よく晴れた、真新しいシャツのように心地よい朝だった。
ユリオがあくびをかみ殺しながらダイニングに向かうと、エプロン姿のフルエットが既に朝食の準備を始めていた。フライパンに厚めのベーコンが投入されて、脂の焼ける音と香りが空腹を刺激する。
ユリオに気づいて、フルエットが振り返る。一本に結わえた紫の髪が、朝の光を受けながら軽やかに踊った。
「やあ、おはよう。いい朝だね」
「おはよ。……おそくなってごめん、何すればいい?」
「それじゃあ、ビーンズを温めてくれるかい?」
顔を洗ってもまだ眠気の残る目元をこすりこすり頷いて、ユリオはエプロンを身に着けた。フルエットが作ってくれたものだ。
くぁ、と。またこぼれそうになったあくびをかみ殺しながら、ビーンズ缶を鍋にあけて温め始める。隣のコンロでベーコンを焼くフルエットが、そんな彼の様子にくすりと笑った。紫の髪が、ベーコンを返す動きに合わせて軽やかに揺れる。
「また遅くまで本を読んでたのかい?」
図星だった。鍋の中のビーンズをかき混ぜる右手はそのまま、左手で鼻の頭をかいてうなずく。
「や……おもしろくてさ」
イルーニュから戻って向こう、ユリオは毎日『月往く船』を読みふけっていた。
ルイリの言っていた通り読みやすいが、読書自体がまったくの初めてということもあり、読書スピードはあまり速くない。それに時々わからない言葉にぶつかったりして、そのたびにフルエットに意味を教えてもらったりもしていた。
そんな遅々としたペースでも、そろそろ読み終えてしまいそうで。それを残念に思っている自分が居ることに、ユリオは正直驚いていた。
いいことじゃないか、とフルエットが微笑む。
「次に街へ行ったときには、ぜひルイリと話すといい。彼女、人が本を読んだ感想を聞くのが大好きだからね」
「そうする。フルエットも、ありがとな」
「いやあ、私は別になにも? ――っと」
カリカリに焼きあがったベーコンを皿にあげると、フルエットはフライパンへそのままパンを入れた。ベーコンの脂を吸い込んで、パンが音を立てて色づいていく。
「ビーンズの方はどうだい?」
「ん……温まったかな」
綺麗な黄金色にあがったパンを皿へあげ、そこへ温めたビーンズをたっぷりとかける。あとは卵やトマト、お茶を用意して朝食の支度は完了だ。そうして二人がテーブルについたその時、ドアノッカーの音が聞えてきた。
「おや、珍しい。郵便かな」
言うが早いか、フルエットは素早く立ち上がって玄関へ。短いやり取りをかわす声が聞こえた後、廊下を書斎の方へ向かうフルエットの姿が見えた。それから少し間があって、便箋を手に戻ってくる。それを眺めるフルエットの表情は、やけに思案気だ。
「どうしたんだ?」
「実家から手紙が来たんだがね」
言いながら、彼女は朝食の席へ戻る。折った便箋をテーブルの隅に置くと、ベーコンを切り分けながら言葉を続けた。
「ゼフィをまた寄越すそうだ。仕送りとは別で用件があるらしい。この手紙自体、少々遅れて届いたようだから……早ければ、明日には来るかな。都度の往復も楽じゃないというのに、まったくご苦労なことだよ」
ゼフィの名前が出てきた途端、お茶が急に渋くなった気がしてユリオは顔をしかめた。ベーコンを口へ運んだフルエットが、そんな彼の様子に苦笑する。
「そう嫌ってやらないでくれ。彼女も仕事で仕方なく来ているんだから」
「他のヤツに代わってもらえばいいだろ」
ビーンズを乗せたフライドブレッドを一口かじった彼女が、視線を何処か遠くへ向ける。家の中で言えば、寝室がある方だ。視線を食卓に戻して、フルエットはひらりと手を払った。
