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2-3

ー/ー



 僕の隣で歩く和泉は、まるでおもちゃを買ってもらえなかった小さな子供のようにションボリとしている。そんな君を『可愛い』などと思ってしまった僕はどうかしてるかな。
 記憶の中の君は真っ直ぐで凛々しくて、竹を割ったような潔い人だった。でもいま目の前にいる君は、前世の和泉を感じる雰囲気を残しつつも素直で愛嬌があり、どこか守りたくなるようなそんな存在に思える。

〝バッハのガヴォット。お前、弾いてただろ。楽団の練習の前に一人で〟

 少し前の日向の言葉がふと蘇った。彼は一足先に彼女が奏でるガヴォットを聴いたらしい。前世での関係上、彼女と最初に対面する役は日向に任せたけれど、本当なら僕だって彼女の音を直接聞きたかったよ。……あの曲は特にね。

 ねぇ。今の君は、どんな音を奏でるの?
 憧れ続けた人を前に、鼓動は高鳴るばかり。

「もっと知りたいな、君のこと……」
「え、なぁに?」
「うっ。ごめん、何でもないさ」

 思わず口に出てしまった言葉を慌てて誤魔化した。
 危ない、聞かれてなくてよかった。

 無事に和泉を家の前まで送り届ける任務を完了し、僕は去り際に彼女へ一枚の紙を差し出した。それは僕のスマホの番号とSNSのIDを書いたものだ。

「あまり気負いしないでね。君は一人じゃないから、不安になったら連絡して」
「うん、ありがとう。おやすみなさい、荒井君」

 自宅の中に入っていく和泉を笑顔で見届け、来た道を戻る。何だか今日は星がいつもよりキラキラと輝いて見えた。
 さて、明日からどうしようか。勿論やるべきことはやるけど、どうせやるなら少しでも君の力になりたい。

 今まで君が僕を助けてくれたように。

「それならまずは、と」

 僕は帰りながらある場所に人をかけた。
 大丈夫、僕にだって自信はある。必ず思いどおりにいくはずだ。

「もしもし、和泉フィルハーモニー音楽団の団長さんですか? 実はですね――」

 電話の向こうの人と話ながら、僕はこれから起こるであろう展開に胸を躍らせた。

 日向、君は今の和泉をどう思ってるだろうか。
 僕は今になってもやっぱり、彼女に惹かれる運命なのかもしれないよ。




 昨日から頭が混乱している。新しく入団した男の子に脅されて、変な犬に襲われ、挙げ句の果てに〝お前はブリッランテの生まれ変わりだ〟なんて言われるし。これまでごく平凡な暮らしをしてきたのに、こんな漫画みたいな展開は聞いてないし望んでない。

 そう、私はとても混乱している。
 ただでさえ。

「な……、ななななんで荒井君がここに!?」
「やあ、おはよう和泉。早いね、いつもこんな時間に来ているの?」

 朝から私は素っ頓狂な声を上げてしまった。昨日の今日で高杉君に会うのは何だか気が重いと思っていたのに、いつもどおり少し早めに来てみれば、何故か荒井君がここにいるのだから驚きもする。
 日曜の今日も楽団の練習日。企業に就職するまでのこの一カ月は、土日は楽団、平日は別の個室を借りてヴァイオリン三昧の日々だ。

「今日から僕もこの楽団の一員だから、よろしくね。和泉」
「きっ、聞いてない聞いてない聞いてない!」

 あっさりと爆弾発言をする荒井君は口に何かを咥えながら、当たり前のように合奏の準備をしている。
 ウチの楽団は大した欠員があるわけでもなく、メンバーの急募をかけているという話も聞いていないのに、一体彼はどうやってここに入団したのだろうか。

 もしかしてブリッランテって人の行動を操る能力を持ってるとか?
 ……そうなら怖すぎるんですけど。

「やっぱり日向一人じゃ不安だったから、君が帰った後で団長さんに連絡を取って、直談判して入れてもらったんだよ。僕の演奏を聴いたらすぐに承知してくれたよ?」

 満更でもない様子で荒井君はそう言った。どうやら変な術とかではないみたいだけど、それにしたって……チョロすぎやろ団長!
 心の中でツッコミを入れていると、荒井君は咥えていたものをある部品の頭頂部に差し、黒い縦長の木管楽器――クラリネットを組み立て終えた。

