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Ⅴ/イルーニュにて

ー/ー



 フルエットの自宅から最寄りの街は、その名をイルーニュと言う。
 朝食の片付けが済んだ後、ユリオはフルエットの二輪――正確にはその右にくっついた大型トランク付のサイドカー――に同乗してイルーニュの街へと向かうことになった。ユリオの服に二人ぶんの食料と、調達しておかなければならないものが多々あったからだ。
 そういうわけで二人は今、イルーニュの通りを二輪で走っている。歩道に沿うように、ゆっくりと。
 気になるならと渡された帽子を目深に被った下から、ユリオはイルーニュの街並みを眺めていた。フルエットが二輪をゆっくり走らせているのも、きっと街並みを見せようとしてくれているからなのだろう。
 石畳できれいに舗装された広い通りを、いくつもの車や馬車が通り過ぎていく。そんな中を、タイミングを見計らって横切っていく人も居た。
 歩道に目を向ければ、ユリオと同じような帽子にくたびれたジャケット姿の男や、今日のフルエットと似た服装の女性たちの姿が見える。似たと言っても、袖はフルエットの様に長くはない。流行りというわけではないらしい。
「なあ、フルエット。なんでお前の服って、袖がそんな長いんだ?」
「そりゃあ君、私はその方が好きだからだよ」
「……そっか」
 あごを撫でながら、視線を通りに戻す。コートに背の高い帽子姿でステッキを手にした男性と、日傘を差してその隣を歩くドレス姿の女性の姿があった。その脇を、紙束の詰まった袋を肩にかけた少年たちが走っていく。売りつけようとしているのか、紙束を高々掲げてさっきの男女に声をかけていた。新聞売りなのだろう。
 歩道を行き交う人々の向こうには、赤や白のレンガ造りにオレンジの三角屋根の建物や、真っ白な石造りのアパートがずらりと連なっている。そんな中に時々混ざる青のレンガで作られた建物が、鮮やかにユリオの目を引いた。一階が何かのお店になっているようだから、まさに人目を引くためにそんな色遣いをしているのだろうか。ユリオがそうだったように。そういえば、他にも一階が店になっている建物が多い。ここが人通りの多い道だからなのだろうか。
 そうやって眺めているうちに、通りが一度途切れた。交差点だ。二階席に乗客を満載した二階建てバス(ダブルデッカー)が、二人に影を落としながら左から右へと横切っていく。
 その間、ユリオは通りの左右をきょろきょろと見まわしていた。するとダブルデッカーがほとんど通り過ぎたくらいの頃、交差点を左へ行った奥にある物が目に入った。我知らずのうちに視線が吸い寄せられ、ユリオはサイドカーから軽く身を乗り出してしまう。
 ソレは、一基の塔だった。
 周りのどんなものよりも背が高くて、外壁は真っ白。頂上の辺りは深めのお皿をふたつ重ねて、たくさんの窓をぐるっとつけたみたいになっている。
「フルエット、あれなんだ?」
「ああ、あれは大火記念塔だよ。……っと君、ちゃんとシートに座りたまえ。危ないだろう?」
「あ、ごめん。えっと、大火記念塔って?」
「十数年前、この街は大火に見舞われたそうなんだ。あの白い塔は、大火の被害からの復興を記念して建設されたものなんだってさ。完成したのは、私があの家に住み始めたくらいだったかな」
「へえー……」
 説明を聞きながらぼんやり塔を眺めていると、「気になるのかい?」とフルエットの声が言う。
 直後、景色が交差点を左へと流れる。ハッと我に返ったユリオが振り向くと、フルエットがハンドルを左に切っていた。
「待てよ。ぼくはべつに、行きたいなんて」
「いいよいいよ。日が暮れ始める前に帰ればいいんだから、少しくらい寄り道しても平気さ。それに、行きたい店のひとつがこっちにあるからね」
 店だって逃げやしないのだし、とフルエットは平気な顔だ。そのまま、塔のふもとへバイクを転がしていく。
 近づくにつれて高く大きくなっていく塔を目の当たりにして、ユリオの体は自然と前のめりになっていった。少しでもよく見ようと、帽子のつばも持ち上がる。
「すげ……」
 ふっ、とフルエットの笑う声がする。
「この辺りで一番背の高い建物だからね。気になるのも、興奮するのもわかるよ。けど、それは危ないからやめたまえよ」
「えっ? ……あっ」
 言われて初めて、ユリオは自分がサイドカーのフロントガラスに手をかけていることに気が付いた。何も言われなければ、また身を乗り出してしまっていたかもしれない。なんなら、既に腰が浮きかけている。
 すごすごと大人しくシートに戻ると、そのうち通りの突き当りに到着した。真下から見上げる記念塔は、空にまで届きそうなくらいに高く、そして堂々とそびえていた。
 呆けた顔で塔を眺めているユリオに、フルエットが二輪を停めて声をかける。
「ユリオくん、降りるよ。登ってみようじゃないか」
「えっ、登れるのか?」
「頂上のところが展望台になっていてね、入場料さえ出せば誰でも登れるんだ。イルーニュの街が一望できるし、もっと遠くも眺められるよ」
