第7章 禍福は糾える縄の如し-2
ー/ー 翌朝、風呂に入るためにリビングダイニングに向かうと、駆の姿は見えなかったもののダイニングテーブルの上に置いておいたアルバムは既に片づけられていた。
風呂から上がるとキッチンからは柑橘系の爽やかな香りと淹れたてのコーヒーの香りが漂ってくる。
「おはよう、昨日はアルバム堪能しちゃったよ」
そう声を掛けると、フライパンからターナーで、皿にフレンチトーストを載せるために真剣だった駆の顔が、途端に驚きの表情を浮かべた。
「あれを堪能しちゃったの!?」
「うん。馴れ初め話を昨日聞いてたから、山城家の家族史として存分にね」
椅子に腰かけながら私はそう答える。
「おばあさんの趣味丸出しだったでしょ……」
そう言いながら駆がテーブルの上に美味しそうなフレンチトーストの載った皿を置く。
「ほとばしるような愛を感じたよ」
私はにやにやする。
駆は恥ずかしそうに目を伏せながらマグカップにコーヒーを注いでから、こうぼそぼそ言い始めた。
「とにかくおばあさんって凄いんだよ……オレを連れて服買うためにデパート行くじゃない? そうすると、『孫は私の亡くなった連れ合いそっくりで』から始まって、店員さんにおじいさんの話を延々としてるんだ。最後に自慢げにおじいさんの若い頃の写真見せるまでがセットで……」
私はその様子を想像し、つい吹き出しそうになってしまった。
「確か……おじいさんが亡くなってからもう四十年近く経過してるんだよね?」
「そう……おばあさんももう八十才で……なのにあのあり得ないテンションとパワー、常人には到底真似できないよ!」
御年八十才にして未だ現役でそれなりに大きい会社を経営をしている女性なのだからものすごく精力的なのだろうが、それにしても凄いと感心してしまう。
「一度お目にかかりたいな~」
私がそう言うと、駆はきっぱり首を振った。
「おばあさんとは会わないって決めてるから、今はダメ!」
「どうして?」
「……だって会ったらつい頼りたくなっちゃうかもしれないから……」
駆は目を逸らしながらごにょごにょと説明する。
「進級が無事決まらない限りおばあさんと絶対会わないって決めてるんだ……」
それを聞いて駆はストイックなのだなあとしみじみ思ってしまう。したい事だけすると決めてそれを実践した積極的怠け者なおじいさんとは全然違っている。そういう生真面目さは父親譲りなのかもしれない。
「そっか、分かったよ。じゃあ、君が進級したら紹介よろしくね!」
「うん、おばあさんもアルファさんに是非お礼したいって言ってるから、その時は必ず!」
駆がそう言いながらテーブルに着き、二人でいただきますをする。
今日のフレンチトーストは、駆が有名レシピサイトで見つけてきたという牛乳の代わりにオレンジジュースを使った変わり種のフレンチトーストだった。さっぱりとした風味でこれはこれでありだ!
「すっごく美味しいよ」
と絶賛すると、駆が満足そうに笑みを浮かべた。
「それは良かった!」
食後、早速私はベイクドチーズケーキを作るべく、キッチンカウンターに手書きのレシピノートを開いて置き、冷蔵庫からバターやクリームチーズ、卵などを取り出したのだが、そこで駆が私に待ったをかけた。
「アルファさん、今すぐ作ろうと思ったでしょ?」
「うん、善は急げって言うでしょ?」
「ダメ、まずは材料を室温に戻さなくちゃ!」
「えー、面倒。少し温めればよくない?」
私はぼやいたが、駆は首を強く振り、右の拳をぎゅっと握りしめた。
「ダメ! 温めすぎると材料が変質しちゃう。お菓子は一手間かける事で、ぐっと美味しくなるんだよ」
どうやらお菓子作りには一家言あるようだ。お菓子作りなど碌にやらない私が逆らうのも何だかと思ったので、素直に従う事にする。
室温に戻すなら最低一時間は置かなければいけない。仕方ないので、私は駆と自分のためにミルクティーを淹れる事にした。
アッサムティーを少なめのお湯で濃く淹れた後に、ミルクパンで沸騰させない程度に温めた牛乳を注ぐ事で、私拘りのミルクティーが出来上がる。
私がミルクティーを準備している間駆はレシピノートを読んでいたのだが、二つのティーカップをダイニングテーブルに置いてから腰かけた私に尋ねてきた。
「この字、アルファさんの字じゃないよね?」
そのレシピノートは昔懐かしい水色のキャンパスノートに可愛らしい丸っこい字で書かれており、ベイクドチーズケーキのページの見出しには、ピンクのカラーペンで『簡単 お手軽 くみちゃんお勧め!!!』と吹き出しで書き足されている。
「うん、それはお母さんのレシピノート。久美子おばさんがお菓子作りが趣味だったみたいで、色々教わってたってことらしい」
ある程度祖父の空き家の掃除が終わり駆が次の作業の指示を求めてきたので、先週空き家へ行って母の部屋にある大量の本を整理していたのだが、その時出てきたのがこのレシピノートである。今ならネット上に様々な工夫を凝らしたレシピがある事は承知していたものの、敢えてその昔ながらのレシピ通りにベイクドチーズケーキを作り、久美子おばさんにプレゼントしたかったのだ。
「そっか……なるほど……だからレシピがシンプルなんだね」
駆は私の意図を汲んでくれたようだった。顎に手を当てさかんに頷いている。
「でもせっかくプレゼントするからには、このレシピを生かした上で美味しく作りたいよね?」
「もちろん! だけどお恥ずかしながら私、ほとんどお菓子作りってやった事なくて……」
私は小さくなった。
「料理が得意な君ならお菓子作りも経験あるかなって思ったんだけど?」
「お菓子作りの経験がない人がいきなりケーキを作ろうだなんてかなり無謀だと思うけど」
駆に至極当然な事を突っ込まれてしまい、さらに小さくなる。
駆はそんな私を見てくすっとした。
「まあ、いいや、実はオレ、実は小学生の頃本気でパティシエになろうと思ってたんだ。暇な時はよくお菓子作りしてたよ」
「ええ、意外!」
私が声を上げると、駆は照れくさそうに笑ってみせる。
「小三の時、兄さんと夏休みに父さんの職場で開催されたお仕事参観デーに参加した事があったんだけど、最後に参加者全員が『大きくなったら何になりたい?』と聞かれたんだ……兄さんは『白バイ隊員!』って元気よく答えたのに、オレときたら空気も読まず『パティシエ』って返事しちゃって、皆から大笑いされたんだよ」
「いや、そう思ってたんだから全然構わないじゃん? 何故笑うの?」
「まあ、その通りなんだけど…………きっと質問した人は警察官って答えて欲しかったんだろうなって後になって思ったよ。せっかく時間かけてあれこれ説明してくれたのにね…………」
駆は頭に手をやってあははと笑った。
「オレ、そういうリップサービスがとことん苦手なんだよ。もっとも兄さんが白バイ隊員って返事したのは、本気でそう思ってたみたいだけど。大学入ってから大型二輪の免許まで取ってたからね」
「たくみんの夢って意外に本格的だったんだね」
だったら素直に都道府県警行った方が良かったんじゃないかとも思った。警視庁にでも就職していれば、いずれ必ずある地方への転勤で悩む必要もなかっただろうに。それでも父の背中を追いかけたかったのだろうか。立派な父を持つと追いかけるのも大変だ。実際、先日サシ飲みした時、そのために相当努力したような事は匂わせてたっけ。
「でも、君はどうしてパティシエを諦めたの?」
現在の駆の夢は送電ロスを減らすという地味だけど立派な夢だ。駆はミルクティーを口にしてから、目を細めて笑った。
「パティシエって基本毎日同じケーキを作り続けなければならないという現実を知って自分には向いてないかなって……職業にしてしまうと好きなケーキを思い立った時に作ればいいっていう訳じゃないって悟ったんだよ……」
「なるほどね」
私もゲームは大好きだけど、ゲームに関する職業に就こうとは一度も思わなかったからその気持ちはよく分かる。
ここでちらりと壁掛け時計を見上げたが、まだ20分しか経過していない。この時私は昨日見たアルバムの事を思い出した。
「昨日のあのアルバム、タイトルが"Fly Me To The Moon"だったけど、あれってやっぱり"Moon"はおばあさんってことなの?」
「ああ、それね、元々はおばあさんが初めてジャズ喫茶に行って夢中になった曲なんだけど……おじいさんがおばあさんを口説く時歌って聞かせたんだって」
駆が解説してくれる。
「だからおばあさんにとってその曲がおじいさんのテーマソングって事みたいだよ」
「ロ、ロ、ロマンチックじゃん!!!」
興奮のあまりどもってしまった。私の記憶だと、バート・ハワード作詞作曲の"Fly Me To The Moon"はフランク・シナトラがカバーして、当時のアメリカのアポロ計画と相まって流行った曲だったはずだが、津紀子さんの名前には「つき」が入っているし、偶然にしても出来すぎている。
「素敵なエピソードじゃん」
渚ではないが、私もうっとりしてしまう。
きっと駆は津紀子さんから滋さんとのエピソードを何度となく聞かされているのだろうが、そうやって繰り返し語る事で駆の中で亡くなったはずの滋さんが生き続けている気がした。更に私に語る事で私の中でも滋さんが生き続けるのだろう。
滋さんと共に過ごした時間よりも、失ってからの時間の方が長かったはずだが、それでも津紀子さんは滋さんを人目をはばかることなく全力で愛している。その愛の強さに私は胸を打たれる。
「私もそんな風に人を愛せたらいいなあ」
「でも……本当に辛いと思うよ……そんな長い期間愛する人を想って過ごすなんて……」
そう言う駆の声は切なげだった。
「実はおばあさん、周囲から何度も再婚を勧められたらしい……でも、断り続けたんだって……。もちろんおじいさんを想っていたからっていうのが一番の理由なんだけど、山城家に新しい配偶者を迎え入れる事で遺産相続が拗れる事を恐れたってこともあるらしいよ……」
民法上、遺言状がなければ配偶者の遺産相続は二分の一だ。配偶者がいなければ、養子も含めた子に等分される。法学部卒でもないくせにこんな事を知っているのは、両親が亡くなった時いやでも相続について知る必要があったからだ。
「そっか…………」
私は津紀子さんの選択が腑に落ちた。津紀子さんが再婚したらたとえ遺言状を準備していたとしても遺留分が発生するから、その配偶者が遺留分の請求をした場合、子ども達は母親の配偶者の請求に応じなければならなくなる。
「確かに気軽に再婚なんてできないね…………」
「東京に進学した母さんが卒業してすぐ地元に戻って来たのは、そんなおばあさんを支えるためだって聞いてる……。父さんと結婚しても赴任先には基本付いて行かなかったのは、おばあさんと家業を優先したからなんだって……」
と駆が説明してくれた。
当初山城家の両親の別居結婚の話を聞いた時、心情的にはあまり理解できなかったが、今なら加奈子さんが津紀子さんを支えたかったという話を素直に受け止められる気がした。
「みんなあの当時必死だったんだと思う……おばあさんも母さんも大切なものを守ろうとしていたし……父さんもそんな山城家の状況を十分理解した上で母さんと結婚したんだろうね……」
駆がそうぼそっと呟いてから遠い目をする。
「でも……もう家に縛られる時代じゃないとオレは思うんだ……会社経営なんて、家の事と完全に切り離してしまえばいいのに、未だに一族皆で縛られてる……。無関係なのは前に少し話したと思うけど、東京にいる専業主婦の真由子叔母さんくらいで……」
真由子叔母さんというのが、昨日匠が会ったという叔母さんのことだろう。三姉妹の一番下で、確か駆が叔母さんの家に遊びに行った時、携帯ゲーム『夏休みの妖精』でひたすら遊ぶ事を許してくれた優しい人だったと記憶している。
駆の話は続いた。
「もっとも公務員になって家業とは無縁のはずの兄さんだって、山城家の将来の跡継ぎとしてお盆や正月の時は挨拶回りなんかで忙しくしているし……家って本当に難しいよね……オレは『勘当』された事で図らずもそのしがらみから解放されたけど、おばあさんは父さんが勝手に言い出した『勘当』なんて絶対認めてないからって身内には言ってるらしいし……」
サラリーマン家庭に育った私には、同族企業を経営する一族が背負わされた責任を想像なんてできない。ひいおじいさんが望んだ事で大きくなった会社を、今の今までずっと津紀子さんがずっと担い続け、近いうちに加奈子さんが継承する事になっている。その後の事は一切決まっていないと匠は言っていたけど。
駆の『勘当』だって法律上そんな制度はない訳で、元々は父親が駆にお灸を据えるために言い出したことだった。匠から話を聞いた限り、父親自身は引っ込みがつかなくなってしまい意地を張っているような印象だけど、駆は親から縁を切られたと本気で信じている。
「……なるようにしかならないよ……」
私は小さな声でそっとそう言った。駆は兄が機能不全に陥っている家族を少しでも改善するために今必死で奔走している事を全く知らない。匠のこの行動が一家にどう影響を及ぼすのか私には全く想像できないものの、いい方向に転がっていって欲しいと心底願っている。
「…………そうだね…………」
駆はゆっくりと頷いた。
そんな話をしているうちに小一時間が経過し、材料もすっかり室温に戻ったようだ。駆の許可も下りたので私は昨日買っておいた全粒粉ビスケットをざっくり砕きビニール袋に入れ、綿棒で叩いて潰し、すっかり柔らかくなったバターと丁寧に滑らかになるまで混ぜ合わせる。そうやって作ったチーズケーキの土台を型の底にまんべんなく敷き詰めていく。
その間駆は薄力粉とグラニュー糖を丹念に粉ふるいにかけてから、ステンレスのボウルにクリームチーズを入れ、ハンドミキサーを使って混ぜていく。そこにグラニュー糖と卵を加え、更に追加で生クリームを入れよく混ぜ合わせていった。
生地がいい感じにもったりしてきたので、薄力粉を入れ混ぜてから、さらにレモン汁を加えてさらに混ぜる。
最後にそうやって作った生地(これをアパレイユと呼ぶそうだ)を型に流し込み、型を二、三度軽く落として空気を抜き、パレットナイフで表面をきれいにならしてから、160℃に設定したオーブンレンジで約30分焼いてから、さらに向きを変え10分追加で焼く。
じっくり焼いているうちにチーズの焦げたような甘い香りが漂ってきた。時々オーブンの中を覗き込みながら、私のテンションが徐々に上がっていく。
「君がいなかったら、間違いなく冷えたままのバターとかクリームチーズ使ってたね」
私がそう言うと、一緒にオーブンをのぞいていた駆が背後からこう説明してくれる
「冷えたままだと綺麗に混ざらないんだよ。生地がだまになったり、分離したりするんだ」
「なるほどー」
「混ぜる時は時間を惜しまず丁寧に。まあ、混ぜすぎては失敗する生地なんかもあるからそこはレシピに書いてあることをきちんと守る事!」
作り慣れている人の台詞だった。
「お菓子作りは、料理と違って適当に作ると絶対に美味しくできないから」
「はーい、先生!」
私は振り返ると、了解した印に手を挙げてみせた。
「お菓子作りってオレは化学反応だと思ってるから。料理とはまた違う理系のジャンルだよね」
「確かに!」
私は同意する。駆は料理を作る時はけっこう目分量で大胆に作っているのだが、今日のチーズケーキではデジタルスケールを使ってきっちり分量を量っていた。
焼けたかどうか確認するために、両手に鍋つかみを付けた私はオーブンレンジから天板を引き出し、一旦型を取り出し、軽くゆすってみる。ぷるんという弾力があったのでどうやらちゃんと中まで火が通ったようだ。
チーズケーキの表面はきれいな狐色にこんがりと焼きあがっていて、食欲をそそるような甘さと、チーズの香ばしさ、さらにレモンの風味が絶妙に混じり合った香りが漂っている。
「早く食べてみたい」
私は指をくわえたものの、駆は首を振った。
「粗熱を取ってから、冷蔵庫で冷やすんだよ。アルファさんって本当にせっかちだなー」
「ごめーん」
ぺろっと舌を出す。多分、今まで私の作ったお菓子が上手くいかなかった理由はそれだと思う。
次に駆の指示に従い、手際よくキッチンカウンターの上に準備していたケーキクーラーに載せる。
「アルファさん、暫く我慢して下さいね!」
駆にしっかり釘を刺されてしまった。
チーズケーキが冷蔵庫の中で十分冷えたので、型から外したのは午後三時半過ぎだった。
「新井さんのお宅は四人家族でしょ。そんでもって私達の分を合わせると六等分だね」
私がそう言うと、駆はお湯で温めていたケーキナイフを清潔な布巾で拭ってからチーズケーキを慎重に切り始める。ナイフを温めると切断面がぼそぼそにならず綺麗になるからだそうだ。
まずは二等分してから、それを更に三等分するのだが、私なんかは多少適当でもいいじゃんと思うのに、駆は正確に等分する事にやたら拘っている。これも理数系の性分なのだろうか。
「三等分だから60°だね」
そう呟きながら、駆の納得する60°の角度にカットしていく。
結局見事にケーキを六等分してから、駆が上機嫌な声を上げた。
「うん、きれいな断面だ。中までむらなくしっかり火が通ってるよ!」
駆は慣れた手つきで準備していたケーキ用のアルミシートを使ってケーキを包んでから、百均で買っていた白い紙のケーキ箱にそっと入れ、それを一旦冷蔵庫にしまう。
お店で買ったと言っても遜色ない見事なケーキの仕上がりに改めて感動してしまう。
「君、天才!」
ここぞとばかりに駆を褒めそやした。駆は照れくさそうに笑ってみせる。
「久美子さん、喜んでくれるかな」
「絶対喜ぶって! って持っていく前に早く味見しようよ!」
私はそう言いながら早速コーヒーメーカーの準備を始めていた。
私達が共同で作った――というか正確に言えば駆が八割方作ったベイクドチーズケーキは素朴で優しい味がした。
