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春へ

ー/ー



「君、ちょっといいかい?」
 滑っている子供にアレクセイは声を掛ける。子供は「え」と小さく声を出した後、アレクセイの顔を見て悲鳴をあげて逃げようとした。アレクセイの顔は、クマのように毛むくじゃらだったからだ。
 アレクセイは普段、人前に出る時以外は髭を伸ばしっぱなしにしている。今は三か月も髭を剃っていない状態だ。子供にとって、そんな髭もじゃの男は恐怖の対象以外の何物でもないだろう。
 そして、逃げた子供は派手に転ぶ。氷の上では子供に逃げようもない。今度は打ちどころが悪かったのか、子供はうずくまった。
 心配になったアレクセイは、氷の上に乗って子供のところまで向かった。アレクセイは氷の上で体重をどう描ければいいかを熟知している。彼は、すぐに子供のところまで辿り着いた。

「大丈夫かい?」
 心の底から子供を思いやる声色に、子供の警戒心が少しだけ解けたのか、「う、うん」と子供のおどおどとした小さな声が聞こえる。それを聞いて、アレクセイはほっとする。
「それじゃあ、岸まで運ぶから手を貸して」
「え、うん」
 そう言って、アレクセイは子供に手を差し出す。子供は、おっかなびっくりといった感じでアレクセイの手を取る。そして、アレクセイは子供の手を引っ張りながら氷上を滑った。
「おじさん、すごい!」
 子供の何の混じり気のない率直な感想に、アレクセイは顔に笑みを浮かべる。そして、自分が氷の上をもう一度滑っていることが不思議でならなかった。あれだけ滑るのがトラウマになっていたはずなのに、一歩を踏み出してしまえば、意外とすんなりと行くものだとアレクセイは気付いた。
 それも、子供を助けようとしたからかもしれない、と子供の顔をじっと見て、アレクセイは子供に心の中で感謝をした。

「ほら、ここまでくれば大丈夫」
「ありがとう、おじさん」
 岸にまで辿り着き、子供は感謝の言葉をアレクセイに伝える。アレクセイは、笑顔で頷いた。
「それにしても、どうして君はここにいるんだい?」
 辺りを見ても大人はいない。子供だけでこんな場所にいるのは不自然だとアレクセイは思った。
「……実は、今日の朝に母さんと喧嘩しちゃって──」
 そうして、子供は自分の境遇をとつとつと語り始めた。子供はスケートを始めたくて親に頼んだが、金銭的な余裕がないと言われたと。それで、家出同然に飛び出して当てもなくさまよい、考えもなく山の方に来たと。そして、氷が張った泉を見つけ、滑れるようになったら親も許可をしてくれると思ったのだとし子供は言った。
 それは、子供の頃のアレクセイと似たような境遇だった。アレクセイも、親からフィギュアスケートをするのは反対されていた。アレクセイの親は、結果主義で見えない物を信じないタイプだった。
 アレクセイのスケートの才能を信じずに、まともな仕事をしろと言った。そして、アレクセイはそんな親に度々反発をしていた。アレクセイにスケートの才能があるとわかってから、手を返したようにアレクセイに入れ込んだ。そんな両親のことを彼は気持ち悪いと思っていた。
「──と、いうわけなんだ」
 子供が話し終えると、アレクセイは子供に「そうなんだね」と相槌を打った。アレクセイの頭の中には色々な思いが渦巻いていた。
「でも、わたしには才能がなかったみたい。だから、家に帰って母さんに謝るよ」
 そう寂しそうに言う子供を見て、アレクセイは自分の子供時代が否定されたような気がした。だから、アレクセイは思わず口を開いていた。
「諦めないで。君はまだ才能なんて関係のない時期だ。俺がコーチになって基礎から教えてあげるよ」
「……おじさんが?」
 子供の声に、アレクセイは頷いた。「実は俺、昔結構有名なスケート選手だったんだ。だから、俺の名前を出せば君の親も首を縦に振ってくれると思う」
 そう言うと、子供は目を輝かせて「ほんと!? ほんとにいいの?」とアレクセイにすり寄ってくる。そんな子供の頭を撫でて、アレクセイは頷いた。
 アレクセイの心の中には新たな気持ちが湧いてきていた。滑れるようになったとしても、もうスケートの選手になることはない。だけど、誰かの背中を押せることが出来るなら、どんなに素晴らしいことだろうか。と、彼は思った。
 自分が、まだあの場所に関わる手段がある。それを思うだけで、アレクセイの頬に涙が伝っていく。それは、アレクセイの心に張っていた氷が解けた合図だった。
 冬はいずれ春になる。ずっと冬のままでいたアレクセイにもようやく春が訪れた。
「それじゃあ、ちょっと一緒に街に行く準備するから待ってて」
「うん、おじさんちょっと臭うし、ちゃんと清潔にしてね」
「はは、わかったわかった。……えっと、そういや君の名前を聞いてなかったね。俺はアレクセイって言うんだけど君の名前は?」
「ヴェスナだよ」
「春、希望⋯⋯か。いい名前だな」