「へぇ……」
 思わず声のトーンが上がってしまったのを自覚して、ユリオは小さく咳払いをした。先にバイクを降りたフルエットを追いかける。しかし彼女は、塔のふもとの石造りの門を前に怪訝な顔をしていた。
「どうした?」
「おかしいな、いつもなら門番が立っているはずなんだが」
 口元に手をやって、目を細めるフルエット。確かに小さな門の周囲には誰も居らず、門自体も閉ざされている。パッと見、入れるようには思えない。
 きょろきょろと周囲を見回したユリオは、門の端っこに一枚の木札がぶら下がっているのに気づいた。お盆くらいの大きさで、ペンキで何か書かれているようだ。
「フルエット、あれ」
「おや、何か出ているね」
「――あの」
 そこで声をかけてきたのは、通りがかりの青年だった。枯草色の短髪にハンチングを被った彼は、買い物帰りなのか紙袋を抱えている。
「記念塔なら、ついこの間から閉まってるよ。ほら、雨が続いてただろ? あれで屋根がやられちゃったとかで、今は修理の人しか――あれ、フルエットさん?」
 青年がおもむろに、片手で帽子の位置を整える。名前を呼ばれたフルエットは、ひらりと手を振って笑いかけた。
「親切な通りすがりかと思えば君か、ジェラール。買い出しかい?」
「うん。おや……父さんに頼まれてさ。フルエットさんはどうしたの?」
「私もちょっとした買い物でね。そのついでに記念塔へ寄ろうと思ったんだが」
「それはタイミングが悪かったね。……っと、そっちの彼は?」
 ジェラールと呼ばれた枯草色の髪の青年が、ユリオに気づいて視線を投げかけてくる。反射的に、ユリオは帽子のつばを下ろしていた。そんな彼の様子に、フルエットが首をすくめる。つばを上げるように指先でユリオに示しながら、
「すまない、ジェラール。彼は少々人見知りでね。ユリオくん、こちらジェラール。私の作った服を街の衣料品店で買い取ってもらっている、って話はもうしたっけ? 彼の御父上のお店が、まさにそうでね。ジェラール、こちらユリオくん。先日できた居候だ」
「居候?」
「まあ、色々あってね。歳も近いことだし、仲良くしてあげてくれ」
「もちろん。よろしく、ユリオ」
 ジェラールが、ハンチングを掲げて微笑む。
「えっと……よろしく」
 ユリオもとりあえずそれの真似をして、素早く帽子を掲げてすぐに戻した。顔を見られて異類の身体だとわかるようなものではないけれど、どうも落ち着かない。
 紹介とあいさつが済んだところで、「今日、お店は?」とフルエットがジェラールに声をかける。
「もちろんやってるよ。納品?」
「いや、今回は買う側でね。ユリオくんの服をいくつか」
「ああ、そういうこと。もちろん、フルエットさんなら売るのも買うのも大歓迎だよ」
 そういうわけで、三人はその足でジェラールの父親の店へ向かうことになった。サイドカー込みでもバイクに三人乗るわけにはいかないから、歩道を歩くジェラールの隣を、彼に合わせたペースでバイクを転がしていく。
 通りを少し戻って、「ナテール通り」と刻印された看板のかかったアーチをくぐる。そのまましばらくまっすぐ進み、少しくすんだオレンジのレンガ造りの店の前まで来たところで、一行は足を止めた。
 飾りっ気のない白のペイントが施された一階部分には、チョッキを模した小さな看板がぶら下がっている。雨の跡が少し残ったガラスの向こうでは、壁一面だけでなく天井にまでぶら下がった服が、布のアーチを形作っていた。それが店の奥まで続いている。
 ジェラールが扉を開けると、カラカラとベルが鳴った。彼の後ろにフルエットが、その後ろにユリオが続いてドアをくぐる。
「父さん、フルエットさんが来てくれたよ」
 店の奥、黒々とした木製のカウンターの向こう。そこに座って新聞を読んでいた男が、ジェラールの声に顔を上げた。白髪交じりの枯草色の髪に、がっしりとした体つき。服屋よりは工房の鍛冶屋か何かのような印象だ。
「おう、いらっしゃい。……そっちのは?」
 フチなしの丸眼鏡をくいと持ち上げた男の視線が、ユリオを捉える。目をこらした彼の顔つきは、昔ユリオがパンを盗んで捕まって、しこたまぶん殴られたパン屋のオヤジになんとなく似ていた。思わず身構えてしまうユリオよりも先に、フルエットが男に向けて答える。
「やあ、ランバーさん。彼は私の家の居候になったユリオくんと言ってね。今日は彼の服を見繕いに来たんだ」
 フルエットが、すらすらと喋りながらカウンターへ歩み寄る。ランバーは新聞を畳んでカウンターに放り投げると、腕組みして彼女を見た。
「居候、なあ。……まあいいが、お前さんならわざわざ買いに来なくても、自分で作れるだろう」
「それはそうなんだが、まとまった数が必要でね。作るとなると、時間がかかってしまうだろう?」
「そうかい。買ってくれるぶんにはうちとしちゃありがたいし、否やを言うつもりはないが」
 入口に突っ立ったままやりとりを聞いていると、ジェラールに軽く腕を小突かれた。いつの間にか紙袋を置いてきていた彼が、カウンターの方を親指で指す。
「突っ立ってないで、君もあっちに行きなよ。君の服を買いに来たんだろ?」