「うん、美味しい!」
私はチーズケーキを頬張りながらこの上ない幸せを感じていた。ケーキ自体の美味しさは勿論の事、駆と一緒に作ったという喜びと両方がないまぜとなった幸せだ。
「ほんとだね」
駆はにこにこしながら私の事を見つめてくる。
「アルファさんはいつも美味しそうに食べてくれるから作った甲斐があるよ」
ううっ、本来は私が言い出しっぺだったのに、結局ほとんど作らせてしまって申し訳ない。
「君の才能を独り占めしてしまっていいのかな、っていつも思ってるよ」
私がそう言うと、駆はそっと首を振った。
「才能だなんて……単に丁寧に作ってるだけだから……」
「いや、皆、それが出来る訳じゃないんだよ! お菓子を丁寧に作れる事、それも天賦の才能なんだから!」
私はフォークを握り締めたままそう力説する。
「君のその才能、少し分けてもらいたいくらいだよ!」
駆が眩しいものを見るように目を細め私を見ている。
「褒められるってとても嬉しいね」
おう、と私は同意しながらケーキを更にぱくりと食べた。駆が望むならいくらでも褒めてあげたいと思っている。あまり言いすぎると嘘くさく思われるから最近は自重しているけど。
駆が私の事をじっと見つめてきた。ん? と私が視線を返すと、にこっと微笑んでこう言ってくる。
「アルファさんは人を喜ばせるのが本当に上手だよね」
「そうかなあ」
私は首を傾げた。
「そう。オレの誕生日の時の謎解き旅行もそうだし、今回のチーズケーキだって久美子さんが喜ぶものをちゃんと心得ているんだから」
駆は優しい眼差しで私を見ている。
「オレにはそんな事全く思いつかないよ。それも一種の才能だと思う」
そんなことを言われ、私は少し考えてから答えた。
「みんなの喜ぶ顔が見たくてついつい頑張っちゃう……からかな」
「それって凄い事だと思うよ!」
駆が極上の笑みを浮かべながら私を褒めてくれている。図らずも私の胸が高鳴ってしまう。
「そ、そんな事くらいしか取柄ないけど……」
ドキドキを隠しながら、必死に取り繕おうとする。すると駆は首を振った。
「違うよ、アルファさんはいいところが一杯あるって」
「例えば……?」
「行く当てがないオレを拾ってくれただけじゃなくて、あれこれマネージメントしてくれるし。内海君の事も気にかけてくれている。親とはぐれた蓮君の世話だって最後まで責任持ってしてたよね? 仕事だっていつも一生懸命だし。それに……そう、アナログゲームがめちゃくちゃ強いし!」
「困ってる人が目の前にいたら放っておけないってだけだよ……当然の事をしているだけだから……」
私はぼそぼそ言った。苦学生の内海君は再来週我が家で卒論激励焼肉パーティをすることになっている。愚痴を言いつつ仕事を懸命にやっているのは、仕事がなかったら今頃私は引きこもり人生を送っていた気がするからだ。それに、両親が亡くなった時会社ぐるみで私を支えてくれたという恩も感じていた。アナログゲーム全般が強いのは、確かに才能なのかもしれないけど。
すると駆は再度首を振った。
「アルファさんにとっては当然の事かもしれないけど、皆がそういう訳じゃないから……。オレはこっちに来てから何度も、混んでる駅で具合悪そうにしている人が誰からも無視されているのを見てきているし……。みんな、誰かがやるって思っているから手助けしないんだよ。オレは父さんからいつも、『困っている人を見かけたらお前に出来る範囲で助けてやれ』って言われてきたから、あくまで出来る範囲で手助けしているけど……それとはまた違うよね?」
都会にはそういうところがあるのは分かる。具合が悪そうな人や痴漢に遭って困っている人がいても見て見ぬふりをする人々がほとんどだ。自分がやらなくても誰かがやるだろうと思わせる他力本願な空気が漂っている。私だって通勤で急いでいる時、常にそういう人を見かけてとっさに声を掛けられる訳ではない。迷って迷って、それでも誰も声を掛けないから勇気を振り絞って手助けするだけなのだ。実際それで何度か遅刻したことはあるが、後悔はしていない。
「オレ、アルファさんのそういうところが大好きだから。本当に感謝しているし、心から尊敬してる。やっぱりオレのヒーローだと思う!」
私を真っ直ぐ見つめながらそう言う駆の声は心なしか熱がこもっていた。私の頬は紅潮し、心臓が早鐘を打っている。
「……ありがとう……そう言われると照れくさいけど嬉しいね……」
それでもなんとか礼を言えた。まだ心臓がバクバクしているけど。
「君だってお父さんに言われた事ちゃんと実践しているのは凄い事だと思うよ」
『勘当』してきた父の教えを守り続けるなんてなかなかできる事ではないと思ってしまう。駆の場合、『勘当』に関しては自分が悪いと思っているからなんだろうけど。
この時駆が何かを思い出すように少し考えこんだ。
「そういえば…………小さい時から、珍しくせっかく家族で出かけたはずなのに父さんが困っている人を助けるために数時間潰れるとかあったし……」
子ども心には辛かっただろう。たまにしか会えない父親が赤の他人のために手を貸し、その結果大切な家族の時間が圧迫されるなんて。しかし駆の瞳は予想外に輝いていた。
「父さんね、一瞬家族を見て迷うんだけど、結局飛び出してっちゃうの……。母さんは呆れていたけど、兄さんもオレもそんな父さんが誇らしかった……とにかくかっこよかったんだよ!」
「そうなんだ…………」
本当に意外だった。山城家では父親がそうやって率先して見本を示してきたから、駆は教えを実践できるのだろうし、匠もその背を追う事を決意したのだろう。それにしても、駆は本当にお父さんの事が好きなんだなあ。仕送りを打ち切られるなんて酷い目に遭っても、それでも不思議と慕っている。
「困ってる誰かのために自分の時間を割くって、時々やらなきゃ良かったかなという気分に陥る時もあるけど、それでもやらなかった事で後悔したくないから、これからも続けると思う」
と駆が言うので、私は同意した。
「うん、それ、すっごく分かるよ。私も同じこと思うもん」
駆も我が意を得たりという表情で頷いた。
同居生活を続けていく中で、ある程度互いに大事にしている価値観が共通しているという事は重要な事だ。こういう根底を流れる価値観がずれていると互いに幻滅なり、苛立ちを感じてしまう事になるだろう。私達は互いに全然違った人間ではあるのだけど、駆がこういう青年で良かったと心から思う。だから私もちゃんと気持ちを伝えようと思った。
「私も君のそういうところ大好きだから。前に満員電車で挙動不審な男がいたら意識的にその前に立ちふさがったりしてるって言ってたよね。なかなか出来る事じゃないよ」
我が最寄りの路線はかつて痴漢が多い事で知られていた埼京線なのだ。実際駆と満員電車に乗ると、いつもさりげなく身体でガードしてくれる。
駆の頬が朱を帯びた。
「いや、それはただ立ってるだけだから。オレは……ほら……無駄にでかいし……」
「それだけで痴漢防止になってるのなら、君は十分偉いんだよ!」
「そ、そうなのかな……なら嬉しいけど……」
駆は目を伏せ、頬に右手を当て照れる。
私は続けた。
「私も女の割にはでかいし目つきも悪いからほとんど痴漢に遭った事はないんだけど、高校時代、一度だけ身動き取れない満員電車内でお尻触られた事があって。逃げたいけど全く逃げられないそんな状態の時、見知らぬサラリーマンのお兄さんが気が付いてくれて立ってる場所を入れ替えてくれた時があったんだ。神だ!って思ったし、その恩は一生忘れないよ」
「そんな事あったんだ……。アルファさんは本当に辛かっただろうけど、そのお兄さんがいてくれて本当に良かったね。オレもそういう場面に遭遇した時はそのお兄さん見習うことにしよう!」
駆の声は優しかった。
「うん、それで救われる女性が絶対いるって!」
男子と痴漢の話題を交わすのは茶化されたりして通常なかなか難しいのだが、駆は主に匠から痴漢にまつわる色々な話を聞いているらしく始終真剣だった。こんな話し辛い話題をこうやって真面目に聞いてくれるだけでなく、共感してくれるのが本当に嬉しかった。
絶品チーズケーキとコーヒーが二人の胃袋にしっかり収まったので、私達は夕食の買い出しを兼ねて、久美子おばさんの家を訪ねる事にする。
私達を新井家の玄関で出迎えた久美子おばさんは、差し出されたケーキ箱を見て目を丸くした。
「あら、有葉ちゃん、わざわざありがとうね!」
「いつも頂いてばかりでは申し訳なかったので、私達二人で手作りしました。味は保証しますので、是非皆さんでお召し上がりください!」
「まあ、二人で手作りってあなた達って本当に仲いいのね」
久美子おばさんは嬉しそうに笑ってみせる。私達はそれぞれ曖昧な笑いを浮かべた後、私は補足するように付け加えた。
「そのチーズケーキ、おばさんがお母さんに教えてくれたレシピ通りに作ってますんで」
「まあ!」
久美子おばさんは瞬きを何回もしてから、唇をわななかせた。
「…………そうだったの…………」
おばさんは一旦ケーキの箱を玄関にある大きな木製の下駄箱の上に置くと、目に浮かんでいた涙を指でそっとぬぐった。
「実はそのレシピ…………葉月ちゃんが有介さんにケーキを作ってあげたいって言うから教えたレシピだったのよ…………」
葉月が私の母で、有介が私の父の事である。全く知らなかった。駆と私は顔を見合わせる。
「葉月ちゃんはせっかちなせいかお菓子作りは全然得意じゃなかったから、簡単だけど美味しくできるレシピを教えてあげたの…………」
「そうだったんですね…………」
胸が熱くなった私はそうとしか言えなかった。そして思う、母もせっかちだったんだって。
おばさんは私達を安心させるかのように、ケーキ箱を顔の前に掲げ懸命に笑顔を作ってみせた。
「そのレシピを娘の有葉ちゃんが発掘して何十年後かに作ってくれるなんて、おばさん本当に感激よ。有難く頂くわね」
私達は頭を下げ、新井宅を退去した。それから夕食の食材を購入するために、以前初めて二人で祖父の家に行った時帰りに立ち寄ったあのスーパーへ向かう事にする。
「あのレシピにそんなエピソードがあったなんて……」
歩道を歩きながら駆が感極まったかのように声を震わせる。もしかするとちょっと泣いていたかもしれない。
一方私は丸っこいレシピノートの文字を思い出していた。母が父に出会ったのは地元の大学を卒業し就職してからだったから、その年齢の割には少し子どもっぽい字からは、実はそんな逸話が隠されていたなんて一切読み取ることはできなかった。
「お母さんはお父さんと違って昔の話はあまりしないし、何よりクールな人だと思ってたから、結婚前にそんな乙女みたいな事してただなんて夢にも思わなかったよ……」
私の声も自然と震えた。すると目をこすってから駆が私の方を向いてこう言う。
「でもそれが聞けたんだから、ケーキ作って本当に良かったよね」
「君の協力がなかったら絶対美味しくは作れなかった……本当にありがとう……」
私は感謝の意味を込め、右隣でゆっくり歩く駆の手に自分の右手をそっと重ねた。夏の旅行以来、私達は時々互いの手を繋ぐ時があった。駆はそんな私の指を軽く握ってくる。
「どういたしまして……」
元々人より平熱が高いという駆の指はとても温かかった。
その時ぎっしりと立ち並ぶ家々の隙間から大きい満月が上ってくるのが、目の端に入ってきた。日没後さほど時間は立っておらず周囲は完全に暗くなっていないものの、月は非常に明るく、沈んだ太陽の代わりに辺りを照らしている。
それを目にした私は深く考える事なく"Fly Me to the Moon"の最初の2フレーズを鼻歌で歌ってしまった。
はっとした顔をして駆が私を見つめてくるので、私は空いていた左手で背後の月を指差した。
「ほら、見て、今日は満月だよ」
「あ、本当だ!」
全然気が付いていなかったらしい駆も、振り返って満月を見上げた。
「十月の満月はハンターズムーンって言うみたいだね」
私はちょっとした蘊蓄を付け加える。十月は狩猟に最適な月だったからネイティブアメリカンがそう名付けたらしい。
「とてもきれいな月だね……」
駆がそう呟きながら、私の指をさっきより力を込めて握ってきた。気のせいかその指先が熱を帯びたように感じられる。
「…………うん…………きれいだね…………」
私はこくりと頷くと、一旦完全に立ち止まった。この時私の頭に、夏目漱石が"I love you"を『日本人はそんなことは言わない。月が綺麗ですね』とでも訳しておけばいいと言ったという真偽不明の話がちらちらとよぎったが、互いに月を称賛しただけで"I love you"になるはずがない。私はこのナンセンスな夢想を頭から追い払おうとしてふと思った。そういえば駆は"Fly Me to the Moon"の歌詞を知っているのだろうか? 私は月を熱心に見上げている駆の横顔をちらっと見た。
「ねぇ、君、"Fly Me to the Moon"歌える…………?」
駆はこちらを見て少し困惑したように目を瞬きさせた。
「…………まあ、一応は…………」
「じゃ、歌ってよ」
ダメ元でおねだりしてみる。
「えっ…………」
駆は完璧に固まってしまった。
うっ、私完璧にすべったかな。そう思った時、駆は深く息を吸ってから伏し目がちに小さな声で、タイトルと同じ冒頭のフレーズからそっと歌い始めた。
考えてみると駆とカラオケに行った事はなかったから、歌を聴くのは初めてだった。小学生の頃ずっとピアノを習っていたためか、音程が正確だ。駆の声は小さいながらよく通るテノール寄りのバリトンで、私の耳に優しく響いてくる。そして…………
"In other words hold my hand"
このフレーズの時ぎゅっと強く手を握りしめてきた。私の心臓が跳ね上がる。そして
"In other words……"ともう一度同じフレーズが繰り返された。
ところが駆はここで突然口を閉ざしてしまった。歌詞を忘れてしまったという雰囲気ではなさそうである。私は続きを促すように駆を見つめたのだが、駆はつっと月に視線をそらした。
「…………ごめんなさい……今はオレ、まだこの続き歌えない…………でも、いつか、きっと…………」
駆の声は上ずり、繋がれたままの駆の熱い指先がトクントクンと脈打っているのが感じられる。物凄く緊張しているのだ。
「…………うん…………その時まで待ってるから…………」
歌詞をよく覚えていなかった私は、駆の予想外な反応に内心ドギマギしながらも、そう答えるしかなかった。駆は相変わらず月を向いたまま
「…………待ってて下さい…………」
とかすれた声で答えたのだった。
※"Fly Me to the Moon"より引用(作詞作曲:バート・ハワード)
それ以降何となくぎこちない雰囲気となり、会話もあまり交わさないまま食材をスーパーで調達し家に戻ってから、駆は早速キッチンで夕食を作り始めた。今晩は秋らしく栗ご飯と、なすの豚みそ炒め、ホウレンソウのお浸しだそうだ。
一方私は先ほどの駆の様子がどうしても気になり、一旦自室に戻ってパソコンで"Fly Me to the Moon"の歌詞を調べ始めた。この時初めて知ったのだが、"Fly Me to the Moon"の元々のタイトルは"In other words"だったようで、現在も副題として()に入れているアーティストもいるようだ。つまりこれは歌詞の中でも重要なフレーズということである。
そして……検索の結果、二回目の"In other words"の続きは、"darling kiss me"だったという事が判明し、黒いパソコンデスクの前で恥ずかしさのあまり身悶えした挙句、突っ伏してしまった。
「ねぇ…………君、そういう事でいいんだよね?」
私はひんやりとしたデスクに右頬を押し付け、段の入ったサイドの髪を指でくるくるといじりながら、キッチンにいる駆に聞こえるはずもない小さい声で問うた。
この曲は駆のおじいさんがおばあさんを口説く時に歌った歌だった。それを鼻歌とはいえ私から歌い始めたって事は……。全くそんなつもりはなかったのだけど、駆はそれを私からの『メッセージ』として受け取ったという事なのだろう。そして、今は無理だけどいつかは続きを歌うって事は…………。
ギャーと叫び出したい気分だった。心の準備が全くできていないのに、あたかも自分から告白した形になっている。無意識の自分――『血潮の中で渦巻く欲望』が、駆との関係を壊したくない、失いたくないとぐずぐずしている私の背中を押したという事なの?
激しく鼓動を打つ心臓をを抑えるように胸に左手を当てながら、少し冷静に考えてみた。今の駆は学業とアルバイトで精一杯だし、進級する事が最優先課題だ。それでも『いつか、きっと』と言ってくれた。ならいい加減私も覚悟を決めるべきではないだろうか。
私は机に左頬を預け、火照る右頬に手を当てた。もう対等な関係とか言っている場合じゃない。駆をありのまま受け入れるべきなのだ。駆は金銭には絶対換算できないものを私に沢山与えてくれている。食事作りや家事は勿論のこと、傍にいてくれる事で、私は一人ぼっちではないという安心感をいつももたらしてくれる。駆と同居するようになってから、両親を失って以来どこか孤独を感じていた私の心がどれだけ満たされた事か、言葉では言い尽くせないほどだ。
それにさっき駆は私の事を『ヒーロー』だと言ってくれたが、あの時は本当に嬉しかった。ちっぽけな私も少しは駆の役に立っていると思えたし、私が駆にとって特別な人間になれているのだとしたら、それはどんなに喜ばしく誇らしい事だろう。
以前渚に話したように、私達が互いに甘えているのは事実だ。でも私の中にはそれの何が悪いと開き直る自分もいた。両親のいない私と、父親から『勘当』された駆が互いにもたれあってはいけないのだろうか?
