ランバーの見繕ってくれた服を、一通り見終えて少しした頃。フルエットが、紙袋をひとつ抱えて戻ってきた。
「やあ、お待たせ。戻ったよ」
「おかえり、フルエットさん」
「服選びの方はどうだい?」
「ジェラールに見てもらって、一通り終わった。けど……」
首の後ろをこすりながら、ユリオは姿見の隣の丸テーブルを見やった。よさそうだったものはテーブルの上にまとめなおしてあるのだが、その数は一着や二着では済まない。
しかしフルエットはと言えば、まるで気にした様子もない。一瞥して「いいじゃないか」とうなずいて、ジェラールに告げる。
「ここの服、全て包んでもらえるかい?」
「毎度あり!」
笑顔で応じたジェラールが、服を抱えてカウンターの方へ小走りに駆けていく。それらをカウンターに置くと、ランバーに呼びかけて袋に詰め始めた。
「父さん、お会計」
「はいよ」
さて、これに戸惑ったのがユリオである。何着あったか指折り数えた彼は、顔を青くしてフルエットに呼びかけた。
「お、おい。フルエット」
「なんだい?」
「いいのか、あんなに……」
ぴっと指を立て、フルエットがユリオの言葉をさえぎる。そして彼女は、笑って首を横に振った。
「お金を出すのは私だ。その私がいいと言うんだから、君が気にすることはないのさ」
けれどもこれでは、居候というよりは飼われているみたいではなかろうか。そんな思いが表情に出ていたのか、フルエットはユリオの顔を見ると思案気に指先を唇にやった。
「気になるようなら、家事を覚えてくれたまえ。とりあえずは、私の生活を楽にすることで返してくれればいいよ」
「わかった」
ユリオが真面目な顔でうなずくと、彼女は何故か苦笑を浮かべて頬をかく。
そうしているうちに、袋詰めと勘定が終わった。フルエットが支払いを済ませる間に、ユリオはジェラールから紙袋を受け取る。
「意外と重いから、気を付けてよ」
「うん。……うわ、ほんとだ」
服の詰まった紙袋は、見た目よりもずっしりとしている。袋自体も大きめで、フルエットが持ったら前が見えなくなってしまいそうなくらいだ。
「はは、大漁だね。それじゃあランバーさん、ジェラール。今日はありがとう、またよろしく頼むよ」
「おう」
「フルエットさん、ユリオ、またね!」
「うん、またな。……えっと、ありがとう」
ユリオは帽子のつばを軽く持ち上げ、フルエットが二人にひらりと手を振る。カラカラと鳴るベルの音を背に、二人はランバーの店を後にした。
◆
サイドカーの後部トランクへ、ユリオは毛糸玉の入った紙袋を詰め込んだ。いっぱいになってきたトランクを見て、そろそろ買い物も終わりだろうかと思う。ランバーの店を出た後も、二人は街を買い物してまわっていた。
ユリオがサイドカーのシートについたのを確かめると、フルエットが二輪のエンジンを入れようとキック。何度か繰り返した末に、彼女は「おや?」と眉をひそめて首を捻った。
「どうした?」
「いや、少しエンジンのかかりが悪くて……ね!」
サイドカー側から見えないが、フルエットが思いきりキックをした気配。するとようやくかかったのか、エンジンが大きな音を立てた。そのままバイクを走らせ始めたフルエットに、ユリオはトランクの方を振り返りながら訊く。
「今のとこで最後か?」
いや、と前を見たままフルエットが答える。
「もうひとつ寄る店がある。そこで最後だよ」
言いながら、フルエットがハンドルを切った。日の射さない薄暗い通りへと、二輪が入っていく。歩道のない狭い道に対して、建物の連なりは大通りやナテール通りとそう変わらない。建物に区切られて狭くなった空も相まって、そこはかとない圧迫感をユリオに覚えさせた。
通りの左右へ目を向けても、店はこぢんまりとしたコーヒーハウスと食堂がひとつずつあったくらい。あとはほとんど普通の家のようで、買い物するような店があるとは思えないのだけれど――。