「あ、ああ。そうだな」
 促されるまま、カウンターの方へ。二人の会話が耳に飛び込んでくるが、服の話であること以外、ユリオにはさっぱりだった。ほとんど聞き流しながら視線をうろつかせていると、カウンターの上の新聞の記事が目に入る。
 血狂い。記事に書かれていた単語を、口の中で呟いた。『人狼”血狂い”は狩人の目を逃れ、今もなお逃走中。新たな犠牲者も』――異類とその被害を報じる記事だ。さして珍しいものではないそれが、ユリオに自分の身体について意識させる。無意識のうちに、帽子のつばを下ろしていた。
「――ユリオくん、聞いてるかい?」
 つばの下から、フルエットのはちみつ色の瞳が覗き込んできた。ビクっと身体が跳ねた勢いで、半歩ばかり後ずさる。
「っえ、な、なにが?」
「やっぱり聞いてなかったんだね。君の服を見繕うのは二人に任せて、その間に私は少し野暮用を片付けてくるよ……って話をしていたんだけど」
「二人? ……あっ」
 ランバーとジェラールのことかと納得し、けれども今度は野暮用の方が引っかかった。正確に言えば、野暮用それ自体ではなくて。
「……その間、ぼく一人で?」
 緩んでぐらぐらの石畳の上に立っているみたいな、そんな感覚がした。ランバーが、ふんと鼻を鳴らして腕組みする。
「服を選ぶだけだ。取って食いやしねえよ」
「それに服の趣味なら、私よりもジェラールの方が君と合うだろうからね。男の子同士だし、歳も近いはずだし」
「センスに自信があるってわけじゃないけど、少なくとも外したものを選ぶことはないと思うよ」
「お前、そこは自信があるって言えるようになれよ」
「う……、ごめん」
 そんな三人のやりとりを聞きながらも、ユリオの体は少しだけ強張っていた。よく知らない場所に一人残される、という事実が意思とは無関係にそうさせる。
 するとフルエットがシャツの肩を引っぱって、指をくいとやった。近づけということだろうか。体を寄せつつ少し腰をかがめたユリオの耳元に、フルエットが囁く。
「野暮用っていうのは教会だ。置いていくのは私も心苦しいが、君だってついてきたくはないだろう?」
「それは……うん。そうだけど」
 十字架と白い祭服、白い炎が脳裏をちらついて、ユリオは自分の心臓の音が少し大きくなったこと、急に顔の辺りが冷えてきたことに気がついた。
 この身体では、教会にはついていけない。待たせることになるなら、せめて自分の顔なじみが居るところで、というフルエットなりの配慮なのだろう。
「フクロウのことは、伝えないわけにはいけないからね」
「……そう。そうだな」
 かすかに震えるくらいの動きでユリオがうなずくと、フルエットの小さな手がそっと肩を叩いた。二人の方に向けて、パッと笑ってみせる。
「よし、話はまとまった。それじゃあ私が戻ってくるまで、彼と彼の服のことは頼んだよ」
「任せて、フルエットさん」
「ああ、よろしく」
 自分の胸を叩くジェラールにひらりと手を振って、フルエットは店を出ていった。店頭のガラス越しに、二輪を店先に停めたまま歩いていく姿が見える。教会は近いのだろうか。
 さて、とランバーがカウンターの席を立つ。
「任されたからには、きっちりやらんとな」
 彼は眼鏡を別のものに付け替えながら、店内を覆う衣服のアーチへと向かう。
「まずは俺が適当に合いそうなもんを選ぶ。細かく見るのはジェラール、お前がやってやれ」
「うん。ユリオ、こっちに」
 服の壁の切れ目があって、そこに一枚の姿見が置かれていた。そこでランバーの服選びを待っていると、ジェラールがそわそわした目つきで見てくるのに気づいた。姿見の端っこに、さっきからちらちらと映り込んでいる。
 まさか、身体のことに気づかれたのか。黒い絵の具を筆で撒き散らしたみたいな不安がよぎって、ユリオはまた身体を強張らせた。自分が追い出されるだけならともかく、フルエットにまで迷惑がかかったら――。
「あのさ、ユリオ」
 びくりと震えた肩を押さえこみながら、ユリオは横目にジェラールを見やる。心臓の鼓動が、少しずつ早くなっていく。
「な……なんだよ」
「えっと……」
 言い淀んで口元をおさえたジェラールは、恐る恐るといった様子だった。手汗でべったりとしはじめた拳を握り締めながら、ユリオは続く言葉を待つ。じっとりとした間があってから、服屋の青年は続きを口にした。
「居候っていうのはホント?」
「はぁ?」
 ユリオ自身もびっくりするくらい、不審もあらわで素っ頓狂な声だった。ジェラールがぱっと目を逸らし、バツが悪そうな顔で鼻の頭をかく。
「だから、その……君がフルエットさんの家に居候してる、って話。あれ、ホント?」
「そうだけど。それがどうかしたのか?」
 返答には、少しだけ間があった。
「フルエットさんって、確か一人で暮らしてるって言ってたから。急にどうしたのかな、って思っちゃって。……親戚とか?」
「いや」
 ジェラールの表情が、少しだけこわばった気がした。ユリオに向ける視線も、心なしかキツくなったような気がする。睨むというほどではないけれど、それでも確かに瞳の奥からにじむ圧みたいなものを感じて、ユリオは少し怯んだ。
