ランバーの店がある通りを、フルエットはまっすぐ奥へと進んでいく。
T字路に出たところで左へ折れ、やはりまっすぐ。途中で水路を越えてもう少し進んだ先で、道が石畳から剥き出しの白土へと変わる。その辺りで、黒い石壁の向こうに白亜の鐘塔が見えてきた。
年月が風雨の跡となって刻みこまれた石壁をぐるっとまわって、埋め込まれるような形で据えられた正門をくぐる。この瞬間は、いつも背筋が伸びる。フルエットが血の娘なせいだろうか。
門を抜けてすぐ目と鼻の先には、白い石造りの教会堂がある。記念塔の完成と前後して立て直されたソレは、石壁とは違って真新しい清廉な白をしている。入口に掲げられた波打つ十字も、灯されたばかりの火のようにまっさらだ。
しかし、用があるのは教会堂にではない。
その時、近くで「ギッ」と木のきしむ音がした。反射的に振り向いた先には、木箱を積んだ荷車を引く神父の姿がある。くすんだ灰色の髪に、切れ長の目。見覚えのない顔だが、最近よそから派遣されてきた神父だろうか。
神父の方もフルエットに気づき、荷車を引く手を止めて声をかけてくる。
「お嬢さん、どうされました?」
「あの、ガスパール神父は今どこに?」
「ああ、彼ならさっき中庭に居ましたよ。ニガヨモギに水やりをしているところだったかと」
「そうですか、ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げて、フルエットは中庭の方へと向かった。
さんさんと日光の降り注ぐ中庭の隅に、ニガヨモギの小さな畑がある。ブリキのじょうろでそこに水を撒いているのは、祭服姿の小柄な老人だ。
終わるまで待つつもりでフルエットが立ち止まると、神父は水やりの手を止めて振り返った。彼女の姿を認めるや、鉤鼻の目立つ老人の顔に柔和な笑みが浮かぶ。
「スピエルドルフさん、ようこそお出でになりましたね」
「ご無沙汰しています、ガスパール神父」
「水やりをしながらでも?」
「ええ、もちろん」
ガスパール神父は畑に向き直り、水やりを再開した。じょうろを左右にゆっくりと振って水を撒きながら、神父が問う。
「また、異類が出ましたか」
「先日、フクロウが一匹。他の異類と争ったのか、片翼が切断されていました。追う際の手がかりになるかと」
ユリオに関わる部分はごまかして、あの夜のフクロウの異類のことを伝える。死なないだけで異類を撃退できるだけの力を持たず、異類除けの香も使えない彼女は、襲われるたびにこうして教会へ報告に来ていた。そうして教会の狩人――異類狩りの聖職者たちを派遣してもらい、狩ってもらう。それが、彼女の身の守り方だった。
フルエットの報告に耳を傾けながら、「ふむ」とガスパール神父は重たい声をこぼす。
「ここしばらくは落ち着いていたようでしたが……残念です。貴女も災難でしたね」
じょうろの水の勢いが弱まっていく。やがて雫がぽたりぽたりと落ちてそれっきりになるのを、神父は眺めていた。
「以前にもお聞きしましたが、街へ移り住むおつもりはないのですか? 教会の記録と比べてすら類を見ないほど、貴女は異類を惹きつけやすい。いつまでも香頼りというのは、不安ではないですか?」
「私のようなものが街で暮らしては、迷惑でしょうから」
もう何度目かになる神父の提案に、フルエットはいつものように笑って首を横に振った。
血の娘であることは、もちろん伝えていない。しかし異類を惹きつけやすい体質であることだけは、実家から教会へと申告が行われている。幸いと言っていいものか、ただ単に惹きつけやすいというだけなら、過去にもいくつか例がある。フルエットのソレは神父の言う通り、過去の例とは比較にならないほどのものではあるが。
何度提案しても頑ななフルエットの態度を、ある種の自己犠牲的なものと捉えているのだろうか。肩越しに振り返った神父は、微かに表情を曇らせていた。
「……ああ、そうでした。以前お渡しした香が、そろそろなくなる頃でしょう。新しいものをご用意しますから、持っていってください」
「感謝します」
「すぐに持ってきますから、少しお待ちください」
空になったじょうろを畑の脇の木製ラックに片付けたガスパール神父は、教会堂の方へ向かいかけて立ち止まる。