「ここだ」
フルエットがバイクを止めたのは、古くて重たそうな木製ドアの建物の前だった。ドアにはガラスがはめ込まれているのだが、その向こうは薄暗くてよく見えない。一見して何の店かはわからないし、そもそも店なのかもわからなかった。フルエットが言うからには、店であることは間違いないのだろうけど。
よく見ると、ドアの上に錆の浮いた小さな銅看板がかかっていた。店の名前と一緒に、何かの模様が刻まれている。
「……本?」
「ああ。読み書きを覚えてもらうのに、一冊読みやすい本でもどうかなと思ってね」
「……ぼく、できるぞ? 読み書きだったら」
「えっ」
バイクを降りてドアに向かっていたフルエットが、すごい勢いで振り返る。じっと見つめるはちみつ色の瞳に、ユリオは少し唇を尖らせた。
「そんなびっくりしなくてもいいだろ」
「すまない。だけどほら、君はこれまでがこれまでだろう? だから、身に着ける機会がなかったものだとばかり……」
「それは……そうだな」
改造されてからはもちろん、その前も路地裏暮らしの孤児である。フルエットがそう考えるのも無理はない。
砂と埃の上へ、細長い壁の欠片を使って記された文字列たちが、ふとユリオの脳裏をよぎる。ユリオはふるふると首を横に振った。
「一番年上だったやつがさ、教えてくれたんだ。だから、そのために買ってもらわなくても平気だよ。ただでさえ、今日はたくさん――」
けれどフルエットは、そのまま店のドアを開けてしまった。ドアの陰から身を乗り出すようにしながら、ぴっと立てた指でユリオを招く。
「既に身についているなら丁度いい。君の世界を広げるためだと思って、一冊買おうじゃないか」
「いや、だから僕は……って待てよ!」
こうなっては仕方ない。ユリオはバリバリと頭をかいて、ため息まじりにフルエットを追いかけた。
ドアをくぐった途端に、空気が変わる。囁くことすらはばかられるような静けさが、店内を満たしていた。背後でドアが閉まると、世界から切り離されてしまったかのようにすら思えてくる。
窓が締め切られ、カーテンがぴったりと隙間なく引かれた店内は、昼間だというのに薄暗い。ぶらさがった電灯も、シェードでやけに光量が絞られていた。意外なのは、棚や床がチリひとつないように掃き清められていたことだった。
ひとりぶんと少しの間隔を空けて並んだ棚には、しっかりした装丁の本からそうでないものまで、様々な本が詰め込まれている。中にはまったく見知らぬ文字が背表紙に記されたものすらあるが、もしかして外国の本だろうか。
そんな店の中には今、二人以外にお客は居ないようで。もっといえば、店であるからには居るはずの店主の姿も見えない。奥にランタンの置かれた机が見えるのだが、そこにも居ないようだ。それにしても、椅子がずい分古びている。背もたれには、破れたのを塞いだとしか思えない跡までついていた。
フルエットの肩をつつく。他に誰が居るというわけでもないが、声を潜めて、
「この店、ほんとにやってるのか?」
「そのはずなんだが……。ルイリめ、さてはまたやったな?」
ひとりごちたフルエットが、ずんずんと奥へ進んでいく。やがて彼女が立ち止まったところで、ユリオは棚の足元から突き出す真っ白な何かを見た。
「うわっ!?」
ぎょっと身を引いて、よく見て。ユリオは、もう一度ぎょっとする羽目になった。その白い何かの正体は、人の手だ。ほっそりとした長い指を持つ、柔らかで青白い手。たぶん、女の手だ。
おそるおそる視線を棚の間に向けると、手の主が器用に「Ⅰ」の字になって転がっていた。分厚く頑丈な作りの見るからに重そうな本が一冊、その顔面に鎮座している。
「お、おい。大丈夫なのかこれ」
慌てるユリオとは対照的に、フルエットには特段焦った風もない。ロールヘアをくるくると手遊びして、ひとつため息をつくばかり。