「な……なんだよ」
「じゃあ、いったいどういうわけで……?」
「どういう、って。ぼくは、その……」
 事実は言えない。言えるわけがない。かといって他に何と言えばいいかもわからなかったし、彼がそれを気にする理由もわからない。たまらず、ユリオは口ごもった。ジェラールも別に問い詰めてくるわけではないのだけれど、だからといってユリオへ向ける眼差しに変化はない。
 ごん、と。鈍い音がした。
「あ痛っ!?」
「馬鹿野郎。せっかくの新しいお客を怖がらせてどうすんだ」
 後頭部を押さえて小さくなったジェラールの後ろで、ランバーが拳骨を落とした姿勢のままため息をついた。反対の手には、服が何着か抱えられている。
「ご、ごめん親父……」
「謝るならユリオにだろうが」
 店主はふんと鼻を鳴らして、持ってきた服を息子へ押し付けた。眼鏡越しの視線をユリオに向けると、すまなさそうに眉を落とす。
「悪いな、ユリオ。こいつ、フルエットの嬢ちゃんに――」
「おっ、親父! それは別に言わなくていいだろ!?」
 顔を真っ赤にして慌てふためくジェラールに、ランバーはまたふんと鼻を鳴らすばかり。それよりもと、彼はあごをしゃくってユリオを指した。ハッとなったジェラールが、赤さをごまかすように口元を片手で覆いながら、ユリオに向けて頭を下げる。
「……ごめん、ユリオ」
「すまん。今回のところは許してやってもらえるか」
「や、別にぼくは……」
 二人を交互に見やりながら、ユリオは困ったように頬をかいた。確かに戸惑ったし怯みもしたのだけれど、それよりも体のこととは無関係だったことへの安堵が今は勝っている。するとその様子を許しと解釈したのか、ランバーは礼を言ってカウンターの奥へ向かっていった。
「俺はこっちに居る。似合うかどうかはジェラール、さっきも言った通りお前が見てやれ」
「わかったよ、親父」
「ちゃんとやれよ」
「わかってるって!」
 少し勢いのあるため息をついて、ジェラールはあらためてユリオに向き直った。視線は鏡の方を向いていて、鏡越しにユリオを見る目はしょぼくれている。頬をかいて、ジェラールはまた軽く頭を下げてきた。
「さっきはごめん。それじゃあ、服を見て行こうか」
「……いいって、別に。あいや、服の方は頼む」
 姿見の脇からカゴ付きの丸テーブルを引っぱりだすと、ジェラールは抱えていた服をその上に置いた。上から一着ずつユリオに渡しては鏡に映った姿を確認し、ユリオの反応も見つつ、ふたつに分けてカゴへ放り込んでいく。
「初めて会った時、さ」
 そうしているうちに、鏡の方を見たままジェラールがふと呟いた。
 差し出されたカーキ色のシャツを受け取りながら、ユリオはジェラールの方を見た。鏡を見ろと促され、顔をそちらに戻す。けれども何の話か気になって、今度は横目に視線だけを彼の方へ向けた。たぶん、フルエットのことだと思うのだけれども。
「このシャツ、悪くないと思うけど。君は?」
「えっ? あっ、そう……だな。うん、いいと思う」
 うなずいて、ジェラールはカーキ色のシャツをカゴへ放り込む。次の一着を手に取る前に、彼はふとズボンのポケットへ手を突っ込んだ。そうして取り出したのは、鈍い銀色の光沢を放つ懐中時計。ちゃら、と。チェーンが音を立てて彼の手のひらの上を流れる。
「これ、おふくろの形見なんだけど。チェーンが壊れちゃって、時計屋に持ってこうとしたらスられてさ。気が付いて慌ててたら、フルエットさんが声をかけてくれたんだ」
 懐中時計を見つめるジェラールの視線は、時計の光沢の上に、その日の情景を垣間見ているかのようだった。
「……それが、おまえとフルエットの?」
「そ。事情を聴いて、すぐお巡りさんのところへ話に行ってくれて。スられたタイミングの心当たりや、スッたヤツの特徴まで、丁寧に聞き出してくれてさ」
 懐かしむように語るジェラールの口元には、いつの間にか微笑が浮かんでいる。
「しかもだよ? そのままお巡りさんに任せればいいなのに、一緒になって探してくれたんだ」
 二人の視線が、ジェラールの手の上の時計に注がれる。それがこうして今ここにあるということは、確かに取り戻せたということだ。ジェラールが、懐中時計を親指で撫でながら苦笑を浮かべる。
「優しいっていうか、よくそこまでしてくれたよね。だってその時は俺とフルエットさん、赤の他人だったのにさ」
「……でも、あいつはそういうことするな」
 この数日で我が身に起きたこと、フルエットがしてくれたことをユリオは思い返す。ジェラールの苦笑には、ただうなずくばかりだった。
「君もそう思う? ……まあ結局、何が言いたいかっていうとさ」
 ジェラールは懐中時計を握り締め、ポケットへ戻す。
「フルエットさんは、そういう人だから。フルエットさんを裏切るようなことは、絶対しないでほしいんだ」
「わかってる。……ぼくも、あいつに助けてもらったから」
 その言葉は、まるで世間話をするかのようにするりと口から出た。あまりにもあっさりと言ったものだから、ジェラールは目を瞬かせてユリオをまじまじと見つめたほどだ。