「ゼフィは元々私のお付きだったからね。他の使用人たちは私のところに来るのなんて当然嫌がるだろうし、彼女以外に白鳥の矢が立つ先は居ないのさ」
「……ふうん」
「それにゼフィは、私がこの家に住み始めたばかりの頃も一緒だったからね。屋敷の他の人間よりは土地勘があるんだよ」
その言葉に、ビーンズをすくっていたユリオの手が止まる。微妙に傾いたフォークから、ビーンズがぽろぽろと皿に落ちた。
「あいつ、ここ住んでたの?」
「そうだよ? 今君が使っている寝室は、もともとゼフィが使っていたものだ」
驚くと同時に、なるほどと思った。泊りの客が来そうもないこの家に、なぜわざわざ2つ寝室があったのか。それはもともと、フルエットとゼフィが二人で暮らしていた家だったからだったのだ。
「それなら、仕方ないのかもしれないけど。……それでもやっぱり、ヤだな。ぼくは」
フォークに刺したビーンズを、思いきり噛みつぶした。あの日のゼフィの振る舞いを思い出した胸のムカつきを、一緒に噛みつぶすように。
◆
そして翌日、雲の多い昼下がりの頃。確かにゼフィはやってきた。
暖炉の小部屋のソファにゼフィが、安楽椅子にフルエットがそれぞれ腰かけて向かい合う。椅子が足りないから、ユリオはダイニングから椅子を持ってきてフルエットの隣に座っていた。ぶら下がっていた服は、いったんすべて別の部屋に――ミシンの置いてある小部屋に移してある。
ユリオは固く腕を組んで、ゼフィの澱んだ緑の瞳をにらみつけた。
「……」
「……」
ちらりとユリオを見返したゼフィが、吐き捨てるような短いため息をこぼす。そしてその唇が言葉を紡ごうとするより先に、フルエットが口を開いた。
「それで、ゼフィ? 今日はいったい何の用件なんだい? 君が来るということしか、手紙には書いていなかったんだが」
「そちらの彼のことを、ギヨーム様にご報告いたしました」
「ギヨーム様って?」
「私の父のことだよ。――失礼、それで? お怒りにでもなったかな」
ゼフィが口元を歪めるのがわかった。今から話すことが、楽しくて仕方ないというように。
「コマドリを飼うほど人恋しいのであれば、相応しい従僕なり番なりをあてがう。そう、ギヨーム様は仰っています」
「……ユリオくんはコマドリじゃあないんだが」
フルエットが大きなため息をこぼす。緩やかに首を振る動きに合わせて、ロールへアがふわふわと揺れた。
「そもそも従僕はともかく、番なんてどうするつもりなんだい? 私は追い出された身なんだよ?」
「ええ、ええ。それは誠に仰る通りでございます。ですが、フルエット様がスピエルドルフ家のご令嬢、それも長子であることは今も変わりございませんから、引く手はあまたございます。分家のストライガなど、その筆頭でございましょう」
そう話すゼフィは、いかにも愉快そうな様子で。フルエットにとって良くない話なのだろうということは、おかげでユリオにもなんとなく理解できた。だが、具体的なことはさっぱりだ。
「どういうことだ?」
「お前には関係の――」
ゼフィが口を開こうとするのを制して、フルエットが答える。
「私と結婚してスピエルドルフ家と縁戚関係を結びたい連中が大勢居る、って話さ。資産はあっても、家名のない成金だとかね。私が言うのもなんだが、スピエルドルフ家は歴史の長い名家だからね」
「えっと……つまり?」
まだ飲みこめなくて首を傾げていると、ゼフィがくつくつと肩を揺らして笑い始めた。ユリオの様子がおかしくてたまらない、そうありありと顔に書いてある。やがて先日のような、口元だけを大きく歪めた嘲笑を浮かべる。
「フルエット様には、まだ価値があるということです」
「……価値?」