互いに自立した者同士の恋愛が私の理想だったとしても、現実とは往々にしてままならないものだ。だったらその現実を素直に受け入れた上で、手を携え支え合い、共に歩んでいってもいいではないか。
駆の現時点での気持ちが明らかになった以上、これからは私の中にある『恋が途中でダメになってしまうのが怖い』という恐怖心と向き合わなければならないのだが、それについては他でもない私自身が勇気を奮い立たせるしかないのである。
私はパソコンデスクの傍にあるベッドに移動しごろりと横になると、スマホのフォトアプリを開き、こちらを向いて満面の笑みを浮かべている両親の写真をじっと眺めた。私が就職してようやく子育てから解放され、これからは夫婦水入らずであちこち旅行できるねと喜んでいた矢先の交通事故が二人の命を奪ったのだ。
「お父さん、お母さん、お願い、不甲斐ない娘を後押しして…………」
つい弱音を吐いてしまう。きっと二人は天国で、図体ばかりでかいくせに情けない娘の様子を見て笑っているに違いない。
二人は本当に仲の良い夫婦だった。もちろんちょっとした喧嘩は当然あったけど、必ずきちんと話し合って最終的には仲直りしていたようだ。そういえば、一番最後に家族旅行をした時母が私をホテルのバーに誘ってくれて、お洒落なカクテルを傾けながら、もし誰かとお付き合いするなら相手に期待しすぎず、コミュニケーションを絶対惜しんではダメなんて言っていた気がする。
「うん、そうだよね、お母さん」
私は写真に向かって頷いてみせた。自分から告白できずにいた私は、心の奥底でどこか駆に期待していたのかもしれない。駆はさっき、現時点で彼のできる最大限の意思表示をしてくれたのだ。次こそは私の口からきちんと話したい。
それからどういう訳か、後から後から両親との懐かしい想い出の記憶が脳裏に蘇っていく。その都度私は両親と会話を交わしていった。いつもは両親の事を思い出す度胸の痛みを伴っていたのに、今回は不思議とそれはなく、涙もこぼれることはなかった。こんな風にしばらく時間を過ごした頃、部屋のドアが優しくノックされる。
「アルファさん、夕飯出来上がったよー!」
さっきあんなに緊張していたのが嘘のような、駆の朗らかな声だった。
「はーい、今行くね!」
私はベッドからゆっくり立ち上がると、自分を鼓舞するようにうんと頷いてから自室を後にしたのだった。たとえのろのろであっても私は一歩一歩階段を上っている、そう感じながら。
風呂から上がるとキッチンからは柑橘系の爽やかな香りと淹れたてのコーヒーの香りが漂ってくる。
「おはよう、昨日はアルバム堪能しちゃったよ」
そう声を掛けると、フライパンからターナーで、皿にフレンチトーストを載せるために真剣だった駆の顔が、途端に驚きの表情を浮かべた。
「あれを堪能しちゃったの!?」
「うん。馴れ初め話を昨日聞いてたから、山城家の家族史として存分にね」
椅子に腰かけながら私はそう答える。
「おばあさんの趣味丸出しだったでしょ……」
そう言いながら駆がテーブルの上に美味しそうなフレンチトーストの載った皿を置く。
「ほとばしるような愛を感じたよ」
私はにやにやする。
駆は恥ずかしそうに目を伏せながらマグカップにコーヒーを注いでから、こうぼそぼそ言い始めた。
「とにかくおばあさんって凄いんだよ……オレを連れて服買うためにデパート行くじゃない? そうすると、『孫は私の亡くなった連れ合いそっくりで』から始まって、店員さんにおじいさんの話を延々としてるんだ。最後に自慢げにおじいさんの若い頃の写真見せるまでがセットで……」
私はその様子を想像し、つい吹き出しそうになってしまった。
「確か……おじいさんが亡くなってからもう四十年近く経過してるんだよね?」
「そう……おばあさんももう八十才で……なのにあのあり得ないテンションとパワー、常人には到底真似できないよ!」
御年八十才にして未だ現役でそれなりに大きい会社を経営をしている女性なのだからものすごく精力的なのだろうが、それにしても凄いと感心してしまう。
「一度お目にかかりたいな~」
私がそう言うと、駆はきっぱり首を振った。
「おばあさんとは会わないって決めてるから、今はダメ!」
「どうして?」
「……だって会ったらつい頼りたくなっちゃうかもしれないから……」
駆は目を逸らしながらごにょごにょと説明する。
「進級が無事決まらない限りおばあさんと絶対会わないって決めてるんだ……」
それを聞いて駆はストイックなのだなあとしみじみ思ってしまう。したい事だけすると決めてそれを実践した積極的怠け者なおじいさんとは全然違っている。そういう生真面目さは父親譲りなのかもしれない。
「そっか、分かったよ。じゃあ、君が進級したら紹介よろしくね!」
「うん、おばあさんもアルファさんに是非お礼したいって言ってるから、その時は必ず!」
駆がそう言いながらテーブルに着き、二人でいただきますをする。
今日のフレンチトーストは、駆が有名レシピサイトで見つけてきたという牛乳の代わりにオレンジジュースを使った変わり種のフレンチトーストだった。さっぱりとした風味でこれはこれでありだ!
「すっごく美味しいよ」
と絶賛すると、駆が満足そうに笑みを浮かべた。
「それは良かった!」
食後、早速私はベイクドチーズケーキを作るべく、キッチンカウンターに手書きのレシピノートを開いて置き、冷蔵庫からバターやクリームチーズ、卵などを取り出したのだが、そこで駆が私に待ったをかけた。
「アルファさん、今すぐ作ろうと思ったでしょ?」
「うん、善は急げって言うでしょ?」
「ダメ、まずは材料を室温に戻さなくちゃ!」
「えー、面倒。少し温めればよくない?」
私はぼやいたが、駆は首を強く振り、右の拳をぎゅっと握りしめた。
「ダメ! 温めすぎると材料が変質しちゃう。お菓子は一手間かける事で、ぐっと美味しくなるんだよ」
どうやらお菓子作りには一家言あるようだ。お菓子作りなど碌にやらない私が逆らうのも何だかと思ったので、素直に従う事にする。
室温に戻すなら最低一時間は置かなければいけない。仕方ないので、私は駆と自分のためにミルクティーを淹れる事にした。
アッサムティーを少なめのお湯で濃く淹れた後に、ミルクパンで沸騰させない程度に温めた牛乳を注ぐ事で、私拘りのミルクティーが出来上がる。
私がミルクティーを準備している間駆はレシピノートを読んでいたのだが、二つのティーカップをダイニングテーブルに置いてから腰かけた私に尋ねてきた。
「この字、アルファさんの字じゃないよね?」
そのレシピノートは昔懐かしい水色のキャンパスノートに可愛らしい丸っこい字で書かれており、ベイクドチーズケーキのページの見出しには、ピンクのカラーペンで『簡単 お手軽 くみちゃんお勧め!!!』と吹き出しで書き足されている。
「うん、それはお母さんのレシピノート。久美子おばさんがお菓子作りが趣味だったみたいで、色々教わってたってことらしい」
ある程度祖父の空き家の掃除が終わり駆が次の作業の指示を求めてきたので、先週空き家へ行って母の部屋にある大量の本を整理していたのだが、その時出てきたのがこのレシピノートである。今ならネット上に様々な工夫を凝らしたレシピがある事は承知していたものの、敢えてその昔ながらのレシピ通りにベイクドチーズケーキを作り、久美子おばさんにプレゼントしたかったのだ。
「そっか……なるほど……だからレシピがシンプルなんだね」
駆は私の意図を汲んでくれたようだった。顎に手を当てさかんに頷いている。
「でもせっかくプレゼントするからには、このレシピを生かした上で美味しく作りたいよね?」
「もちろん! だけどお恥ずかしながら私、ほとんどお菓子作りってやった事なくて……」
私は小さくなった。
「料理が得意な君ならお菓子作りも経験あるかなって思ったんだけど?」
「お菓子作りの経験がない人がいきなりケーキを作ろうだなんてかなり無謀だと思うけど」
駆に至極当然な事を突っ込まれてしまい、さらに小さくなる。
駆はそんな私を見てくすっとした。
「まあ、いいや、実はオレ、実は小学生の頃本気でパティシエになろうと思ってたんだ。暇な時はよくお菓子作りしてたよ」
「ええ、意外!」
私が声を上げると、駆は照れくさそうに笑ってみせる。
「小三の時、兄さんと夏休みに父さんの職場で開催されたお仕事参観デーに参加した事があったんだけど、最後に参加者全員が『大きくなったら何になりたい?』と聞かれたんだ……兄さんは『白バイ隊員!』って元気よく答えたのに、オレときたら空気も読まず『パティシエ』って返事しちゃって、皆から大笑いされたんだよ」
「いや、そう思ってたんだから全然構わないじゃん? 何故笑うの?」
「まあ、その通りなんだけど…………きっと質問した人は警察官って答えて欲しかったんだろうなって後になって思ったよ。せっかく時間かけてあれこれ説明してくれたのにね…………」
駆は頭に手をやってあははと笑った。
「オレ、そういうリップサービスがとことん苦手なんだよ。もっとも兄さんが白バイ隊員って返事したのは、本気でそう思ってたみたいだけど。大学入ってから大型二輪の免許まで取ってたからね」
「たくみんの夢って意外に本格的だったんだね」
だったら素直に都道府県警行った方が良かったんじゃないかとも思った。警視庁にでも就職していれば、いずれ必ずある地方への転勤で悩む必要もなかっただろうに。それでも父の背中を追いかけたかったのだろうか。立派な父を持つと追いかけるのも大変だ。実際、先日サシ飲みした時、そのために相当努力したような事は匂わせてたっけ。
「でも、君はどうしてパティシエを諦めたの?」
現在の駆の夢は送電ロスを減らすという地味だけど立派な夢だ。駆はミルクティーを口にしてから、目を細めて笑った。
「パティシエって基本毎日同じケーキを作り続けなければならないという現実を知って自分には向いてないかなって……職業にしてしまうと好きなケーキを思い立った時に作ればいいっていう訳じゃないって悟ったんだよ……」
「なるほどね」
私もゲームは大好きだけど、ゲームに関する職業に就こうとは一度も思わなかったからその気持ちはよく分かる。
ここでちらりと壁掛け時計を見上げたが、まだ20分しか経過していない。この時私は昨日見たアルバムの事を思い出した。
「昨日のあのアルバム、タイトルが"Fly Me To The Moon"だったけど、あれってやっぱり"Moon"はおばあさんってことなの?」
「ああ、それね、元々はおばあさんが初めてジャズ喫茶に行って夢中になった曲なんだけど……おじいさんがおばあさんを口説く時歌って聞かせたんだって」
駆が解説してくれる。
「だからおばあさんにとってその曲がおじいさんのテーマソングって事みたいだよ」
「ロ、ロ、ロマンチックじゃん!!!」
興奮のあまりどもってしまった。私の記憶だと、バート・ハワード作詞作曲の"Fly Me To The Moon"はフランク・シナトラがカバーして、当時のアメリカのアポロ計画と相まって流行った曲だったはずだが、津紀子さんの名前には「つき」が入っているし、偶然にしても出来すぎている。
「素敵なエピソードじゃん」
渚ではないが、私もうっとりしてしまう。
きっと駆は津紀子さんから滋さんとのエピソードを何度となく聞かされているのだろうが、そうやって繰り返し語る事で駆の中で亡くなったはずの滋さんが生き続けている気がした。更に私に語る事で私の中でも滋さんが生き続けるのだろう。
滋さんと共に過ごした時間よりも、失ってからの時間の方が長かったはずだが、それでも津紀子さんは滋さんを人目をはばかることなく全力で愛している。その愛の強さに私は胸を打たれる。
「私もそんな風に人を愛せたらいいなあ」
「でも……本当に辛いと思うよ……そんな長い期間愛する人を想って過ごすなんて……」
そう言う駆の声は切なげだった。
「実はおばあさん、周囲から何度も再婚を勧められたらしい……でも、断り続けたんだって……。もちろんおじいさんを想っていたからっていうのが一番の理由なんだけど、山城家に新しい配偶者を迎え入れる事で遺産相続が拗れる事を恐れたってこともあるらしいよ……」
民法上、遺言状がなければ配偶者の遺産相続は二分の一だ。配偶者がいなければ、養子も含めた子に等分される。法学部卒でもないくせにこんな事を知っているのは、両親が亡くなった時いやでも相続について知る必要があったからだ。
「そっか…………」
私は津紀子さんの選択が腑に落ちた。津紀子さんが再婚したらたとえ遺言状を準備していたとしても遺留分が発生するから、その配偶者が遺留分の請求をした場合、子ども達は母親の配偶者の請求に応じなければならなくなる。
「確かに気軽に再婚なんてできないね…………」
「東京に進学した母さんが卒業してすぐ地元に戻って来たのは、そんなおばあさんを支えるためだって聞いてる……。父さんと結婚しても赴任先には基本付いて行かなかったのは、おばあさんと家業を優先したからなんだって……」
と駆が説明してくれた。
当初山城家の両親の別居結婚の話を聞いた時、心情的にはあまり理解できなかったが、今なら加奈子さんが津紀子さんを支えたかったという話を素直に受け止められる気がした。
「みんなあの当時必死だったんだと思う……おばあさんも母さんも大切なものを守ろうとしていたし……父さんもそんな山城家の状況を十分理解した上で母さんと結婚したんだろうね……」
駆がそうぼそっと呟いてから遠い目をする。
「でも……もう家に縛られる時代じゃないとオレは思うんだ……会社経営なんて、家の事と完全に切り離してしまえばいいのに、未だに一族皆で縛られてる……。無関係なのは前に少し話したと思うけど、東京にいる専業主婦の真由子叔母さんくらいで……」
真由子叔母さんというのが、昨日匠が会ったという叔母さんのことだろう。三姉妹の一番下で、確か駆が叔母さんの家に遊びに行った時、携帯ゲーム『夏休みの妖精』でひたすら遊ぶ事を許してくれた優しい人だったと記憶している。
駆の話は続いた。
「もっとも公務員になって家業とは無縁のはずの兄さんだって、山城家の将来の跡継ぎとしてお盆や正月の時は挨拶回りなんかで忙しくしているし……家って本当に難しいよね……オレは『勘当』された事で図らずもそのしがらみから解放されたけど、おばあさんは父さんが勝手に言い出した『勘当』なんて絶対認めてないからって身内には言ってるらしいし……」
サラリーマン家庭に育った私には、同族企業を経営する一族が背負わされた責任を想像なんてできない。ひいおじいさんが望んだ事で大きくなった会社を、今の今までずっと津紀子さんがずっと担い続け、近いうちに加奈子さんが継承する事になっている。その後の事は一切決まっていないと匠は言っていたけど。
駆の『勘当』だって法律上そんな制度はない訳で、元々は父親が駆にお灸を据えるために言い出したことだった。匠から話を聞いた限り、父親自身は引っ込みがつかなくなってしまい意地を張っているような印象だけど、駆は親から縁を切られたと本気で信じている。
「……なるようにしかならないよ……」
私は小さな声でそっとそう言った。駆は兄が機能不全に陥っている家族を少しでも改善するために今必死で奔走している事を全く知らない。匠のこの行動が一家にどう影響を及ぼすのか私には全く想像できないものの、いい方向に転がっていって欲しいと心底願っている。
「…………そうだね…………」
駆はゆっくりと頷いた。
そんな話をしているうちに小一時間が経過し、材料もすっかり室温に戻ったようだ。駆の許可も下りたので私は昨日買っておいた全粒粉ビスケットをざっくり砕きビニール袋に入れ、綿棒で叩いて潰し、すっかり柔らかくなったバターと丁寧に滑らかになるまで混ぜ合わせる。そうやって作ったチーズケーキの土台を型の底にまんべんなく敷き詰めていく。
その間駆は薄力粉とグラニュー糖を丹念に粉ふるいにかけてから、ステンレスのボウルにクリームチーズを入れ、ハンドミキサーを使って混ぜていく。そこにグラニュー糖と卵を加え、更に追加で生クリームを入れよく混ぜ合わせていった。
生地がいい感じにもったりしてきたので、薄力粉を入れ混ぜてから、さらにレモン汁を加えてさらに混ぜる。
最後にそうやって作った生地(これをアパレイユと呼ぶそうだ)を型に流し込み、型を二、三度軽く落として空気を抜き、パレットナイフで表面をきれいにならしてから、160℃に設定したオーブンレンジで約30分焼いてから、さらに向きを変え10分追加で焼く。
じっくり焼いているうちにチーズの焦げたような甘い香りが漂ってきた。時々オーブンの中を覗き込みながら、私のテンションが徐々に上がっていく。
「君がいなかったら、間違いなく冷えたままのバターとかクリームチーズ使ってたね」
私がそう言うと、一緒にオーブンをのぞいていた駆が背後からこう説明してくれる
「冷えたままだと綺麗に混ざらないんだよ。生地がだまになったり、分離したりするんだ」
「なるほどー」
「混ぜる時は時間を惜しまず丁寧に。まあ、混ぜすぎては失敗する生地なんかもあるからそこはレシピに書いてあることをきちんと守る事!」
作り慣れている人の台詞だった。
「お菓子作りは、料理と違って適当に作ると絶対に美味しくできないから」
「はーい、先生!」
私は振り返ると、了解した印に手を挙げてみせた。
「お菓子作りってオレは化学反応だと思ってるから。料理とはまた違う理系のジャンルだよね」
「確かに!」
私は同意する。駆は料理を作る時はけっこう目分量で大胆に作っているのだが、今日のチーズケーキではデジタルスケールを使ってきっちり分量を量っていた。
焼けたかどうか確認するために、両手に鍋つかみを付けた私はオーブンレンジから天板を引き出し、一旦型を取り出し、軽くゆすってみる。ぷるんという弾力があったのでどうやらちゃんと中まで火が通ったようだ。
チーズケーキの表面はきれいな狐色にこんがりと焼きあがっていて、食欲をそそるような甘さと、チーズの香ばしさ、さらにレモンの風味が絶妙に混じり合った香りが漂っている。
「早く食べてみたい」
私は指をくわえたものの、駆は首を振った。
「粗熱を取ってから、冷蔵庫で冷やすんだよ。アルファさんって本当にせっかちだなー」
「ごめーん」