 ややあって、ジェラールが小さく吹き出した。ジェラールの手が、ユリオの肩を叩く。
「そっか。それならいいんだ。ごめんね、いきなりこんな話をして」
「別に」
 ユリオは、少し気が楽になるのを感じていた。ジェラールのことが、少しわかったからだろうか。



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 フルエットの自宅から最寄りの街は、その名をイルーニュと言う。
 朝食の片付けが済んだ後、ユリオはフルエットの二輪――正確にはその右にくっついた大型トランク付のサイドカー――に同乗してイルーニュの街へと向かうことになった。ユリオの服に二人ぶんの食料と、調達しておかなければならないものが多々あったからだ。
 そういうわけで二人は今、イルーニュの通りを二輪で走っている。歩道に沿うように、ゆっくりと。
 気になるならと渡された帽子を目深に被った下から、ユリオはイルーニュの街並みを眺めていた。フルエットが二輪をゆっくり走らせているのも、きっと街並みを見せようとしてくれているからなのだろう。
 石畳できれいに舗装された広い通りを、いくつもの車や馬車が通り過ぎていく。そんな中を、タイミングを見計らって横切っていく人も居た。
 歩道に目を向ければ、ユリオと同じような帽子にくたびれたジャケット姿の男や、今日のフルエットと似た服装の女性たちの姿が見える。似たと言っても、袖はフルエットの様に長くはない。流行りというわけではないらしい。
「なあ、フルエット。なんでお前の服って、袖がそんな長いんだ?」
「そりゃあ君、私はその方が好きだからだよ」
「……そっか」
 あごを撫でながら、視線を通りに戻す。コートに背の高い帽子姿でステッキを手にした男性と、日傘を差してその隣を歩くドレス姿の女性の姿があった。その脇を、紙束の詰まった袋を肩にかけた少年たちが走っていく。売りつけようとしているのか、紙束を高々掲げてさっきの男女に声をかけていた。新聞売りなのだろう。
 歩道を行き交う人々の向こうには、赤や白のレンガ造りにオレンジの三角屋根の建物や、真っ白な石造りのアパートがずらりと連なっている。そんな中に時々混ざる青のレンガで作られた建物が、鮮やかにユリオの目を引いた。一階が何かのお店になっているようだから、まさに人目を引くためにそんな色遣いをしているのだろうか。ユリオがそうだったように。そういえば、他にも一階が店になっている建物が多い。ここが人通りの多い道だからなのだろうか。
 そうやって眺めているうちに、通りが一度途切れた。交差点だ。二階席に乗客を満載した|二階建てバス《ダブルデッカー》が、二人に影を落としながら左から右へと横切っていく。
 その間、ユリオは通りの左右をきょろきょろと見まわしていた。するとダブルデッカーがほとんど通り過ぎたくらいの頃、交差点を左へ行った奥にある物が目に入った。我知らずのうちに視線が吸い寄せられ、ユリオはサイドカーから軽く身を乗り出してしまう。
 ソレは、一基の塔だった。
 周りのどんなものよりも背が高くて、外壁は真っ白。頂上の辺りは深めのお皿をふたつ重ねて、たくさんの窓をぐるっとつけたみたいになっている。
「フルエット、あれなんだ?」
「ああ、あれは大火記念塔だよ。……っと君、ちゃんとシートに座りたまえ。危ないだろう?」
「あ、ごめん。えっと、大火記念塔って?」
「十数年前、この街は大火に見舞われたそうなんだ。あの白い塔は、大火の被害からの復興を記念して建設されたものなんだってさ。完成したのは、私があの家に住み始めたくらいだったかな」
「へえー……」
 説明を聞きながらぼんやり塔を眺めていると、「気になるのかい?」とフルエットの声が言う。
 直後、景色が交差点を左へと流れる。ハッと我に返ったユリオが振り向くと、フルエットがハンドルを左に切っていた。
「待てよ。ぼくはべつに、行きたいなんて」
「いいよいいよ。日が暮れ始める前に帰ればいいんだから、少しくらい寄り道しても平気さ。それに、行きたい店のひとつがこっちにあるからね」
 店だって逃げやしないのだし、とフルエットは平気な顔だ。そのまま、塔のふもとへバイクを転がしていく。
 近づくにつれて高く大きくなっていく塔を目の当たりにして、ユリオの体は自然と前のめりになっていった。少しでもよく見ようと、帽子のつばも持ち上がる。
「すげ……」
 ふっ、とフルエットの笑う声がする。
「この辺りで一番背の高い建物だからね。気になるのも、興奮するのもわかるよ。けど、それは危ないからやめたまえよ」
「えっ? ……あっ」
 言われて初めて、ユリオは自分がサイドカーのフロントガラスに手をかけていることに気が付いた。何も言われなければ、また身を乗り出してしまっていたかもしれない。なんなら、既に腰が浮きかけている。
 すごすごと大人しくシートに戻ると、そのうち通りの突き当りに到着した。真下から見上げる記念塔は、空にまで届きそうなくらいに高く、そして堂々とそびえていた。