絡みつくようなねちねちとした声に、ユリオの頭が少し熱を帯びる。ゼフィに問いかける声は、自分でも驚くほどにゆっくりと抑えた口調だった。
「ええ。スピエルドルフの家名を刻印した商品として、お家のお役に立てるだけの価値が、まだおありになる。そう申し上げているのですよ」
「商、品?」
頭がますます熱くなり、眉のあたりが震えるのを感じながら、ユリオはフルエットの横顔を見た。そっと目を伏せるフルエットに、ゼフィがなおも言葉を投げつける。
「不服そうですね? 居るだけで異類を招く呪われた身に、まだその価値があると考えて頂けるだけ――」
耳鳴りがして、ユリオの視界が赤く染まる。燃え上がりそうなほどの頭の熱を自覚した時、彼はもうゼフィに飛びかかっていた。
ソファから引きずりおろした彼女を床へ叩きつける音と、蹴り飛ばされた椅子が壁に叩きつけられる音が、おおよそ同時に部屋に響く。
「か……は……っ」
体の下で、ゼフィが潰れた掠れ声を漏らした。
ユリオは彼女の首を絞めるのではなく、左腕を使って喉を押しつぶすみたいにしていた。右手は、睨みつけてくる右目に添えている。その気になれば、そのまま親指をねじ込んで潰してしまえる。
「ユリオくんっ!!」
鋭い叫び声。羽交い絞めにしようと脇に滑り込んできたフルエットの腕は、冗談みたいに細くて。きっと必死に引きはがそうとしているのだろうけど、ユリオの体はそよ風に吹かれた木の葉ほどもビクともしない。そんな風にほとんどすがりつくみたいにしながら、フルエットが切羽詰まった声をあげる。
「やめろ、やめるんだ……!」
「なんっ、でだよ! こいつ、こいつは……! おまえのことを好き勝手……!」
腕と手はそのまま、背後に向けて吠える。
二人の間に、何があったのかをユリオは知らない。否、たとえ何があったとしても。今ここでフルエットのことを商品だの呪われただの、散々に貶めたこの女が許せなかった。頭が、そして指の先に至るまでが、燃えるように熱い。それでも異類の姿をとらないだけ、まだ自制できているつもりだった。
いいから、と。しぼり出すような声と共に、フルエットの細い指先がユリオのシャツを引っぱる。その声と感触に、ユリオは破れるほどに唇を噛んだ。
「なんでおまえは平気なんだよ! こんな言われて、なんで怒らないんだよ!?」
シャツの下で盛り上がりかけていた背中に、頭がぐっと押し付けられる感覚。やめてくれと、震えて掠れた声が言う。
「お願いだ……ゼフィは、今でも私の……」
じわ、と。シャツが微かににじむ。そうして感じた冷たさに、ユリオは氷水を頭からぶっかけられたような錯覚を覚えた。瞬く間に冷え固まった熱が、腹の奥底へと重く沈んでいく。
「……っ」
ゼフィを抑えつけ、押しつぶそうとしていた両腕をどける。
瞬間、ゼフィは激しく咳きこんだ。喉を抑え、目じりに涙を浮かべ、何度も何度も。しまいにはえずきすらしたその姿に、ユリオは少しだけ胸がすっとするのを感じていた。フルエットには、悪いと思ったけれど。
そして、咳とえずきがようやく収まった途端――
「――はっ」
目じりの涙はそのままに、ゼフィが突然嗤いだす。かと思うと、ユリオは突き飛ばされていた。
背中にしがみついたままだったフルエットも巻き添えをくらって、二人まとめて床に転がる。背中をしたたかに打ち付けてうめく二人を、ゼフィはソファのアームにしがみつくようにして見下ろしていた。
「ほんの数日のうちに、よくここまで忠実に仕込んだものですね。餌付けでもしましたか? それとも、口にはできないような褒美でも与えましたか? ああそういえば、先日の時も既に相当手なづけているようでしたね」