ぺろっと舌を出す。多分、今まで私の作ったお菓子が上手くいかなかった理由はそれだと思う。
次に駆の指示に従い、手際よくキッチンカウンターの上に準備していたケーキクーラーに載せる。
「アルファさん、暫く我慢して下さいね!」
駆にしっかり釘を刺されてしまった。
チーズケーキが冷蔵庫の中で十分冷えたので、型から外したのは午後三時半過ぎだった。
「新井さんのお宅は四人家族でしょ。そんでもって私達の分を合わせると六等分だね」
私がそう言うと、駆はお湯で温めていたケーキナイフを清潔な布巾で拭ってからチーズケーキを慎重に切り始める。ナイフを温めると切断面がぼそぼそにならず綺麗になるからだそうだ。
まずは二等分してから、それを更に三等分するのだが、私なんかは多少適当でもいいじゃんと思うのに、駆は正確に等分する事にやたら拘っている。これも理数系の性分なのだろうか。
「三等分だから60°だね」
そう呟きながら、駆の納得する60°の角度にカットしていく。
結局見事にケーキを六等分してから、駆が上機嫌な声を上げた。
「うん、きれいな断面だ。中までむらなくしっかり火が通ってるよ!」
駆は慣れた手つきで準備していたケーキ用のアルミシートを使ってケーキを包んでから、百均で買っていた白い紙のケーキ箱にそっと入れ、それを一旦冷蔵庫にしまう。
お店で買ったと言っても遜色ない見事なケーキの仕上がりに改めて感動してしまう。
「君、天才!」
ここぞとばかりに駆を褒めそやした。駆は照れくさそうに笑ってみせる。
「久美子さん、喜んでくれるかな」
「絶対喜ぶって! って持っていく前に早く味見しようよ!」
私はそう言いながら早速コーヒーメーカーの準備を始めていた。
私達が共同で作った――というか正確に言えば駆が八割方作ったベイクドチーズケーキは素朴で優しい味がした。
「うん、美味しい!」
私はチーズケーキを頬張りながらこの上ない幸せを感じていた。ケーキ自体の美味しさは勿論の事、駆と一緒に作ったという喜びと両方がないまぜとなった幸せだ。
「ほんとだね」
駆はにこにこしながら私の事を見つめてくる。
「アルファさんはいつも美味しそうに食べてくれるから作った甲斐があるよ」
ううっ、本来は私が言い出しっぺだったのに、結局ほとんど作らせてしまって申し訳ない。
「君の才能を独り占めしてしまっていいのかな、っていつも思ってるよ」
私がそう言うと、駆はそっと首を振った。
「才能だなんて……単に丁寧に作ってるだけだから……」
「いや、皆、それが出来る訳じゃないんだよ! お菓子を丁寧に作れる事、それも天賦の才能なんだから!」
私はフォークを握り締めたままそう力説する。
「君のその才能、少し分けてもらいたいくらいだよ!」
駆が眩しいものを見るように目を細め私を見ている。
「褒められるってとても嬉しいね」
おう、と私は同意しながらケーキを更にぱくりと食べた。駆が望むならいくらでも褒めてあげたいと思っている。あまり言いすぎると嘘くさく思われるから最近は自重しているけど。
駆が私の事をじっと見つめてきた。ん? と私が視線を返すと、にこっと微笑んでこう言ってくる。
「アルファさんは人を喜ばせるのが本当に上手だよね」
「そうかなあ」
私は首を傾げた。
「そう。オレの誕生日の時の謎解き旅行もそうだし、今回のチーズケーキだって久美子さんが喜ぶものをちゃんと心得ているんだから」
駆は優しい眼差しで私を見ている。
「オレにはそんな事全く思いつかないよ。それも一種の才能だと思う」
そんなことを言われ、私は少し考えてから答えた。
「みんなの喜ぶ顔が見たくてついつい頑張っちゃう……からかな」
「それって凄い事だと思うよ!」
駆が極上の笑みを浮かべながら私を褒めてくれている。図らずも私の胸が高鳴ってしまう。
「そ、そんな事くらいしか取柄ないけど……」
ドキドキを隠しながら、必死に取り繕おうとする。すると駆は首を振った。
「違うよ、アルファさんはいいところが一杯あるって」
「例えば……?」
「行く当てがないオレを拾ってくれただけじゃなくて、あれこれマネージメントしてくれるし。内海君の事も気にかけてくれている。親とはぐれた蓮君の世話だって最後まで責任持ってしてたよね? 仕事だっていつも一生懸命だし。それに……そう、アナログゲームがめちゃくちゃ強いし!」
「困ってる人が目の前にいたら放っておけないってだけだよ……当然の事をしているだけだから……」
私はぼそぼそ言った。苦学生の内海君は再来週我が家で卒論激励焼肉パーティをすることになっている。愚痴を言いつつ仕事を懸命にやっているのは、仕事がなかったら今頃私は引きこもり人生を送っていた気がするからだ。それに、両親が亡くなった時会社ぐるみで私を支えてくれたという恩も感じていた。アナログゲーム全般が強いのは、確かに才能なのかもしれないけど。
すると駆は再度首を振った。
「アルファさんにとっては当然の事かもしれないけど、皆がそういう訳じゃないから……。オレはこっちに来てから何度も、混んでる駅で具合悪そうにしている人が誰からも無視されているのを見てきているし……。みんな、誰かがやるって思っているから手助けしないんだよ。オレは父さんからいつも、『困っている人を見かけたらお前に出来る範囲で助けてやれ』って言われてきたから、あくまで出来る範囲で手助けしているけど……それとはまた違うよね?」
都会にはそういうところがあるのは分かる。具合が悪そうな人や痴漢に遭って困っている人がいても見て見ぬふりをする人々がほとんどだ。自分がやらなくても誰かがやるだろうと思わせる他力本願な空気が漂っている。私だって通勤で急いでいる時、常にそういう人を見かけてとっさに声を掛けられる訳ではない。迷って迷って、それでも誰も声を掛けないから勇気を振り絞って手助けするだけなのだ。実際それで何度か遅刻したことはあるが、後悔はしていない。
「オレ、アルファさんのそういうところが大好きだから。本当に感謝しているし、心から尊敬してる。やっぱりオレのヒーローだと思う!」
私を真っ直ぐ見つめながらそう言う駆の声は心なしか熱がこもっていた。私の頬は紅潮し、心臓が早鐘を打っている。
「……ありがとう……そう言われると照れくさいけど嬉しいね……」
それでもなんとか礼を言えた。まだ心臓がバクバクしているけど。
「君だってお父さんに言われた事ちゃんと実践しているのは凄い事だと思うよ」
『勘当』してきた父の教えを守り続けるなんてなかなかできる事ではないと思ってしまう。駆の場合、『勘当』に関しては自分が悪いと思っているからなんだろうけど。
この時駆が何かを思い出すように少し考えこんだ。
「そういえば…………小さい時から、珍しくせっかく家族で出かけたはずなのに父さんが困っている人を助けるために数時間潰れるとかあったし……」
子ども心には辛かっただろう。たまにしか会えない父親が赤の他人のために手を貸し、その結果大切な家族の時間が圧迫されるなんて。しかし駆の瞳は予想外に輝いていた。
「父さんね、一瞬家族を見て迷うんだけど、結局飛び出してっちゃうの……。母さんは呆れていたけど、兄さんもオレもそんな父さんが誇らしかった……とにかくかっこよかったんだよ!」
「そうなんだ…………」
本当に意外だった。山城家では父親がそうやって率先して見本を示してきたから、駆は教えを実践できるのだろうし、匠もその背を追う事を決意したのだろう。それにしても、駆は本当にお父さんの事が好きなんだなあ。仕送りを打ち切られるなんて酷い目に遭っても、それでも不思議と慕っている。
「困ってる誰かのために自分の時間を割くって、時々やらなきゃ良かったかなという気分に陥る時もあるけど、それでもやらなかった事で後悔したくないから、これからも続けると思う」
と駆が言うので、私は同意した。
「うん、それ、すっごく分かるよ。私も同じこと思うもん」
駆も我が意を得たりという表情で頷いた。
同居生活を続けていく中で、ある程度互いに大事にしている価値観が共通しているという事は重要な事だ。こういう根底を流れる価値観がずれていると互いに幻滅なり、苛立ちを感じてしまう事になるだろう。私達は互いに全然違った人間ではあるのだけど、駆がこういう青年で良かったと心から思う。だから私もちゃんと気持ちを伝えようと思った。
「私も君のそういうところ大好きだから。前に満員電車で挙動不審な男がいたら意識的にその前に立ちふさがったりしてるって言ってたよね。なかなか出来る事じゃないよ」
我が最寄りの路線はかつて痴漢が多い事で知られていた埼京線なのだ。実際駆と満員電車に乗ると、いつもさりげなく身体でガードしてくれる。
駆の頬が朱を帯びた。
「いや、それはただ立ってるだけだから。オレは……ほら……無駄にでかいし……」
「それだけで痴漢防止になってるのなら、君は十分偉いんだよ!」
「そ、そうなのかな……なら嬉しいけど……」
駆は目を伏せ、頬に右手を当て照れる。
私は続けた。
「私も女の割にはでかいし目つきも悪いからほとんど痴漢に遭った事はないんだけど、高校時代、一度だけ身動き取れない満員電車内でお尻触られた事があって。逃げたいけど全く逃げられないそんな状態の時、見知らぬサラリーマンのお兄さんが気が付いてくれて立ってる場所を入れ替えてくれた時があったんだ。神だ!って思ったし、その恩は一生忘れないよ」
「そんな事あったんだ……。アルファさんは本当に辛かっただろうけど、そのお兄さんがいてくれて本当に良かったね。オレもそういう場面に遭遇した時はそのお兄さん見習うことにしよう!」
駆の声は優しかった。
「うん、それで救われる女性が絶対いるって!」
男子と痴漢の話題を交わすのは茶化されたりして通常なかなか難しいのだが、駆は主に匠から痴漢にまつわる色々な話を聞いているらしく始終真剣だった。こんな話し辛い話題をこうやって真面目に聞いてくれるだけでなく、共感してくれるのが本当に嬉しかった。
絶品チーズケーキとコーヒーが二人の胃袋にしっかり収まったので、私達は夕食の買い出しを兼ねて、久美子おばさんの家を訪ねる事にする。
私達を新井家の玄関で出迎えた久美子おばさんは、差し出されたケーキ箱を見て目を丸くした。
「あら、有葉ちゃん、わざわざありがとうね!」
「いつも頂いてばかりでは申し訳なかったので、私達二人で手作りしました。味は保証しますので、是非皆さんでお召し上がりください!」
「まあ、二人で手作りってあなた達って本当に仲いいのね」
久美子おばさんは嬉しそうに笑ってみせる。私達はそれぞれ曖昧な笑いを浮かべた後、私は補足するように付け加えた。
「そのチーズケーキ、おばさんがお母さんに教えてくれたレシピ通りに作ってますんで」
「まあ!」
久美子おばさんは瞬きを何回もしてから、唇をわななかせた。
「…………そうだったの…………」
おばさんは一旦ケーキの箱を玄関にある大きな木製の下駄箱の上に置くと、目に浮かんでいた涙を指でそっとぬぐった。
「実はそのレシピ…………葉月ちゃんが有介さんにケーキを作ってあげたいって言うから教えたレシピだったのよ…………」
葉月が私の母で、有介が私の父の事である。全く知らなかった。駆と私は顔を見合わせる。
「葉月ちゃんはせっかちなせいかお菓子作りは全然得意じゃなかったから、簡単だけど美味しくできるレシピを教えてあげたの…………」
「そうだったんですね…………」
胸が熱くなった私はそうとしか言えなかった。そして思う、母もせっかちだったんだって。
おばさんは私達を安心させるかのように、ケーキ箱を顔の前に掲げ懸命に笑顔を作ってみせた。
「そのレシピを娘の有葉ちゃんが発掘して何十年後かに作ってくれるなんて、おばさん本当に感激よ。有難く頂くわね」
私達は頭を下げ、新井宅を退去した。それから夕食の食材を購入するために、以前初めて二人で祖父の家に行った時帰りに立ち寄ったあのスーパーへ向かう事にする。
「あのレシピにそんなエピソードがあったなんて……」
歩道を歩きながら駆が感極まったかのように声を震わせる。もしかするとちょっと泣いていたかもしれない。
一方私は丸っこいレシピノートの文字を思い出していた。母が父に出会ったのは地元の大学を卒業し就職してからだったから、その年齢の割には少し子どもっぽい字からは、実はそんな逸話が隠されていたなんて一切読み取ることはできなかった。
「お母さんはお父さんと違って昔の話はあまりしないし、何よりクールな人だと思ってたから、結婚前にそんな乙女みたいな事してただなんて夢にも思わなかったよ……」
私の声も自然と震えた。すると目をこすってから駆が私の方を向いてこう言う。
「でもそれが聞けたんだから、ケーキ作って本当に良かったよね」
「君の協力がなかったら絶対美味しくは作れなかった……本当にありがとう……」
私は感謝の意味を込め、右隣でゆっくり歩く駆の手に自分の右手をそっと重ねた。夏の旅行以来、私達は時々互いの手を繋ぐ時があった。駆はそんな私の指を軽く握ってくる。
「どういたしまして……」
元々人より平熱が高いという駆の指はとても温かかった。
その時ぎっしりと立ち並ぶ家々の隙間から大きい満月が上ってくるのが、目の端に入ってきた。日没後さほど時間は立っておらず周囲は完全に暗くなっていないものの、月は非常に明るく、沈んだ太陽の代わりに辺りを照らしている。
それを目にした私は深く考える事なく"Fly Me to the Moon"の最初の2フレーズを鼻歌で歌ってしまった。
はっとした顔をして駆が私を見つめてくるので、私は空いていた左手で背後の月を指差した。
「ほら、見て、今日は満月だよ」
「あ、本当だ!」
全然気が付いていなかったらしい駆も、振り返って満月を見上げた。
「十月の満月はハンターズムーンって言うみたいだね」
私はちょっとした蘊蓄を付け加える。十月は狩猟に最適な月だったからネイティブアメリカンがそう名付けたらしい。
「とてもきれいな月だね……」
駆がそう呟きながら、私の指をさっきより力を込めて握ってきた。気のせいかその指先が熱を帯びたように感じられる。
「…………うん…………きれいだね…………」
私はこくりと頷くと、一旦完全に立ち止まった。この時私の頭に、夏目漱石が"I love you"を『日本人はそんなことは言わない。月が綺麗ですね』とでも訳しておけばいいと言ったという真偽不明の話がちらちらとよぎったが、互いに月を称賛しただけで"I love you"になるはずがない。私はこのナンセンスな夢想を頭から追い払おうとしてふと思った。そういえば駆は"Fly Me to the Moon"の歌詞を知っているのだろうか? 私は月を熱心に見上げている駆の横顔をちらっと見た。
「ねぇ、君、"Fly Me to the Moon"歌える…………?」
駆はこちらを見て少し困惑したように目を瞬きさせた。
「…………まあ、一応は…………」
「じゃ、歌ってよ」
ダメ元でおねだりしてみる。
「えっ…………」
駆は完璧に固まってしまった。
うっ、私完璧にすべったかな。そう思った時、駆は深く息を吸ってから伏し目がちに小さな声で、タイトルと同じ冒頭のフレーズからそっと歌い始めた。
考えてみると駆とカラオケに行った事はなかったから、歌を聴くのは初めてだった。小学生の頃ずっとピアノを習っていたためか、音程が正確だ。駆の声は小さいながらよく通るテノール寄りのバリトンで、私の耳に優しく響いてくる。そして…………
"In other words hold my hand"
このフレーズの時ぎゅっと強く手を握りしめてきた。私の心臓が跳ね上がる。そして
"In other words……"ともう一度同じフレーズが繰り返された。
ところが駆はここで突然口を閉ざしてしまった。歌詞を忘れてしまったという雰囲気ではなさそうである。私は続きを促すように駆を見つめたのだが、駆はつっと月に視線をそらした。
「…………ごめんなさい……今はオレ、まだこの続き歌えない…………でも、いつか、きっと…………」
駆の声は上ずり、繋がれたままの駆の熱い指先がトクントクンと脈打っているのが感じられる。物凄く緊張しているのだ。
「…………うん…………その時まで待ってるから…………」
歌詞をよく覚えていなかった私は、駆の予想外な反応に内心ドギマギしながらも、そう答えるしかなかった。駆は相変わらず月を向いたまま
「…………待ってて下さい…………」
とかすれた声で答えたのだった。
※"Fly Me to the Moon"より引用(作詞作曲:バート・ハワード)
それ以降何となくぎこちない雰囲気となり、会話もあまり交わさないまま食材をスーパーで調達し家に戻ってから、駆は早速キッチンで夕食を作り始めた。今晩は秋らしく栗ご飯と、なすの豚みそ炒め、ホウレンソウのお浸しだそうだ。
一方私は先ほどの駆の様子がどうしても気になり、一旦自室に戻ってパソコンで"Fly Me to the Moon"の歌詞を調べ始めた。この時初めて知ったのだが、"Fly Me to the Moon"の元々のタイトルは"In other words"だったようで、現在も副題として()に入れているアーティストもいるようだ。つまりこれは歌詞の中でも重要なフレーズということである。
そして……検索の結果、二回目の"In other words"の続きは、"darling kiss me"だったという事が判明し、黒いパソコンデスクの前で恥ずかしさのあまり身悶えした挙句、突っ伏してしまった。
「ねぇ…………君、そういう事でいいんだよね?」
私はひんやりとしたデスクに右頬を押し付け、段の入ったサイドの髪を指でくるくるといじりながら、キッチンにいる駆に聞こえるはずもない小さい声で問うた。
この曲は駆のおじいさんがおばあさんを口説く時に歌った歌だった。それを鼻歌とはいえ私から歌い始めたって事は……。全くそんなつもりはなかったのだけど、駆はそれを私からの『メッセージ』として受け取ったという事なのだろう。そして、今は無理だけどいつかは続きを歌うって事は…………。
ギャーと叫び出したい気分だった。心の準備が全くできていないのに、あたかも自分から告白した形になっている。無意識の自分――『血潮の中で渦巻く欲望』が、駆との関係を壊したくない、失いたくないとぐずぐずしている私の背中を押したという事なの?