 春の訪れ ──fin



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「君、ちょっといいかい?」
 滑っている子供にアレクセイは声を掛ける。子供は「え」と小さく声を出した後、アレクセイの顔を見て悲鳴をあげて逃げようとした。アレクセイの顔は、クマのように毛むくじゃらだったからだ。
 アレクセイは普段、人前に出る時以外は髭を伸ばしっぱなしにしている。今は三か月も髭を剃っていない状態だ。子供にとって、そんな髭もじゃの男は恐怖の対象以外の何物でもないだろう。
 そして、逃げた子供は派手に転ぶ。氷の上では子供に逃げようもない。今度は打ちどころが悪かったのか、子供はうずくまった。
 心配になったアレクセイは、氷の上に乗って子供のところまで向かった。アレクセイは氷の上で体重をどう描ければいいかを熟知している。彼は、すぐに子供のところまで辿り着いた。
「大丈夫かい?」
 心の底から子供を思いやる声色に、子供の警戒心が少しだけ解けたのか、「う、うん」と子供のおどおどとした小さな声が聞こえる。それを聞いて、アレクセイはほっとする。
「それじゃあ、岸まで運ぶから手を貸して」
「え、うん」
 そう言って、アレクセイは子供に手を差し出す。子供は、おっかなびっくりといった感じでアレクセイの手を取る。そして、アレクセイは子供の手を引っ張りながら氷上を滑った。
「おじさん、すごい!」
 子供の何の混じり気のない率直な感想に、アレクセイは顔に笑みを浮かべる。そして、自分が氷の上をもう一度滑っていることが不思議でならなかった。あれだけ滑るのがトラウマになっていたはずなのに、一歩を踏み出してしまえば、意外とすんなりと行くものだとアレクセイは気付いた。
 それも、子供を助けようとしたからかもしれない、と子供の顔をじっと見て、アレクセイは子供に心の中で感謝をした。
「ほら、ここまでくれば大丈夫」
「ありがとう、おじさん」
 岸にまで辿り着き、子供は感謝の言葉をアレクセイに伝える。アレクセイは、笑顔で頷いた。
「それにしても、どうして君はここにいるんだい?」
 辺りを見ても大人はいない。子供だけでこんな場所にいるのは不自然だとアレクセイは思った。
「……実は、今日の朝に母さんと喧嘩しちゃって──」
 そうして、子供は自分の境遇をとつとつと語り始めた。子供はスケートを始めたくて親に頼んだが、金銭的な余裕がないと言われたと。それで、家出同然に飛び出して当てもなくさまよい、考えもなく山の方に来たと。そして、氷が張った泉を見つけ、滑れるようになったら親も許可をしてくれると思ったのだとし子供は言った。
 それは、子供の頃のアレクセイと似たような境遇だった。アレクセイも、親からフィギュアスケートをするのは反対されていた。アレクセイの親は、結果主義で見えない物を信じないタイプだった。
 アレクセイのスケートの才能を信じずに、まともな仕事をしろと言った。そして、アレクセイはそんな親に度々反発をしていた。アレクセイにスケートの才能があるとわかってから、手を返したようにアレクセイに入れ込んだ。そんな両親のことを彼は気持ち悪いと思っていた。
「──と、いうわけなんだ」
 子供が話し終えると、アレクセイは子供に「そうなんだね」と相槌を打った。アレクセイの頭の中には色々な思いが渦巻いていた。
「でも、わたしには才能がなかったみたい。だから、家に帰って母さんに謝るよ」
 そう寂しそうに言う子供を見て、アレクセイは自分の子供時代が否定されたような気がした。だから、アレクセイは思わず口を開いていた。
「諦めないで。君はまだ才能なんて関係のない時期だ。俺がコーチになって基礎から教えてあげるよ」
「……おじさんが?」
 子供の声に、アレクセイは頷いた。「実は俺、昔結構有名なスケート選手だったんだ。だから、俺の名前を出せば君の親も首を縦に振ってくれると思う」
 そう言うと、子供は目を輝かせて「ほんと!? ほんとにいいの?」とアレクセイにすり寄ってくる。そんな子供の頭を撫でて、アレクセイは頷いた。
 アレクセイの心の中には新たな気持ちが湧いてきていた。滑れるようになったとしても、もうスケートの選手になることはない。だけど、誰かの背中を押せることが出来るなら、どんなに素晴らしいことだろうか。と、彼は思った。
 自分が、まだあの場所に関わる手段がある。それを思うだけで、アレクセイの頬に涙が伝っていく。それは、アレクセイの心に張っていた氷が解けた合図だった。
 冬はいずれ春になる。ずっと冬のままでいたアレクセイにもようやく春が訪れた。
「それじゃあ、ちょっと一緒に街に行く準備するから待ってて」
「うん、おじさんちょっと臭うし、ちゃんと清潔にしてね」
「はは、わかったわかった。……えっと、そういや君の名前を聞いてなかったね。俺はアレクセイって言うんだけど君の名前は?」
「ヴェスナだよ」
「春、希望⋯⋯か。いい名前だな」
 春の訪れ ──fin