二人を鼻で笑う彼女の握る拳が、白くなっている。
「これほど凶暴で忠実な飼い犬、いったい何処で拾ってこられたのです? 罪人でも買い付けてきましたか? それなら首に手綱、いえ命綱が繋がっているようなもの。忠実になるのもうなずけますね。それとも――」
「そこまでだ、ゼフィ」
身体を起こしたフルエットが、ゼフィの口をそっと塞ぐ。ゼフィが目を見開いた拍子に、溜まっていた涙が頬を伝い落ちた。
「私は彼を仕込んでなんかいないし、飼い犬にしたつもりもない。彼は、ただの不幸な行き倒れだよ。私はただ、彼を放っておけなかっただけだ」
フルエットの背中がうつむく。ユリオの位置からは、彼女がどんな顔をしているのかはわからない。
「私のことはいい。だけど、彼まで悪し様に言うのはやめてやってくれ」
「フルエット……」
「だけど、ユリオくん」
肩越しに振り返ったフルエットが、ユリオに鋭い視線を向ける。自分のしでかしたことを今さらのように自覚して、ユリオの背筋がぞっと寒くなる。
「君の先ほどの行いを看過できないのも確かだ。謝って済むものでもないが、とにかくまずはゼフィに謝罪を――」
「……何故なのですか?」
ゼフィが、口を塞ぐフルエットの手を払い除けていた。首を傾げて流れた前髪の隙間から、傷痕らしきものが微かに覗いている。
「何故、こんな」
ゼフィの声は震えていた。
「こんな男を手元に置いて、気遣われて……」
声がうわずり、見開かれた緑の瞳が震える。蛇のように小さくなった瞳孔が、ひどくうるんだ緑が、二人を見つめていた。
「わたくしのことは、お傍に置いてくれなかったのに」
フルエットの肩が揺れた。うつむきがちに視線を逸らしたフルエットが、かきむしるように彼女自身の髪を掴む。絞り出すような声で、
「それは……私のせいで、君に」
「なら、何故? 何故彼はまだここに居るのです? 異類除けにするでもなければ、何故……!」
「っ……!」
次の瞬間、ゼフィはフルエットの肩を掴んでいた。フルエットが痛みにうめくが、ゼフィにその声は届いていない。うわごとのように、「何故」と繰り返すばかりだ。
「おい、お前……!」
「お前は」
引きはがそうと近づいたユリオを、ゼフィの目がどろりと捉える。涙に濡れた緑は、踏み込んだものを全て飲み込む沼のような異様さをたたえている。
「お前はなんなのですか? 何故のうのうと、フルエット様のお傍に居座っていられるのです?」
気づいた時には、ゼフィはユリオの胸ぐらをつかんでいた。
「何の権利があって、お前がそこに居るのです? コマドリと言うなら、飼い犬と言うならまだ理解もいたしましょう。フルエット様は、人恋しいのだと。でも、違うと仰る。ならば、何故? お前のような素性も定かでない者が、何の利ももたらさない者が、何故……!」
ゼフィの手に力がこもり、ユリオの喉が締め付けられる。思わずゼフィを振り払いかけるが、さっきのフルエットの様子に思い留まる。
ぐるん、と。ゼフィの頭が動く。乾いた唇が、青ざめた肌が、フルエットを捉えた。うわずって震えた声が、フルエットを刺す。
「何故なのですか」
「それは……」
フルエットが口をつぐむのを見て、ゼフィの眉がつりあがった。けれどその眉は震えて、あっという間にひっくり返って。息が詰まったような音が、何度も繰り返し繰り返し、彼女の喉から漏れた。
その音はやがて、途切れ途切れの声へと姿を変える。
「ゼフィには……っ、お話し、できないような。理由……なのですか」
「それは……」
フルエットは口ごもり、うつむくだけだった。彼女がそうしてしまう理由が、ユリオにはわかっている。それは、ユリオのせいだからだ。