激しく鼓動を打つ心臓をを抑えるように胸に左手を当てながら、少し冷静に考えてみた。今の駆は学業とアルバイトで精一杯だし、進級する事が最優先課題だ。それでも『いつか、きっと』と言ってくれた。ならいい加減私も覚悟を決めるべきではないだろうか。
私は机に左頬を預け、火照る右頬に手を当てた。もう対等な関係とか言っている場合じゃない。駆をありのまま受け入れるべきなのだ。駆は金銭には絶対換算できないものを私に沢山与えてくれている。食事作りや家事は勿論のこと、傍にいてくれる事で、私は一人ぼっちではないという安心感をいつももたらしてくれる。駆と同居するようになってから、両親を失って以来どこか孤独を感じていた私の心がどれだけ満たされた事か、言葉では言い尽くせないほどだ。
それにさっき駆は私の事を『ヒーロー』だと言ってくれたが、あの時は本当に嬉しかった。ちっぽけな私も少しは駆の役に立っていると思えたし、私が駆にとって特別な人間になれているのだとしたら、それはどんなに喜ばしく誇らしい事だろう。
以前渚に話したように、私達が互いに甘えているのは事実だ。でも私の中にはそれの何が悪いと開き直る自分もいた。両親のいない私と、父親から『勘当』された駆が互いにもたれあってはいけないのだろうか?
互いに自立した者同士の恋愛が私の理想だったとしても、現実とは往々にしてままならないものだ。だったらその現実を素直に受け入れた上で、手を携え支え合い、共に歩んでいってもいいではないか。
駆の現時点での気持ちが明らかになった以上、これからは私の中にある『恋が途中でダメになってしまうのが怖い』という恐怖心と向き合わなければならないのだが、それについては他でもない私自身が勇気を奮い立たせるしかないのである。
私はパソコンデスクの傍にあるベッドに移動しごろりと横になると、スマホのフォトアプリを開き、こちらを向いて満面の笑みを浮かべている両親の写真をじっと眺めた。私が就職してようやく子育てから解放され、これからは夫婦水入らずであちこち旅行できるねと喜んでいた矢先の交通事故が二人の命を奪ったのだ。
「お父さん、お母さん、お願い、不甲斐ない娘を後押しして…………」
つい弱音を吐いてしまう。きっと二人は天国で、図体ばかりでかいくせに情けない娘の様子を見て笑っているに違いない。
二人は本当に仲の良い夫婦だった。もちろんちょっとした喧嘩は当然あったけど、必ずきちんと話し合って最終的には仲直りしていたようだ。そういえば、一番最後に家族旅行をした時母が私をホテルのバーに誘ってくれて、お洒落なカクテルを傾けながら、もし誰かとお付き合いするなら相手に期待しすぎず、コミュニケーションを絶対惜しんではダメなんて言っていた気がする。
「うん、そうだよね、お母さん」
私は写真に向かって頷いてみせた。自分から告白できずにいた私は、心の奥底でどこか駆に期待していたのかもしれない。駆はさっき、現時点で彼のできる最大限の意思表示をしてくれたのだ。次こそは私の口からきちんと話したい。
それからどういう訳か、後から後から両親との懐かしい想い出の記憶が脳裏に蘇っていく。その都度私は両親と会話を交わしていった。いつもは両親の事を思い出す度胸の痛みを伴っていたのに、今回は不思議とそれはなく、涙もこぼれることはなかった。こんな風にしばらく時間を過ごした頃、部屋のドアが優しくノックされる。
「アルファさん、夕飯出来上がったよー!」
さっきあんなに緊張していたのが嘘のような、駆の朗らかな声だった。
「はーい、今行くね!」
私はベッドからゆっくり立ち上がると、自分を鼓舞するようにうんと頷いてから自室を後にしたのだった。たとえのろのろであっても私は一歩一歩階段を上っている、そう感じながら。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
翌朝、風呂に入るためにリビングダイニングに向かうと、駆の姿は見えなかったもののダイニングテーブルの上に置いておいたアルバムは既に片づけられていた。
風呂から上がるとキッチンからは柑橘系の爽やかな香りと淹れたてのコーヒーの香りが漂ってくる。
「おはよう、昨日はアルバム堪能しちゃったよ」
そう声を掛けると、フライパンからターナーで、皿にフレンチトーストを載せるために真剣だった駆の顔が、途端に驚きの表情を浮かべた。
「あれを堪能しちゃったの!?」
「うん。馴れ初め話を昨日聞いてたから、山城家の家族史として存分にね」
椅子に腰かけながら私はそう答える。
「おばあさんの趣味丸出しだったでしょ……」
そう言いながら駆がテーブルの上に美味しそうなフレンチトーストの載った皿を置く。
「ほとばしるような愛を感じたよ」
私はにやにやする。
駆は恥ずかしそうに目を伏せながらマグカップにコーヒーを注いでから、こうぼそぼそ言い始めた。
「とにかくおばあさんって凄いんだよ……オレを連れて服買うためにデパート行くじゃない? そうすると、『孫は私の亡くなった連れ合いそっくりで』から始まって、店員さんにおじいさんの話を延々としてるんだ。最後に自慢げにおじいさんの若い頃の写真見せるまでがセットで……」
私はその様子を想像し、つい吹き出しそうになってしまった。
「確か……おじいさんが亡くなってからもう四十年近く経過してるんだよね?」
「そう……おばあさんももう八十才で……なのにあのあり得ないテンションとパワー、常人には到底真似できないよ!」
御年八十才にして未だ現役でそれなりに大きい会社を経営をしている女性なのだからものすごく精力的なのだろうが、それにしても凄いと感心してしまう。
「一度お目にかかりたいな~」
私がそう言うと、駆はきっぱり首を振った。
「おばあさんとは会わないって決めてるから、今はダメ!」
「どうして?」
「……だって会ったらつい頼りたくなっちゃうかもしれないから……」
駆は目を逸らしながらごにょごにょと説明する。
「進級が無事決まらない限りおばあさんと絶対会わないって決めてるんだ……」
それを聞いて駆はストイックなのだなあとしみじみ思ってしまう。したい事だけすると決めてそれを実践した積極的怠け者なおじいさんとは全然違っている。そういう生真面目さは父親譲りなのかもしれない。
「そっか、分かったよ。じゃあ、君が進級したら紹介よろしくね!」
「うん、おばあさんもアルファさんに是非お礼したいって言ってるから、その時は必ず!」
駆がそう言いながらテーブルに着き、二人でいただきますをする。
風呂から上がるとキッチンからは柑橘系の爽やかな香りと淹れたてのコーヒーの香りが漂ってくる。
「おはよう、昨日はアルバム堪能しちゃったよ」
そう声を掛けると、フライパンからターナーで、皿にフレンチトーストを載せるために真剣だった駆の顔が、途端に驚きの表情を浮かべた。
「あれを堪能しちゃったの!?」
「うん。馴れ初め話を昨日聞いてたから、山城家の家族史として存分にね」
椅子に腰かけながら私はそう答える。
「おばあさんの趣味丸出しだったでしょ……」
そう言いながら駆がテーブルの上に美味しそうなフレンチトーストの載った皿を置く。
「ほとばしるような愛を感じたよ」
私はにやにやする。
駆は恥ずかしそうに目を伏せながらマグカップにコーヒーを注いでから、こうぼそぼそ言い始めた。
「とにかくおばあさんって凄いんだよ……オレを連れて服買うためにデパート行くじゃない? そうすると、『孫は私の亡くなった連れ合いそっくりで』から始まって、店員さんにおじいさんの話を延々としてるんだ。最後に自慢げにおじいさんの若い頃の写真見せるまでがセットで……」
私はその様子を想像し、つい吹き出しそうになってしまった。
「確か……おじいさんが亡くなってからもう四十年近く経過してるんだよね?」
「そう……おばあさんももう八十才で……なのにあのあり得ないテンションとパワー、常人には到底真似できないよ!」
御年八十才にして未だ現役でそれなりに大きい会社を経営をしている女性なのだからものすごく精力的なのだろうが、それにしても凄いと感心してしまう。
「一度お目にかかりたいな~」
私がそう言うと、駆はきっぱり首を振った。
「おばあさんとは会わないって決めてるから、今はダメ!」
「どうして?」
「……だって会ったらつい頼りたくなっちゃうかもしれないから……」
駆は目を逸らしながらごにょごにょと説明する。
「進級が無事決まらない限りおばあさんと絶対会わないって決めてるんだ……」
それを聞いて駆はストイックなのだなあとしみじみ思ってしまう。したい事だけすると決めてそれを実践した積極的怠け者なおじいさんとは全然違っている。そういう生真面目さは父親譲りなのかもしれない。
「そっか、分かったよ。じゃあ、君が進級したら紹介よろしくね!」
「うん、おばあさんもアルファさんに是非お礼したいって言ってるから、その時は必ず!」
駆がそう言いながらテーブルに着き、二人でいただきますをする。
今日のフレンチトーストは、駆が有名レシピサイトで見つけてきたという牛乳の代わりにオレンジジュースを使った変わり種のフレンチトーストだった。さっぱりとした風味でこれはこれでありだ!
「すっごく美味しいよ」
と絶賛すると、駆が満足そうに笑みを浮かべた。
「それは良かった!」
「すっごく美味しいよ」
と絶賛すると、駆が満足そうに笑みを浮かべた。
「それは良かった!」
食後、早速私はベイクドチーズケーキを作るべく、キッチンカウンターに手書きのレシピノートを開いて置き、冷蔵庫からバターやクリームチーズ、卵などを取り出したのだが、そこで駆が私に待ったをかけた。
「アルファさん、今すぐ作ろうと思ったでしょ?」
「うん、善は急げって言うでしょ?」
「ダメ、まずは材料を室温に戻さなくちゃ!」
「えー、面倒。少し温めればよくない?」
私はぼやいたが、駆は首を強く振り、右の拳をぎゅっと握りしめた。
「ダメ! 温めすぎると材料が変質しちゃう。お菓子は一手間かける事で、ぐっと美味しくなるんだよ」
どうやらお菓子作りには一家言あるようだ。お菓子作りなど碌にやらない私が逆らうのも何だかと思ったので、素直に従う事にする。
「アルファさん、今すぐ作ろうと思ったでしょ?」
「うん、善は急げって言うでしょ?」
「ダメ、まずは材料を室温に戻さなくちゃ!」
「えー、面倒。少し温めればよくない?」
私はぼやいたが、駆は首を強く振り、右の拳をぎゅっと握りしめた。
「ダメ! 温めすぎると材料が変質しちゃう。お菓子は一手間かける事で、ぐっと美味しくなるんだよ」
どうやらお菓子作りには一家言あるようだ。お菓子作りなど碌にやらない私が逆らうのも何だかと思ったので、素直に従う事にする。
室温に戻すなら最低一時間は置かなければいけない。仕方ないので、私は駆と自分のためにミルクティーを淹れる事にした。
アッサムティーを少なめのお湯で濃く淹れた後に、ミルクパンで沸騰させない程度に温めた牛乳を注ぐ事で、私拘りのミルクティーが出来上がる。
アッサムティーを少なめのお湯で濃く淹れた後に、ミルクパンで沸騰させない程度に温めた牛乳を注ぐ事で、私拘りのミルクティーが出来上がる。
私がミルクティーを準備している間駆はレシピノートを読んでいたのだが、二つのティーカップをダイニングテーブルに置いてから腰かけた私に尋ねてきた。
「この字、アルファさんの字じゃないよね?」
そのレシピノートは昔懐かしい水色のキャンパスノートに可愛らしい丸っこい字で書かれており、ベイクドチーズケーキのページの見出しには、ピンクのカラーペンで『簡単 お手軽 くみちゃんお勧め!!!』と吹き出しで書き足されている。
「うん、それはお母さんのレシピノート。久美子おばさんがお菓子作りが趣味だったみたいで、色々教わってたってことらしい」
「この字、アルファさんの字じゃないよね?」
そのレシピノートは昔懐かしい水色のキャンパスノートに可愛らしい丸っこい字で書かれており、ベイクドチーズケーキのページの見出しには、ピンクのカラーペンで『簡単 お手軽 くみちゃんお勧め!!!』と吹き出しで書き足されている。
「うん、それはお母さんのレシピノート。久美子おばさんがお菓子作りが趣味だったみたいで、色々教わってたってことらしい」
ある程度祖父の空き家の掃除が終わり駆が次の作業の指示を求めてきたので、先週空き家へ行って母の部屋にある大量の本を整理していたのだが、その時出てきたのがこのレシピノートである。今ならネット上に様々な工夫を凝らしたレシピがある事は承知していたものの、敢えてその昔ながらのレシピ通りにベイクドチーズケーキを作り、久美子おばさんにプレゼントしたかったのだ。
「そっか……なるほど……だからレシピがシンプルなんだね」
駆は私の意図を汲んでくれたようだった。顎に手を当てさかんに頷いている。
「でもせっかくプレゼントするからには、このレシピを生かした上で美味しく作りたいよね?」
「もちろん! だけどお恥ずかしながら私、ほとんどお菓子作りってやった事なくて……」
私は小さくなった。
「料理が得意な君ならお菓子作りも経験あるかなって思ったんだけど?」
「お菓子作りの経験がない人がいきなりケーキを作ろうだなんてかなり無謀だと思うけど」
駆に至極当然な事を突っ込まれてしまい、さらに小さくなる。
「そっか……なるほど……だからレシピがシンプルなんだね」
駆は私の意図を汲んでくれたようだった。顎に手を当てさかんに頷いている。
「でもせっかくプレゼントするからには、このレシピを生かした上で美味しく作りたいよね?」
「もちろん! だけどお恥ずかしながら私、ほとんどお菓子作りってやった事なくて……」
私は小さくなった。
「料理が得意な君ならお菓子作りも経験あるかなって思ったんだけど?」
「お菓子作りの経験がない人がいきなりケーキを作ろうだなんてかなり無謀だと思うけど」
駆に至極当然な事を突っ込まれてしまい、さらに小さくなる。
駆はそんな私を見てくすっとした。
「まあ、いいや、実はオレ、実は小学生の頃本気でパティシエになろうと思ってたんだ。暇な時はよくお菓子作りしてたよ」
「ええ、意外!」
私が声を上げると、駆は照れくさそうに笑ってみせる。
「小三の時、兄さんと夏休みに父さんの職場で開催されたお仕事参観デーに参加した事があったんだけど、最後に参加者全員が『大きくなったら何になりたい?』と聞かれたんだ……兄さんは『白バイ隊員!』って元気よく答えたのに、オレときたら空気も読まず『パティシエ』って返事しちゃって、皆から大笑いされたんだよ」
「いや、そう思ってたんだから全然構わないじゃん? 何故笑うの?」
「まあ、その通りなんだけど…………きっと質問した人は警察官って答えて欲しかったんだろうなって後になって思ったよ。せっかく時間かけてあれこれ説明してくれたのにね…………」
駆は頭に手をやってあははと笑った。
「オレ、そういうリップサービスがとことん苦手なんだよ。もっとも兄さんが白バイ隊員って返事したのは、本気でそう思ってたみたいだけど。大学入ってから大型二輪の免許まで取ってたからね」
「たくみんの夢って意外に本格的だったんだね」
だったら素直に都道府県警行った方が良かったんじゃないかとも思った。警視庁にでも就職していれば、いずれ必ずある地方への転勤で悩む必要もなかっただろうに。それでも父の背中を追いかけたかったのだろうか。立派な父を持つと追いかけるのも大変だ。実際、先日サシ飲みした時、そのために相当努力したような事は匂わせてたっけ。
「まあ、いいや、実はオレ、実は小学生の頃本気でパティシエになろうと思ってたんだ。暇な時はよくお菓子作りしてたよ」
「ええ、意外!」
私が声を上げると、駆は照れくさそうに笑ってみせる。
「小三の時、兄さんと夏休みに父さんの職場で開催されたお仕事参観デーに参加した事があったんだけど、最後に参加者全員が『大きくなったら何になりたい?』と聞かれたんだ……兄さんは『白バイ隊員!』って元気よく答えたのに、オレときたら空気も読まず『パティシエ』って返事しちゃって、皆から大笑いされたんだよ」
「いや、そう思ってたんだから全然構わないじゃん? 何故笑うの?」
「まあ、その通りなんだけど…………きっと質問した人は警察官って答えて欲しかったんだろうなって後になって思ったよ。せっかく時間かけてあれこれ説明してくれたのにね…………」
駆は頭に手をやってあははと笑った。
「オレ、そういうリップサービスがとことん苦手なんだよ。もっとも兄さんが白バイ隊員って返事したのは、本気でそう思ってたみたいだけど。大学入ってから大型二輪の免許まで取ってたからね」
「たくみんの夢って意外に本格的だったんだね」
だったら素直に都道府県警行った方が良かったんじゃないかとも思った。警視庁にでも就職していれば、いずれ必ずある地方への転勤で悩む必要もなかっただろうに。それでも父の背中を追いかけたかったのだろうか。立派な父を持つと追いかけるのも大変だ。実際、先日サシ飲みした時、そのために相当努力したような事は匂わせてたっけ。
「でも、君はどうしてパティシエを諦めたの?」
現在の駆の夢は送電ロスを減らすという地味だけど立派な夢だ。駆はミルクティーを口にしてから、目を細めて笑った。
「パティシエって基本毎日同じケーキを作り続けなければならないという現実を知って自分には向いてないかなって……職業にしてしまうと好きなケーキを思い立った時に作ればいいっていう訳じゃないって悟ったんだよ……」
「なるほどね」
私もゲームは大好きだけど、ゲームに関する職業に就こうとは一度も思わなかったからその気持ちはよく分かる。
現在の駆の夢は送電ロスを減らすという地味だけど立派な夢だ。駆はミルクティーを口にしてから、目を細めて笑った。
「パティシエって基本毎日同じケーキを作り続けなければならないという現実を知って自分には向いてないかなって……職業にしてしまうと好きなケーキを思い立った時に作ればいいっていう訳じゃないって悟ったんだよ……」
「なるほどね」
私もゲームは大好きだけど、ゲームに関する職業に就こうとは一度も思わなかったからその気持ちはよく分かる。
ここでちらりと壁掛け時計を見上げたが、まだ20分しか経過していない。この時私は昨日見たアルバムの事を思い出した。
