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7-5

ー/ー



 防音ブースに一人取り残されてしまった僕は、捨て置かれたチェロを眺めて深く溜め息を吐いた。逃げたところで〝今〟は刻々と進んでいくのに、あの馬鹿……一体どうするつもりなんだよ。
 だが奴自身が乗り越えようとしない限り、これ以上僕が何を言っても無駄だろう。

〝最近、カノンを弾く高杉君の音がすごく優しくなったから、少しは心を開いてくれたのかなって〟

 昨日、和泉がそう言っていたように、確かに奴の――日向の音は再会した時と見違えるほど変わった。音の響きや技術は熟練されたものだったが、どこか悲観的に自分を見ているような寂しい印象があったのだ。それが今は優しく何かを包むような温かい音を生んでいる。
 しかし先ほどのパッサカリアの音は、まさしく会った当初の彼の音だった。僕がどれだけ真っ向からぶつかっても、日向は後退るように交わしてしまうのだ。あんなに熱烈な感情移入をしたのは久しぶりだったのに。

「……ったく、これじゃ僕がチームを乱してるみたいじゃないか」

 和泉が来たら何て説明をしたらいいんだろう。
 そう思って頭を抱えた矢先、ブースの扉がゆっくりと開いたものだから、慌てて捲し立てた。

「お、おはよう和泉! ごめん。何か日向、急用できたみたいで慌てて出て行ったから、今日は僕とフックスの練習から――」
「……だろうな、さっき入り口で見かけた。残念ながらお前が待ち望んだ和泉も、今しがた血相変えてどっか行ったけど?」

 そこに立っていたのは彼女に似ても似つかない、紫がかった黒のウルフヘアの男だった。自身のファゴットケースを持つ手の反対側には、可愛らしいショルダーバッグとヴァイオリンケースが握られている。それを見て何となく全てを悟ってしまった。

「あ……ぁ、そう……。……おはよう近江。ごめん、説明するから座ってくれ」

 近江は面倒くさそうに冒頭の僕よりも更に深い溜め息を吐くと、とりあえず自分の席へ腰を下ろすのだった。




 色とりどりの傘が行き交う人混みに逆らって、見慣れた背中を探している私。
 見つけたとして何と声をかけるつもりなのか。立ち去った経緯も理由も分からないのに、どうして私はあの人を追いかけているのだろう。

 でも、あんなに辛そうな目をした彼を、放っておくことはできない。

「高杉君……!」

 傘も持たず、ズブ濡れで街中を歩く彼を呼び止めた。案の定その力ない足取りが止まることはない。諦めずにもう一度呼び、高杉君に追いついた私は彼の頭上に傘を傾け、その腕を引いた。

「高杉君、何処に行くの? 風邪引いちゃうから戻ろうよ。皆も高杉君が来るの待ってると思うし」

 咄嗟に出てくる言葉は、なんて平凡でつまらないものなのか。こんな上辺だけの気遣いなど今の高杉君には届かないだろう。でもとにかく私は何か言わなきゃと必死に彼に話しかけた。

「何か悩んでるなら話を聞かせてよ。もしかしたら私も力に――」
「……――んじゃねぇ」

 自分の声の中に、僅かに高杉君の声が混ざったように感じた。雨の音も相まってよく聞こえず「え?」と聞き返すと、少しの間を置いてそれまで決して振り返ってくれなかった彼は、勢いよく私の方に顔を向けた。

「俺の苦労も知らねぇくせに、分かったような口の聞き方すんじゃねぇ! 今のお前なんかにっ……!」

 そこまで言いかけて、彼はハッと息を飲んだ。その様子から恐らく意図せず口に出してしまったのだろうけど、その言葉は既に私の胸に深く突き刺さった。

 そうだ。高杉君はいつだって、私との間に常に一枚の壁を隔てていた。
 仲良くなれたと思ってすっかり自惚れていた。全てを思い出していない私が、真の仲間だと認められるはずないのに。

 以前の私なら、ここで引いていたと思う。でも(かく)との戦いで広君にも言ったように、私はもう逃げたくない……メストからも、仲間からも。
 私が逃げてしまったら彼らは〝私〟に付いてきてくれないだろう。だから私は自ら歩み寄りたい。