「その間に、たまには礼拝もいかがですかな」
「せっかくですが……」
余所行きの曖昧な笑みを浮かべて、フルエットは提案をそっと辞退した。教会堂の中は、異類除けの香の臭いがいつも漂っている。フルエットにとっては、入るだけでも拷問のような場所だ。
神父は残念そうに目を伏せると、そのまま教会堂へと入っていった。
待っている間、フルエットは畑のニガヨモギを眺めていた。この畑自体はガスパール神父が個人的に育てているものだが、どこの教会にも必ずひとつは教会所有のニガヨモギ畑があるらしい。なにせ異類除けの香の原料になるのだ、どれだけあっても困ることはない。
「……嫌になるな」
ため息をつく。
フルエットは、ニガヨモギが嫌いだった。より正確には、ニガヨモギを使って作られる香の臭いが。
たいていの人間は、何とも思わない香りだ。異類を遠ざけてくれるものだから、香りさえもありがたがる者の方が多いくらいだろう。例外が居たとしても、せいぜい好みに合わないというくらいのものだ。
しかし彼女の場合、臭いがしただけで目眩はするし頭は痛むし、息苦しくなったあげく、ひどいと発熱すらする。身体が香を受け付けないのだ。だから彼女は、異類除けの香を使えなかった。今の家で暮らし始めた頃には、そのせいで取り返しのつかないことになりすらした。
あるいはこれも血の娘という、人であって人を外れた存在であるせいなのだろうか。
そんなことをぼんやり考えていると、「お待たせしました」と声がかかる。ガスパール神父から手渡された紙袋には、香にくわえて香を練り込んだキャンドルまでもがたっぷりと入っていた。ずっしりと重い紙袋の口から、微かに臭いが漂ってくる。
「ありがとうございます、神父様」
顔をしかめたくなるのをこらえて作り笑いを浮かべるのも、もう慣れたものだ。本当ならば受け取りたくもないが、それはさすがに不自然だ。だから、受け取ったうえで死蔵しておくしかない。そんなフルエットの内心は露知らず、神父が人の良い笑みを浮かべる。
「いえいえ。貴女の身を護るお役に立てば、何よりです。……ああ、そういえば」
「どうされました?」
神父は浮かべていた微笑みを消し、重たい鼻息と一緒に眉根を寄せた。良い話ではなさそうだと眉をひそめるフルエットに、重々しい声で囁くように告げる。
「先日のことですが。ヴィヨンヌ近くの森で、複数の異類が廃墟に住み着いていたのが発見されたそうです」
「群れ、ということですか?」
「いえ。種類は鳥にヒルに、虫に……群れにしては不自然なことに、種類はバラバラだったそうで。それにくわえて、狩人たちも初めて目にする混種がほとんどだったとか」
神父の言葉に、フルエットはかすかに目を見開く。
――年や種類はバラバラだったけど、みんなぼくと同じだった。
ユリオがホットチョコを飲みながらこぼした言葉が、脳裏をよぎる。特に虫の異類が居たというのが、あまりにもユリオを想起させる。彼と仲間たちが、何処に居たのかまでは聞いていない。だが、あるいは?
不吉な予感に頭のてっぺんがチクチクするのを感じながら、不自然にならないように神父に質問……いや、確認する。
「その異類たちは、狩人様たちの手で……もう?」
「ええ。ですが一匹……虫の異類だけが、狩人たちの手を逃れて今なお逃走中だそうです。見失う直前まで捕捉していたルートから考えると、イルーニュ近辺にたどり着いていてもおかしくないのだとか」
抱える腕に力がこもった拍子に、紙袋が音を立てた。種類がバラバラの異類たちの中から、一匹だけ逃げおおせた虫の異類。間違いない、ユリオのことだ。
すると、ガスパール神父が不意に笑みを浮かべた。逃げた異類に襲われやしないか、フルエットが不安がっているとでも思ったのだろう。人を元気づけようとするための、少しわざとらしいくらいにゆったりとした笑顔だった。皺だらけのごつごつとした手が、そっと波打つ十字を切る。
「ご心配なく。その異類を見つけ出そうと、狩人たちが今も動いておりますから。遠からず、その虫の異類も狩りだされることでしょう」
「ええ。一刻も早くそうなることを祈っています」
喉につまった目には見えない塊を飲みこんで、フルエットは顔に笑みを貼り付けた。
……ユリオの逃走劇は、まだ終わってはいなかったのだ。