 先ほどから彼が咥えていたものは『リード』という(あし)を薄く削って作られた部品だ。クラリネットやオーボエなどのリード楽器は、このリードを振るわせて音を出している。リード楽器の音の善し悪しは、リードの品質によっても大きく左右するほど重要な部品なのだ。
 リードは演奏をする際に湿らせる必要があり、こうして荒井君のようにリードを舌に乗せて準備をする演奏者の姿はよく見られた。

 クラリネットの準備を終えた荒井君はそれを咥えると、自然な流れで楽しそうに吹き始めた。まだ私たち以外は誰もいない静かな練習室に、彼の奏でる温かい音色が響き渡った。

「これ……」

 『ガヴォット』だ。ただし私が昨日演奏したのとは異なる、F.J.ゴセックが作曲したガヴォットだった。
 そもそも〝ガヴォット〟とはフランスの地方のフォークダンスと、それに由来する古典舞曲の名称であり、多くの作曲家たちが題材にしているため色々な曲がある。中でも荒井君が吹いているゴセックのガヴォットが一番有名で、愛らしく跳ねるような節を聞けば多くの人が「聞いたことある!」って言うと思う。

 荒井君の演奏は心が弾むような元気さと、クラリネットが持つ柔らかい音色をよく活かした、彼の優しさを象徴するようなものだった。勿論リードの質も重要だけど、彼自身の技術力も高いことは確かだろう。そして何より彼の音にも『D3()』のズレがなかったのだ。
 どうして彼がこの曲を選んだのか分からないけど、より親近感が増したのは間違いない。きっと私の緊張を和らげるために、同じ名前の曲を選んでくれたのかな。