「ルイリ、さては君またドジをやったね?」
手を踏まないよう慎重に歩みを進めたフルエットが、頭の近くに屈んで本を退かす。そうして顕わになったのは、やはり青白い肌をした女の顔だった。店内の薄暗さと淡い黒髪が、青白さをより強調しているように思える。
フルエットが、両手でしっかりと本を持って差し出してくる。
「ユリオくん、この本持ってもらってもいいかい?」
「あ、ああ」
「ありがとう。重いから気を付けてくれたまえ」
受け取った途端、ユリオの腕にずっしりとした重さが伝わってきた。見た目通り、いや、見た目以上かもしれない。
「……うわ、ほんとに重いな。そいつ、大丈夫かな」
「時々こういうことやるんだよね、彼女。大丈夫だとは思うんだが……おーい、ルイリ?」
渡された本をしっかりと抱えながら、フルエットがルイリと呼ばれた女へ呼びかける様子を見守る。そのうちに、女の服装が変わったものであることに気づく。体の線がほとんど出ない、前で合わせる形の服だ。だけどボタンは見当たらず、腰のコルセットだけで留めているように見える。そして何より、袖の丈が長い。フルエットの黒いドレスや、今日のブラウスみたいだった。
「……こいつの服、袖のところとかおまえのに似てないか?」
思わずフルエットに問いかけると、フルエットはルイリの肩を揺すりながら答える。
「ああ、それは私がルイリの服を真似たんだよ。彼女、他所から流れ着いた異邦人らしくてね。この服は、あちらの伝統的な衣装なんだそうだ」
「へえ、そうだったのか」
そうこうしているうちに、ルイリの唇から微かな吐息が漏れた。そのまま、ゆっくりと目が開いていく。ふわふわと揺蕩うような鳶色の瞳がフルエットを見て、ユリオを見た。パチパチと、長いまつげを揺らして数度瞬き。
「あぁ……フルエちゃん、いらっしゃい。と……そっちは、誰?」
「おはよう、ルイリ。紹介する前に、まずは起きてくれないかい?」
「起き――? っあ゛、痛たた……。あ゛ー……あーし、まーたやっちゃったのね」
顔をさすってうめきながら、ルイリが身を起こす。毛先と後頭部で結わえられた淡い黒髪が、滝のように流れた。
よいしょと立ち上がったルイリの頭が、ぐんと高いところに行く。フルエットはもちろん、ユリオも少し見上げないといけないくらいだ。薄暗い照明や青白い肌、見慣れない服装のせいもあってか、背の高い彼女の姿はお化けか何かのようにも見えた。
「痛ったー……ああ君、それ貸して」
「あ、ああ」
ユリオが渡した本を、ルイリは表紙と背表紙、中身に至るまでじっくりと眺めた。そして軽くうなずくと、長い腕をぬっと伸ばして棚の最上段にそれをしまう。ついでに軽く棚を整え、満足げに口の端を上げる。それからようやく、ルイリは腰をぐっとかがめてフルエットに問いかけた。ほっそりとした手でユリオを示しながら、
「んで、フルエちゃん。この子は?」
「彼はユリオくん。つい先日できた居候でね。今日は彼が読む本を買いに来たんだ」
それを聞いたルイリの口元が、にまぁと弧を描く。ユリオはそれを見て、何故か獲物を前にした獣を見ているような錯覚を覚えた。
「つまり、ご新規さんってこと? あーしはルイリ、ここの店長でフルエちゃんはお得意さん。よろしくねえ、ユリくん」
「よ、よろしく。……待て、ユリくんってぼくのことか?」
「そーだよ? ユリオだからユリくん。わかりやすいっしょ?」
にこぉっと笑みを深くして、ルイリは奥の机へと向かう。背もたれの高さが足りていなさそうな古びた椅子が、腰かけた拍子にぎっと音を立てた。
「んで、なんだっけ。ユリくんに本をプレゼント? でもフルエちゃん、書斎にたくさん持ってるでしょ? それ読ませてあげればいーじゃん?」
「それはそうなんだがね。せっかくだから、最初の一冊くらいは新しいものを用意したいじゃないか」
