スタンドを上げて自転車にまたがり、ペダルをこぎ出す。あまりスピードを出しすぎると迷子の子を見失うかもしれない。あたりを見渡せる余裕があるくらいの速度で自転車を走らせた。
「白梅の中でも、『どこの花が見たい』っていうのはないの?」
できればもう少し探す範囲を狭めたかった。
「白い梅の花の名前のついた町があるんです。ぼくとその子は、そこにおりるつもりでした」
なんだか聞き覚えがある町だと思った。
「……だからここが、その『|白梅町《しらうめちょう》』なんだよ」
ため息が出る。
「思っていたよりも小さな町ですね」
子どもが|分別《ふんべつ》くさそうな顔で言う。確かに小さい町だが、猫サイズの子どもをあてもなく探すには広い。
この距離感覚というか、物事の尺度のずれはなんだ。自分の背丈がとても小さいことと、町の大きさの|捉《とら》え方が、なんだか噛み合っていない。
この子どもの言うことが頼りになりそうもないことはわかった。
とりあえず、一番手近な「うめ公園」と看板が出ている公園の前で自転車を停めた。それほど大きい公園ではないけれど、白梅だけでなく紅梅や他の種類の梅の木も植えられている。
自転車は園内には入れられない。前かごから子どもをおろそうとしたら、看板をじっと眺めていた子どもが口を開いた。
「ここにはいません」
「なんで」
まだ中を探してもいないのに。
「あの子、ひらがなは読めません。漢字しか読めないんです」
普通、逆じゃないのか。急ごうと勢いこんでいた体の力が抜ける。
少しの間、頭を整理した。
「……その子、名前あるの? 漢字の名前」
「『|彗《すい》』ちゃんです。『彗星』からとって、ぼくが名前をつけたんです」
子どもは誇らしそうな表情になった。
幾分、予想はしていた。本当はこの町の地図を広げる方が早いだろうけれど、まずは頭に浮かんだ場所へ向かうことにして、自転車にまたがった。
「別のところに行く」
僕の心当たりはひとつだけだ。そこがだめなら、迷子探しを丁重に断るつもりで自転車をこいだ。もと来た道を、スピードを上げて。
早くしないと、閉館時間になる。
自転車を三十分近く走らせて、「|白梅慧雪文庫《しらうめけいせつぶんこ》」と書かれた木の板が掲げられた門の前までたどり着いた。急いで自転車をこいだせいで、息が切れていた。のどに入る空気が冷たい。
冬は日暮れが早い。少しずつ暗くなる。それに加えて、この図書館は閉館時間が早かった。午後四時には閉まる。あと一時間もない。
子どもは前かごの中から木の板を眺めていた。
「……白い梅の花と、|彗《すい》ちゃんと雪がいます」
澄んだ眼差しで、|惹《ひ》かれたようにつぶやいた。
「彗」の字は、「慧」の中に含まれていた。
迷子の子が実際の白梅の花を知らなくて漢字しか読めないのなら、この図書館の名前は親しみを|抱《いだ》いてもおかしくないと思った。
ようやく息を整え、自転車の前かごから子どもを抱えておろす。
「いそう?」
「ここにいます」
確信をこめて頷くと、子どもは大きな声で呼んだ。
「彗ちゃん!」
門の引き戸が内側からわずかに開けられて、猫くらいの大きさの子どもがおずおずと顔を出した。声の相手を認めると目を見ひらいて、門の外まで出てくる。
肩につくかつかないかくらいの金色の髪、銀色の目。白いレインコートに白いブーツをはいていた。
黒髪に水色の目をした子どもはそちらに駆け寄り、二人は両手を広げて抱きしめあった。
それから二人は何かを話していた。会話の内容まではわからない。でもたぶん、今までのことを話しているのだろう。表情は明るかった。
僕はその様子をぼんやり眺めていた。自転車をこぎ疲れてあまり動きたくないせいもあったけれど、二人がまだ先の春を呼ぶような笑顔を互いに向けていたから、なんだか黙って見ていたかった。
探していた迷子は確かに綺麗な子だった。
顔立ちが、というよりも、その子のまわりには金色や銀色の粉のようなものが舞っていた。冬の寒気の中で光る粒は、何かに似ていた。遠い彼方の無数の星、と言われればそうかもしれない。
黒髪の子どもの水色の目も、何かに似ていた。冷たくすきとおるような、湖に張られた氷のような、もっと身近に知っているような、何か。
そこまで考えたとき、二人の子どもが手をつないで僕の足元まで寄ってきた。
金色の髪の子どもはゆっくりと頭を下げた。お礼のつもりだろう。顔を上げると、はにかむように笑った。
水色の目の子どもは僕をじっと見上げている。