だから、
「ぼくが」
ユリオはゼフィの前に左腕を突き出していた。
一見して意味のまったくわからない奇行に、ゼフィが震える眉をひそめる。そのかたわらで息を呑むフルエットを、ユリオは一瞥した。
教えてくれたのは、彼女の方が先だった。
ごまかすこともできたはずなのに、それでも彼女が教えてくれたのは、助けてくれたのは、彼女の言葉を借りれば「気になってしまった」から。そして、彼女が気になってしまったのは、今ここに居ることを許してくれている理由は。
深く吸った息を吐き出し、ユリオは告げる。
「ぼくが、フルエットの同類だからだ」
「ばっ――」
フルエットが制止の声をあげた時には、ユリオの左腕はもう淡緑色の外骨格に覆われたハサミへと変化している。
「……!」
悲鳴を抑え込もうとしてか、口元へやったゼフィの右手はわなないていた。瞳孔が消えたかと思うほどに小さくなって、やがて全身を駆け巡り始めた震えを抑え込むように、彼女は背中を丸めてうずくまった。それでも左手がまだ、ユリオの胸ぐらを掴んだままでいる。
「ゼフィ、おい!?」
顔をひきつらせたフルエットが、気遣わしげに彼女の背中に触れる。ユリオをキッと睨めつけた眼差しは、刺すように鋭い。
「どうして見せた!?」
「ごめん。でも――」
ゼフィが突然身体を起こす。
彼女は笑っていた。見開いた右目から、前髪の奥から涙をあふれさせ、歯を食いしばるようにして笑っていた。
その凄まじさに、ユリオの背筋がぶわりと粟立つ。息が止まり、視線が釘付けになる。そのせいで、彼女が右手に何か握っていると気づくのが遅れた。掌に収まるくらいの、上下二連の丸穴を覗かせたそれは――
小型の拳銃が火を噴く。
「っ、ぐぁ……!?」
脇腹を焼けるような痛みが走る。たまらずうずくまったユリオの顔面を、フルエットを振り払ったゼフィの右拳が強打する。不意をうたれて、ユリオは床に転がった。
「なっ……!?」
ただでさえ色白の肌を青ざめさせたフルエットが、ユリオを抱え起こす。その間に、ゼフィは立ち上がって駆け出していた。部屋を出て行く寸前に立ち止まり、振り返った彼女が口を動かすのがユリオにも見えた。耳元で響くサーっという音がうるさくて、彼女がなんと言っているのかはわからなかったけれど。
「ゼフィ、待ってくれ!」
「う……ぐっ」
ゼフィを追って立ち上がりかけたフルエットは、しかしユリオのうめきに足を止めた。額に汗をにじませた彼女が、こわばった目つきでユリオを見る。
「ユリオくん、傷は!?」
「ぅ……だ、大丈夫。弾は……っ、たぶん、かすっただけだ」
「かすっただけって……! 君、出血してるじゃないか!」
フルエットの言う通り、銃弾がかすめた脇腹は出血していた。焼けるような痛みもまだ残っている。けれど異類の身体にとって、この程度はかすり傷の範疇だ。狩人の聖火銃ならともかく、普通の銃弾を一発や二発受けた程度では異類は死なない。動くのだって問題ない。
「こんなの……っ、平気だ。それより、ゼフィは!?」
自分の髪を握り締めるようにして、フルエットが唇を嚙みしめる。うつむいて、絞り出すような声で彼女は言った。
「追いかけよう。おそらくゼフィは、教会に行って君を異類として告発するつもりだ。それだけは避けないと……!」
だがフルエットによれば、ゼフィはいつも車でこの家まで来ていたらしい。今日もそうだとすれば、走って追うのは無理だろう。
「そうだ、二輪なら……!」
納屋へ向かおうと立ち上がったフルエットが、ユリオに手を伸ばす。一瞬の思案の後、ユリオはその手を取らずに立ち上がった。左腕を人間のソレに戻すと、脇腹を軽く押さえ、顔をしかめながらフルエットに問う。