「じゃあフルエちゃんの大好きな、ジョウント先生の最新作は? 増刷分がこないだ入ったし、お揃いで持つのもいいんじゃない?」
「確かに私は大好きだが……あれは復讐譚だし、話自体もかなり長いだろう? 最初の一冊には、二重の意味で重くないかい? ベネット先生の新刊の……『リジーの日記』だったか? 書評からすると短くて読みやすいようだけど、あれはどうだろう?」
「あー、あれ? あれも面白かったけどねえ。ユリくん、男の子でしょ? ご令嬢が主役の話だし、好みに合うかどうかで言ったらけっこう微妙じゃない?」
「それもそうか……ふむ」
そんな二人の話にまったくついていけないユリオは、ぼーっと近くの本棚を眺めていた。といっても、本などとはてんで縁のなかった人生だ。背表紙に記されたタイトルをただ眺めるばかりで、これといって何かあるわけではない。タイトルの意味がわからない本も多い。
「っていうか、ユリくんの好みはどーなの?」
「へ」
ルイリから急に水を向けられ、ユリオは間抜けな声をあげた。顔をしかめて、額をかいて、視線を机の上に落とす。で、また近くの本棚に目を向けた。そもそも、今までまともに触れたこともないものだ。
「好み、って言われても……。ぼく、今まで本読んだことないし」
「だったら、あーしの一番のおススメでもいーい?」
ユリオの答えを待たず、ルイリは机の引き出しから一冊の本を取り出した。くたびれた感じがあるものの、傷や折れのほとんどないその本の表紙には、月を背に夜空を飛ぶ船が描かれている。シェードに遮られた薄暗い灯りの下で、本を掲げたルイリの鳶色の瞳が、宝石のような輝きを放つ。
「フォッグ先生の『月往く船』! 好奇心旺盛なお嬢様に見出された夢見る発明少年が、月旅行に挑戦する話でねー。最後は少年もお嬢様もハッピーな終わり方するし、文章も読みやすいし、初めての一冊にはピッタリだと思う! これはあーしのだから売ってあげらんないけど、新品がちゃーんと棚にあるから」
少し早口で語る声は、さっきまでよりもワントーン高い。大切な宝物の話をするみたいなルイリの調子に、フルエットが柔らかく微笑む。
「君は本当に好きだね、『月往く船』」
「だって、あーしがお爺さんからもらった最初の本だし? んで実際おススメだし。どう?」
「えっと……」
瞳を輝かせるルイリと、『月往く船』。一人と一冊を交互に見やりながら、ユリオはさっき彼女が口にしていた言葉を思い出す。
『好奇心旺盛なお嬢様に見出された夢見る発明少年』。ユリオは発明少年ではないし、フルエットに何かを見出されて居候になったわけではない。だけどもお嬢様と少年という共通項が、ユリオに興味を抱かせる。
「えっと」
だけど今日だけでも服に食料、色んなものを買ってもらった。そのうえ本までという気持ちが、言葉をためらわせる。
このまま口ごもっていても、フルエットはたぶん察してしまうのだろう。だけどせめて、自分から口にすべきなのだろうと思う。
「……その本、ほしい。いいかな、フルエット」
フルエットがふっと息を吐いて笑う。そして彼女は、ぴっと立てた指先をくるくるとまわして言った。
「もちろんだとも。そのつもりでここに来たわけだからね」
「ありがと。……いつか、もらったぶんはちゃんと返すから」
「楽しみにしているよ。ということで、ルイリ? 『月往く船』を一冊、お願いできるかな」
「もっちろん!」
勢いよく席を立ったルイリが、にぃっと満面の笑みを浮かべた。本棚から真新しい『月往く船』を一冊取ってきてユリオに渡すと、目線を合わすように身体を傾げて、鳶色の目を輝かせてやはり笑う。
「読み終わったらさー、感想聞かしてね?」
「うん」
ユリオの答えに、ルイリはもう一度満面の笑みを浮かべる。
その日の買い物は、これで最後だった。