「……どう?」
「うん、とても良かった。ブリッランテの人たちって演奏の腕も良いのね」
「あはは、ありがとう。それって和泉もめちゃくちゃ上手いってこと?」

 あ……確かに。
 荒井君にツッコまれて羞恥に消えたくなっていると、彼は「でも」と続けた。

「腕が良いんじゃなくて努力家の集団なんだと思うよ。誰しもが最初から完璧な人なんていない、努力の積み重ねの結果さ」

 きっと和泉だってそうでしょう? と言って荒井君はにっこり笑った。
 その笑顔に何も言えず、ただ申し訳ない気持ちでいっぱいになったのだ。


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 僕の隣で歩く和泉は、まるでおもちゃを買ってもらえなかった小さな子供のようにションボリとしている。そんな君を『可愛い』などと思ってしまった僕はどうかしてるかな。
 記憶の中の君は真っ直ぐで凛々しくて、竹を割ったような潔い人だった。でもいま目の前にいる君は、前世の和泉を感じる雰囲気を残しつつも素直で愛嬌があり、どこか守りたくなるようなそんな存在に思える。
〝バッハのガヴォット。お前、弾いてただろ。楽団の練習の前に一人で〟
 少し前の日向の言葉がふと蘇った。彼は一足先に彼女が奏でるガヴォットを聴いたらしい。前世での関係上、彼女と最初に対面する役は日向に任せたけれど、本当なら僕だって彼女の音を直接聞きたかったよ。……あの曲は特にね。
 ねぇ。今の君は、どんな音を奏でるの?
 憧れ続けた人を前に、鼓動は高鳴るばかり。
「もっと知りたいな、君のこと……」
「え、なぁに?」
「うっ。ごめん、何でもないさ」
 思わず口に出てしまった言葉を慌てて誤魔化した。
 危ない、聞かれてなくてよかった。
 無事に和泉を家の前まで送り届ける任務を完了し、僕は去り際に彼女へ一枚の紙を差し出した。それは僕のスマホの番号とSNSのIDを書いたものだ。
「あまり気負いしないでね。君は一人じゃないから、不安になったら連絡して」
「うん、ありがとう。おやすみなさい、荒井君」
 自宅の中に入っていく和泉を笑顔で見届け、来た道を戻る。何だか今日は星がいつもよりキラキラと輝いて見えた。
 さて、明日からどうしようか。勿論やるべきことはやるけど、どうせやるなら少しでも君の力になりたい。
 今まで君が僕を助けてくれたように。
「それならまずは、と」
 僕は帰りながらある場所に人をかけた。
 大丈夫、僕にだって自信はある。必ず思いどおりにいくはずだ。
「もしもし、和泉フィルハーモニー音楽団の団長さんですか? 実はですね――」
 電話の向こうの人と話ながら、僕はこれから起こるであろう展開に胸を躍らせた。
 日向、君は今の和泉をどう思ってるだろうか。
 僕は今になってもやっぱり、彼女に惹かれる運命なのかもしれないよ。
 昨日から頭が混乱している。新しく入団した男の子に脅されて、変な犬に襲われ、挙げ句の果てに〝お前はブリッランテの生まれ変わりだ〟なんて言われるし。これまでごく平凡な暮らしをしてきたのに、こんな漫画みたいな展開は聞いてないし望んでない。
 そう、私はとても混乱している。
 ただでさえ。
「な……、ななななんで荒井君がここに!?」
「やあ、おはよう和泉。早いね、いつもこんな時間に来ているの?」
 朝から私は素っ頓狂な声を上げてしまった。昨日の今日で高杉君に会うのは何だか気が重いと思っていたのに、いつもどおり少し早めに来てみれば、何故か荒井君がここにいるのだから驚きもする。
 日曜の今日も楽団の練習日。企業に就職するまでのこの一カ月は、土日は楽団、平日は別の個室を借りてヴァイオリン三昧の日々だ。
「今日から僕もこの楽団の一員だから、よろしくね。和泉」
「きっ、聞いてない聞いてない聞いてない!」
 あっさりと爆弾発言をする荒井君は口に何かを咥えながら、当たり前のように合奏の準備をしている。
 ウチの楽団は大した欠員があるわけでもなく、メンバーの急募をかけているという話も聞いていないのに、一体彼はどうやってここに入団したのだろうか。
 もしかしてブリッランテって人の行動を操る能力を持ってるとか?
 ……そうなら怖すぎるんですけど。
「やっぱり日向一人じゃ不安だったから、君が帰った後で団長さんに連絡を取って、直談判して入れてもらったんだよ。僕の演奏を聴いたらすぐに承知してくれたよ?」
 満更でもない様子で荒井君はそう言った。どうやら変な術とかではないみたいだけど、それにしたって……チョロすぎやろ団長!
 心の中でツッコミを入れていると、荒井君は咥えていたものをある部品の頭頂部に差し、黒い縦長の木管楽器――クラリネットを組み立て終えた。
 先ほどから彼が咥えていたものは『リード』という|葦《あし》を薄く削って作られた部品だ。クラリネットやオーボエなどのリード楽器は、このリードを振るわせて音を出している。リード楽器の音の善し悪しは、リードの品質によっても大きく左右するほど重要な部品なのだ。
 リードは演奏をする際に湿らせる必要があり、こうして荒井君のようにリードを舌に乗せて準備をする演奏者の姿はよく見られた。
 クラリネットの準備を終えた荒井君はそれを咥えると、自然な流れで楽しそうに吹き始めた。まだ私たち以外は誰もいない静かな練習室に、彼の奏でる温かい音色が響き渡った。
「これ……」
 『ガヴォット』だ。ただし私が昨日演奏したのとは異なる、F.J.ゴセックが作曲したガヴォットだった。
 そもそも〝ガヴォット〟とはフランスの地方のフォークダンスと、それに由来する古典舞曲の名称であり、多くの作曲家たちが題材にしているため色々な曲がある。中でも荒井君が吹いているゴセックのガヴォットが一番有名で、愛らしく跳ねるような節を聞けば多くの人が「聞いたことある!」って言うと思う。
 荒井君の演奏は心が弾むような元気さと、クラリネットが持つ柔らかい音色をよく活かした、彼の優しさを象徴するようなものだった。勿論リードの質も重要だけど、彼自身の技術力も高いことは確かだろう。そして何より彼の音にも『|D3《レ》』のズレがなかったのだ。
 どうして彼がこの曲を選んだのか分からないけど、より親近感が増したのは間違いない。きっと私の緊張を和らげるために、同じ名前の曲を選んでくれたのかな。
「……どう?」
「うん、とても良かった。ブリッランテの人たちって演奏の腕も良いのね」
「あはは、ありがとう。それって和泉もめちゃくちゃ上手いってこと?」
 あ……確かに。
 荒井君にツッコまれて羞恥に消えたくなっていると、彼は「でも」と続けた。
「腕が良いんじゃなくて努力家の集団なんだと思うよ。誰しもが最初から完璧な人なんていない、努力の積み重ねの結果さ」
 きっと和泉だってそうでしょう? と言って荒井君はにっこり笑った。
 その笑顔に何も言えず、ただ申し訳ない気持ちでいっぱいになったのだ。