 呆けた顔で塔を眺めているユリオに、フルエットが二輪を停めて声をかける。
「ユリオくん、降りるよ。登ってみようじゃないか」
「えっ、登れるのか?」
「頂上のところが展望台になっていてね、入場料さえ出せば誰でも登れるんだ。イルーニュの街が一望できるし、もっと遠くも眺められるよ」
「へぇ……」
 思わず声のトーンが上がってしまったのを自覚して、ユリオは小さく咳払いをした。先にバイクを降りたフルエットを追いかける。しかし彼女は、塔のふもとの石造りの門を前に怪訝な顔をしていた。
「どうした?」
「おかしいな、いつもなら門番が立っているはずなんだが」
 口元に手をやって、目を細めるフルエット。確かに小さな門の周囲には誰も居らず、門自体も閉ざされている。パッと見、入れるようには思えない。
 きょろきょろと周囲を見回したユリオは、門の端っこに一枚の木札がぶら下がっているのに気づいた。お盆くらいの大きさで、ペンキで何か書かれているようだ。
「フルエット、あれ」
「おや、何か出ているね」
「――あの」
 そこで声をかけてきたのは、通りがかりの青年だった。枯草色の短髪にハンチングを被った彼は、買い物帰りなのか紙袋を抱えている。
「記念塔なら、ついこの間から閉まってるよ。ほら、雨が続いてただろ? あれで屋根がやられちゃったとかで、今は修理の人しか――あれ、フルエットさん?」
 青年がおもむろに、片手で帽子の位置を整える。名前を呼ばれたフルエットは、ひらりと手を振って笑いかけた。
「親切な通りすがりかと思えば君か、ジェラール。買い出しかい?」
「うん。おや……父さんに頼まれてさ。フルエットさんはどうしたの?」
「私もちょっとした買い物でね。そのついでに記念塔へ寄ろうと思ったんだが」
「それはタイミングが悪かったね。……っと、そっちの彼は?」
 ジェラールと呼ばれた枯草色の髪の青年が、ユリオに気づいて視線を投げかけてくる。反射的に、ユリオは帽子のつばを下ろしていた。そんな彼の様子に、フルエットが首をすくめる。つばを上げるように指先でユリオに示しながら、
「すまない、ジェラール。彼は少々人見知りでね。ユリオくん、こちらジェラール。私の作った服を街の衣料品店で買い取ってもらっている、って話はもうしたっけ? 彼の御父上のお店が、まさにそうでね。ジェラール、こちらユリオくん。先日できた居候だ」
「居候?」
「まあ、色々あってね。歳も近いことだし、仲良くしてあげてくれ」
「もちろん。よろしく、ユリオ」
 ジェラールが、ハンチングを掲げて微笑む。
「えっと……よろしく」
 ユリオもとりあえずそれの真似をして、素早く帽子を掲げてすぐに戻した。顔を見られて異類の身体だとわかるようなものではないけれど、どうも落ち着かない。
 紹介とあいさつが済んだところで、「今日、お店は?」とフルエットがジェラールに声をかける。
「もちろんやってるよ。納品?」
「いや、今回は買う側でね。ユリオくんの服をいくつか」
「ああ、そういうこと。もちろん、フルエットさんなら売るのも買うのも大歓迎だよ」
 そういうわけで、三人はその足でジェラールの父親の店へ向かうことになった。サイドカー込みでもバイクに三人乗るわけにはいかないから、歩道を歩くジェラールの隣を、彼に合わせたペースでバイクを転がしていく。
 通りを少し戻って、「ナテール通り」と刻印された看板のかかったアーチをくぐる。そのまましばらくまっすぐ進み、少しくすんだオレンジのレンガ造りの店の前まで来たところで、一行は足を止めた。
 飾りっ気のない白のペイントが施された一階部分には、チョッキを模した小さな看板がぶら下がっている。雨の跡が少し残ったガラスの向こうでは、壁一面だけでなく天井にまでぶら下がった服が、布のアーチを形作っていた。それが店の奥まで続いている。
 ジェラールが扉を開けると、カラカラとベルが鳴った。彼の後ろにフルエットが、その後ろにユリオが続いてドアをくぐる。
「父さん、フルエットさんが来てくれたよ」
 店の奥、黒々とした木製のカウンターの向こう。そこに座って新聞を読んでいた男が、ジェラールの声に顔を上げた。白髪交じりの枯草色の髪に、がっしりとした体つき。服屋よりは工房の鍛冶屋か何かのような印象だ。
「おう、いらっしゃい。……そっちのは?」
 フチなしの丸眼鏡をくいと持ち上げた男の視線が、ユリオを捉える。目をこらした彼の顔つきは、昔ユリオがパンを盗んで捕まって、しこたまぶん殴られたパン屋のオヤジになんとなく似ていた。思わず身構えてしまうユリオよりも先に、フルエットが男に向けて答える。
「やあ、ランバーさん。彼は私の家の居候になったユリオくんと言ってね。今日は彼の服を見繕いに来たんだ」
 フルエットが、すらすらと喋りながらカウンターへ歩み寄る。ランバーは新聞を畳んでカウンターに放り投げると、腕組みして彼女を見た。
「居候、なあ。……まあいいが、お前さんならわざわざ買いに来なくても、自分で作れるだろう」
「それはそうなんだが、まとまった数が必要でね。作るとなると、時間がかかってしまうだろう?」