「ありがとうございました」
「よかったね」
自然と口をついて出た言葉は、自分でも少し驚くくらいに穏やかだった。
この子たちは、僕とはちがう生き物だから。何も取りつくろわなくていいと思った。
しゃがみこみ、水色の目を見つめる。
「なんで僕に声かけたの?」
ひとつだけ、訊いてみたかった。
「あなたのなかに、ぼくがいます」
子どもの声は静かに僕の耳になじんだ。
「ぼくがいる人にしか、ぼくを見ることはできません」
それで僕は、この子が何かわかった。
「ぼくがいる人に、ぼくは引き寄せられます。その人のそばに、おりたくなります。たいせつに持っていていいかなしみもあるって、伝えたくなります」
子どもは小さな手のひらを僕の手の上に重ねた。冷たくも熱くもない、水のような温度。
「ぼく、あの子といっしょに白い梅の花におりてきます。きっとおりてきますから、見にきてくださいね」
子どもは柔らかな微笑みを見せた。
そうして二人の子どもは、手をつないだまま空に上がっていった。
こちらを見ることもなく、風に舞う木の葉のような速さで遠くなっていった。
一週間後、|白梅町《しらうめちょう》に雪がふった。
僕は期限日当日に卒業論文を提出し終わり、力が抜けていた。
それでも、昼前に窓の外に雪がふるのを見て、「|白梅慧雪文庫《しらうめけいせつぶんこ》」まで歩いていった。傘を差して。
門をくぐると建物の中には入らずに、庭の方へとまわった。
庭は和風とも洋風とも言えなかった。梅の木が点々と植えられている間を細い土の道が通る。時折思い出したように木製の簡素なベンチが一つ、二つ、現れる。
庭の手入れがされていないわけではない。多くの人に見せる型の庭にはしなかったのだろう。なるべく一人で、あるいは二人で、静かにゆっくりと梅の花を眺められるように配慮したのだと思う。
梅の木は|白梅《はくばい》だった。白く、小さな花をつけていた。
黒色に近い折れ曲がる枝の重なりの向こうには、雪をふらす灰色の雲が|透《す》けて見える。
空気は冷たく、静かだった。地面には薄く雪が積もっていた。
雪はゆるやかに白梅の上におりた。それをひとつひとつ、眺めては歩き、立ち止まっては眺めた。
梅の花の白さは柔らかで、雪の白さはすきとおっていた。
あの水色の目をした子どもは、まちがったことを言わなかった。
僕の中にはあの子がいた。
雨がいた。
三ヶ月前、尊敬する先生が病気で亡くなった。僕は葉書一枚でそれを知った。
その日からずっと、僕の心には|霧雨《きりさめ》があった。音もなく、細かい雨だった。
僕は先生に、大切なことを何も伝えられなかった。
先生の書いた本、万葉集についての文章に、幾度となく心を揺さぶられたこと、穏やかに励ましてもらったこと、さびしさをなぐさめられたこと、僕の書いた卒業論文を読んでほしかったこと。
卒業論文は、先生にあてた感謝の手紙のようなものだった。
そして、もうひとつ。
「雪」という漢字は、「雨」と「彗」という字からできている。
空から来た、雨と|彗星《すいせい》のかけら。
あの水色の目の子どもは、銀色の目の子どもと一緒に、雪になっておりてきた。白梅の花の上に。
僕は、白梅の木の前で足をとめた。
雪の白さは、梅の花の白さと混ざり合わない。冬のこの冷たさの中で、雪をのせて咲く白梅は美しかった。
僕はそっと語りかけた。
「いつか、きみと、きみたちと、話をしてみたい」
雪になって白梅の花におりたきみたちは、どんな思いをしただろうか。
雪に咲く白梅の花を見たとき、どんなに僕の心が|和《やわ》らいだか、伝えたかった。
先生が好きな歌に挙げた万葉集の一首、
「わが|園《その》に梅の花散るひさかたの
|天《あめ》より雪の流れ|来《く》るかも」
という歌が僕も好きだった。
――わたしの庭に梅の花が散っている。遠い|彼方《かなた》の空から雪が流れてくるのだろうか。
そう|詠《うた》われた、|大伴旅人《おおとものたびと》の歌。
僕はたぶん、これからこの歌を目にするたびに、きみたちのことを思い出す。
きみたちはこの歌を好きかどうか、聴いてみたいと思った。笑いながら答えてくれそうな気がした。
いずれ僕の中にある|霧雨《きりさめ》は、雪に変わり、白梅の花びらになり、|陽《ひ》の光を受けながら空を流れていくだろう。
雨も雪も、白梅の花も光も、僕には大切に思えた。
雪は音もなく夜中まで|白梅町《しらうめちょう》の上だけにふり続けた。
〈了〉