 前世の皆を思い出せなくても、今の彼らを知ることなら私にだってできるから。

「そうだね、私は皆と違って何も知らない。だから教えて、高杉君のこと。私は皆のことをもっと知りたい」

 真正面から高杉君の目を見てそう言った。髪と同じ色したブロンドに近いキャメルの瞳が、一瞬驚いたように見開かれて、私の視線とぶつかり合う。雨の音も周りの人混みの音も、まるで消えたかのように感じられ、世界に私たちだけが取り残されたみたいだった。

 高杉君の手が私の顔へと伸びる。でも、触れる直前で苦しそうな表情を浮かべ、動きを止め再び背を向けてしまった。

「悪ぃ、さっきのは忘れてくれ。俺のことは気にするな、お前こそ風邪引くから早く戻れ。……いいな?」

 最後はまるで子供を諭すような優しい声色で、先ほど私の胸に突き刺さったものを溶かしていく。唖然として慌てて彼を呼び止めるも、彼は今度こそ振り返ってくれなかった。次第に小さくなるその後ろ姿に向かって、私は最後に叫んだ。

「私、高杉君が戻るまで待ってる! 私たちのカルテットには、高杉君のチェロが必要だから……!」

 すっかり人混みの中に消えてしまった彼へ、願いは届いただろうか。
 無情に降り注ぐ雨がますます強くなる中、一人になった私は防音ブースへと引き返す。こんな時は街に溢れる音のズレが、いつも以上に鮮明に聞こえて気持ちが悪い。

 〝今の和泉(お前)なんかに〟……か。

 なんて自分は愚かで、無知で、無力なんだろう。それを知らしめられた気がした。
 空を仰ぎ見ると冷たい雫が顔に降りかかる。これできっと、堪えきれずに目尻から流れたものを誤魔化せているはずだ。

 分かってる。安芸君が言ってくれたように私は私であり、私らしくいればいいことは。私にできることは何だってやるし、高杉君のこともちゃんと信じてる。
 でも何も知らないのはやっぱり辛い。皆には恐らく、私の想像を絶する辛い過去の記憶が刻まれているのに、どうしてそれを共有できないんだろう。


 ――ねぇ、あなたは私に何の望みを託して転生したの?
 教えてよ、前世の和泉()