「そうかい。買ってくれるぶんにはうちとしちゃありがたいし、否やを言うつもりはないが」
 入口に突っ立ったままやりとりを聞いていると、ジェラールに軽く腕を小突かれた。いつの間にか紙袋を置いてきていた彼が、カウンターの方を親指で指す。
「突っ立ってないで、君もあっちに行きなよ。君の服を買いに来たんだろ?」
「あ、ああ。そうだな」
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「っえ、な、なにが?」
「やっぱり聞いてなかったんだね。君の服を見繕うのは二人に任せて、その間に私は少し野暮用を片付けてくるよ……って話をしていたんだけど」
「二人? ……あっ」
 ランバーとジェラールのことかと納得し、けれども今度は野暮用の方が引っかかった。正確に言えば、野暮用それ自体ではなくて。
「……その間、ぼく一人で?」
 緩んでぐらぐらの石畳の上に立っているみたいな、そんな感覚がした。ランバーが、ふんと鼻を鳴らして腕組みする。
「服を選ぶだけだ。取って食いやしねえよ」
「それに服の趣味なら、私よりもジェラールの方が君と合うだろうからね。男の子同士だし、歳も近いはずだし」
「センスに自信があるってわけじゃないけど、少なくとも外したものを選ぶことはないと思うよ」
「お前、そこは自信があるって言えるようになれよ」
「う……、ごめん」
 そんな三人のやりとりを聞きながらも、ユリオの体は少しだけ強張っていた。よく知らない場所に一人残される、という事実が意思とは無関係にそうさせる。
 するとフルエットがシャツの肩を引っぱって、指をくいとやった。近づけということだろうか。体を寄せつつ少し腰をかがめたユリオの耳元に、フルエットが囁く。
「野暮用っていうのは教会だ。置いていくのは私も心苦しいが、君だってついてきたくはないだろう?」
「それは……うん。そうだけど」
 十字架と白い祭服、白い炎が脳裏をちらついて、ユリオは自分の心臓の音が少し大きくなったこと、急に顔の辺りが冷えてきたことに気がついた。
 この身体では、教会にはついていけない。待たせることになるなら、せめて自分の顔なじみが居るところで、というフルエットなりの配慮なのだろう。
「フクロウのことは、伝えないわけにはいけないからね」
「……そう。そうだな」
 かすかに震えるくらいの動きでユリオがうなずくと、フルエットの小さな手がそっと肩を叩いた。二人の方に向けて、パッと笑ってみせる。
「よし、話はまとまった。それじゃあ私が戻ってくるまで、彼と彼の服のことは頼んだよ」
「任せて、フルエットさん」
「ああ、よろしく」
 自分の胸を叩くジェラールにひらりと手を振って、フルエットは店を出ていった。店頭のガラス越しに、二輪を店先に停めたまま歩いていく姿が見える。教会は近いのだろうか。
 さて、とランバーがカウンターの席を立つ。
「任されたからには、きっちりやらんとな」
 彼は眼鏡を別のものに付け替えながら、店内を覆う衣服のアーチへと向かう。
「まずは俺が適当に合いそうなもんを選ぶ。細かく見るのはジェラール、お前がやってやれ」
「うん。ユリオ、こっちに」
 服の壁の切れ目があって、そこに一枚の姿見が置かれていた。そこでランバーの服選びを待っていると、ジェラールがそわそわした目つきで見てくるのに気づいた。姿見の端っこに、さっきからちらちらと映り込んでいる。
 まさか、身体のことに気づかれたのか。黒い絵の具を筆で撒き散らしたみたいな不安がよぎって、ユリオはまた身体を強張らせた。自分が追い出されるだけならともかく、フルエットにまで迷惑がかかったら――。
「あのさ、ユリオ」
 びくりと震えた肩を押さえこみながら、ユリオは横目にジェラールを見やる。心臓の鼓動が、少しずつ早くなっていく。
「な……なんだよ」
「えっと……」
 言い淀んで口元をおさえたジェラールは、恐る恐るといった様子だった。手汗でべったりとしはじめた拳を握り締めながら、ユリオは続く言葉を待つ。じっとりとした間があってから、服屋の青年は続きを口にした。
「居候っていうのはホント?」
「はぁ?」
 ユリオ自身もびっくりするくらい、不審もあらわで素っ頓狂な声だった。ジェラールがぱっと目を逸らし、バツが悪そうな顔で鼻の頭をかく。
「だから、その……君がフルエットさんの家に居候してる、って話。あれ、ホント?」
「そうだけど。それがどうかしたのか?」
 返答には、少しだけ間があった。
「フルエットさんって、確か一人で暮らしてるって言ってたから。急にどうしたのかな、って思っちゃって。……親戚とか?」
「いや」
 ジェラールの表情が、少しだけこわばった気がした。ユリオに向ける視線も、心なしかキツくなったような気がする。睨むというほどではないけれど、それでも確かに瞳の奥からにじむ圧みたいなものを感じて、ユリオは少し怯んだ。
「な……なんだよ」
「じゃあ、いったいどういうわけで……?」
「どういう、って。ぼくは、その……」