「昨日のあのアルバム、タイトルが"Fly Me To The Moon"だったけど、あれってやっぱり"Moon"はおばあさんってことなの?」
「ああ、それね、元々はおばあさんが初めてジャズ喫茶に行って夢中になった曲なんだけど……おじいさんがおばあさんを口説く時歌って聞かせたんだって」
駆が解説してくれる。
「だからおばあさんにとってその曲がおじいさんのテーマソングって事みたいだよ」
「ロ、ロ、ロマンチックじゃん!!!」
興奮のあまりどもってしまった。私の記憶だと、バート・ハワード作詞作曲の"Fly Me To The Moon"はフランク・シナトラがカバーして、当時のアメリカのアポロ計画と相まって流行った曲だったはずだが、津紀子さんの名前には「つき」が入っているし、偶然にしても出来すぎている。
「素敵なエピソードじゃん」
渚ではないが、私もうっとりしてしまう。
「昨日のあのアルバム、タイトルが"Fly Me To The Moon"だったけど、あれってやっぱり"Moon"はおばあさんってことなの?」
「ああ、それね、元々はおばあさんが初めてジャズ喫茶に行って夢中になった曲なんだけど……おじいさんがおばあさんを口説く時歌って聞かせたんだって」
駆が解説してくれる。
「だからおばあさんにとってその曲がおじいさんのテーマソングって事みたいだよ」
「ロ、ロ、ロマンチックじゃん!!!」
興奮のあまりどもってしまった。私の記憶だと、バート・ハワード作詞作曲の"Fly Me To The Moon"はフランク・シナトラがカバーして、当時のアメリカのアポロ計画と相まって流行った曲だったはずだが、津紀子さんの名前には「つき」が入っているし、偶然にしても出来すぎている。
「素敵なエピソードじゃん」
渚ではないが、私もうっとりしてしまう。
きっと駆は津紀子さんから滋さんとのエピソードを何度となく聞かされているのだろうが、そうやって繰り返し語る事で駆の中で亡くなったはずの滋さんが生き続けている気がした。更に私に語る事で私の中でも滋さんが生き続けるのだろう。
滋さんと共に過ごした時間よりも、失ってからの時間の方が長かったはずだが、それでも津紀子さんは滋さんを人目をはばかることなく全力で愛している。その愛の強さに私は胸を打たれる。
「私もそんな風に人を愛せたらいいなあ」
「でも……本当に辛いと思うよ……そんな長い期間愛する人を想って過ごすなんて……」
そう言う駆の声は切なげだった。
「実はおばあさん、周囲から何度も再婚を勧められたらしい……でも、断り続けたんだって……。もちろんおじいさんを想っていたからっていうのが一番の理由なんだけど、山城家に新しい配偶者を迎え入れる事で遺産相続が拗れる事を恐れたってこともあるらしいよ……」
民法上、遺言状がなければ配偶者の遺産相続は二分の一だ。配偶者がいなければ、養子も含めた子に等分される。法学部卒でもないくせにこんな事を知っているのは、両親が亡くなった時いやでも相続について知る必要があったからだ。
滋さんと共に過ごした時間よりも、失ってからの時間の方が長かったはずだが、それでも津紀子さんは滋さんを人目をはばかることなく全力で愛している。その愛の強さに私は胸を打たれる。
「私もそんな風に人を愛せたらいいなあ」
「でも……本当に辛いと思うよ……そんな長い期間愛する人を想って過ごすなんて……」
そう言う駆の声は切なげだった。
「実はおばあさん、周囲から何度も再婚を勧められたらしい……でも、断り続けたんだって……。もちろんおじいさんを想っていたからっていうのが一番の理由なんだけど、山城家に新しい配偶者を迎え入れる事で遺産相続が拗れる事を恐れたってこともあるらしいよ……」
民法上、遺言状がなければ配偶者の遺産相続は二分の一だ。配偶者がいなければ、養子も含めた子に等分される。法学部卒でもないくせにこんな事を知っているのは、両親が亡くなった時いやでも相続について知る必要があったからだ。
「そっか…………」
私は津紀子さんの選択が腑に落ちた。津紀子さんが再婚したらたとえ遺言状を準備していたとしても遺留分が発生するから、その配偶者が遺留分の請求をした場合、子ども達は母親の配偶者の請求に応じなければならなくなる。
「確かに気軽に再婚なんてできないね…………」
「東京に進学した母さんが卒業してすぐ地元に戻って来たのは、そんなおばあさんを支えるためだって聞いてる……。父さんと結婚しても赴任先には基本付いて行かなかったのは、おばあさんと家業を優先したからなんだって……」
と駆が説明してくれた。
当初山城家の両親の別居結婚の話を聞いた時、心情的にはあまり理解できなかったが、今なら加奈子さんが津紀子さんを支えたかったという話を素直に受け止められる気がした。
「みんなあの当時必死だったんだと思う……おばあさんも母さんも大切なものを守ろうとしていたし……父さんもそんな山城家の状況を十分理解した上で母さんと結婚したんだろうね……」
駆がそうぼそっと呟いてから遠い目をする。
「でも……もう家に縛られる時代じゃないとオレは思うんだ……会社経営なんて、家の事と完全に切り離してしまえばいいのに、未だに一族皆で縛られてる……。無関係なのは前に少し話したと思うけど、東京にいる専業主婦の真由子叔母さんくらいで……」
真由子叔母さんというのが、昨日匠が会ったという叔母さんのことだろう。三姉妹の一番下で、確か駆が叔母さんの家に遊びに行った時、携帯ゲーム『夏休みの妖精』でひたすら遊ぶ事を許してくれた優しい人だったと記憶している。
駆の話は続いた。
「もっとも公務員になって家業とは無縁のはずの兄さんだって、山城家の将来の跡継ぎとしてお盆や正月の時は挨拶回りなんかで忙しくしているし……家って本当に難しいよね……オレは『勘当』された事で図らずもそのしがらみから解放されたけど、おばあさんは父さんが勝手に言い出した『勘当』なんて絶対認めてないからって身内には言ってるらしいし……」
私は津紀子さんの選択が腑に落ちた。津紀子さんが再婚したらたとえ遺言状を準備していたとしても遺留分が発生するから、その配偶者が遺留分の請求をした場合、子ども達は母親の配偶者の請求に応じなければならなくなる。
「確かに気軽に再婚なんてできないね…………」
「東京に進学した母さんが卒業してすぐ地元に戻って来たのは、そんなおばあさんを支えるためだって聞いてる……。父さんと結婚しても赴任先には基本付いて行かなかったのは、おばあさんと家業を優先したからなんだって……」
と駆が説明してくれた。
当初山城家の両親の別居結婚の話を聞いた時、心情的にはあまり理解できなかったが、今なら加奈子さんが津紀子さんを支えたかったという話を素直に受け止められる気がした。
「みんなあの当時必死だったんだと思う……おばあさんも母さんも大切なものを守ろうとしていたし……父さんもそんな山城家の状況を十分理解した上で母さんと結婚したんだろうね……」
駆がそうぼそっと呟いてから遠い目をする。
「でも……もう家に縛られる時代じゃないとオレは思うんだ……会社経営なんて、家の事と完全に切り離してしまえばいいのに、未だに一族皆で縛られてる……。無関係なのは前に少し話したと思うけど、東京にいる専業主婦の真由子叔母さんくらいで……」
真由子叔母さんというのが、昨日匠が会ったという叔母さんのことだろう。三姉妹の一番下で、確か駆が叔母さんの家に遊びに行った時、携帯ゲーム『夏休みの妖精』でひたすら遊ぶ事を許してくれた優しい人だったと記憶している。
駆の話は続いた。
「もっとも公務員になって家業とは無縁のはずの兄さんだって、山城家の将来の跡継ぎとしてお盆や正月の時は挨拶回りなんかで忙しくしているし……家って本当に難しいよね……オレは『勘当』された事で図らずもそのしがらみから解放されたけど、おばあさんは父さんが勝手に言い出した『勘当』なんて絶対認めてないからって身内には言ってるらしいし……」
サラリーマン家庭に育った私には、同族企業を経営する一族が背負わされた責任を想像なんてできない。ひいおじいさんが望んだ事で大きくなった会社を、今の今までずっと津紀子さんがずっと担い続け、近いうちに加奈子さんが継承する事になっている。その後の事は一切決まっていないと匠は言っていたけど。
駆の『勘当』だって法律上そんな制度はない訳で、元々は父親が駆にお灸を据えるために言い出したことだった。匠から話を聞いた限り、父親自身は引っ込みがつかなくなってしまい意地を張っているような印象だけど、駆は親から縁を切られたと本気で信じている。
「……なるようにしかならないよ……」
私は小さな声でそっとそう言った。駆は兄が機能不全に陥っている家族を少しでも改善するために今必死で奔走している事を全く知らない。匠のこの行動が一家にどう影響を及ぼすのか私には全く想像できないものの、いい方向に転がっていって欲しいと心底願っている。
「…………そうだね…………」
駆はゆっくりと頷いた。
駆の『勘当』だって法律上そんな制度はない訳で、元々は父親が駆にお灸を据えるために言い出したことだった。匠から話を聞いた限り、父親自身は引っ込みがつかなくなってしまい意地を張っているような印象だけど、駆は親から縁を切られたと本気で信じている。
「……なるようにしかならないよ……」
私は小さな声でそっとそう言った。駆は兄が機能不全に陥っている家族を少しでも改善するために今必死で奔走している事を全く知らない。匠のこの行動が一家にどう影響を及ぼすのか私には全く想像できないものの、いい方向に転がっていって欲しいと心底願っている。
「…………そうだね…………」
駆はゆっくりと頷いた。
そんな話をしているうちに小一時間が経過し、材料もすっかり室温に戻ったようだ。駆の許可も下りたので私は昨日買っておいた全粒粉ビスケットをざっくり砕きビニール袋に入れ、綿棒で叩いて潰し、すっかり柔らかくなったバターと丁寧に滑らかになるまで混ぜ合わせる。そうやって作ったチーズケーキの土台を型の底にまんべんなく敷き詰めていく。
その間駆は薄力粉とグラニュー糖を丹念に粉ふるいにかけてから、ステンレスのボウルにクリームチーズを入れ、ハンドミキサーを使って混ぜていく。そこにグラニュー糖と卵を加え、更に追加で生クリームを入れよく混ぜ合わせていった。
生地がいい感じにもったりしてきたので、薄力粉を入れ混ぜてから、さらにレモン汁を加えてさらに混ぜる。
最後にそうやって作った生地(これをアパレイユと呼ぶそうだ)を型に流し込み、型を二、三度軽く落として空気を抜き、パレットナイフで表面をきれいにならしてから、160℃に設定したオーブンレンジで約30分焼いてから、さらに向きを変え10分追加で焼く。
じっくり焼いているうちにチーズの焦げたような甘い香りが漂ってきた。時々オーブンの中を覗き込みながら、私のテンションが徐々に上がっていく。
「君がいなかったら、間違いなく冷えたままのバターとかクリームチーズ使ってたね」
私がそう言うと、一緒にオーブンをのぞいていた駆が背後からこう説明してくれる
「冷えたままだと綺麗に混ざらないんだよ。生地がだまになったり、分離したりするんだ」
「なるほどー」
「混ぜる時は時間を惜しまず丁寧に。まあ、混ぜすぎては失敗する生地なんかもあるからそこはレシピに書いてあることをきちんと守る事!」
作り慣れている人の台詞だった。
「お菓子作りは、料理と違って適当に作ると絶対に美味しくできないから」
「はーい、先生!」
私は振り返ると、了解した印に手を挙げてみせた。
「お菓子作りってオレは化学反応だと思ってるから。料理とはまた違う理系のジャンルだよね」
「確かに!」
私は同意する。駆は料理を作る時はけっこう目分量で大胆に作っているのだが、今日のチーズケーキではデジタルスケールを使ってきっちり分量を量っていた。
その間駆は薄力粉とグラニュー糖を丹念に粉ふるいにかけてから、ステンレスのボウルにクリームチーズを入れ、ハンドミキサーを使って混ぜていく。そこにグラニュー糖と卵を加え、更に追加で生クリームを入れよく混ぜ合わせていった。
生地がいい感じにもったりしてきたので、薄力粉を入れ混ぜてから、さらにレモン汁を加えてさらに混ぜる。
最後にそうやって作った生地(これをアパレイユと呼ぶそうだ)を型に流し込み、型を二、三度軽く落として空気を抜き、パレットナイフで表面をきれいにならしてから、160℃に設定したオーブンレンジで約30分焼いてから、さらに向きを変え10分追加で焼く。
じっくり焼いているうちにチーズの焦げたような甘い香りが漂ってきた。時々オーブンの中を覗き込みながら、私のテンションが徐々に上がっていく。
「君がいなかったら、間違いなく冷えたままのバターとかクリームチーズ使ってたね」
私がそう言うと、一緒にオーブンをのぞいていた駆が背後からこう説明してくれる
「冷えたままだと綺麗に混ざらないんだよ。生地がだまになったり、分離したりするんだ」
「なるほどー」
「混ぜる時は時間を惜しまず丁寧に。まあ、混ぜすぎては失敗する生地なんかもあるからそこはレシピに書いてあることをきちんと守る事!」
作り慣れている人の台詞だった。
「お菓子作りは、料理と違って適当に作ると絶対に美味しくできないから」
「はーい、先生!」
私は振り返ると、了解した印に手を挙げてみせた。
「お菓子作りってオレは化学反応だと思ってるから。料理とはまた違う理系のジャンルだよね」
「確かに!」
私は同意する。駆は料理を作る時はけっこう目分量で大胆に作っているのだが、今日のチーズケーキではデジタルスケールを使ってきっちり分量を量っていた。
焼けたかどうか確認するために、両手に鍋つかみを付けた私はオーブンレンジから天板を引き出し、一旦型を取り出し、軽くゆすってみる。ぷるんという弾力があったのでどうやらちゃんと中まで火が通ったようだ。
チーズケーキの表面はきれいな狐色にこんがりと焼きあがっていて、食欲をそそるような甘さと、チーズの香ばしさ、さらにレモンの風味が絶妙に混じり合った香りが漂っている。
「早く食べてみたい」
私は指をくわえたものの、駆は首を振った。
「粗熱を取ってから、冷蔵庫で冷やすんだよ。アルファさんって本当にせっかちだなー」
「ごめーん」
ぺろっと舌を出す。多分、今まで私の作ったお菓子が上手くいかなかった理由はそれだと思う。
次に駆の指示に従い、手際よくキッチンカウンターの上に準備していたケーキクーラーに載せる。
「アルファさん、暫く我慢して下さいね!」
駆にしっかり釘を刺されてしまった。
チーズケーキの表面はきれいな狐色にこんがりと焼きあがっていて、食欲をそそるような甘さと、チーズの香ばしさ、さらにレモンの風味が絶妙に混じり合った香りが漂っている。
「早く食べてみたい」
私は指をくわえたものの、駆は首を振った。
「粗熱を取ってから、冷蔵庫で冷やすんだよ。アルファさんって本当にせっかちだなー」
「ごめーん」
ぺろっと舌を出す。多分、今まで私の作ったお菓子が上手くいかなかった理由はそれだと思う。
次に駆の指示に従い、手際よくキッチンカウンターの上に準備していたケーキクーラーに載せる。
「アルファさん、暫く我慢して下さいね!」
駆にしっかり釘を刺されてしまった。
チーズケーキが冷蔵庫の中で十分冷えたので、型から外したのは午後三時半過ぎだった。
「新井さんのお宅は四人家族でしょ。そんでもって私達の分を合わせると六等分だね」
私がそう言うと、駆はお湯で温めていたケーキナイフを清潔な布巾で拭ってからチーズケーキを慎重に切り始める。ナイフを温めると切断面がぼそぼそにならず綺麗になるからだそうだ。
まずは二等分してから、それを更に三等分するのだが、私なんかは多少適当でもいいじゃんと思うのに、駆は正確に等分する事にやたら拘っている。これも理数系の性分なのだろうか。
「三等分だから60°だね」
そう呟きながら、駆の納得する60°の角度にカットしていく。
結局見事にケーキを六等分してから、駆が上機嫌な声を上げた。
「うん、きれいな断面だ。中までむらなくしっかり火が通ってるよ!」
駆は慣れた手つきで準備していたケーキ用のアルミシートを使ってケーキを包んでから、百均で買っていた白い紙のケーキ箱にそっと入れ、それを一旦冷蔵庫にしまう。
お店で買ったと言っても遜色ない見事なケーキの仕上がりに改めて感動してしまう。
「君、天才!」
ここぞとばかりに駆を褒めそやした。駆は照れくさそうに笑ってみせる。
「久美子さん、喜んでくれるかな」
「絶対喜ぶって! って持っていく前に早く味見しようよ!」
私はそう言いながら早速コーヒーメーカーの準備を始めていた。
「新井さんのお宅は四人家族でしょ。そんでもって私達の分を合わせると六等分だね」
私がそう言うと、駆はお湯で温めていたケーキナイフを清潔な布巾で拭ってからチーズケーキを慎重に切り始める。ナイフを温めると切断面がぼそぼそにならず綺麗になるからだそうだ。
まずは二等分してから、それを更に三等分するのだが、私なんかは多少適当でもいいじゃんと思うのに、駆は正確に等分する事にやたら拘っている。これも理数系の性分なのだろうか。
「三等分だから60°だね」
そう呟きながら、駆の納得する60°の角度にカットしていく。
結局見事にケーキを六等分してから、駆が上機嫌な声を上げた。
「うん、きれいな断面だ。中までむらなくしっかり火が通ってるよ!」
駆は慣れた手つきで準備していたケーキ用のアルミシートを使ってケーキを包んでから、百均で買っていた白い紙のケーキ箱にそっと入れ、それを一旦冷蔵庫にしまう。
お店で買ったと言っても遜色ない見事なケーキの仕上がりに改めて感動してしまう。
「君、天才!」
ここぞとばかりに駆を褒めそやした。駆は照れくさそうに笑ってみせる。
「久美子さん、喜んでくれるかな」
「絶対喜ぶって! って持っていく前に早く味見しようよ!」
私はそう言いながら早速コーヒーメーカーの準備を始めていた。
私達が共同で作った――というか正確に言えば駆が八割方作ったベイクドチーズケーキは素朴で優しい味がした。
「うん、美味しい!」
私はチーズケーキを頬張りながらこの上ない幸せを感じていた。ケーキ自体の美味しさは勿論の事、駆と一緒に作ったという喜びと両方がないまぜとなった幸せだ。