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 防音ブースに一人取り残されてしまった僕は、捨て置かれたチェロを眺めて深く溜め息を吐いた。逃げたところで〝今〟は刻々と進んでいくのに、あの馬鹿……一体どうするつもりなんだよ。
 だが奴自身が乗り越えようとしない限り、これ以上僕が何を言っても無駄だろう。
〝最近、カノンを弾く高杉君の音がすごく優しくなったから、少しは心を開いてくれたのかなって〟
 昨日、和泉がそう言っていたように、確かに奴の――日向の音は再会した時と見違えるほど変わった。音の響きや技術は熟練されたものだったが、どこか悲観的に自分を見ているような寂しい印象があったのだ。それが今は優しく何かを包むような温かい音を生んでいる。
 しかし先ほどのパッサカリアの音は、まさしく会った当初の彼の音だった。僕がどれだけ真っ向からぶつかっても、日向は後退るように交わしてしまうのだ。あんなに熱烈な感情移入をしたのは久しぶりだったのに。
「……ったく、これじゃ僕がチームを乱してるみたいじゃないか」
 和泉が来たら何て説明をしたらいいんだろう。
 そう思って頭を抱えた矢先、ブースの扉がゆっくりと開いたものだから、慌てて捲し立てた。
「お、おはよう和泉! ごめん。何か日向、急用できたみたいで慌てて出て行ったから、今日は僕とフックスの練習から――」
「……だろうな、さっき入り口で見かけた。残念ながらお前が待ち望んだ和泉も、今しがた血相変えてどっか行ったけど?」
 そこに立っていたのは彼女に似ても似つかない、紫がかった黒のウルフヘアの男だった。自身のファゴットケースを持つ手の反対側には、可愛らしいショルダーバッグとヴァイオリンケースが握られている。それを見て何となく全てを悟ってしまった。
「あ……ぁ、そう……。……おはよう近江。ごめん、説明するから座ってくれ」
 近江は面倒くさそうに冒頭の僕よりも更に深い溜め息を吐くと、とりあえず自分の席へ腰を下ろすのだった。
 色とりどりの傘が行き交う人混みに逆らって、見慣れた背中を探している私。
 見つけたとして何と声をかけるつもりなのか。立ち去った経緯も理由も分からないのに、どうして私はあの人を追いかけているのだろう。
 でも、あんなに辛そうな目をした彼を、放っておくことはできない。
「高杉君……!」
 傘も持たず、ズブ濡れで街中を歩く彼を呼び止めた。案の定その力ない足取りが止まることはない。諦めずにもう一度呼び、高杉君に追いついた私は彼の頭上に傘を傾け、その腕を引いた。
「高杉君、何処に行くの? 風邪引いちゃうから戻ろうよ。皆も高杉君が来るの待ってると思うし」
 咄嗟に出てくる言葉は、なんて平凡でつまらないものなのか。こんな上辺だけの気遣いなど今の高杉君には届かないだろう。でもとにかく私は何か言わなきゃと必死に彼に話しかけた。
「何か悩んでるなら話を聞かせてよ。もしかしたら私も力に――」
「……――んじゃねぇ」
 自分の声の中に、僅かに高杉君の声が混ざったように感じた。雨の音も相まってよく聞こえず「え?」と聞き返すと、少しの間を置いてそれまで決して振り返ってくれなかった彼は、勢いよく私の方に顔を向けた。
「俺の苦労も知らねぇくせに、分かったような口の聞き方すんじゃねぇ! 今のお前なんかにっ……!」
 そこまで言いかけて、彼はハッと息を飲んだ。その様子から恐らく意図せず口に出してしまったのだろうけど、その言葉は既に私の胸に深く突き刺さった。
 そうだ。高杉君はいつだって、私との間に常に一枚の壁を隔てていた。
 仲良くなれたと思ってすっかり自惚れていた。全てを思い出していない私が、真の仲間だと認められるはずないのに。
 以前の私なら、ここで引いていたと思う。でも|角《かく》との戦いで広君にも言ったように、私はもう逃げたくない……メストからも、仲間からも。
 私が逃げてしまったら彼らは〝私〟に付いてきてくれないだろう。だから私は自ら歩み寄りたい。
 前世の皆を思い出せなくても、今の彼らを知ることなら私にだってできるから。
「そうだね、私は皆と違って何も知らない。だから教えて、高杉君のこと。私は皆のことをもっと知りたい」
 真正面から高杉君の目を見てそう言った。髪と同じ色したブロンドに近いキャメルの瞳が、一瞬驚いたように見開かれて、私の視線とぶつかり合う。雨の音も周りの人混みの音も、まるで消えたかのように感じられ、世界に私たちだけが取り残されたみたいだった。
 高杉君の手が私の顔へと伸びる。でも、触れる直前で苦しそうな表情を浮かべ、動きを止め再び背を向けてしまった。
「悪ぃ、さっきのは忘れてくれ。俺のことは気にするな、お前こそ風邪引くから早く戻れ。……いいな?」
 最後はまるで子供を諭すような優しい声色で、先ほど私の胸に突き刺さったものを溶かしていく。唖然として慌てて彼を呼び止めるも、彼は今度こそ振り返ってくれなかった。次第に小さくなるその後ろ姿に向かって、私は最後に叫んだ。
「私、高杉君が戻るまで待ってる! 私たちのカルテットには、高杉君のチェロが必要だから……!」
 すっかり人混みの中に消えてしまった彼へ、願いは届いただろうか。
 無情に降り注ぐ雨がますます強くなる中、一人になった私は防音ブースへと引き返す。こんな時は街に溢れる音のズレが、いつも以上に鮮明に聞こえて気持ちが悪い。
 〝今の|和泉《お前》なんかに〟……か。
 なんて自分は愚かで、無知で、無力なんだろう。それを知らしめられた気がした。
 空を仰ぎ見ると冷たい雫が顔に降りかかる。これできっと、堪えきれずに目尻から流れたものを誤魔化せているはずだ。
 分かってる。安芸君が言ってくれたように私は私であり、私らしくいればいいことは。私にできることは何だってやるし、高杉君のこともちゃんと信じてる。
 でも何も知らないのはやっぱり辛い。皆には恐らく、私の想像を絶する辛い過去の記憶が刻まれているのに、どうしてそれを共有できないんだろう。
 ――ねぇ、あなたは私に何の望みを託して転生したの?
 教えてよ、前世の|和泉《私》。