 事実は言えない。言えるわけがない。かといって他に何と言えばいいかもわからなかったし、彼がそれを気にする理由もわからない。たまらず、ユリオは口ごもった。ジェラールも別に問い詰めてくるわけではないのだけれど、だからといってユリオへ向ける眼差しに変化はない。
 ごん、と。鈍い音がした。
「あ痛っ!?」
「馬鹿野郎。せっかくの新しいお客を怖がらせてどうすんだ」
 後頭部を押さえて小さくなったジェラールの後ろで、ランバーが拳骨を落とした姿勢のままため息をついた。反対の手には、服が何着か抱えられている。
「ご、ごめん親父……」
「謝るならユリオにだろうが」
 店主はふんと鼻を鳴らして、持ってきた服を息子へ押し付けた。眼鏡越しの視線をユリオに向けると、すまなさそうに眉を落とす。
「悪いな、ユリオ。こいつ、フルエットの嬢ちゃんに――」
「おっ、親父! それは別に言わなくていいだろ!?」
 顔を真っ赤にして慌てふためくジェラールに、ランバーはまたふんと鼻を鳴らすばかり。それよりもと、彼はあごをしゃくってユリオを指した。ハッとなったジェラールが、赤さをごまかすように口元を片手で覆いながら、ユリオに向けて頭を下げる。
「……ごめん、ユリオ」
「すまん。今回のところは許してやってもらえるか」
「や、別にぼくは……」
 二人を交互に見やりながら、ユリオは困ったように頬をかいた。確かに戸惑ったし怯みもしたのだけれど、それよりも体のこととは無関係だったことへの安堵が今は勝っている。するとその様子を許しと解釈したのか、ランバーは礼を言ってカウンターの奥へ向かっていった。
「俺はこっちに居る。似合うかどうかはジェラール、さっきも言った通りお前が見てやれ」
「わかったよ、親父」
「ちゃんとやれよ」
「わかってるって!」
 少し勢いのあるため息をついて、ジェラールはあらためてユリオに向き直った。視線は鏡の方を向いていて、鏡越しにユリオを見る目はしょぼくれている。頬をかいて、ジェラールはまた軽く頭を下げてきた。
「さっきはごめん。それじゃあ、服を見て行こうか」
「……いいって、別に。あいや、服の方は頼む」
 姿見の脇からカゴ付きの丸テーブルを引っぱりだすと、ジェラールは抱えていた服をその上に置いた。上から一着ずつユリオに渡しては鏡に映った姿を確認し、ユリオの反応も見つつ、ふたつに分けてカゴへ放り込んでいく。
「初めて会った時、さ」
 そうしているうちに、鏡の方を見たままジェラールがふと呟いた。
 差し出されたカーキ色のシャツを受け取りながら、ユリオはジェラールの方を見た。鏡を見ろと促され、顔をそちらに戻す。けれども何の話か気になって、今度は横目に視線だけを彼の方へ向けた。たぶん、フルエットのことだと思うのだけれども。
「このシャツ、悪くないと思うけど。君は?」
「えっ? あっ、そう……だな。うん、いいと思う」
 うなずいて、ジェラールはカーキ色のシャツをカゴへ放り込む。次の一着を手に取る前に、彼はふとズボンのポケットへ手を突っ込んだ。そうして取り出したのは、鈍い銀色の光沢を放つ懐中時計。ちゃら、と。チェーンが音を立てて彼の手のひらの上を流れる。
「これ、おふくろの形見なんだけど。チェーンが壊れちゃって、時計屋に持ってこうとしたらスられてさ。気が付いて慌ててたら、フルエットさんが声をかけてくれたんだ」
 懐中時計を見つめるジェラールの視線は、時計の光沢の上に、その日の情景を垣間見ているかのようだった。
「……それが、おまえとフルエットの?」
「そ。事情を聴いて、すぐお巡りさんのところへ話に行ってくれて。スられたタイミングの心当たりや、スッたヤツの特徴まで、丁寧に聞き出してくれてさ」
 懐かしむように語るジェラールの口元には、いつの間にか微笑が浮かんでいる。
「しかもだよ? そのままお巡りさんに任せればいいなのに、一緒になって探してくれたんだ」
 二人の視線が、ジェラールの手の上の時計に注がれる。それがこうして今ここにあるということは、確かに取り戻せたということだ。ジェラールが、懐中時計を親指で撫でながら苦笑を浮かべる。
「優しいっていうか、よくそこまでしてくれたよね。だってその時は俺とフルエットさん、赤の他人だったのにさ」
「……でも、あいつはそういうことするな」
 この数日で我が身に起きたこと、フルエットがしてくれたことをユリオは思い返す。ジェラールの苦笑には、ただうなずくばかりだった。
「君もそう思う? ……まあ結局、何が言いたいかっていうとさ」
 ジェラールは懐中時計を握り締め、ポケットへ戻す。
「フルエットさんは、そういう人だから。フルエットさんを裏切るようなことは、絶対しないでほしいんだ」
「わかってる。……ぼくも、あいつに助けてもらったから」
 その言葉は、まるで世間話をするかのようにするりと口から出た。あまりにもあっさりと言ったものだから、ジェラールは目を瞬かせてユリオをまじまじと見つめたほどだ。
 ややあって、ジェラールが小さく吹き出した。ジェラールの手が、ユリオの肩を叩く。
「そっか。それならいいんだ。ごめんね、いきなりこんな話をして」
「別に」
 ユリオは、少し気が楽になるのを感じていた。ジェラールのことが、少しわかったからだろうか。