「ほんとだね」
駆はにこにこしながら私の事を見つめてくる。
「アルファさんはいつも美味しそうに食べてくれるから作った甲斐があるよ」
ううっ、本来は私が言い出しっぺだったのに、結局ほとんど作らせてしまって申し訳ない。
「君の才能を独り占めしてしまっていいのかな、っていつも思ってるよ」
私がそう言うと、駆はそっと首を振った。
「才能だなんて……単に丁寧に作ってるだけだから……」
「いや、皆、それが出来る訳じゃないんだよ! お菓子を丁寧に作れる事、それも天賦の才能なんだから!」
私はフォークを握り締めたままそう力説する。
「君のその才能、少し分けてもらいたいくらいだよ!」
駆が眩しいものを見るように目を細め私を見ている。
「褒められるってとても嬉しいね」
おう、と私は同意しながらケーキを更にぱくりと食べた。駆が望むならいくらでも褒めてあげたいと思っている。あまり言いすぎると嘘くさく思われるから最近は自重しているけど。
駆が私の事をじっと見つめてきた。ん? と私が視線を返すと、にこっと微笑んでこう言ってくる。
「アルファさんは人を喜ばせるのが本当に上手だよね」
「そうかなあ」
私は首を傾げた。
「そう。オレの誕生日の時の謎解き旅行もそうだし、今回のチーズケーキだって久美子さんが喜ぶものをちゃんと心得ているんだから」
駆は優しい眼差しで私を見ている。
「オレにはそんな事全く思いつかないよ。それも一種の才能だと思う」
そんなことを言われ、私は少し考えてから答えた。
「みんなの喜ぶ顔が見たくてついつい頑張っちゃう……からかな」
「それって凄い事だと思うよ!」
駆が極上の笑みを浮かべながら私を褒めてくれている。図らずも私の胸が高鳴ってしまう。
「そ、そんな事くらいしか取柄ないけど……」
ドキドキを隠しながら、必死に取り繕おうとする。すると駆は首を振った。
「違うよ、アルファさんはいいところが一杯あるって」
「例えば……?」
「行く当てがないオレを拾ってくれただけじゃなくて、あれこれマネージメントしてくれるし。内海君の事も気にかけてくれている。親とはぐれた蓮君の世話だって最後まで責任持ってしてたよね? 仕事だっていつも一生懸命だし。それに……そう、アナログゲームがめちゃくちゃ強いし!」
「困ってる人が目の前にいたら放っておけないってだけだよ……当然の事をしているだけだから……」
私はぼそぼそ言った。苦学生の内海君は再来週我が家で卒論激励焼肉パーティをすることになっている。愚痴を言いつつ仕事を懸命にやっているのは、仕事がなかったら今頃私は引きこもり人生を送っていた気がするからだ。それに、両親が亡くなった時会社ぐるみで私を支えてくれたという恩も感じていた。アナログゲーム全般が強いのは、確かに才能なのかもしれないけど。
すると駆は再度首を振った。
「アルファさんにとっては当然の事かもしれないけど、皆がそういう訳じゃないから……。オレはこっちに来てから何度も、混んでる駅で具合悪そうにしている人が誰からも無視されているのを見てきているし……。みんな、誰かがやるって思っているから手助けしないんだよ。オレは父さんからいつも、『困っている人を見かけたらお前に出来る範囲で助けてやれ』って言われてきたから、あくまで出来る範囲で手助けしているけど……それとはまた違うよね?」
「うん、美味しい!」
私はチーズケーキを頬張りながらこの上ない幸せを感じていた。ケーキ自体の美味しさは勿論の事、駆と一緒に作ったという喜びと両方がないまぜとなった幸せだ。
「ほんとだね」
駆はにこにこしながら私の事を見つめてくる。
「アルファさんはいつも美味しそうに食べてくれるから作った甲斐があるよ」
ううっ、本来は私が言い出しっぺだったのに、結局ほとんど作らせてしまって申し訳ない。
「君の才能を独り占めしてしまっていいのかな、っていつも思ってるよ」
私がそう言うと、駆はそっと首を振った。
「才能だなんて……単に丁寧に作ってるだけだから……」
「いや、皆、それが出来る訳じゃないんだよ! お菓子を丁寧に作れる事、それも天賦の才能なんだから!」
私はフォークを握り締めたままそう力説する。
「君のその才能、少し分けてもらいたいくらいだよ!」
駆が眩しいものを見るように目を細め私を見ている。
「褒められるってとても嬉しいね」
おう、と私は同意しながらケーキを更にぱくりと食べた。駆が望むならいくらでも褒めてあげたいと思っている。あまり言いすぎると嘘くさく思われるから最近は自重しているけど。
駆が私の事をじっと見つめてきた。ん? と私が視線を返すと、にこっと微笑んでこう言ってくる。
「アルファさんは人を喜ばせるのが本当に上手だよね」
「そうかなあ」
私は首を傾げた。
「そう。オレの誕生日の時の謎解き旅行もそうだし、今回のチーズケーキだって久美子さんが喜ぶものをちゃんと心得ているんだから」
駆は優しい眼差しで私を見ている。
「オレにはそんな事全く思いつかないよ。それも一種の才能だと思う」
そんなことを言われ、私は少し考えてから答えた。
「みんなの喜ぶ顔が見たくてついつい頑張っちゃう……からかな」
「それって凄い事だと思うよ!」
駆が極上の笑みを浮かべながら私を褒めてくれている。図らずも私の胸が高鳴ってしまう。
「そ、そんな事くらいしか取柄ないけど……」
ドキドキを隠しながら、必死に取り繕おうとする。すると駆は首を振った。
「違うよ、アルファさんはいいところが一杯あるって」
「例えば……?」
「行く当てがないオレを拾ってくれただけじゃなくて、あれこれマネージメントしてくれるし。内海君の事も気にかけてくれている。親とはぐれた蓮君の世話だって最後まで責任持ってしてたよね? 仕事だっていつも一生懸命だし。それに……そう、アナログゲームがめちゃくちゃ強いし!」
「困ってる人が目の前にいたら放っておけないってだけだよ……当然の事をしているだけだから……」
私はぼそぼそ言った。苦学生の内海君は再来週我が家で卒論激励焼肉パーティをすることになっている。愚痴を言いつつ仕事を懸命にやっているのは、仕事がなかったら今頃私は引きこもり人生を送っていた気がするからだ。それに、両親が亡くなった時会社ぐるみで私を支えてくれたという恩も感じていた。アナログゲーム全般が強いのは、確かに才能なのかもしれないけど。
すると駆は再度首を振った。
「アルファさんにとっては当然の事かもしれないけど、皆がそういう訳じゃないから……。オレはこっちに来てから何度も、混んでる駅で具合悪そうにしている人が誰からも無視されているのを見てきているし……。みんな、誰かがやるって思っているから手助けしないんだよ。オレは父さんからいつも、『困っている人を見かけたらお前に出来る範囲で助けてやれ』って言われてきたから、あくまで出来る範囲で手助けしているけど……それとはまた違うよね?」
都会にはそういうところがあるのは分かる。具合が悪そうな人や痴漢に遭って困っている人がいても見て見ぬふりをする人々がほとんどだ。自分がやらなくても誰かがやるだろうと思わせる他力本願な空気が漂っている。私だって通勤で急いでいる時、常にそういう人を見かけてとっさに声を掛けられる訳ではない。迷って迷って、それでも誰も声を掛けないから勇気を振り絞って手助けするだけなのだ。実際それで何度か遅刻したことはあるが、後悔はしていない。
「オレ、アルファさんのそういうところが大好きだから。本当に感謝しているし、心から尊敬してる。やっぱりオレのヒーローだと思う!」
私を真っ直ぐ見つめながらそう言う駆の声は心なしか熱がこもっていた。私の頬は紅潮し、心臓が早鐘を打っている。
「……ありがとう……そう言われると照れくさいけど嬉しいね……」
それでもなんとか礼を言えた。まだ心臓がバクバクしているけど。
「オレ、アルファさんのそういうところが大好きだから。本当に感謝しているし、心から尊敬してる。やっぱりオレのヒーローだと思う!」
私を真っ直ぐ見つめながらそう言う駆の声は心なしか熱がこもっていた。私の頬は紅潮し、心臓が早鐘を打っている。
「……ありがとう……そう言われると照れくさいけど嬉しいね……」
それでもなんとか礼を言えた。まだ心臓がバクバクしているけど。
「君だってお父さんに言われた事ちゃんと実践しているのは凄い事だと思うよ」
『勘当』してきた父の教えを守り続けるなんてなかなかできる事ではないと思ってしまう。駆の場合、『勘当』に関しては自分が悪いと思っているからなんだろうけど。
この時駆が何かを思い出すように少し考えこんだ。
「そういえば…………小さい時から、珍しくせっかく家族で出かけたはずなのに父さんが困っている人を助けるために数時間潰れるとかあったし……」
子ども心には辛かっただろう。たまにしか会えない父親が赤の他人のために手を貸し、その結果大切な家族の時間が圧迫されるなんて。しかし駆の瞳は予想外に輝いていた。
「父さんね、一瞬家族を見て迷うんだけど、結局飛び出してっちゃうの……。母さんは呆れていたけど、兄さんもオレもそんな父さんが誇らしかった……とにかくかっこよかったんだよ!」
「そうなんだ…………」
本当に意外だった。山城家では父親がそうやって率先して見本を示してきたから、駆は教えを実践できるのだろうし、匠もその背を追う事を決意したのだろう。それにしても、駆は本当にお父さんの事が好きなんだなあ。仕送りを打ち切られるなんて酷い目に遭っても、それでも不思議と慕っている。
「困ってる誰かのために自分の時間を割くって、時々やらなきゃ良かったかなという気分に陥る時もあるけど、それでもやらなかった事で後悔したくないから、これからも続けると思う」
と駆が言うので、私は同意した。
「うん、それ、すっごく分かるよ。私も同じこと思うもん」
駆も我が意を得たりという表情で頷いた。
『勘当』してきた父の教えを守り続けるなんてなかなかできる事ではないと思ってしまう。駆の場合、『勘当』に関しては自分が悪いと思っているからなんだろうけど。
この時駆が何かを思い出すように少し考えこんだ。
「そういえば…………小さい時から、珍しくせっかく家族で出かけたはずなのに父さんが困っている人を助けるために数時間潰れるとかあったし……」
子ども心には辛かっただろう。たまにしか会えない父親が赤の他人のために手を貸し、その結果大切な家族の時間が圧迫されるなんて。しかし駆の瞳は予想外に輝いていた。
「父さんね、一瞬家族を見て迷うんだけど、結局飛び出してっちゃうの……。母さんは呆れていたけど、兄さんもオレもそんな父さんが誇らしかった……とにかくかっこよかったんだよ!」
「そうなんだ…………」
本当に意外だった。山城家では父親がそうやって率先して見本を示してきたから、駆は教えを実践できるのだろうし、匠もその背を追う事を決意したのだろう。それにしても、駆は本当にお父さんの事が好きなんだなあ。仕送りを打ち切られるなんて酷い目に遭っても、それでも不思議と慕っている。
「困ってる誰かのために自分の時間を割くって、時々やらなきゃ良かったかなという気分に陥る時もあるけど、それでもやらなかった事で後悔したくないから、これからも続けると思う」
と駆が言うので、私は同意した。
「うん、それ、すっごく分かるよ。私も同じこと思うもん」
駆も我が意を得たりという表情で頷いた。
同居生活を続けていく中で、ある程度互いに大事にしている価値観が共通しているという事は重要な事だ。こういう根底を流れる価値観がずれていると互いに幻滅なり、苛立ちを感じてしまう事になるだろう。私達は互いに全然違った人間ではあるのだけど、駆がこういう青年で良かったと心から思う。だから私もちゃんと気持ちを伝えようと思った。
「私も君のそういうところ大好きだから。前に満員電車で挙動不審な男がいたら意識的にその前に立ちふさがったりしてるって言ってたよね。なかなか出来る事じゃないよ」
我が最寄りの路線はかつて痴漢が多い事で知られていた埼京線なのだ。実際駆と満員電車に乗ると、いつもさりげなく身体でガードしてくれる。
駆の頬が朱を帯びた。
「いや、それはただ立ってるだけだから。オレは……ほら……無駄にでかいし……」
「それだけで痴漢防止になってるのなら、君は十分偉いんだよ!」
「そ、そうなのかな……なら嬉しいけど……」
駆は目を伏せ、頬に右手を当て照れる。
私は続けた。
「私も女の割にはでかいし目つきも悪いからほとんど痴漢に遭った事はないんだけど、高校時代、一度だけ身動き取れない満員電車内でお尻触られた事があって。逃げたいけど全く逃げられないそんな状態の時、見知らぬサラリーマンのお兄さんが気が付いてくれて立ってる場所を入れ替えてくれた時があったんだ。神だ!って思ったし、その恩は一生忘れないよ」
「そんな事あったんだ……。アルファさんは本当に辛かっただろうけど、そのお兄さんがいてくれて本当に良かったね。オレもそういう場面に遭遇した時はそのお兄さん見習うことにしよう!」
駆の声は優しかった。
「うん、それで救われる女性が絶対いるって!」
男子と痴漢の話題を交わすのは茶化されたりして通常なかなか難しいのだが、駆は主に匠から痴漢にまつわる色々な話を聞いているらしく始終真剣だった。こんな話し辛い話題をこうやって真面目に聞いてくれるだけでなく、共感してくれるのが本当に嬉しかった。
「私も君のそういうところ大好きだから。前に満員電車で挙動不審な男がいたら意識的にその前に立ちふさがったりしてるって言ってたよね。なかなか出来る事じゃないよ」
我が最寄りの路線はかつて痴漢が多い事で知られていた埼京線なのだ。実際駆と満員電車に乗ると、いつもさりげなく身体でガードしてくれる。
駆の頬が朱を帯びた。
「いや、それはただ立ってるだけだから。オレは……ほら……無駄にでかいし……」
「それだけで痴漢防止になってるのなら、君は十分偉いんだよ!」
「そ、そうなのかな……なら嬉しいけど……」
駆は目を伏せ、頬に右手を当て照れる。
私は続けた。
「私も女の割にはでかいし目つきも悪いからほとんど痴漢に遭った事はないんだけど、高校時代、一度だけ身動き取れない満員電車内でお尻触られた事があって。逃げたいけど全く逃げられないそんな状態の時、見知らぬサラリーマンのお兄さんが気が付いてくれて立ってる場所を入れ替えてくれた時があったんだ。神だ!って思ったし、その恩は一生忘れないよ」
「そんな事あったんだ……。アルファさんは本当に辛かっただろうけど、そのお兄さんがいてくれて本当に良かったね。オレもそういう場面に遭遇した時はそのお兄さん見習うことにしよう!」
駆の声は優しかった。
「うん、それで救われる女性が絶対いるって!」
男子と痴漢の話題を交わすのは茶化されたりして通常なかなか難しいのだが、駆は主に匠から痴漢にまつわる色々な話を聞いているらしく始終真剣だった。こんな話し辛い話題をこうやって真面目に聞いてくれるだけでなく、共感してくれるのが本当に嬉しかった。
絶品チーズケーキとコーヒーが二人の胃袋にしっかり収まったので、私達は夕食の買い出しを兼ねて、久美子おばさんの家を訪ねる事にする。
私達を新井家の玄関で出迎えた久美子おばさんは、差し出されたケーキ箱を見て目を丸くした。
「あら、有葉ちゃん、わざわざありがとうね!」
「いつも頂いてばかりでは申し訳なかったので、私達二人で手作りしました。味は保証しますので、是非皆さんでお召し上がりください!」
「まあ、二人で手作りってあなた達って本当に仲いいのね」
久美子おばさんは嬉しそうに笑ってみせる。私達はそれぞれ曖昧な笑いを浮かべた後、私は補足するように付け加えた。
「そのチーズケーキ、おばさんがお母さんに教えてくれたレシピ通りに作ってますんで」
「まあ!」
久美子おばさんは瞬きを何回もしてから、唇をわななかせた。
「…………そうだったの…………」
おばさんは一旦ケーキの箱を玄関にある大きな木製の下駄箱の上に置くと、目に浮かんでいた涙を指でそっとぬぐった。
「実はそのレシピ…………葉月ちゃんが有介さんにケーキを作ってあげたいって言うから教えたレシピだったのよ…………」
葉月が私の母で、有介が私の父の事である。全く知らなかった。駆と私は顔を見合わせる。
「葉月ちゃんはせっかちなせいかお菓子作りは全然得意じゃなかったから、簡単だけど美味しくできるレシピを教えてあげたの…………」
「そうだったんですね…………」
胸が熱くなった私はそうとしか言えなかった。そして思う、母もせっかちだったんだって。
おばさんは私達を安心させるかのように、ケーキ箱を顔の前に掲げ懸命に笑顔を作ってみせた。
「そのレシピを娘の有葉ちゃんが発掘して何十年後かに作ってくれるなんて、おばさん本当に感激よ。有難く頂くわね」
私達を新井家の玄関で出迎えた久美子おばさんは、差し出されたケーキ箱を見て目を丸くした。
「あら、有葉ちゃん、わざわざありがとうね!」
「いつも頂いてばかりでは申し訳なかったので、私達二人で手作りしました。味は保証しますので、是非皆さんでお召し上がりください!」
「まあ、二人で手作りってあなた達って本当に仲いいのね」
久美子おばさんは嬉しそうに笑ってみせる。私達はそれぞれ曖昧な笑いを浮かべた後、私は補足するように付け加えた。
「そのチーズケーキ、おばさんがお母さんに教えてくれたレシピ通りに作ってますんで」
「まあ!」
久美子おばさんは瞬きを何回もしてから、唇をわななかせた。
「…………そうだったの…………」
おばさんは一旦ケーキの箱を玄関にある大きな木製の下駄箱の上に置くと、目に浮かんでいた涙を指でそっとぬぐった。
「実はそのレシピ…………葉月ちゃんが有介さんにケーキを作ってあげたいって言うから教えたレシピだったのよ…………」
葉月が私の母で、有介が私の父の事である。全く知らなかった。駆と私は顔を見合わせる。
「葉月ちゃんはせっかちなせいかお菓子作りは全然得意じゃなかったから、簡単だけど美味しくできるレシピを教えてあげたの…………」
「そうだったんですね…………」
胸が熱くなった私はそうとしか言えなかった。そして思う、母もせっかちだったんだって。
おばさんは私達を安心させるかのように、ケーキ箱を顔の前に掲げ懸命に笑顔を作ってみせた。