「この辺りって人は来るのか?」
「いいや。だから私はここに住んでる。来るのは郵便か、それこそゼフィくらいだ」
「だったらぼくは先に行く。フルエットはバイクで追っかけてこい!」
きょとんするフルエット。けれど次の瞬間、ユリオの言わんとするところを察したのか、彼女は声をうわずらせた。
「君、まさか――」
「一枚ダメにしてごめん!」
言うが早いか、ユリオは玄関へ向かって駆け出した。開け放たれた扉からは、小さくなっていくオープンカーの後ろ姿と土埃が見える。
異類であることが告発されれば、自分はともかくフルエットに迷惑がかかる。それだけは、絶対に避けなければならない。
シャツの背中が張り詰めるほどに膨れ上がり、限界を迎えた生地が音を立てて裂ける。裂け目から飛び出したのは、淡く鋭い緑の三角翅だ。
「待てよ……!」
ポーチの床を全力で蹴る。ユリオの体は地面スレスレの低空を斬り裂いて、滑るように翔けだした。
地面が剝き出しの道をまっすぐに、しかし荒々しく走るゼフィの車に追い付くまでにそうはかからなかった。
車の左に並走する格好となるや否や、ユリオは運転席へ飛びかかろうとした。けれど背中にすがりついたフルエットの声がよみがえって、舌打ちと共に思いとどまる。そんなことをすれば、車が止まっても大惨事は免れない。それでゼフィの身に何かあれば、きっとフルエットは悲しむだろう。
だから代わりに、涙を置き去りにしながら運転するゼフィの横顔に向かって叫ぶ。
「おいおまえ! 車止めろ!」
その声を聞いて、ゼフィははじめてユリオが追ってきたことに気づいたようだった。隣と正面へ視線をせわしなく行き来させながら、引きつった声をあげる。
「おっ……お前、銃は!?」
「あれくらいなんともない! そもそもかすっただけだ!」
「っ、化け物め……なら!」
ゼフィがギロリとユリオを睨みつける。かと思うと、彼女は突然ハンドルを切った。疾走する鋼鉄の塊が、土埃をあげてユリオに激突する。
「ごがっ!?」
ユリオの視界と意識が激しく揺さぶられる。先ほどのへたくそな銃撃よりも遥かに重い痛みが、全身を砕かんばかりに襲いかかった。飛んでいるがためにふんばりのきかない身体が吹き飛ばされ、道の左斜面に広がる森の中へ突っ込む。
全身を枝葉にぶつけて切り裂かれた挙句、堅くごつごつとした幹に勢いよく叩きつけられた。衝撃で肺の中が空っぽになり、喘ぐように悶えながら下草の上に落下。
「こ、の……!」
くらつきを振り払うように頭を振る。獣のような姿勢から、ユリオは再び翅を動かした。刺すような痛みが背中を走ったが、今は気にしていられない。木々の間を飛ぶのには慣れていないから、枝から枝へ跳び移るような飛び方で森を抜ける。
見えなくなりかけていた後ろ姿を、再び追跡。同じ手を食わないように、今度は後ろから接近――。
「お前、まだ……!」
バックミラーにユリオの姿を認めたのか、ゼフィが車の速度を上げる。逃がすものかと、ユリオもまた速度を上げた。そのせいだろう。服の下の体はどんどんと淡緑色へと変じていく。異類だと告発されないために異類の力を引き出す皮肉を、今は吐き捨てるように笑うしかない。
距離が縮まる。
「つかまえ、たぁ!」
右手が、車体後部の畳まれた幌をつかんだ。しかしその直後、車はさらに加速する。それどころかユリオを振り落とそうと、わざと蛇行すら始める始末。時おり振り返って後ろを確認するゼフィは鬼気迫る表情で、振り落とされようものならバックで轢き潰してきそうなほど――否、間違いなくそうするだろう有様だった。
