞬間、身体の中心で何かが動いた。そして俺は何かを言おうとした。
「……違う。俺が聞かせたかったのは、お前じゃなくて――」
座ったまま前かがみになって、膝に肘を置いている姿勢を取っていたが、不意に俺の周りから雨が消えた。
誰かが傘を差し出している。そう理解した俺はきっとアイツだと思って奥歯を噛んだ。……どうして戻ってきた。
「おい和泉、いい加減に……っ!?」
顔を上げた際、目の前にいた人物を睨みつけたが、俺はすぐに言葉を失った。
◇
防音ブースに戻ってから既に1時間が経過した。でもそこに彼の姿はなく、私たちは三人での練習を続けている。
安芸君は私が戻った時、真っ先に謝って事の経緯を説明してくれた。どうやら高杉君は安芸君との演奏途中で、口論になり出ていってしまったようだ。
内容までは私が知るところではないから聞かなかったけれど、二人が演奏なんて珍しいと思った。それも私が来るよりかなり早い時間に。
高杉君が不在の今、ひとまず私と安芸君はフックスの二重奏を弾きこんでいた。人に聴かせるのだから完璧な状態でお届けしたいというのは、音楽に限らずアーティストの誰もが思うことだろう。
私と安芸君はそれで練習が進んでいるけれど、高杉君とデュオを組む近江君は個人練習を続けるしかない。彼だって二重奏のツメをやりたいだろうし、カノンもまだ調整の必要がある。私は高杉君が戻ってくると信じているけど、もしこのまま彼が戻らなかったら……ライブはどうなってしまうのか、という不安は拭えないでいた。
口には出さないけど、安芸君は高杉君が置き去りにした荷物を時折チラチラ目にしているから、心配をしているというのは分かった。
一方で近江君は、時間が経つにつれ苛立ちの空気を醸し出していた。そもそも短気な近江君が、この状況をいつまでも見逃せるわけがない。
「~~~~ッ、あぁっもう! おい安芸!」
更に1時間半ほど経ったところで、近江君はついに大声を上げた。演奏中だった安芸君は驚いて勢いよく息を吹き出し、クラリネットが『ピーッ!』と甲高い音を発する。そして同時に肩を跳ね上げて振り返った。
「な、なに? 近江」
「|日向《あの馬鹿》のことだ、このまま戻らないとも限らん。念の為、トリオの構成を考えたらどうだ」
それは近江君なりに最悪の事態を想定しての提案だった。でもその問いへ即座に異を唱えたのは、安芸君ではなく私だ。
「ダメ、もう少し待って。高杉君は必ず帰ってくるよ! 近江君のデュオ練習なら私が代理でチェロパートを弾くから……ね?」
「あのなぁ、そーゆう問題じゃないだろ」
私の懇願に近江君は呆れた表情を浮かべている。確かに既に会場を押さえている今、キャンセルをするわけにもいかず、|四重奏《カルテット》が組めないのであれば|三重奏《トリオ》でやるしかない。曲の構成だって考え直す必要もあり、時間がない中で決断するなら今だ。
けれど、そうなればカノンはもう披露できない。……私たちのカノンは、高杉君だけでなく他の誰が欠けても成立しないのだ。
でも私は、私たちのカノンを皆に聞いてもらいたい。だからまだ諦めたくない!
「お願い、近江君! 安芸君もそう思うでしょ!?」
「……僕は」
安芸君を振り返れば、彼は苦しそうに眉をひそめた。安芸君も分かっているのだろう。高杉君が戻ることを願う反面、それが叶わなかった時の対策が必要なことを。
どうしよう。このままじゃ私たちまで気持ちがバラバラになってしまう。
そんな絶望すら感じた直後だった。
〝彼〟がブースの扉を開いたのは。