「そのレシピを娘の有葉ちゃんが発掘して何十年後かに作ってくれるなんて、おばさん本当に感激よ。有難く頂くわね」
私達は頭を下げ、新井宅を退去した。それから夕食の食材を購入するために、以前初めて二人で祖父の家に行った時帰りに立ち寄ったあのスーパーへ向かう事にする。
「あのレシピにそんなエピソードがあったなんて……」
歩道を歩きながら駆が感極まったかのように声を震わせる。もしかするとちょっと泣いていたかもしれない。
一方私は丸っこいレシピノートの文字を思い出していた。母が父に出会ったのは地元の大学を卒業し就職してからだったから、その年齢の割には少し子どもっぽい字からは、実はそんな逸話が隠されていたなんて一切読み取ることはできなかった。
「お母さんはお父さんと違って昔の話はあまりしないし、何よりクールな人だと思ってたから、結婚前にそんな乙女みたいな事してただなんて夢にも思わなかったよ……」
私の声も自然と震えた。すると目をこすってから駆が私の方を向いてこう言う。
「でもそれが聞けたんだから、ケーキ作って本当に良かったよね」
「君の協力がなかったら絶対美味しくは作れなかった……本当にありがとう……」
私は感謝の意味を込め、右隣でゆっくり歩く駆の手に自分の右手をそっと重ねた。夏の旅行以来、私達は時々互いの手を繋ぐ時があった。駆はそんな私の指を軽く握ってくる。
「どういたしまして……」
元々人より平熱が高いという駆の指はとても温かかった。
「あのレシピにそんなエピソードがあったなんて……」
歩道を歩きながら駆が感極まったかのように声を震わせる。もしかするとちょっと泣いていたかもしれない。
一方私は丸っこいレシピノートの文字を思い出していた。母が父に出会ったのは地元の大学を卒業し就職してからだったから、その年齢の割には少し子どもっぽい字からは、実はそんな逸話が隠されていたなんて一切読み取ることはできなかった。
「お母さんはお父さんと違って昔の話はあまりしないし、何よりクールな人だと思ってたから、結婚前にそんな乙女みたいな事してただなんて夢にも思わなかったよ……」
私の声も自然と震えた。すると目をこすってから駆が私の方を向いてこう言う。
「でもそれが聞けたんだから、ケーキ作って本当に良かったよね」
「君の協力がなかったら絶対美味しくは作れなかった……本当にありがとう……」
私は感謝の意味を込め、右隣でゆっくり歩く駆の手に自分の右手をそっと重ねた。夏の旅行以来、私達は時々互いの手を繋ぐ時があった。駆はそんな私の指を軽く握ってくる。
「どういたしまして……」
元々人より平熱が高いという駆の指はとても温かかった。
その時ぎっしりと立ち並ぶ家々の隙間から大きい満月が上ってくるのが、目の端に入ってきた。日没後さほど時間は立っておらず周囲は完全に暗くなっていないものの、月は非常に明るく、沈んだ太陽の代わりに辺りを照らしている。
それを目にした私は深く考える事なく"Fly Me to the Moon"の最初の2フレーズを鼻歌で歌ってしまった。
はっとした顔をして駆が私を見つめてくるので、私は空いていた左手で背後の月を指差した。
「ほら、見て、今日は満月だよ」
「あ、本当だ!」
全然気が付いていなかったらしい駆も、振り返って満月を見上げた。
「十月の満月はハンターズムーンって言うみたいだね」
私はちょっとした蘊蓄を付け加える。十月は狩猟に最適な月だったからネイティブアメリカンがそう名付けたらしい。
「とてもきれいな月だね……」
駆がそう呟きながら、私の指をさっきより力を込めて握ってきた。気のせいかその指先が熱を帯びたように感じられる。
それを目にした私は深く考える事なく"Fly Me to the Moon"の最初の2フレーズを鼻歌で歌ってしまった。
はっとした顔をして駆が私を見つめてくるので、私は空いていた左手で背後の月を指差した。
「ほら、見て、今日は満月だよ」
「あ、本当だ!」
全然気が付いていなかったらしい駆も、振り返って満月を見上げた。
「十月の満月はハンターズムーンって言うみたいだね」
私はちょっとした蘊蓄を付け加える。十月は狩猟に最適な月だったからネイティブアメリカンがそう名付けたらしい。
「とてもきれいな月だね……」
駆がそう呟きながら、私の指をさっきより力を込めて握ってきた。気のせいかその指先が熱を帯びたように感じられる。
「…………うん…………きれいだね…………」
私はこくりと頷くと、一旦完全に立ち止まった。この時私の頭に、夏目漱石が"I love you"を『日本人はそんなことは言わない。月が綺麗ですね』とでも訳しておけばいいと言ったという真偽不明の話がちらちらとよぎったが、互いに月を称賛しただけで"I love you"になるはずがない。私はこのナンセンスな夢想を頭から追い払おうとしてふと思った。そういえば駆は"Fly Me to the Moon"の歌詞を知っているのだろうか? 私は月を熱心に見上げている駆の横顔をちらっと見た。
「ねぇ、君、"Fly Me to the Moon"歌える…………?」
駆はこちらを見て少し困惑したように目を瞬きさせた。
「…………まあ、一応は…………」
「じゃ、歌ってよ」
ダメ元でおねだりしてみる。
「えっ…………」
駆は完璧に固まってしまった。
うっ、私完璧にすべったかな。そう思った時、駆は深く息を吸ってから伏し目がちに小さな声で、タイトルと同じ冒頭のフレーズからそっと歌い始めた。
考えてみると駆とカラオケに行った事はなかったから、歌を聴くのは初めてだった。小学生の頃ずっとピアノを習っていたためか、音程が正確だ。駆の声は小さいながらよく通るテノール寄りのバリトンで、私の耳に優しく響いてくる。そして…………
"In other words hold my hand"
このフレーズの時ぎゅっと強く手を握りしめてきた。私の心臓が跳ね上がる。そして
"In other words……"ともう一度同じフレーズが繰り返された。
私はこくりと頷くと、一旦完全に立ち止まった。この時私の頭に、夏目漱石が"I love you"を『日本人はそんなことは言わない。月が綺麗ですね』とでも訳しておけばいいと言ったという真偽不明の話がちらちらとよぎったが、互いに月を称賛しただけで"I love you"になるはずがない。私はこのナンセンスな夢想を頭から追い払おうとしてふと思った。そういえば駆は"Fly Me to the Moon"の歌詞を知っているのだろうか? 私は月を熱心に見上げている駆の横顔をちらっと見た。
「ねぇ、君、"Fly Me to the Moon"歌える…………?」
駆はこちらを見て少し困惑したように目を瞬きさせた。
「…………まあ、一応は…………」
「じゃ、歌ってよ」
ダメ元でおねだりしてみる。
「えっ…………」
駆は完璧に固まってしまった。
うっ、私完璧にすべったかな。そう思った時、駆は深く息を吸ってから伏し目がちに小さな声で、タイトルと同じ冒頭のフレーズからそっと歌い始めた。
考えてみると駆とカラオケに行った事はなかったから、歌を聴くのは初めてだった。小学生の頃ずっとピアノを習っていたためか、音程が正確だ。駆の声は小さいながらよく通るテノール寄りのバリトンで、私の耳に優しく響いてくる。そして…………
"In other words hold my hand"
このフレーズの時ぎゅっと強く手を握りしめてきた。私の心臓が跳ね上がる。そして
"In other words……"ともう一度同じフレーズが繰り返された。
ところが駆はここで突然口を閉ざしてしまった。歌詞を忘れてしまったという雰囲気ではなさそうである。私は続きを促すように駆を見つめたのだが、駆はつっと月に視線をそらした。
「…………ごめんなさい……今はオレ、まだこの続き歌えない…………でも、いつか、きっと…………」
駆の声は上ずり、繋がれたままの駆の熱い指先がトクントクンと脈打っているのが感じられる。物凄く緊張しているのだ。
「…………うん…………その時まで待ってるから…………」
歌詞をよく覚えていなかった私は、駆の予想外な反応に内心ドギマギしながらも、そう答えるしかなかった。駆は相変わらず月を向いたまま
「…………待ってて下さい…………」
とかすれた声で答えたのだった。
※"Fly Me to the Moon"より引用(作詞作曲:バート・ハワード)
「…………ごめんなさい……今はオレ、まだこの続き歌えない…………でも、いつか、きっと…………」
駆の声は上ずり、繋がれたままの駆の熱い指先がトクントクンと脈打っているのが感じられる。物凄く緊張しているのだ。
「…………うん…………その時まで待ってるから…………」
歌詞をよく覚えていなかった私は、駆の予想外な反応に内心ドギマギしながらも、そう答えるしかなかった。駆は相変わらず月を向いたまま
「…………待ってて下さい…………」
とかすれた声で答えたのだった。
※"Fly Me to the Moon"より引用(作詞作曲:バート・ハワード)
それ以降何となくぎこちない雰囲気となり、会話もあまり交わさないまま食材をスーパーで調達し家に戻ってから、駆は早速キッチンで夕食を作り始めた。今晩は秋らしく栗ご飯と、なすの豚みそ炒め、ホウレンソウのお浸しだそうだ。
一方私は先ほどの駆の様子がどうしても気になり、一旦自室に戻ってパソコンで"Fly Me to the Moon"の歌詞を調べ始めた。この時初めて知ったのだが、"Fly Me to the Moon"の元々のタイトルは"In other words"だったようで、現在も副題として()に入れているアーティストもいるようだ。つまりこれは歌詞の中でも重要なフレーズということである。
そして……検索の結果、二回目の"In other words"の続きは、"darling kiss me"だったという事が判明し、黒いパソコンデスクの前で恥ずかしさのあまり身悶えした挙句、突っ伏してしまった。
一方私は先ほどの駆の様子がどうしても気になり、一旦自室に戻ってパソコンで"Fly Me to the Moon"の歌詞を調べ始めた。この時初めて知ったのだが、"Fly Me to the Moon"の元々のタイトルは"In other words"だったようで、現在も副題として()に入れているアーティストもいるようだ。つまりこれは歌詞の中でも重要なフレーズということである。
そして……検索の結果、二回目の"In other words"の続きは、"darling kiss me"だったという事が判明し、黒いパソコンデスクの前で恥ずかしさのあまり身悶えした挙句、突っ伏してしまった。
「ねぇ…………君、そういう事でいいんだよね?」
私はひんやりとしたデスクに右頬を押し付け、段の入ったサイドの髪を指でくるくるといじりながら、キッチンにいる駆に聞こえるはずもない小さい声で問うた。
この曲は駆のおじいさんがおばあさんを口説く時に歌った歌だった。それを鼻歌とはいえ私から歌い始めたって事は……。全くそんなつもりはなかったのだけど、駆はそれを私からの『メッセージ』として受け取ったという事なのだろう。そして、今は無理だけどいつかは続きを歌うって事は…………。
ギャーと叫び出したい気分だった。心の準備が全くできていないのに、あたかも自分から告白した形になっている。無意識の自分――『血潮の中で渦巻く欲望』が、駆との関係を壊したくない、失いたくないとぐずぐずしている私の背中を押したという事なの?
激しく鼓動を打つ心臓をを抑えるように胸に左手を当てながら、少し冷静に考えてみた。今の駆は学業とアルバイトで精一杯だし、進級する事が最優先課題だ。それでも『いつか、きっと』と言ってくれた。ならいい加減私も覚悟を決めるべきではないだろうか。
私はひんやりとしたデスクに右頬を押し付け、段の入ったサイドの髪を指でくるくるといじりながら、キッチンにいる駆に聞こえるはずもない小さい声で問うた。
この曲は駆のおじいさんがおばあさんを口説く時に歌った歌だった。それを鼻歌とはいえ私から歌い始めたって事は……。全くそんなつもりはなかったのだけど、駆はそれを私からの『メッセージ』として受け取ったという事なのだろう。そして、今は無理だけどいつかは続きを歌うって事は…………。
ギャーと叫び出したい気分だった。心の準備が全くできていないのに、あたかも自分から告白した形になっている。無意識の自分――『血潮の中で渦巻く欲望』が、駆との関係を壊したくない、失いたくないとぐずぐずしている私の背中を押したという事なの?
激しく鼓動を打つ心臓をを抑えるように胸に左手を当てながら、少し冷静に考えてみた。今の駆は学業とアルバイトで精一杯だし、進級する事が最優先課題だ。それでも『いつか、きっと』と言ってくれた。ならいい加減私も覚悟を決めるべきではないだろうか。
私は机に左頬を預け、火照る右頬に手を当てた。もう対等な関係とか言っている場合じゃない。駆をありのまま受け入れるべきなのだ。駆は金銭には絶対換算できないものを私に沢山与えてくれている。食事作りや家事は勿論のこと、傍にいてくれる事で、私は一人ぼっちではないという安心感をいつももたらしてくれる。駆と同居するようになってから、両親を失って以来どこか孤独を感じていた私の心がどれだけ満たされた事か、言葉では言い尽くせないほどだ。
それにさっき駆は私の事を『ヒーロー』だと言ってくれたが、あの時は本当に嬉しかった。ちっぽけな私も少しは駆の役に立っていると思えたし、私が駆にとって特別な人間になれているのだとしたら、それはどんなに喜ばしく誇らしい事だろう。
以前渚に話したように、私達が互いに甘えているのは事実だ。でも私の中にはそれの何が悪いと開き直る自分もいた。両親のいない私と、父親から『勘当』された駆が互いにもたれあってはいけないのだろうか?
互いに自立した者同士の恋愛が私の理想だったとしても、現実とは往々にしてままならないものだ。だったらその現実を素直に受け入れた上で、手を携え支え合い、共に歩んでいってもいいではないか。
駆の現時点での気持ちが明らかになった以上、これからは私の中にある『恋が途中でダメになってしまうのが怖い』という恐怖心と向き合わなければならないのだが、それについては他でもない私自身が勇気を奮い立たせるしかないのである。
それにさっき駆は私の事を『ヒーロー』だと言ってくれたが、あの時は本当に嬉しかった。ちっぽけな私も少しは駆の役に立っていると思えたし、私が駆にとって特別な人間になれているのだとしたら、それはどんなに喜ばしく誇らしい事だろう。
以前渚に話したように、私達が互いに甘えているのは事実だ。でも私の中にはそれの何が悪いと開き直る自分もいた。両親のいない私と、父親から『勘当』された駆が互いにもたれあってはいけないのだろうか?
互いに自立した者同士の恋愛が私の理想だったとしても、現実とは往々にしてままならないものだ。だったらその現実を素直に受け入れた上で、手を携え支え合い、共に歩んでいってもいいではないか。
駆の現時点での気持ちが明らかになった以上、これからは私の中にある『恋が途中でダメになってしまうのが怖い』という恐怖心と向き合わなければならないのだが、それについては他でもない私自身が勇気を奮い立たせるしかないのである。
私はパソコンデスクの傍にあるベッドに移動しごろりと横になると、スマホのフォトアプリを開き、こちらを向いて満面の笑みを浮かべている両親の写真をじっと眺めた。私が就職してようやく子育てから解放され、これからは夫婦水入らずであちこち旅行できるねと喜んでいた矢先の交通事故が二人の命を奪ったのだ。
「お父さん、お母さん、お願い、不甲斐ない娘を後押しして…………」
つい弱音を吐いてしまう。きっと二人は天国で、図体ばかりでかいくせに情けない娘の様子を見て笑っているに違いない。
「お父さん、お母さん、お願い、不甲斐ない娘を後押しして…………」
つい弱音を吐いてしまう。きっと二人は天国で、図体ばかりでかいくせに情けない娘の様子を見て笑っているに違いない。
二人は本当に仲の良い夫婦だった。もちろんちょっとした喧嘩は当然あったけど、必ずきちんと話し合って最終的には仲直りしていたようだ。そういえば、一番最後に家族旅行をした時母が私をホテルのバーに誘ってくれて、お洒落なカクテルを傾けながら、もし誰かとお付き合いするなら相手に期待しすぎず、コミュニケーションを絶対惜しんではダメなんて言っていた気がする。
「うん、そうだよね、お母さん」
私は写真に向かって頷いてみせた。自分から告白できずにいた私は、心の奥底でどこか駆に期待していたのかもしれない。駆はさっき、現時点で彼のできる最大限の意思表示をしてくれたのだ。次こそは私の口からきちんと話したい。
「うん、そうだよね、お母さん」
私は写真に向かって頷いてみせた。自分から告白できずにいた私は、心の奥底でどこか駆に期待していたのかもしれない。駆はさっき、現時点で彼のできる最大限の意思表示をしてくれたのだ。次こそは私の口からきちんと話したい。
それからどういう訳か、後から後から両親との懐かしい想い出の記憶が脳裏に蘇っていく。その都度私は両親と会話を交わしていった。いつもは両親の事を思い出す度胸の痛みを伴っていたのに、今回は不思議とそれはなく、涙もこぼれることはなかった。こんな風にしばらく時間を過ごした頃、部屋のドアが優しくノックされる。
「アルファさん、夕飯出来上がったよー!」
さっきあんなに緊張していたのが嘘のような、駆の朗らかな声だった。
「はーい、今行くね!」
私はベッドからゆっくり立ち上がると、自分を鼓舞するようにうんと頷いてから自室を後にしたのだった。たとえのろのろであっても私は一歩一歩階段を上っている、そう感じながら。
「アルファさん、夕飯出来上がったよー!」
さっきあんなに緊張していたのが嘘のような、駆の朗らかな声だった。
「はーい、今行くね!」
私はベッドからゆっくり立ち上がると、自分を鼓舞するようにうんと頷いてから自室を後にしたのだった。たとえのろのろであっても私は一歩一歩階段を上っている、そう感じながら。