右へ左へと振り回されながら、それでもユリオは幌をつかんで離さない。何度目か振り返ったゼフィが、首筋を引きつったように張り詰めさせて叫んだ。
「何故……どうしてフルエット様は、お前のような化け物をお傍に……!」
「……っそれはぁッ!」
ハサミを幌に突き立てる。布が裂け骨の折れる音が、悲鳴のようにほとばしった。血管を激しく駆け巡る血の音が耳鳴りめいて頭の中に響くのを感じながら、ユリオは叫ぶ。
「ぼくが化け物だからだよ!」
「ふざけ……っ、そんなはずあるわけないでしょう! お前など……異類など居なければ、フルエット様は!」
ほとんど白目に見えるくらいに目を見開いたゼフィが、左手をハンドルから離した。ユリオのハサミを幌から引き抜こうと手を伸ばしてくる。
その間、当然ゼフィは前を見ていない。見えるわけがない。
「ばかおまえ、前見ろ!」
だから、ユリオに見えているものが、彼女には見えていなかった。道の方がそれを避けて敷かれるほどに大きな、車よりふたまわりは大きな岩が。
「ッ!」
振り返ったゼフィが、叩きつけるようにハンドルをきる。剥き出しの地面を噛んだタイヤが、耳を聾するほどに激しく叫んだ。
速度のままに揺さぶられる視界に、ユリオはゼフィがハンドルを誤ったことを悟る。あろうことか左へ、すなわち森へ続く斜面に向かって、ゼフィはハンドルを切ってしまったのだ。
ユリオを振り落とそうと過剰な速度を出していた車体は、簡単に制御を失う。幌にハサミを突き刺したユリオごと、ハンドルを握るゼフィごと、車は斜面を転がって、森の中へと突っ込んでいく。
「くそっ……!」
ハサミを引き抜いて、ユリオはゼフィに飛びついた。暴れる彼女を無理やり包むような体勢を取った瞬間、後頭部に衝撃。
目から火花が散って、ユリオの意識はぶつりと途切れた。
「よりにも……よってっ、こんな時に、ガタが……!」
エンジンのかからないバイクを納屋に置き去りにして、フルエットはタイヤ痕の刻み込まれた道を、息を切らせて走る。
こんなことならユリオに抱えてもらうなり、背中に乗せてもらうなりしておくべきだった。いやそもそも、イルーニュでかかりが悪かった時に整備工のところへ持っていくべきだった。後悔が、走り慣れない足と一緒になって痛みを訴える。
「どうして、私は……!」
止められなかった? 異類の身体であることを明かそうとしたユリオを、家を飛び出していくゼフィを。頭がずきずきと痛むのは、酸素が足りないせいだろうか。それとも、胸の中で棘のように凝り固まっていく罪悪感のせいだろうか。
どうして。
頭が痛むたび、部屋を出て行く寸前にゼフィの呟いた言葉が、うずくように虚空から響く。ずきり。どうして。ずきり。どうして。
このまま走り続けても、追い付けないことはわかっている。それでもユリオがゼフィを止めてくれていることを祈って、フルエットは足を動かし続けた。ユリオもとゼフィとも、こんな別れ方はしたくないから。
走り続けるうちに、タイヤ痕が不自然な蛇行を始めたことにフルエットは気づいた。背筋を走る寒気に、フルエットは息切れで目まいのする体に一層の力をこめて走る。
そして、フルエットは見た。
「あ……」
大岩の前で、タイヤの跡が森へ続く斜面に向かって曲がっているのを。斜面の草が、重たく大きな何かが上を転げていったように、ところどころ剥げているのを。
しかし、フルエットには見えなかった。ゼフィの車も、ゼフィも、そしてユリオも。
地面に引きずり込まれるかのように、フルエットの全身が重くなる。痛いほどに激しく跳ねまわる心臓のせいで、視界が揺れてぼやけていく。
心臓の音と荒い息遣いに支配されていく世界の中、西の空が赤く染まっていく。