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証拠

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入り口のあたりから物音がした。三人が一斉に振り返る。 「おい、長尾ちょっと見てこい」 「わかりました」  新野の右で煙草を吸っている、薄紫色に髪を染めた青年――長尾が腰を上げ、玄関の扉を開けて外を覗いた。  籠もった硬い音がした。呻き声。何かが潰れる音――長尾が背中を丸めて動かなくなった。 「何してんだよ?」  新井が長尾に近づき、声をかける。長尾の顔、の横を風を切る音がした。新井の顔が青褪めた。バットを構えて走り抜けてくる黒いシャツの男――秀樹。 「なんだおまえ⁉」 「このガキの連れか⁉」 「ふざけんな。このガキ殺すぞ!」  新井が叫びながら後ずさり、ぼくの首にナイフをあてがった。殺す――あまりにも鋭利で、ちっとも現実感のない言葉。人が死ぬのを見たし、自分が殺されかけたというのにだ。ぼくは自分が人質に取られているこの状況が全く飲み込めなかった。全てが靄の中にあるような感覚――ただ、身体がだるかった。 「くたばれクズ野郎!」  秀樹の罵声とほとんど同時に、硬い音が響いた。金属バットを降り回し、新野に向かってくる秀樹。バットの先は新井の顔面を打ち抜いた。喉に激痛が走った。喉に手を押さえ、呻き声を上げながらぼくは倒れた。秀樹が新井を殴った衝撃で、ナイフがぼくの喉に突き刺さったのだ。痛みと痺れが喉仏に雪崩れ込む。新井は裏返った悲鳴を上げてへたり込み、崩壊した顔面を掻き毟る。  ぼんやりとした脳味噌で考える――何で秀樹はここが分かった? ぼくに渡した服――おそらくGPSでもつけられていたのだろう。消しゴム程度の大きさの四角い塊――思い出す。多分あれだ。  空気を切る音――秀樹は再びバットを構える。振り上げ、振り下ろす。新野の肩にバットのヘッドが打撃を与える。バットは秀樹の手からすっぽ抜け、乾いた音を立てて転がった。 「何すんだ、てめえ⁉」  新野は足元に落ちたバットを持ち直し、振り上げる。新野の振りかぶったバットは秀樹の肩に命中した。直後、秀樹が肩を押さえ膝を突いた。 「痛いじゃねえか、この――」  荒い息を吐きながら、新野は秀樹を見下ろし、近寄った。  秀樹が肩を丸めて新野に体当たりをした。両手を突き出し、もう一度突撃する。手元には鈍い光を湛える物体――ナイフ。ぼくに渡したものよりもずっと大きく、ごつかった。刃先のギザギザも大きかった。秀樹は新野の腹に突き刺した。新野の悲鳴。すぐに新野のシャツはどす黒く染まった。 「死ね、死ね、死ね、死ね死ね」  秀樹はうわごとのように呟き、一心不乱にナイフの柄を握り、さらに奥へナイフの刃を憎き新野へ押し込もうとしていた。新野が血反吐を吐きながらわめいた。 「痛え! ざけんなよ!」  新野がバットを持ち上げ、秀樹の側頭部に叩きつけた。そのまま二度、三度と叩きつける。血飛沫が視界を覆った。秀樹が頭から倒れ込んだ。頭皮と髪の毛の間から、薄桃色の物体が飛び出した。  ぼくは思わず吐いた。脳味噌を露出させた秀樹――即死のようだった。秀樹の死体は新野にもたれ掛かるように乗り上げた。新野も力を使い果たしたのか、それとも痛みを思い出し耐えられなくなったのか、しきりに口を開きながら腹を押さえて蹲った。  ぼくはそれを無心で見つめていた。頭が痛くなり、血の気が引いていく。痛みが増し、息が苦しくなっていく中で、ただぼくは虚脱感だけを覚えていた。一心不乱に新野を殺そうとした秀樹。このガキ殺すぞ――新井の制止など耳に入っていないとでもいうような行動だった。それが示す真実。この人は復讐のためなら、ぼくのことなんてどうだってよかったんだ――  聞き込みは全てぼくにやらせる。そうすれば訝しんだ新野がぼくに因縁をつける。秀樹は新野の危険さを知っていてそうした。最初からぼくは、新野をおびき寄せるための捨て石でしか無かったのだ。GPSをつけた服を聞き込みの際ぼくに必ず着けるように言ったのも、新野の溜まり場を突き止めて殺すためだ。  秀樹がぼくに話しかけてきた日はお姉さんの自殺から日が経っていた。多分、ぼく以外にも声をかけていたんだろう。事件に興味がありそうな野次馬に目星をつけて。普通の人は彼の話に興味を持たず、間抜けなぼくだけが利用された――  急速に目の前に靄がかかり、光を感じなくなっていった。身体の奥から何かが降りていく気がした。体温が下がっていく。  呂律の回らない、呻き声とすら呼べないような不快な音。新野はいつの間にか仰向けになっていた。全身が小刻みに震えていた。這いずりここから出ようとしているが、自分の足元にある秀樹の死体のせいで進むことが出来ない。秀樹の死体すら、痙攣する新野には動かすことが不可能なようだった。  ぼくは空き家の出口を眺めた。長尾も新井も死んでいた。 「助けてくれ。……死にたくない。頼む、救急車、……死にたくねえよ」  新野の声はか細く弱々しかった。新野はいつの間にか歩けなくなるほどに衰弱しているようだった。仰向けになってしまったせいで、口の中に溜まる血を吐き出せないはずだ。その証拠に、彼は言葉を発する度に噎せていた。想像を絶する痛みなのだろう。なのに、ぼくはなんとも思わなかった。次第に眩暈がしてきた。頭がぐらつく感覚――痛みに耐えられそうになかった。そのうち意識もなくなってくるだろう。でも――ぼくにはスマートフォンがある。 「助けて。痛え……頼む……」  念仏のような新野の呻きが続く。 「ぼくももうすぐ死ぬよ。ぼくとおまえらのせいだよ。そんなに死ぬのって、怖い?」  咳き込みそうになるのを堪え、ぼくは一息に喋った。新野はぼくに何か言い返そうと口をぱくつかせたが、漏れたのは言葉ではなく泡が浮かんだ血だけだった。 「あなたは痛くて苦しいまま、誰にも助けてもらえず死んでいくんだ。あなたが自殺させた女の人みたいにね」  ぼくは首の刺し傷から垂れ続ける血を手で拭ってみたが、血は止まらなかった。痛みも消えない。  親父にもみ消させた――新野はそう言った。もしかしたら警察がこれを見つけても同じように隠滅されるのかも知れない。それでもよかった。  ますます体温が下がっていく。 「あなたが死んだ女の人と同じように苦しみながら死んでいく映像が撮れたら、五十嵐さんの両親も秀樹さんも、少しは報われるよ」  ぼくの声――ひどく虚ろだった。  眩暈が激しくなってきた。脳味噌が揺さぶられているようだった。ぼくは震える腕でスマートフォンを床に転がっているバットに立てかけ、画面に触れて目を閉じた。ムービーモードの効果音が鳴った。



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